それから高校に入学して、一週間が経った。あの日から菅谷くんとはまだ話せていない。今日も私は家の玄関で重い足に靴をはめ込んでいた。

「行ってきます」
「奈々花、大丈夫?友達は出来た?」
「うーん、多分作らないかな?迷惑かけちゃうし」

 お母さんにそう言いながら、自分の言葉に泣きそうになった。

「そんなことないわ。奈々花は優しいし、それに……」
「ううん、絶対にこれ以上他の人を巻き込みたくないの」
「そう……」
「お母さん、ごめんね。行ってきます」

 両親に謝らない日はなかった。高校の門をくぐって教室の入っても、明るい教室と自分は真逆で。

「おはよー!」
「おはよ!今日、英語小テストあるらしいよ」
「まじ!?早くない!?」

 教室に元気の声が行き交う朝。私は今日も一人で息を殺している。

「川崎さんもおはよう!」
「お、おはよう」

 私の俯いたままでの小さな声の挨拶に、クラスメイトは「話しかけない方が良かったかな」と少しだけ申し訳なさそうに去っていく。
 その申し訳なさそうなクラスメイトに、私は心の中で謝った。

 折角、声をかけてくれたのにごめんなさい。

 それでも、私は人よりもずっと話しかけてもらえたことが嬉しくて堪らないのだ。だからこそ近づけない。「友達」など作れば、その子に異常に執着してしまう可能性がある。それだけは絶対に避けたかった。
 そして、友達一人作れない私は、さらに寂しさに苛《さいな》まれる。私は、急いでスクールバッグの中に手を突っ込んだ。スクールバックの中には、スクールバッグの三分の一を占めるほどの大きさの可愛らしい女の子のキャラクターのぬいぐるみ。私は急いで、ぬいぐるみと手を繋ぐ。

 大丈夫、寂しくない。寂しくないから。

 そう心の中で言い聞かせて、この感情が少しでも過ぎ去るのを願うのだ。今日も子供のようにぬいぐるみと手を繋ぎながら。

 この病を発症して二年で、私が模索して見つけた方法は二つ。
 まず小さなぬいぐるみをバッグに入れておいて、お母さんと手を繋いでいるイメージをしながら手を繋ぐ。
 もう一つは「寂しくない。大丈夫」と心の中で唱えることだった。なんとか誤魔化しながら毎日を過ごしても、自分が成長している感覚はなかった。

 その時、教室が急に騒がしくなる。

「あ!菅谷、おはよう!相変わらず来るのおせーよ!」
「悪ぃ。寝坊した!」

 教室に登校した菅谷くんに数人の男子生徒が集まって話しかけに行っている。
 入学して一週間。菅谷くんが人気者であることは、クラスメイトの誰もが分かっていた。

「菅谷、数学の宿題終わってる?」
「あ、やべ。終わってない!誰か見してくれね?お礼にこのお菓子やるから!」
「食べかけじゃねーか!」

 明るくて、ノリが良くて、まさに人気者。彼の周りには、いつも人が絶えない。それでも、入学式の菅谷くんの苦しそうな顔が私は忘れられなかった。
 その時、担任の川北先生が教室に入ってくる。

「ホームルーム始めるぞー」

 クラスメイトが次々に自分の席に座り始める。また今日の朝も私は菅谷くんに声をかけることが出来なかった。

「まず、二週間後の校外オリエンテーションのプリントを今日配るから必ず確認することー」

 川北先生が列ごとにプリントを配っていく。配られたプリントには「新入生オリエンテーション」と大きな文字で書かれている。
 新入生オリエンテーションは一泊二日。担任の川北先生には事前に私の病気のことは伝えてある。休むことも可能だろうし、元々そのつもりだった。
 でも……その時、何故か菅谷くんの席に目を向けてしまった。菅谷くんは楽しそうに友達とプリントを見ながら話している。
 大丈夫だろうか。私なんかが心配してもどうにもならないことは分かっている。それでも、菅谷くんをこのまま放っておくことはしたくなかった。

 うん、次の休み時間は絶対に菅谷くんに声をかけよう。

 そう決意した後の一時間目はどこか集中出来なくて、いつもより終わるのが長く感じた。

 キーンコーンカーンコーン。

「あの……!菅谷くん!」
「川崎さん、どうしたの?」

 一時間目が終わってすぐに私は菅谷くんの机に駆け寄った。

「ちょっと話があって……教室じゃなくて、別の場所で……」

 震えた声でなんとかそう絞り出した私の声に反応したのは、菅谷くんではなくてクラスの男子だった。

「え、なになに!?川崎さんと菅谷ってそういう関係!?」
「いや、告白だろ!」

 よくある高校生のノリだけど、言われる側は決して気分の良いノリではなくて。私は「ちがうっ……」と否定しようとしたのに、声が上手く出ない。そんな俯くだけの私とは違って、菅谷くんは簡単にそんな男子のノリを壊した。

「そんなんじゃねーから!はい、解散」

 そう言って、私に教室の外に出るように目配せをしてくれる。私は教室の外へ逃げるように出ていく。
 少しだけ遅れて、菅谷くんが教室の外に出てきた。

「ごめんね、川崎さん。それで何かあった?」
「あの、入学式の時のことなんだけど……」
「ああ、もう体調は治ったから大丈夫だよ」

 菅谷くんはあの時と同じ笑顔を私に見せた。いや、あの時と同じ笑顔で「誤魔化した」
 それは触れないで欲しいということだ。菅谷くんはきっとどれだけ辛くても放っておいて欲しいと遠回しに言っている。

「川崎さんは体調はもう大丈夫?」
「うん」
「良かった。新入生オリエンテーションもあるから心配してたんだよね」
「あ……私はオリエンテーションは……」
「ん?」

 菅谷くんの言葉でオリエンテーションを休むことがどれだけ不自然かが分かった。理由を明かさないならなおさら。

「そうだね、オリエンテーション楽しまないと」
「おう!」

 同じ「寂しい」という感情に悩まされている菅谷くんはオリエンテーションに頑張って参加するというのに、私は参加もせずに、そしてクラスメイトに理由すら誤魔化そうとしている。
 それでも、病気のことは明かしたくない。

「菅谷くん、何かあったらいつでも言ってね」
「……ありがと。川崎さんも」

 入学式という輝かしい門出に小さくうずくまっていた生徒二人。私達はどんな高校生活を送っていくのだろう。

 その日の夜、私は両親に呼び止められた。

「奈々花、新入生オリエンテーションのことだけど、休むならそろそろ先生に連絡しないと……」
「……明日まで考えてもいい?」
「え?」

 両親はきっと私が休むと言うと思っていたのだろう。

「いいけれど……大丈夫なの?」
「うん、ちょっとだけ考えたくて……」

 菅谷くんを一人にして置けないとかそんな優しい気持ちじゃなくて、きっとこれは少しの「不安」だ。同じ苦しみを持っているかもしれない菅谷くんが頑張っているのに、私だけ逃げることへの不安。

「本当、私ってどこまでも自分本位だな……」
「奈々花?」
「ごめんね、お母さん」

 私はお母さんに謝ってから、自分の部屋に戻る。ベッドには大きなくまのぬいぐるみが置かれている。私はそっとぬいぐるみと手を繋いだ。
 当たり前だけれど、ぬいぐるみは手を握り返してはくれなくて。
 私はポツポツと呟くようにぬいぐるみに話しかけた。

「知ってる?人間って寂しくても死なないんだよ。こんなに辛いのに」

 当たり前だけれど返事もなくて。

「このまま死ねたらいいのに」

 最低な言葉を吐いても、誰にも聞かれなければ怒られない。最低な自分の言葉が耳にこだまして聞こえた気がした。