プシュ!
 缶ビールを開ける音だけが、周囲に虚しく響く。
 大好きだった彼の連絡先とメッセージを、泣く泣く全消しした夏の夜。

 最寄駅から程近い住宅街の角地に、公園がひっそりと存在していた。
 古い滑り台と、二人分のブランコがポツンと設置されているだけの、よくある街区公園だ。
 昼間は近所の子供たちが集まって遊んでいるのを、何度か見かけたことがある。
 けれど、午前0時を過ぎれば当然、薄暗くて静かで不気味な雰囲気を漂わせていた。
 そんな蒸し暑い夏夜の中、ボウタイブラウスとパンツ姿で一人ブランコに座る私――前田(まえだ)栞里(しおり)は、コンビニで買ったばかりの冷えた缶ビールで喉を潤す。

「はー……うま」

 栗色ミディアムレイヤーの髪が、生ぬるい風に靡いた。
 公園で飲酒というだらしない行為と、不審者のような一面を晒してしまっているが、これでも一応社会人四年目の二十六歳。
 公園なんて、社会人になってからは足を運ぶ機会がなかったけれど、今夜は真っ直ぐ帰宅したくなくて……。
 ただ、少し立ち寄るだけのつもりだったのに、家で飲むはずの缶ビールまで開けてしまう始末。
 五本の指先で持つ缶ビールを、ゆらゆら揺らしながら大きなため息をついた私は、ふと夜空を見上げた。
 まん丸なお月様が浮かぶだけで、たくさんの星々は見ることができなかった。
 生まれ育った田舎とは違い、都会(ここ)は星がはっきり見えなくて少し寂しい。
 心が弱ってしまった時に空を見がちな私は、そんな感想を抱いていた。

「っ栞里!」

 その時、一つの人影が私の名前を呼んで駆け寄ってくる。
 公園内にあるポールライトに照らされ浮かび上がったのは、センターパートの黒髪を揺らす山下(やました)奏多(かなた)の姿。
 息を切らし、額には少し汗が光っているように見えた。

「あ、奏多やっほー」
「……夜中に呼び出されんの、初なんだけど」

 奏多は呆れたような表情で、ブランコに座る私を見下ろした。
 それに対して、悪びれもなくにこりと笑って応える。
 心が弱ってしまった時に、もうひとつすることがあった。
 それは高校時代からの腐れ縁で、上京した今も近所に住んでいる、男友達の奏多を呼び出すこと。
 そして私が抱えている、やり場のない怒りや悲しみに満ちた話を聞いてもらうこと。

「ごめ〜ん。それでもきてくれる奏多やさすぃ〜ね〜」

 こんな夜中に呼び出すなんて、いくら友人でも非常識すぎる。
 わかってはいるけれど、奏多に聞き役となってもらうことが常習化していた。
 だから公園に到着する前に、時間を気にすることなく【ヘルプミー】と意味深なメッセージを送ってしまった。
 こうして、奏多の召喚に成功する。

「栞里、結構飲んでんの?」

 心配そうに尋ねてきた奏多は、Tシャツにハーフパンツという格好。
 ラフな姿で現れたところを見ると、もしかして就寝中だったのかもしれないと考えた。
 金曜日の夜とはいえ、奏多は真面目な性格だから規則正しく毎日を生きているのだろう。
 たとえ職場の飲み会があったとしても、睡眠時間は確保するような人間だ。
 私とは大違いの、昔から優しくて計画的で、頼り甲斐のある男友達。

「いや? 今日はまだこれ一本だけ〜」

 言いながら笑みを浮かべた私は、まだ半分も飲んでいない缶ビールを翳す。
 一応は平常通りを装うけれど、奏多には全てお見通しのようで……。

「ふざけないで。何があった?」

 そう優しく問いかけられ、私の作り笑いはすぐに見破られてしまった。
 きっと奏多も“それ”を察して駆けつけてくれたんだと思うから、早々に諦めて正直に宣言する。

「……本日をもって、二年付き合った初彼と別れてまいりました」

 私はビシッと敬礼をして、尚も笑顔を絶やさない。
 すると、奏多は無言のまま隣のブランコに腰を下ろし、地面に向かって大きなため息をつく。
 そして私に向かい、低い声で言い放つ。

「無理して笑わなくていいから」
「っ……だって、笑ってた方がいいでしょ、何事も」

 奏多のセリフに持論で返した私は、彼と別れに至った経緯の説明をはじめた。
 二年付き合った彼とは、知人主催の飲み会で人数合わせで呼ばれた時に出会った、五つ年上の大人な男性。
 職場以外の飲み会参加に慣れていない私を、終始気遣ってくれた彼には、すぐに好印象を抱いた。
 その後何度か会う約束をするようになって、彼から人生で初めての告白をされる。
 正直、そんな気はしていた。そして私も同じ想いでいたから断る理由もなく、すぐに交際が始まった。
 彼の、仕事に一生懸命取り組むところと、頼り甲斐があるところを知って、私はますます惹かれていった。
 だから深夜まで残業したり、休みを返上して働いたり。そんな彼を心配しつつも、尊敬していたのに――。
 それは全て別の女性に会うための方便だったと、最近になってようやく知った事実だった。

「彼の家に女性ものの化粧品があったの……二股ってやつ。しかも、私が遊ばれていた方ね〜」
「……そう」
「バカだよね〜ほんと……」

 奏多の口数は元から少ない。高校生の頃から、感情もあまり表に出さないところは変わっていない。
 けれど、今は不機嫌なオーラが隣からひしひしと放たれているように感じた。
 どうせ奏多は私のことを「男を見る目がない」とでも思っているのだろう。
 でも、今それを言われると流石の私も心が簡単に折れそうだ。
 だから、その不機嫌には気づかないふりをして、缶ビールに唇を添え一気に煽った時。
 突然、奏多の腕が伸びてきて私の手首を掴み、缶ビールを奪い取っていった。

「っ、なにすんの……⁉︎」
「そういう飲み方は良くないっていつも言ってるだろ」
「……いいじゃん別に」

 少し意地になって言い返すと、奏多は何を思ったのか、飲みかけの缶ビールを私の目の前で飲み干してしまった。

「な……んで、奏多が飲むのよ……」
「栞里に飲ませないため」

 いや、それ間接キスだし……というツッコミもできないほどに、私は呆気に取られていた。
 いくら友達とはいえ、奏多は私を異性として認識をしていない?そんな不安がよぎった。
 すると、口元を手の甲で拭った奏多は、足元に空き缶を置いて厳しい言葉をかける。

「どんなに酒に溺れても、何の解決にもならないから」

 やけ酒に正論をぶつけられて、ぐうの音も出ない。
 そんな私を、奏多はじっと見つめてきた。
 何の解決にもならないことくらい、とっくにわかっている。
 本当は、鬱憤と悲哀に満ちたこの感情のままに、今すぐ大声で叫びたい。
 その衝動をお酒で誤魔化し、こうして必死に自制していることの何かいけないの。
 
「奏多にはわかんないよ、大好きだった恋人と別れるつらさ……」

 苛立ちが先行して、言ってはいけないことを口走った自覚はあった。
 そういう、素直になれず余計な一言を放ってしまうところが、私のダメなところかもしれない。
 優しい奏多に対して、つい感情まかせに八つ当たりしてしまった私は、顔を両手で覆い項垂れると、すぐに自責の念に駆られた。

(……奏多は唯一、駆けつけてくれる友達なのに……)

 大切な友人さえも遠ざけるようなことしか言えない私は、そろそろ奏多にも見限られるだろう。
 そう予感した時、奏多が座っていたブランコの鎖から軋む音が聞こえてきた。
 その次には、ザザッと砂を踏みしめる奏多の足音。
 やはり呆れた奏多は、私を置いて帰る選択をしたんだと理解した。それと同時に、込み上げてきたのは最大級の喪失感だった。

「……っ、行かないでよ……奏多……」

 喉の奥から絞り出した声は、奏多の耳には届かないくらいにか細いもので。
 顔を覆う手のひらが、溢れてきた涙で濡れていった。
 この際、あんなに大好きだった最低な彼の話はもういい。
 奏多に置き去りにされる方が、私には耐え難いことなんだと気づかされる。

(奏多にまで見捨てられたら、私……っ)

 もうどうしたらいいかわからないよ。
 頭の中で呟いた瞬間、項垂れる私の頭に優しいぬくもりが乗っかった。
 涙でぐちゃぐちゃになった恥ずかしい顔を気にすることなく、私が頭を上げる。
 すると目の前には、立ち去ったと思っていた奏多が、私の頭をそっと撫でてくれていた。

「……栞里を置いて帰るわけないだろ」
「奏多ぁ……」
「泣きたい時は素直に泣け。無理して笑う栞里は、見たくない」

 奏多は心配そうな眼差しを向けながら、頭を撫で続けてくれる。
 こんなふうにしてくれるのは、初めてなのに。
 奏多の大きくて優しい手のひらに、今まで何度も助けられたような感覚がした。
 その不思議な現象を立証するかのように、自然と気持ちが落ち着いてくる。

「……っありがと」

 鼻を啜りながらお礼を伝えると、奏多は無言で頷いてくれた。

 同じ高校で初めて知り合ってから、私たちは今年で十年の付き合いとなる。
 大学進学と同時に上京したけれど、奏多がいたから寂しくなかったし。
 卒業後は田舎に戻らずこっちで就職しようか悩んだ時も、奏多が残ると言っていたから決心がついた。
 社会人になり、仕事に関する嬉しい報告からムカつく上司の話まで、色んな話を打ち明けてきた。
 加えて、昔から恋を始められない私の悩みも、奏多は飽きることなく相談に乗ってくれた。
 そんな私が、生まれて初めての告白を受けて彼と交際することになった時。
 奏多は少し驚いた表情をしながらも「念願の初彼だな」なんて言って祝福してくれた。

「……私ばっかり、いつもごめん……」

 奏多が泣かせたわけじゃないのに、奏多は何も悪くないのに。
 こんな時だけ優しい奏多を頼る私も、都合のいいように私を扱った彼と同じことをしているのかもしれない。
 今更になって、罪悪感でいっぱいになる私は、やっと奏多に向かって謝罪の言葉を口にした。

「もう慣れた。栞里を慰めるのが俺の役目って感じ」

 奏多は眉を下げて、なぜか悲しそうに微笑む。
 きっと私の気持ちに寄り添ってくれているんだと思って、さらに胸が熱くなった。
 奏多の恋愛話は今まで一度も聞いたことがなくて、いつも私だけが一方的に聞いてもらう日々。
 なのにどうして、恋愛で一喜一憂する私の気持ちに、奏多は寄り添えるのだろう。
 そんな疑問から、実は彼女がいるのでは?と毎回尋ねたけれど、答えはいつもノーだった。
 ただ、私はいつも考える。
 昼間だろうと夜中だろうと。連絡をすれば嫌な顔ひとつせずに駆けつけてくれる奏多。
 こんなに優しくて頼れる良い男、そうそう出会えることじゃない。
 だからきっと、奏多の心を射止める女の子は、一生幸せにしてもらえるだろうなと思っている。

「……私も、大好きだったんだけどな。彼のこと」

 初めて恋人関係になった彼と、一緒に幸せになりたかったはずなのに。
 そうではなかった現実を突きつけられて、今に至る。
 一緒に行った花火大会や、初めて彼と過ごしたクリスマス。
 楽しかった思い出が脳内で再生されては、私の涙腺を刺激してきた。
 そうして再び涙が溢れて私の頬を伝っていくと、奏多が突然、地面に膝をついて私を見上げた。

「な、なに?」
「……栞里は、その恋を早く忘れた方がいい」

 言いながら、男性らしい骨張った指でそっと涙を拭ってきた。
 奏多の真剣で切なげな眼差しに見つめられ、私の心臓がトクンと音を鳴らす。
 確かに彼とは悲しい結末を迎えたけれど、楽しい思い出だってある。
 ただ、それを思い出すたびに涙が溢れるくらいなら、奏多の言う通り全て忘れた方がいいのかもしれない。
 だけど、そう簡単に忘れられるものでもない。
 彼と恋愛していた私の記憶も、スマホのリセットボタンのように一瞬にして消去できたらどんなに楽か。
 そう思った時、奏多はゆっくりと立ち上がり、私に影を落とした。

「早く、俺のところに戻っておいでよ」

 低く呟いた奏多のセリフを耳にして、意味を理解できなかった私は目を見張る。

「……奏多の、ところ?」

 そして憂いを帯びたような奏多の瞳と目が合い、徐々に吸い込まれていく感覚に襲われた。
 いや、実際は奏多の手のひらが私の頬に優しく添えられ、徐々に顔を近づけてきたわけで。
 私の意思などお構いなしに、気づいた時には互いの唇が重なり合っていた。
 友達だと思っていた奏多からの、不意打ちすぎるキス。
 奏多と唇を重ねるのは初めてなのに、どこか懐かしさを覚えたのはなぜだろう。
 不思議と安心感に包まれた私は、心地良い熱を全身に纏って静かに瞼を閉じた。



**



 俺と栞里は、高校に入学して同じクラスになったのをきっかけに、仲良くなった。
 感情を表に出すのが苦手な俺を、栞里はあの手この手を使っていつも楽しませてくれた。
 そんな正反対の栞里にいつしか惹かれるようになって、他の誰にも取られたくて。
 俺の中で、初めての独占欲が芽生える。
 そうして思い切って告白をしたのは、夏休みに入る直前だった。

『栞里が好き』

 誰もいない放課後の教室で、終業日の日誌を書いていた俺と栞里が何気ない会話を交わしていた時。
 ちょうど会話が途切れたころを見計らって、俺からストレートに気持ちを伝えたのを今でも覚えている。
 それを聞いた栞里は、目を丸くして暫し固まったまま動かなかった。

『栞里?』
『は、え? 好……え?』
『落ち着いて』

 俺が呼びかけると、我に返った栞里は顔を真っ赤にして明らかに戸惑っていた。
 そして今度は「ドッキリ?」と疑い、渾身の勇気をふるった俺の告白をなかなか信じてもらえなかった。
 だけど最終的に、両想いだったことによる照れ隠しだったと、栞里自らが白状してくれて、しばらく二人で笑い合う。
 こうして友達関係だった俺たちは、夏休みが始まったと同時に交際を開始した。
 栞里が行きたいカフェ、栞里が観たい映画……。
 デートを重ねるごとに、徐々に恋人らしい距離感を掴めてきたと思う。
 そして、第一段階の手を繋ぐことをクリアしたのは、夏休みの折り返し地点だった。
 ずっとタイミングを見計らって、ようやく繋がれた手。
 栞里はそれを眺めたあと、意地悪そうに微笑みながら言った。

『奏多、耳が赤いよ?』
『……うるさい』

 そういう栞里もほんのりと頬を赤く染めていて、照れ笑いする姿が本当に可愛くて……。
 栞里にはずっと、そうしていてほしいと強く願った。
 そんな夏休みを満喫して、ついに翌日は始業式を迎えるという日。
 夕暮れの中、近所にある無人の公園に立ち寄った俺たちは、ブランコに座り会話を弾ませていた。
 けれど、俺にはもうひとつ、夏休み中に成し遂げたいことがあって――。

『……栞里』
『ん?』

 呼びかけに、栞里はいつもの笑顔で応えてくれた。
 少し安心した俺は、ブランコから立ち上がって栞里の目の前に立つ。
 そして、驚かせてしまうのは百も承知で、その肩にそっと手を置いた。
 一瞬、栞里はピクリと体を震わせる。
 けれど、まるで俺のこの後の行動を受け入れるかのように、静かに瞼を閉じた。
 同じ気持ちでいたことが窺えて嬉しくなり、徐々に鼻先を近づけていく。
 心臓が今にも破裂しそうなほどに、大きな音を立てていた。
 そして夕日を浴びながら、俺たちは初めてのキスを交わす。
 ――栞里が、俺と恋愛していたことを忘れてしまうとも知らずに。



**



 時刻は午前一時をまわった。
 閉じていた瞼をピクリと動かして、栞里はゆっくりと目を開ける。
 そして目の前にいた俺の姿を視界に入れると、普段通りの笑顔を向けてくれた。

「スッキリしたー。奏多、仕事の愚痴聞いてくれてありがとう」
「……うん」
「こんな夜中に呼び出してまで話すことじゃないのに、ごめんね〜」

 先ほどまで泣いていた栞里の目は、まだ少し腫れている。
 なのに、それについて何の疑問も持たず、仕事の愚痴を聞いてもらっていたと“思い込んでいる”。
 そんな栞里に対して、俺は真実を知りながらも知らないふりをしなくてはいけない。

「栞里、家まで送る」
「え〜ありがとう、奏多は本当に私を甘やかす天才だわ」

 気分が良いのか。栞里はブランコから立ち上がり、地面に置いてあった空のビール缶を手に取る。
 それを付近に設置されたゴミ箱に捨てると、俺に向かって手招きしてきた。

「早く帰ろ、奏多」
「……わかってる」

 先を歩く栞里の後を、俺はゆっくりついていった。
 五つ年上の最低彼氏との、恋愛記憶をリセットした栞里の足取りは軽く。
 公園から五分ほど歩いた場所にある、栞里のマンションまでの道を二人並んで歩いた。



**



 恋人同士の俺と栞里が、初めてのキスを交わしたあと。
 どういうわけか、俺と付き合っていたことも、俺を好きだったことも、栞里は覚えていなかった。
 つまり、俺との恋愛していた全ての記憶をなくしてしまったらしい。
 意味不明な現象が発生したまま夏休みは終了し、二学期が始まった。

『奏多〜おっはよ!』
『……おはよ』

 登校中、校門前でバッタリ会った栞里は、いつも通り元気な笑顔を咲かせている。
 俺の中で、やり切れない気持ちが込み上げてきたけれど、栞里は何も覚えていないから耐えるしかなかった。
 俺たちが付き合っていたのは夏休み中の出来事だから、その事実はクラスメイトも知らなくて。
 誰一人として、栞里の異変には気づいてくれない。
 俺だけが栞里と付き合っていたことを覚えていて、俺だけが栞里を好きなまま時間が止まっている。
 けれど栞里の中で、俺の存在は“友達”に戻っていた。いや、友達の“まま”なのだ。

 なぜこんな酷いことが起きてしまったのか。
 謎は解けるはずもなく年を越し、二年生へ進級して再び栞里と同じクラスになれたのは良かった。
 何かをきっかけに、栞里が記憶を取り戻さないか。
 もう一度、俺に好意を抱いてくれないかと観察する日々が続く中、ついに恐れていたことが起きた。

『奏多。実は私ね、告白されちゃった』
『……え?』

 偶然一緒になった帰り道で、栞里が嬉しそうに話し出した。
 同じ委員会で知り合った他のクラスの男子が栞里に告白して、そのまま付き合うことになったという。
 俺は一体、どんな地獄を味わわされているのだろう。
 誰を恨めばいいのかわからないまま、時だけが過ぎていく現状。
 俺との恋愛記憶を持たない栞里は、初めて彼氏ができたことを喜び、その後も逐一報告してきた。
 初めて手を繋いだこと、ファーストキスを経験したこと。
 何より、恋愛中の栞里の瞳はいつも輝いていて、本当に幸せそうに話す。
 俺にとっては、まるで地獄の拷問を受けているような感覚で。
 心の中では、栞里の初めての相手は俺なんだと何度も叫んだ。
 けれど、すでに恋人がいる栞里を困らせたくなくて、本当の気持ちを隠し続ける。
 そして徐々に、栞里が幸せであることが一番だと思えるようになっていった。
 しかしそれから三ヶ月が経ったころ、突然栞里の恋は終わりを迎えることになる。

『……別れるくらいなら、初めから好きにならなきゃよかった……』

 誰もいない放課後の教室で、涙を流しながらも懸命に微笑む栞里が言った。
 その姿に、俺の心も切り裂かれるような痛みが走る。
 本当は強く抱きしめて、背中をさすって慰めたいけれど、栞里にとって俺は“友達”――。
 だけど栞里が望むなら。と思いながら、俺はわざとらしく意味深な言葉をかけた。

『全部忘れたら、きっと楽になれるよ』
『……そうだね。忘れられたらいいのにね……』

 同調した栞里の目から、再び一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
 俺がずっと考えていた仮説が正しければ――できることが一つだけある。
 栞里の恋愛記憶をリセットし、底知れぬ絶望と悲しみから救い出せるのは俺だけだ。
 一縷の望みをかけて、慰めるふりをして……。
 頬を濡らす栞里に、俺は二度目のキスを降らせた。



**



 真夜中の静かな住宅街を、栞里と並んで歩くのは初めてだった。
 こうしていると、自然と昔の記憶が蘇ってくる。
 高校一年生の夏休み期間中、デートをして手を繋いで、恋人として楽しい時間を過ごしていたあの日のことを。
 俺だけが覚えている、大好きな栞里と心を通わせた大切な記憶。

「……栞里……」
「ん?」

 何も覚えていない栞里が、あの時と同じような笑顔を向ける。
 その表情に、俺は何度も何度も耐え抜いてきた。
 一番近くにいながら、密かに抱き続けている想いを伝えられない自分に苛立ち。
 過去に栞里と交際した数名の男たちには、嫉妬と恨みを抱いていた。
 そして今回もまた、栞里を泣かせる結果となったことに、いよいよ我慢の限界が訪れる。
 だから今夜は、今夜こそは。俺の本当の気持ちを栞里に知らしめたい。

「手、繋いでも良い?」
「っ……え?」

 突然の提案に、栞里は足を止めるほど驚いていた。
 けれど、ここで引き下がるほどの中途半端な覚悟ではない。
 俺は戸惑う栞里に向かって手を差し伸べ、さらに誘い込む。

「栞里を幸せにできるのは、俺だけだと思うんだけど」

 今までの、栞里の恋愛を見守ってきた俺だからこそ持てる、絶対的な自信。
 栞里を泣かせることも、悲しませることも、俺は絶対にしない。
 その覚悟で二度目の告白をしたけれど、栞里にとっては初めて知ることになる俺の好意だった。
 どんな返事が返ってくるのかは、もちろん誰にもわからない。

「俺と付き合ってくれるなら、手をとって」

 そうはっきり伝えて、困惑した様子の栞里をじっと見つめた。
 騒がしい心臓音が栞里に聞こえてしまうくらいに、しばらく沈黙が続いた。
 そしてついに、栞里の手がぴくりと動いて、こちらに向かって伸びてくる。
 徐々に近づく指先を視界に入れながら、俺の期待は高まっていった。
 しかし、もう少しで触れそうという地点で、突然眉を八の字にした栞里が尋ねてくる。

「……ドッキリ?」
「っ!」

 それは十年前、初めて俺が告白した時と同じセリフ。
 あの時も栞里はドッキリを疑って、俺の気持ちをすぐには信じてくれなかった。
 同じ状況と発想が十年後にも現れて、俺は思わず笑ってしまう。

「はは……ほんと、栞里は昔のまま変わってないな」
「な、どういうこと⁉︎」
「そういうところが、ずっと好きってこと」

 そうして我慢の足りない俺自ら、栞里の手をパシッと掴みにいった。
 不意を突かれて、頬を赤く染めた栞里は目を泳がせている。
 けれど、手を振り解く選択は今のところないようで、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
 十年ぶりに繋がれたぬくもりと、やっと栞里に想いを伝えられた嬉しさで、心が満たされていく。
 リセットされたあの日から、ずっと触れたくて仕方なかったこの手を――。
 今度こそ、離しはしないから。

「ゆっくりでいい。俺のこと、男としてみて」
「っ……ゆ、ゆっくりだからねっ」

 慣れない俺との会話内容に、少し強がりな態度で栞里は言った。
 それが照れ隠しであることは、なんとなく気づいていたけれど、俺はあえて黙っておく。

「……うん。ありがとう」

 俺は二度目だから、焦る気持ちを抑えるけれど、初めてと思い込んでいる栞里はゆっくりでいい。
 忘れてしまった俺への恋愛感情を、もう一度呼び起こすだけでいいから。
 それだけで、一番近くで十年見守り続けた俺の想いが報われる。
 そう心の中で唱えながら、栞里の手を引いて再度歩き出した。

 再スタートした、二人の交際。
 これでようやく、俺に課せられた問題は一つクリアした。
 そして、次の大きな問題は――。
 もう二度と、望まないリセットを繰り返さないためにも、再び恋人となった栞里と俺は、キスをしてはいけない。
 その理由を、なんと説明するべきか――ということだった。






 fin.