「お疲れさまです……」
腰に巻いていたエプロンの紐をほどきながら、店のレジ締めをしている店長に頭を下げる。
「お疲れー。今日はほんとにありがとうね」
頭を下げたままスタッフルームのほうへと方向転換する私の耳に、店長の声が聞こえてくる。
普段なら振り返って会釈くらいするところだけれど、今夜の私はかなり疲れ切っていて、誰かを気遣う余裕なんて少しも残っていなかった。
一緒に働いていたメンバーは既にみんな帰ってしまい、スタッフルームには私ひとり。割り当てられているロッカーを開けると、先週末買ったおろしたてのベージュのワンピースがぶら下がっていた。
ため息を吐きながらワンピースを手に取ると、居酒屋の制服からそれに着替える。
お気に入りの店で吟味して買った、カタチの綺麗なワンピース。それを身に着けた自分を想像するだけでテンションが上がるほどだったのに、実際にそれを身に付けている今の私の気分は最低最悪だった。
ヒールの高いパンプスに長時間の立ち仕事で若干浮腫んだ足を押し込んで、バイト先の居酒屋を出る。
閉店作業が長引いたのもあって、既に0時を過ぎていた。
居酒屋の最寄り駅から最終電車が出るのは0時12分。それを逃したら、ここから三駅先の自宅までタクシーを拾って帰ることになる。だから、ラストまでシフトに入って遅くなった日は、終電に乗り遅れないように駅までダッシュする。
だけど今夜の私は、駅まで走る気力も湧かないほどに落ち込んでいた。それに、今履いているヒールの靴は、走るのには向かない。
タクシーを拾うためにとぼとぼと駅のほうに向かいながら、ロング丈のスカートの裾をつまむ。
こんなはずじゃなかったのに……。
背中を丸めて夜道を歩く私の口からこぼれるのは、ため息ばかり。何度目かの深いため息をこぼしたとき、カバンの中でスマホが鳴った。
《おつかれー。今日来れなくて残念だったね……。タカ先輩も、マナが来れなくて残念がってたよ。集合写真送りまーす!》
そんなメッセージとともに、写真が送られてくる。
タカ先輩を中心に、彼を取り囲む男女六人が、私に楽しげなピースサインを向けている。集合写真に写るメンバーは全員、私が働いている居酒屋のバイトスタッフ。真ん中に写っているタカ先輩は、去年まで私たちと一緒に働いていたバイト先の先輩だ。
今年の春に社会人になったタカ先輩は、大学卒業と同時に居酒屋でのバイトを辞めてしまったのだけど……。
優しくて面倒見のよい彼は、年下のバイトスタッフたちに慕われて、懐かれていた。私も、そんなタカ先輩に懐いていた後輩のひとりだ。
東京で就職したタカ先輩は、ひさしぶりに地元に帰ってきていて。今夜はタカ先輩と特に親しかったバイトメンバーが集まって、ごはんを食べることになっていた。その集まりに、私も誘われていたのだ。
タカ先輩がまだ居酒屋で働いているときから、私にとっての彼はただのバイト先の先輩じゃなかった。
目が合うだけで嬉しくて、話すと楽しくて、憧れで。ずっと好きな人だった。
タカ先輩がバイトを辞めるときに告白しようと思ったけど、先輩にはカノジョがいるって噂があったから告白もできなかった。
タカ先輩が就職して東京に行ってしまったあとも、彼のことを好きな気持ちが消えなくて。あくまで元バイト先の後輩としてって立場で近況伺いのメッセージを送ってみたら、返信がきた。
それ以来、タカ先輩とはしょっちゅう連絡を取り合う仲になった。
私の就活の相談とか先輩の仕事のこととか、真面目な話をするときもあれば、その日に食べたものとか、たまたま見つけたおもしろ動画とか、どうでもいい話をするときもある。
それに、つい最近は恋バナもした。
タカ先輩は居酒屋のバイトを辞める何ヶ月も前にカノジョと別れていて、それ以来ずっとフリーらしい。
カノジョがいないなら、私にもチャンスがあるんじゃないかな。
タカ先輩とは、週に数回メッセージをやりとりするし、嫌われてはないと思う。
だから……。
地元に帰って来たタカ先輩が、バイトメンバーたちと集まる今夜。タイミングを見計らって先輩を呼び出して、告白するつもりでいた。
そのために、二週間以上も前からお気に入りのショップをいくつか下見して、タカ先輩に会える日のコーディネートをめちゃくちゃ考えた。
集まりの前に美容室を予約して、カットとカラーをしてもらい、可愛く毛先を巻いてもらった。それなのに……。
美容室を出て、待ち合わせまでの空き時間をカフェで潰していると、バイト先の店長から電話がかかってきた。
「ごめんね、マナちゃん。今日これから、シフト入れないかな? ラストまで入ってくれる予定だった子が、体調崩して来れなくなっちゃって……。他の子たちにもかけてるんだけど、みんなつかまらないんだよ」
今夜はバイトを休みにしていた。
タカ先輩と面識があるバイトのメンバーも、ほとんどがシフトを入れていなかった。だから、急な欠員が出たら店が回らなくなる。
店長には申し訳ないと思ったけど、最初は予定があるからと断った。でも、困った声の店長に何度もしつこく頼み込まれて、結局断りきれずにシフトに入ることになってしまった。
集まりに参加する予定のメンバーに、「頼み込まれてシフトに入ることになった」と連絡したら、「何やってんの、マナ! 店からの電話なんて、シフト交代の連絡に決まってるんだから出たらダメじゃん。おひとよしなんだからー」と軽く笑われた。
ショックだった。私だって、タカ先輩と会うのを楽しみにしてたのに。
みんなが店長からの電話を無視したから。私だけが真面目に応対してしまったから。みんなの代わりに欠員の代役を引き受けることになってしまったんだ……。
「会いたかったな……」
みんなに囲まれて笑っている写真の中のタカ先輩。その笑顔を見つめて、ポツリとつぶやく。
本当は私だって、この写真の中にいる予定だった。タカ先輩に会えたら、頑張って告白するつもりだった。
でも……。こんな私じゃ、もうダメだ。
美容室でセットしてもらった髪は、バイト中に頭に巻いていた三角巾のせいで、ペタンと潰れてぼろぼろ。
今夜は忙しくて、ホールをかなり動き回ったから、汗でメイクも落ちている。
買ったばかりのワンピースだけが、ぼろぼろな顔から浮いていて、ものすごく不恰好。
せっかく頑張って綺麗に着飾ったのに、まるで魔法が解けたみたいだ。
悲しくて、悔しくて、とても惨めで。涙が出そうになる。
うつむいて、すんっと鼻を啜ると、手の中でスマホが震え始める。また誰かからのメッセージかと思ったら、タカ先輩からの着信だった。
え、嘘。なんで……!?
今までメッセージのやりとりは何度もしてきたけど、電話がかかってきたことなんてなかったのに……。
混乱しつつも、涙を拭いて、急いでスマホを耳にあてる。
「も、もしもしっ……!」
声を上ずらせる私の耳に、ふっとタカ先輩の笑い声が届き、
「お疲れさま」
と、柔らかな優しい声が響いた。
「せ、先輩?!」
「もしかして、今終わったとこ? 急なシフト変更、大変だったね」
まだ状況がいまいち飲み込めていない私に、タカ先輩が話しかけてくる。
「終電が来てもマナちゃんの姿が見えないから、閉店作業に時間かかってんのかなって思ってかけてみたんだけど……」
タカ先輩の声に重なって、スマホから駅のホームの発車ベルの音が響いてくる。居酒屋の最寄り駅のベルの音だ。
「先輩っ! 今、どこですか?」
「今、ちょうど店の最寄り駅の改札で――」
「す、すぐ行きます! 待っててください!」
タカ先輩が、すぐそこにいる。そう思ったら、ネガティブな考えは頭から全部吹っ飛んでしまって。先輩の声を遮るように叫んで、通話を切っていた。
駅までは、ここから走れば五分もかからない。
スマホをカバンに突っ込むと、駅に向かって走る。
ラストまでバイトのシフトに入るときは、最終電車に乗るためにいつもダッシュしていて、店から駅まで走るのには慣れている。
それなのに今は、タカ先輩に会いたい気持ちがはやるばかりで、駆ける足がうまく回らなかった。
ヒールの靴のせいで、地面に踏み込む足にも力が入らない。
焦っていると、自分の足に足が絡まって、前から膝をついて転んだ。
ロングスカートの布地のおかげで流血は免れたけど、コンクリートに打ち付けた膝が痛い。脱げた右足の靴が、ひっくり返って横に転がっていた。
こんなときに、最悪……。
コンクリートについた手をぎゅっと握りしめたとき、
「大丈夫?」
聞き覚えのある声がして、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、すぐそばにタカ先輩がいて。しゃがんで靴を拾ってくれる。
「先輩……」
「焦らなくてもちゃんと待ってるのに。ケガしてない?」
タカ先輩が私の前に靴を置いて、優しく笑いかけてくる。しばらくその笑顔にぼーっと見入ってしまった私だったけど、ふいにハッとして下を向いた。
タカ先輩から電話をもらって嬉しくなって、すっかり忘れてた。私、今、髪もメイクもぼろぼろだ。
「あ、あの……、私、バイト後で髪の毛ぐちゃぐちゃだし、顔もこんなで……。でも、どうしてもタカ先輩に会いたくて……」
前髪を整えるフリをして、タカ先輩から顔を隠す。
思いがけず目の前に現れたタカ先輩に伝えたいことはたくさんあるのに、驚きと緊張で胸がいっぱいで、気持ちがうまく言葉にできない。
「マナちゃん……」
優しく甘い声が耳に届いた次の瞬間、タカ先輩が私の肩にそっと手をのせた。
ドキリとして視線をあげると、タカ先輩がふわっと綺麗に笑う。
「俺も。どうしても会いたくて、終電過ぎるまで待っちゃった。でも、やっとつかまえた」
私の肩を引き寄せたタカ先輩が、しゃがんだままぎゅーっと抱きしめてきた。
タカ先輩の香りに包まれて、幸せすぎて、頭がぼんやりと蕩けそうになる。
「タカ先輩、好きです……」
夢見心地でつぶやいた私の唇に、ゆっくりとタカ先輩のキスが落ちてきた。
「俺も、好き……」
唇が触れる間際に耳に届いた言葉に、嬉しくて震える。
どうかこのまま夜が明けても、幸せな魔法が解けたりしませんように。
Fin.