「ごめん遅くなって。やっぱ、久しぶりだと酔いやすいな」
先程と違い足取りはしっかりしているも、まだアルコールが抜けていない健ちゃんは、陽気に話しかけている。
だけど私はそんな声に返事も出来ず、目の当たりにした事実にただ呆然としていた。
「美香?」
健ちゃんが私が立ち尽くしていた場所まで来て、ようやく気付いたようだ。
私が引き出しを開けてしまったと。
「……あ。見ちゃったか、恥ずかしいな……。ごめん。正式に決まってから話そうと思ってて……」
お酒で赤らめていた頬はより紅潮し、それを指で軽く掻く。
その照れ笑いは私に向けられたものでなく、引き出しの中身に寄せられたものだった。
そこにあったのは、健ちゃんが撮ったと思われる奈緒子の振り袖姿の写真が入ったフォトフレーム。
……そして、記入済みの婚姻届だった。
引き出しが締まり切っていなかったのは、私がノックしたから慌ててそれらを引き出しに突っ込んだからだろう。
変わらずに隠し事が下手な健ちゃん。
締まり切っていない引き出しを、そのままにして部屋を出るなんて。
まあ、それを見る私は普通に最低なんだけど。
結婚。そっか。
だって、付き合って八年だもんね。
この瞬間、私は本当の意味で失恋した。
健ちゃんが奈緒子を振ることはないと分かっていたけど。奈緒子はハッキリした性格だから、健ちゃんでは物足りないんじゃないかと、この期に及んで僅かな可能性に賭けていた。
そしたらなりふり構わず私は健ちゃんに気持ちを伝えようと、部屋を訪ねた。
だけど、そんな淡い期待は完成に砕け散った。
「え? そんなに喜んでくれるの?」
目の前には、少し戸惑った物腰のやわらかな声。
だけど、その大好きな顔は歪んで見える。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
そう言って差し出してくれたティッシュを私は受け取らず、健ちゃんの胸に飛び込んでいた。
「美香。ありがとう」
昔のように頭を撫でてくれる手は、あの頃と違って大きくなっていて。
「……健ちゃん、好き」
ずっと我慢していた気持ちはどうしても抑えることが出来ず、涙と共に溢れてしまった。
「俺も美香のこと好きだよ。今も、これからも」
だけどその声は動揺も何もなく、私に現実を突き付けてくる。
どうしてここまで気持ちを伝えても、分かってくれないのだろう。
私が妹みたいなものだから?
違う。私は女だよ。
その考えが過った私は健ちゃんから離れ、その無防備な唇にそっと自分の唇を近付けた。
健ちゃんは昔から優しくて、私がどれほどわがまま言っても怒らなくて。手を上げるどころか、小突くことも一度もされたことなくて。
だけど、私は今日。初めて突き飛ばされた。
酔いのせいかバランスを崩して倒れてしまい、冷たい床に頬が当たる。
「ごめん! 大丈夫!」
私を肩を抱きながら覗き込むその表情は、怪我をしていかの気遣いに、手を上げてしまった罪悪感。
しかし、それだけではないだろう。
「一瞬だけでも女に見えた?」
健ちゃんの目を見つめて、体を支えてくれる手に私の手を添えてみた。
「み、美香! 酔い過ぎ! ははは……」
初めて目を逸らしてくる姿に、やっと私を女として意識してくれたのだと、恋の花は美しく咲いた。
だけど一瞬で散るであろう、短き命。
どうせ同じ運命にあるなら、私は。
「健ちゃんが好きなの。ずっとずっと昔から!」
思いの全てをぶつけた。
この花を咲かせてくれた人に、いかに美しい花を咲かせたのかを見てもらいたくて。
「ごめん。気付かなくて。本当にごめん」
髪をクシャとさせ俯く姿を、見たかったわけじゃない。
「……別に私のこと好きじゃなくていいよ。お酒のせいにしていいし。奈緒子にも、誰にも絶対に言わない。……だからお願い。今晩だけ、あなたの彼女にしてください」
そう言い、私は健ちゃんを強く抱きしめる。
あなたへの最後の願いは、恋の花をあなたによって散らせてもらうこと。
もう二度と芽を出すことがないように。
もう二度と花を咲かせることがないように。
私の心を乾かせ、凍り付かせて欲しい。
そしたらもう、私は二度とあなたに関わらない。
「美香」
健ちゃんは、強く、強く、私を抱きしめてくれた。
ずっと欲しかった温もり。
気持ちがなくても、私を愛してなくてもそれでいい。
だって、愛されていない人と肌を合わせることは、心が渇き、凍り付くこと。
身を持って経験している私は、分かる。
もし大好きな人にされたら、私の心は乾いて干上がり、氷点下のように凍り付いて、もう二度と花など咲かせぬ心に出来るだろう。
だからお願い。私の心を殺して。
「それなら、尚更だめだよ」
その言葉と共に、健ちゃんはそっと離れていく。
「美香は小さい頃から『私なんか』と言うけど、『なんか』じゃない。俺にとっても、誰にとっても大切な存在だよ。それなのに美香の気持ち知って、そんなこと出来るわけないだろう? ……ごめん。俺、適当にどっか行くから、留守番頼んで良いかな?」
スマホを手に取った健ちゃんは私に背を向け、ドアに向かって歩いて行く。
「待って、健ちゃん!」
最後の捨て身で後ろから抱き付いた。
打算でもなんでもない。本心から。
健ちゃんが大好きだから。
しかし。
「……可愛い妹にそんなことは出来ない。ごめん」
私の手を力強く離したかと思えば、振り返ることもせず出て行ってしまった。
ズルい。ズルいよ。
ここで優しいお兄ちゃんから、最低な男になってくれたら、私はあなたを嫌いになれた。
大切な婚約者裏切って、妹のように可愛がっていた隣人に手を出した最低男だって。
それなのにそんな優しさ見せてきたら、誠実さ見せられたら、余計にあなたを忘れられないじゃない?
この優しさは私を捕え、縛り付け、決して解き放たれることはない、残酷な檻のようなもの。
……でも、だからこそ好きだった。
恋の花は健ちゃんによって散らされたけど、それは誠実な兄妹愛によって。
真夜中に散った恋の花は、今度こそ返り咲くことはないだろう。
だけど。
私の心は温まっていた。
目から溢れてくるものに温度があるように、私の心にも。
……分かったよ。『お兄ちゃん』。
あなたのような誠実な男性も居ると知れたから。
もう心を殺したいなんて思わないから。
「『なんか』じゃない。誰にとっても大切な存在だよ」
その言葉を胸に、私を軽んじた私に別れを告げると決めた。