遠くから聞こえてくる花見客の声を聞きながら、莉亜は最後の石段を登り切る。想像よりも急勾配な石段だったようで、何度も肩で息を繰り返すと頂上を見渡したのだった。

(本当に何もない……。それよりもどこか物騒で怖いかも……)
 
 どことなく静謐で厳かな空気さえ漂っているような気がして、自然と身震いする。神社のような聖域に足を踏み入れた時のように、澄んだ空気を全身で感じたのだった。
 莉亜は老朽化して今にも崩れてしまいそうなベンチに腰を下ろして両足を伸ばすと、大きく息を吐く。眼下を見下ろすと、薄らオレンジに染まった薄桃色の桜の木々が見えていたのだった。

(夕焼けに染まった桜も風情があって良いかも)

  このまま桜に見入ってしまいそうだったので、莉亜はトートバッグを開けると中からコンビニエンスストアで買ってきたおにぎりを取り出す。
 一番好きな具材である鮭おにぎりの包装用のビニール袋を開けようとした時、近くの茂みが小さく音を立てて揺れる。先客がいたのかと固唾を呑んで繁みを見つめていると、中から一匹の猫が現れたのだった。

「にゃあ~ん」
 
 枝葉を掻き分けるようにして現れたのは、茶色と白色のふわふわした毛に覆われたキジ白の成猫であった。猫は莉亜の足元までやって来て座ったかと思うと、品定めをするように莉亜の顔をじっと見つめてくる。今にも吸い込まれてしまいそうな黒目に直視されて、ますます莉亜の身体は固まってしまう。やがて猫は甘えるように顔を擦り付けてきたのであった。

「か、可愛い……!」

 思わず声を上げてしまうくらい、猫は人馴れをしていた。よく見ると、梵字のような文字が書かれた小さな木の札が付いた赤い首輪をしていたので、近所の飼い猫かもしれない。そんなことを考えていると、猫はベンチの上に軽々と飛び乗ってくる。そうして膝の上に前足を乗せると、莉亜が手にしていた鮭のおにぎりに鼻を寄せてきたのだった。

「これはダメよ。貴方の身体には悪いかもしれないからっ……」

 その時、莉亜の耳の奥で激しい耳鳴りがする。顔を歪めて鳴り終わるのを待つ、ほんの僅かな隙をついて、キジ白の猫は莉亜の手に飛び掛かるとおにぎりを奪ったのだった。
 おにぎりを咥えたまま、猫は隣に置いていた莉亜のトートバッグを踏み台にして跳躍すると優雅に着地する。その弾みでトートバッグは大きく傾くと、中身を撒き散らしながら地面に落下したのであった。

「あ~あ……」

 莉亜は肩を落とすと、猫がおにぎりをボール代わりにして遊んでいる間に荷物を拾い集める。財布、スマートフォン、大学で配布された資料、猫と桜が描かれたブックカバーを掛けた文庫本、自宅の鍵、定期入れなどを拾い上げては、トートバッグの中に適当に入れていく。
 最後に手帳を拾おうとしたところで、汚れて黒く変色してしまった紐が今にも落ちそうになっていることに気付く。慌てて手帳を捲って表紙の内側に折り込んでいるカバーを確認すると、そっと安堵の息を吐いたのだった。

(良かった。なんともなくて……)

 そでと呼ばれているカバーの折り込み部分からはみ出る黒く染まった紐を引っ張ると、中からは色褪せた御守りが出てくる。引っくり返すと金の糸で神社の名前が縫い取られていた。
 それは亡くなった祖父が生前宮司をしていた神社の御守りだった。祖父が亡くなって、弟子に代替わりをした際に御守りのデザインが一新されたので、同じものは手に入らない。莉亜にとって、数少ない祖父との思い出の品だった。
 祖父の子供は誰も神職に就かなかった。莉亜のことは目に入れても痛くないというかのようにたくさん甘やかしてくれた祖父だったが、自分の子供たちに対しては、厳しく、意固地な頑固者として嫌われていた。そんな祖父を毛嫌いした結果、莉亜の父は神職に付かなかった。父の他の兄弟も祖父との折り合いが悪く、せっかく神職の資格を取っても誰も祖父の跡を継がなかった。祖父自身もそこまで後継ぎを強要しなかったというのもあるらしいが。
 祖父の死と共に、莉亜と祖父の神社との結び付きは無くなってしまった。昔は大好きな遊び場だったのに。

 その弟子と莉亜には全く面識がないので、祖父が亡くなった後は一度も神社に行っていないが、今は観光客や若者向けに路線を変更したと聞いていた。拝殿や社務所も建て直し、綺麗で清潔感のある神社に変わったと。祖父がいた頃の神聖で厳かな空間では無くなったのは寂しいが、祖父や祖父の父、歴代の宮司たちが守ってきた想いが今も神社と共に残っているのは救いだった。
 御守りを手に感傷に浸っていた莉亜だったが、元通りに手帳に仕舞おうとした時、目の前を茶と白の影が通り過ぎていった。そして次の瞬間には手の中から御守りが消えていたのであった。

「あれっ……?」

 辺りを見渡すと、さっきの影と思しき猫が不思議そうな顔で莉亜を見つめていた。その口には先程まで莉亜が持っていた御守りが咥えられていたのだった。

「そ、それっ! 返して!!」

 莉亜が声を荒げると驚いたのか、猫はそのまま逃げ出してしまう。

「ま、待って!!」
 
 莉亜はトートバッグとおにぎりを拾い上げると、猫を追いかけたのだった。

 道なき道を走る猫の姿を見失わないようにどうにか後をついて行くと、やがて目の前に大きな桜の木が現れる。見るからに何十年も経っていると思しき太い桜の木に猫は近づくと、その前でそっと座ったのだった。どこか物憂げにも見える猫の背中を見つつ、莉亜は音を立てないように忍び足で迫る。あと少しで手の届く範囲に入るというところで、猫は急に跳躍したかと思うと、桜の木の根元に御守りを置いてしまう。そしてどこかに走り去ったのだった。
 猫がいなくなると、莉亜は桜の木に近寄る。御守りを置いた場所を覗くが、それらしきものは見当たらなかった。

「おかしいな……。確かにこの辺りに置いたように見えたんだけど……」

 もっとよく探そうと莉亜が木の幹に触れた瞬間、先程と同じ耳鳴りがしたかと思うと、突然桜の木が内側から光り始める。

「な、なに!?」
 
 光はあっという間に莉亜を包むと、視界を真っ白に染め上げたのだった。