「そこに居るのは誰だ?」

 よく通る爽やかな低い男性の声に、莉亜は飛び上がりそうになる。引き戸の方を向くと、そこには古めかしいデザインをした黒いマントと同色の詰襟の学生服、白い手袋を身につけ、教科書で見たことあるような昔ながらの黒い学生帽を被った男性が立っていたのだった。
 男性の顔は学生帽に隠れて見えなかったが、纏う雰囲気から警戒や怒りを感じた莉亜は、咄嗟に謝罪の言葉を口にする。

「す、すみません! 勝手に入ってしまって……! あの、猫を追いかけて白い光を浴びたら気を失って、気づいたら道に迷ってしまって! 花忍を道なりに来たらここについて、それで……」
「人間か? お前」

 しどろもどろになりながら説明をしていた莉亜だったが、男の声に一度落ち着くと、「はい」と頷く。

「人間ですが……」
「やはりそうか……。いや、大したことではない。盗難対策であやかし避けの術式を施してもらったのだが、何も反応がなかったから確認がしたかっただけだ。あれは生身の人間には無効だからな」
「そうですか……」
「それで人間がここに迷い込むとは珍しい。誰かに招かれたのか? それとも通行手形を確認した牛鬼(ぎゅうき)の番人に通してもらったのか?」
「すみません。気が付いたら倒れていただけなので、私にも何がなんだかよく分からなくて……。そもそもここはどこですか?」
「ここは神域だ。神とあやかしのみが住まう場所だ」
「神と……あやかし……? 神ってあの神社に祀られている……?」
「そうだ。神の数だけ神域がある。ここは豊穣の神である俺が司る神域だ」
「豊穣の神様……」
「ところで、さっきここに来る途中で荷物を拾ったんだが、もしかするとお前の荷物か? 何やら面妖な代物もあったが……」

 そう言って、神と名乗った男性が掲げたのは莉亜のトートバッグだった。莉亜が「そうです!」と返すと、男性はやはりといった顔をしたのだった。

「中身が飛び散っていたから拾っておいた。……足りないものがあっても文句は言うなよ。先に言っておくが、俺は何も盗んでいない」
「ありがとうございます……」
 
 莉亜は男の元に向かうと、トートバッグを受け取る。すぐに中身を確認すると、猫に盗られた御守りとボール代わりにされたおにぎり以外は全て揃っていた。財布の中もそのままだった。

「ひと通り揃っているようです。ありがとうございま……」

 礼を述べながら、頭一つ半近く背が高い男性を見上げた時だった。男性の顔を見た莉亜は恐怖のあまり声を詰まらせてしまう。真っ青な顔を引き攣らせたからか、男性は不思議そうに首を傾げたのだった。

「どうした?」
「かっ、かお! みっ、ミイラ……ミイラ男っ!?」

 男性は落ち着き払った綺麗な低い声で普通に話しているが、それを発しているはずの口が無かった。それどころか、目や鼻、眉でさえも……。
 学生帽の下には大怪我を負ったかのように、何重にも巻かれた煤けた包帯が広がっていたのだった。
 莉亜は言葉を失って、唇を戦慄かせていたが、男性は特段驚いていないようだった。ただ「忘れていた」と、呟いただけだった。

「神力を温存して、顔を作っていなかったな。おい、何か触媒になるものは持っていないのか?」
「しょくばい……?」
「何でもいい。そいつの姿を模倣して顔や姿を作るだけだ。その方が一から作るより簡単だからな。絵や写真でいい」
「そんなことを急に言われても……」

 スマートフォンを取り出すが圏外のため、インターネットを使った写真や画像の検索は出来なかった。スマートフォンに保存している写真を見ても、アイドルや芸能人に疎い莉亜の写真一覧には男性の写真は一枚も見当たらない。
 せめて家族や友人の写真を保存していなかったかと写真一覧を探していると、「借りるぞ」と短い言葉と共に男性が莉亜のトートバッグに手を入れる。手にしたのは、猫と桜のブックカバーを掛けた文庫本だった。男性はページを捲ると、折り癖がついていたとあるページを食い入るように眺めだす。

「なんだ。丁度良い触媒を持っているじゃないか。それも絵まで入っている」
「そ、それはっ……!!」

 莉亜は手を伸ばして文庫本を掴もうとするが、それより先に文庫本を中心にして、男性の身体が光始める。莉亜が桜の木から生じた光に覆われた時と同じように、男性も光に包まれたかと思うと、瞬く間に姿が変わり出したのだった。
 時代錯誤なマントと学生服は今風の白いシャツとカジュアルな黒いジーンズに変わり、学生帽は消えて黒い髪が首筋まで流れる。包帯が解かれ、長めの前髪の下には白い肌が露わになったかと思うと、細長い黒目や整った鼻梁、形の良い柔らかな唇が形作られる。男が手袋を外して、白い手で左目の下を触れると、小さな黒子が現れたのだった。
 そうして光が霧散した時、そこに居たのは先程のミイラ男ではなく、文庫本に書かれた挿し絵の青年――莉亜が愛してやまない推しのキャラクターの姿そのものであった。