三人が出て行くと、部屋には蓬だけが残る。書き物机に広げられていた半紙には日付と何かの料理の感想、食材の名前がびっしりと書かれていた。見覚えのある手跡なので、セイが書き留めたもので間違いないだろう。流し読みしていた蓬だったが、あることに気付いて愕然とする。
 それぞれの日付の横には料理の感想が簡潔に記載されていたが、それはその日にセイが持って来た神饌に対する蓬の感想をまとめたものであり、食材はその日の神酒が入った味噌汁に使われていた具材であった。中には朱色の細字でセイの注釈がついており、「今日は機嫌が良かった。好みの味付けだったのかもしれない」や「あまり上手そうに食べていなかった。この味付けは好みではないのだろう」など書かれていたのであった。
 蓬が想像していた以上に、セイは蓬に心を砕いていたのだろう。先程の教授に皇神や神名について尋ねたのも、神名を思い出せないと嘘を吐いた蓬がきっかけだったに違いない。自分の意固地が原因でセイの時間まで蓬が奪っていた。
 それに気付かなかった自分はセイに何をした。セイの優しさに甘えて、好き放題に勝手なことを言い、もったいぶって名前と姿を返さずにいた。
 その結果、肉体から離れた魂を見失って、地上のどこかに存在するセイの魂さえ見つけることができない。
 意地を張り続けた結果、セイが作る神饌を褒めることも、友と呼ぶこともしなかった。
 本当はずっと前から認めていたというのに……。
 
「セイ……」

 初めて呼んだ友の名は、胸に刃を突き立てられたかのような痛みを伴って、身体中に響く。友とはこんな苦しい存在だっただろうか。蓬に友人はいなくても、人間たちが友と呼び合う姿はこれまで散々見てきた。
 友とはもっと温かく、柔らかなものではなかったのか。
 友の名を呼ぶ度に、自分の心に開いた穴に気付かされて、膿んだ傷口に塩を塗られるような疼痛を感じるものではなかったはずだ。
 蓬の過失が心に傷を創ってしまった。もっと早くセイを自分から解放するべきだった。この地を守る神として神饌を認めて、名前と姿を返し、遠くの神社の後継者となるセイを見送ってやるべきだったのだ。そうすれば、セイは自由に生きられた。蓬のことを忘れて、只人として生を全う出来ただろう。輪廻転生の輪から外れることもなく、来世を迎えられたに違いない。
 それら全てを蓬が壊してしまった。セイの自由も、未来さえも。何もかもを奪ってしまった。
 謝罪したいと(こいねが)っても、会いたいと渇望しても、今の蓬にはセイと会う術を何も持っていない。

(愚か者は我だったのだな。キサマから全てを奪い、何の望みも変えてやれなかった)
 
 頭の中が真っ白になりながらも自分を祀る本殿に戻った蓬は、次兄が供えたままになっていた神饌に目を落とす。セイよりも形が整った塩おにぎりはセイの母親が握ったものだろう。このような事態になっても神饌を忘れなかったのは、セイの願いを尊重したのか。
 セイの願い――早く蓬が神名と姿を取り戻し、この地を再び実り豊かな土地にして欲しい、という。
 すっかり固くなった塩おにぎりを蓬は齧る。セイの塩辛い味付けに比べたら食べやすい味付けだが、何故だか美味しいとは思えなかった。神酒が入っている味噌汁も同じ。神力が回復する気配も全くなく、ただ出されたから機械的に食べているだけという状態になってしまう。最終的には味わうこともせず、味噌汁で流し込むようにしてどうにか平らげたのだった。
 昨日までのセイが用意した神饌とは違って、神饌を食しても何も満たされなかった。ただ身体が重くなっただけで、美味いとも不味いとも思えない。セイが用意した神饌を食べていた時は心から味を感じて、心魂を動かされた。それを神饌の感想として伝えていたが、セイは全て書き留めていたのだろう。蓬がセイの神饌を認める、その日まで――。
 
 蓬は立ち上がると、眼下に広がる町を見下ろす。これまでセイの神饌を食べてきたことで、多少は神力が戻ってきている。豊穣の神としての全盛期ほどの力ではないが、これだけ回復していれば十分だろう。
 大切な友の願いを、()()に叶えられるくらいには。
 
「約束を果たすぞ、セイ。これで貸し借りは無しだ」
 
 真名を奪った神が消滅した時、奪われた真名は自動的に相手に戻るとされている。そのため、神代の頃は名前を奪われた人間が自らの名前を持つ神の命を狙ったという話もあった。
 蓬の場合、自分が消滅すれば、名前と姿は魂となったセイの元に返却される。そうすればセイの魂は蓬から解放され、輪廻転生の輪に向かう。転生したら蓬のことは忘れてしまうが、これからも友が幸せに過ごせるのならそれでいいと自分を納得させる。自分にはセイがいない寂しさや悲しみを語る資格はない。これは蓬が犯した罪の末路。清算するために必要なことだ。
 神に相応しくない態度を取り続けた自分の消滅が、己の全てを捧げてくれたセイに対する贖罪になるのなら、神として残された力の全て解き放とう。自分はどうなってもいい。たとえこのまま力を使い果たして、消えてしまったとしても。
 力を失った神である蓬が、友である人間のセイのために出来ることと言えば、これくらいしか無いのだから――。

(こんなことになるのなら、これまでの神饌を受け取っておくべきだったな……)
 
 セイが声を掛けてくるまで、セイの父親を始めとする幾人もの男が神饌を持ってきていたが、もしかするとその中にも蓬の神力を回復させる神饌があったかもしれない。今さら悔やんでも仕方ないが、自分の我を通す前に一度くらい確かめてみても良かった。
 蓬は言葉にならない叫び声と共に自分が持つ神力の全てを解き放つ。蓬を中心に神力が空気を震わせ、その衝撃で鳥たちが一斉に羽ばたき出す。耳鳴りのような音が辺りに響いたものの、それもすぐに消え、代わりに蓬の身体から神聖なる光が溢れ出る。この本殿を中心に波が起こったかのように、蓬が司る豊穣の神力が周囲に広がっていく手ごたえを感じたのだった。
 蓬の身体から力が抜けると、その場にくず折れる。神としての姿が光の粒子状に分解されていき、手足の先から徐々に消えていく。この光の粒子も蓬が解き放った神力と共に風に流されて遠くまで行き渡るのだろう。大地に活気を与え、実りと繁栄を約束させる。これであと数百年は豊作が続くに違いない。
 友の願いを叶えられたことに、満足げな笑みを浮かべる。この意識が消えた時、名前と姿はセイに返るだろう。これでセイは自由になれるはずだ。
 そんなことを考えていたからだろうか。目が閉じる寸前、大切な友の姿を見たような気がした。微かに「蓬」と呼ばれた声も聞こえたが気のせいだろう。唯一無二の友を恋しむあまり、幻を見たに違いない。
 そんなことを考えながら、蓬は意識を手放したのだった。