「どうぞ」
 その言葉と共に、放たれたリビングのドア。
 目の前に広がるテレビに、ソファーに、食卓テーブル。
 そこは子供の頃に遊びに来ていた時と配置は変わっておらず、私を一瞬であの頃に戻してくれた。

「ごめんね。私なんかの為に……」
 私は一晩、健ちゃんにお世話になることになった。
 お盆にも関わらず仕事で、疲れているのに。
「気にしないで。コーヒー入れるから」
 そう言い、奥の台所に行き準備をしてくれる。
 優しさも、この家と同じく変わっていなかった。

 川島(かわしま) 健太(けんた)、二十六歳。
 隣人で、物心つく頃から私を可愛がってくれた二つ上のお兄ちゃん。
 昔は「お兄ちゃん」と呼んでいたけど、ある時から呼び方を変えた。それは。

「うちも両親は父さんの実家に行ってるから、今日は誰も帰って来ないよ。部屋は客間があるから大丈夫だよ」
「ありがとう」
 二十四歳になっても、こんな凡ミスをしていると健ちゃんに知られた私は、夏の暑さも相まって体全身が熱かった。

 昔から鈍臭い私に対し、健ちゃんはこうやって失敗をこっそり助けてくれたり、黙っておいてくれる。
 ……それに健ちゃんだって。

 パリン。
 突然の高い音に思わず振り返ると、床にはコーヒカップがカケラが散乱していた。
「……はは。変わらず鈍臭くて……。痛っ!」
 お約束のように指を切り、血を流してしまう。
 それが健ちゃん。

「大変! 救急箱、場所変わってないよね?」
「うん」
 私は勝手にクローゼットを開けて箱を取り出し、怪我した指を消毒して絆創膏を巻き付ける。
 こんな状態なのに健ちゃんの指に触れていることに手が震えてしまう私は、本当にどうしようもない。

「ごめんね」
 失敗して見せる苦笑いも、やっぱり変わっておらず。
「コーヒーは私が入れるから、片付けも! 痛っ!」
 変に力が入って、私まで同じ失敗するのが私達のお約束。

「美香!」
 片付けていなかった救急箱を開き、次は健ちゃんが指の手当てをしてくれる。
 あの不器用さはどこにいったのか、魔法の手のようにパッパと治療する姿に、彼を見る目に思わず力が入る。

「美香? 大丈夫?」
「いや、別に! さすが看護師さんだね!」
「変わらずの不器用だけどね……」
 照れ笑いを浮かべて、頬を掻く仕草。本当に変わってないな。

 結局、健ちゃんが片付けとコーヒーを淹れてくれ、私は完全に負担をかけるだけだった。
「またティーカップ割ると大変だから、これでごめん」
 差し出されたのは、懐かしいウサギ柄のマグカップ。
 中学生の頃に、健ちゃんがこれでコーヒーをよく入れてくれたな。
 そして一口で分かる、私が好きなミルクと砂糖たっぷりコーヒーの味を覚えていてくれたのだと。
 
 彼が持つマグカップを覗き込むと、私のと同様にミルクによって染められた淡い色で、ブラックの気配など微塵もない。
 健ちゃんも変わらずの甘党なんだ。
 それを気付いた私は、思わずニヤけた顔を抑えられなかった。
 口触りの良いコーヒーを色違いのマグカップで飲んで。その指は、同じ右手の人差し指に絆創膏が巻かれていて。なんだか愛を誓い合った夫婦のひとときみたいで。絆創膏が指輪みたいに見えてしまった私は、相当精神がヤバいだろう。

「こうやって会えるのは何年振りなんだろう? 仕事忙しいよね?」
「……うん」
 私は努めて彼から目を逸らさないように見つめて、返事をする。
 健ちゃんは疑っていない。私がわざと避けていることを。
 そして私が、兄以上の感情を持ち合わせていることを。