目が回るような忙しさから解放されたのは、夜も更けた頃だった。男性に言われて、暖簾を外しに行くと、高いところに月が昇っていたのであった。
神たちが人の世に息づいていた神代の時代から続く美しい月のことを『神代の月』と表現するらしいが、この神やあやかしが住む世界で見える月こそ、神代の月と言えるのかもしれない。舞い散る竹の花びらも月明りに照らされて、幻想的な光景を生み出していたのだった。
「こんな時間まで店を手伝わせて悪かったな。ここまで混んだのは初めてだったから助かった」
暖簾を抱えて店に戻った莉亜を出迎えながら、男性は客がいなくなった店内の後片付けをしていた。既に釜や鍋などの調理器具は洗っていたので、残っているのは客が使った食器と竈の後始末くらいであった。
「大したことはしていません。それにあやかしや神にも色んなタイプがいることを知れました。それに皆さん、優しいですし」
「そう言ってくれると彼らも喜ぶ。帰る前に茶でも一杯、飲んでいかないか。疲れただろう」
「ありがとうございます。丁度、喉が渇いていたのでいただきます。よもぎさん」
「よもぎ……」
急須を持つ男性の手が止まる。そのまま困惑したように止まってしまったので不安になってしまう。
「違いましたか? 皆さん、神様のことをそう呼んでいたので、よもぎという名前なのだと思っていましたが……」
最初に来た男子たち――男性が雨降り小僧の兄弟だと言っていた。や、その後に来た客たちも男性のことを「よもぎ」と呼んでいたので、それが男性の名前だと勝手に思っていた。だが男性の反応を見る限り、違ったのかもしれない。
謝ろうと莉亜は口を開くが、それより前に男性が「そうだな」と肯定したのであった。
「俺の名は蓬だ。まだ名乗っていなかったな」
「蓬さんは切り火ちゃんたちと一緒にここでお店をやっているんですよね。大変じゃないんですか?」
「ここは神やあやかしの中でも、限られた者しか知らない店だ。そう滅多に混まない。人の世との中間にあるから、神域の中でも首都からかなり離れた場所にある」
蓬の話によると、神やあやかしが住まう神域の首都は莉亜たち人間が住む世界と同じくらい発展しているらしい。電気だけではなく、ガスや水道も通っており、電車や車なども走っており、商業施設や飲食店も充実しているとのことであった。
「隠れた名店なんですね」
「品目は塩むすびしかないがな。まあ常連客も増えて、要望も出てくるようになったから、そろそろ新しい品書きを考えなければならない」
「でもおにぎりなんて、そう悩まなくてもすぐにメニューを増やせると思います。鮭に梅、昆布に明太子、ご飯も炊き込みご飯や出汁炊きご飯などありますし……」
「そうだな……」
眉根を寄せて蓬が考え始めてしまったので、もしかしたら余計なことを言ってしまったかもしれないと思い始める。その後、莉亜は蓬が淹れてくれた熱い煎茶をゆっくり飲み干すとエプロンを外したのだった。
「そろそろ帰りますね。おにぎりとお茶、ご馳走でした」
「分かった。牛鬼の番人が守護する人の世との境目まで送っていこう」
莉亜は髪を解きながらトートバッグを取りに店の奥に向かうと、切り火たちが炊事場の社から顔を覗かせているのが見えた。すると切り火のひとりが小走りで莉亜の元にやって来たかと思うと、身体によじ登ろうとする。
「どうしたの?」
莉亜が掌を差し出すと、その上に切り火が乗ってくる。何かを話したがっているようにも見えたので切り火を耳元に近づけると、機械音のような小声でゆっくりと話し出したのだった。
「マ、タ、キ、テ、ネ」
それだけ言って、切り火はまな板の上に飛び乗ると、脱兎のごとく社に戻って行ったのだった。その様子を見ていたのか、蓬から嘆賞の声を掛けられる。
「すっかり切り火に気に入られたんだな。あいつらは心を許した相手にしか言葉を発しないんだ」
いつの間に切り火たちに気に入られたのだろうと考えながらトートバッグを手に戻ると、そこには店が混雑する前に用意していた竹皮の包みを手にした蓬が待っていたのだった。
「そのおにぎりは?」
「番人への差し入れ兼通行料だ」
店から出た蓬は空いている手にどこからともなく提灯を生み出すと、先導するように花忍の道を歩き出す。遅れないように莉亜がついて行くと、やがて目の前に大きな桜の木が現れたのだった。
公園に植えられていた木に似ていながらも、花びらが白い桜に気を取られていると、桜の木を守るように牛の形をした鬼が欠伸をしながら眠たそうに座っていることに気付く。そんな鬼の足元ではハルが丸くなっていたのだった。
「夜分にすまない、牛鬼の番人。姿が見えないと思ったら、ハルもここに居たのか」
「これは蓬の旦那と、そちらは人間の生娘で?」
牛鬼は人間と同じように二本足でゆっくりと立ち上がる。桜の木に負けず劣らずの高さに見下ろされて、自然とトートバッグを握る手に力を込めてしまう。加えて大きく裂けた口とそこから覗く岩をも砕きそうな巨大な二本の牙が、月明りを反照して鈍く嫌な光を放つ。莉亜を訝しむように見下ろしてくる切れ長の鋭い目と合うと、身体が縮み上がりそうになったのだった。
「さすがに番人の目は誤魔化せないか……。そうだ、彼女は人間だ。この子を人の世界に送り届けてほしい」
「蓬の旦那の頼みならいいっすが。見返りは?」
「いつも通り、これで頼む」
蓬が竹皮の包みを渡すと、牛鬼はその場で紐を解く。蓬が握ったおにぎりを指先で摘んで口に放り込むと、丸呑みするように一口で完食したのだった。
「ううむ。さすが蓬の旦那の握り飯。さっき食べたのとは大違いっす」
「さっき食べた?」
「入相に門前でこれを拾ったっす。見たところ握り飯だったのと、待っても落とし主が現れなかったので腐る前に食べたっすが……。人の世で作られたものなのか、どうも開け方がよく分からんで」
そう言って、牛鬼が取り出したのは無残にも引き千切られた鮭おにぎりと書かれた包装用のビニール袋であった。それには見覚えがあった。夕方に莉亜が食べようとして、ハルに奪われたおにぎりであった。
「あっ! 私のおにぎり!!」
「何すと!? 人の世から落ちて来たから、てっきり観光に行っていた神かあやかしが通行料として払ってきたのだとばかり……。じゃあ、握り飯と一緒に落ちていたコイツも生娘のもので?」
長い爪で摘ままれていたのは探していた莉亜の御守りであった。莉亜が「そうです!」と何度も頷くと、牛鬼が返してくれる。すると、御守りを見た蓬が眉を寄せたのだった。
「その護符はどこで手に入れた?」
「昔、おじいちゃんに貰ったものですが……」
「懐かしい気配を感じたのだが、気のせいか……。少し貸してくれ」
御守りを受け取った蓬はそれを額に当てると、目を瞑って何かを唱える。人の言葉に似ているが、聞き慣れない言葉だった。呪文や祝詞に近い気もしたが、それらとも違うようであった。唱え終わると、すぐに御守りを返される。
「この護符に俺の神力を込めた。次からはこれを通行手形として牛鬼の番人に見せて、店に来るといい」
「通行料も頼むっす。番人はここから離れられないんで、常に暇と空腹に耐えているっす。人の世の話は聞かされるばかりで、美味いものや美味なる握り飯を食べたいっす」
「……要は、またおむすびを買ってくればいい」
「はぁ……」
そうして莉亜が戸惑っている間に、牛鬼は長い三叉槍で桜の木を叩くと黒いトンネルのような穴が現れる。これが人の世界に続く道だと蓬に教えられたのだった。
「人の世も遅い時間だろう。くれぐれも気を付けて帰宅してくれ。ハル、コイツを案内して……。またいなくなった」
先程まで牛鬼の足元にいたハルだったが、いつの間にか霞のようにどこかに消えていた。莉亜は「大丈夫です」と返したのだった。
「ありがとうございました。また来ます」
蓬に頭を下げると、莉亜は桜の木のトンネルに足を踏み入れる。道路でよく見かけるようなトンネルの造りになっており、牛鬼の話だと真っ直ぐ歩くだけでいいという。莉亜はトートバッグを持ち直すと、言われた通りに真っ直ぐ歩いたのだった。
やがて光が見えたかと思うと、次の瞬間には公園内に咲くあの桜の木の前にいた。後ろを振り返っても、そこには薄桃色の花が咲き誇る大きな幹があるだけでトンネルなど何も無かった。
夢を見ていたかと疑いたくもなったが、莉亜の手に残っていたものがあった。返し忘れた赤と黒のチェック模様のリボンだった。
(また来よう)
莉亜はリボンをトートバッグに結ぶと、スマートフォンで足元を照らしながら山を下っていく。蓬の言う通り、遅い時間となっていた。明日も大学があるので早く帰った方が良い。そんな莉亜の心情に答えるかのように、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきたのだった。
公園内を照らす赤い提灯の下では花見が佳境に差し掛かっているようだったが、莉亜は脇目もふらずに帰宅する。もう心細さも孤独も感じなかった。それどころか明日の活力さえ漲ってくる気さえして、微笑みさえ浮かんできたのだった。
――これが莉亜と蓬、二人の運命的な出会いであった。
蓬と出会ってから数日が経過した。桜はすっかり散って、日に日にサツキやツツジの濃い桃色や白色が街を彩るようになった。
あれから大学の授業も始まり、心を許せそうな友人が出来た。それでも時間が許す限り蓬のおにぎり処に通っては、その日に大学であった出来事を話し、店が混んだ時は手伝いをして過ごすようになっていた。
常連客の神やあやかしたちとも顔見知りになり、ハルや切り火たち、牛鬼の門番とも親しくなった。彼らが優しいというのもあるが、そこには店主である蓬の人柄も大きいだろう。
常連客の中には莉亜と同じように蓬に悩みや心配事を相談する者や、生きづらさを感じて苦しんでいる者がいた。蓬はそんな常連客たちの話を聞いては一緒に解決策を考え、アドバイスをしていた。
時には厳しいことも言うが、常連客たちはそんな蓬の言葉の裏にある優しさや心配を感じ取っているのだろう。そんな蓬の想いを知ってるからこそ、常連客たちは蓬を慕い、足繁く店に顔を出している。蓬も素っ気ない素振りを見せつつも、助言した常連客がその後どうなったのか気になるようで、時折店の引き戸を見ながら、「今日は来るだろうか……」と独り言を呟いていたのだった。
この日も莉亜は大学の授業を終えて、おにぎり処に向かっていた。すっかり葉桜になってしまった公園の小高い山の上に咲く桜の木の幹に御守りを近づけると、蓬の店に繋がる神域のトンネルを牛鬼が開いてくれる。そしてトンネルの出口で待ち構えている牛鬼に御守りを見せて、コンビニエンスストアで買ったおにぎりを通行料として渡す。
最初こそ自分の手より小さなおにぎりを開けるのに苦戦していたが、莉亜が何度か開け方を教えたところすっかり会得したらしい。今では莉亜が買ってくる珍しい具材を使ったおにぎりを楽しみにしているようで、この日も新発売というシールが貼られた明太子クリームチーズのおにぎりと海老とにんにくの炒飯おにぎりを嬉々として受け取ったのだった。
その後、いつものように蓬がくれた人間の匂いを消す柑橘系の香水を振ると、竹の花びらが舞い散る花忍の道を歩く。蓬が営むおにぎり処の引き戸を開けると、炊事場で見知らぬ若い男性がおひつをかき混ぜていたのだった。
「ようやく来たか。待ちくたびれたぞ」
蓬によく似た透き通るような澄んだ低い声に話しかけられて、莉亜の心臓が口から出そうになる。炊事場に居たのは莉亜と同年代くらいの黒髪の青年であった。
初めて会った時に蓬が着ていた古めかしいデザインをした詰襟の学生服を身に纏い、蓬と酷似した古風な髪型をしていた。背丈や手足の長さも含めて、顔以外は最初の蓬と瓜二つといった姿形をした青年が莉亜を待っていたという。
「私を待っていた……? 失礼ですが、どこかでお会いしたことありましたっけ? 蓬さんにそっくりな方のようですが……」
「そうだな。会っているといえば会っているが、会っていないといえば会っていないと言えるな……」
煮え切らない返事に加えて、蓬と見紛うほどに話し方まで似ており、ますます莉亜は混乱してしまう。目の前の青年は知らぬ間に出会っていた蓬の家族だろうか。実は蓬とは双子の兄弟で、時に入れ替わりながら店をやっていたとか。
「細かいことはこの際置いておこう。それより、腹は減っていないか。丁度、塩むすびを作ったところだったのだが」
「貴方が作ったんですか?」
「ああ。米は昨日の余りだが、今なら温めたばかりだから炊き立てと同じくらい温かい。おれが握ってやるぞ」
「それなら、お言葉に甘えてお願いします」
「任された」
莉亜がいつものカウンター席に座ると、男性は手早くおにぎりを握っていく。これも蓬と同じだったので、実は蓬本人が悪ふざけして他人の振りをしているだけなのではないかと疑ってしまいそうになる。
それでも蓬とこの青年には、徹底的に違う点が一つだけあった。
(切り火ちゃんたちが出て来ない。いつもなら蓬さんがおにぎりを作り始めると、社から顔を出すのに……)
普段なら蓬が仕事を始めると、切り火たちが出番を待ち構えているかのように社から顔を覗かせる。そして蓬にドライフルーツを渡されると、皆一様に竈に走って行き、炊飯を始める。莉亜が接客、蓬が仕込みと仕上げ担当なら、切り火たちは調理担当と言えるだろう。
それが今日は社が静まり返っている。そのため、この青年は一人で全てを用意しなければならなかった。米を炊いていない時でも、切り火たちは率先して食器の用意を手伝ってくれる。それが今は配膳を手伝う気配さえ見せなかった。外出しているのか、社の中で休んでいて気付いていないのか。これも偶然だろうか。
「完成したぞ」
仕上げに男性はおにぎり全体に塩を振りかけると莉亜に差し出す。男性が出してくれたのは蓬が握るものとほぼ同じ塩おにぎりであった。形や大きさも同じだが、この青年が握ったおにぎりの方がしっかり三角形になっていた。きっと蓬より強い力で握ったのだろう。
莉亜は「いただきます」とおにぎりを口に入れるが、すぐに首をひねることになる。
(あれっ……。このおにぎり……)
手の中のおにぎりをまじまじと見つめる。見た目は蓬のおにぎりと同じで、三角形に握った後に塩を振る姿も蓬とほとんど同一であった。
それなのに青年が握ったおにぎりは蓬とはいくつか違っていた。その理由の一つははっきりしているが……。
「味はどうだ。誰かに食べさせるのは久しぶりということもあって気になっている。感想を聞かせてくれないか」
「……少し塩辛いです」
蓬が作るおにぎりとのはっきりとした違いの一つ。それは塩の分量であった。蓬のおにぎりも程々に塩辛いものの、米の味を邪魔しない程度のしょっぱさであった。一方、この青年が握ったおにぎりは米の味をかき消してしまいそうなくらい塩辛く、子供や塩分を気にする人は到底食べられそうになかった。
米に対して塩の分量が多いのか、食べた後も舌には塩のざらりとした食感と塩本来の味と思しき苦い味が残っていた。それが塩辛さと共に口の中で後を引いていたのだった。
それ以外にも、男性のおにぎりは蓬のおにぎりと大きな違いがあったが、それが具体的に何か言葉に出来なかった。分かりそうで分からないのが、ひどくもどかしい。学校の試験で答えられるのにど忘れして答えられない問題を目にした時と同じくらい焦れったい。
莉亜の率直な感想に青年は黒い目を丸くしたが、すぐに高笑いをしたのだった。
「そうかそうか。やはりおれの塩むすびは辛いか。うむ……。料理と言うのは奥深いものなのだな」
纏う雰囲気まで蓬に近似した青年は何度も頷いていたが、やがて真顔になるとじっと莉亜を見つめてくる。
「ここの店主はこの味を再現しようとしている。お前はこの味を覚えて、店主を助けてやってくれないか」
「私が蓬さんに……? でも、貴方が直接教えればいいだけでは……」
「おれは会えない。会えない、宿命なのだ……。神がおれたちに、与え給うた試練なのだ。一番近くに居て、悔やみ、嘆く姿を見ても、言葉を交わすことさえ許されぬ」
青年は痛みを堪えるような顔になって顎を少し引く。そして「時間だな」と、引き戸に視線を送りながら独り言ちたのだった。
「さっきの塩むすびを食べている時のお前の様子を見ていたが、どこか得心がいかないといった顔をしていた。気づいたのだろう。おれが作る塩むすびと店主の作る塩むすびの違いに」
「それは……」
「今はまだ言葉に出来ずとも良い。だがいずれ言葉にして、店主に指摘してほしい。これ以上、友が苦しむ姿を見たくないのだ。おれの代わりに……アイツを頼む」
青年が言い切ったのと同時に引き戸が開けられる。入って来たのは蓬であった。莉亜が居ると思っていなかったのか、驚いたような声を上げる。
「もう来たのか。今日は早いのだな」
「今日は授業が休講になったので……。蓬さんは出掛けていたんですか?」
「食材の仕入れであやかし街に出ていた。それより炊事場を使ったのか? 何やら片付けたはずの調理器具が出され、掃除したはずの料理台が汚れているのだが……」
「私じゃないですよ。蓬さんにそっくりな人が使っていて……」
そう言って炊事場を振り返った莉亜だったが、先程の青年は跡形もなくいなくなっていたのだった。
「あれっ。さっきまでここにいたのに……。どこに行ったんだろう?」
「夢でも見たんじゃないか」
「でも、確かに今までここに居たのに……」
すると店の奥からハルが歩いてきたかと思うと、カウンターの上にちょこんと座る。そして呑気に欠伸をして毛づくろいをする姿を見た莉亜はピンときたのだった。
「あっ! もしかしてハルが人になった姿を見たとか?」
「ハルは神使だが、元は人の世に生きる野良猫だ。あやかしじゃないから人に化ける力は持っていない。それより余った飯を使って握り飯を作る分には問題ないが、せめて清潔な状態は保ってくれ。こう見えて、ここは店だからな。衛生管理には十分に気を遣わなければならない」
蓬は背中から風呂敷包みを下ろすと、購入してきた食材を冷蔵庫――これも蓬が自分の神力で電気を発生させているらしい、に入れて行く。その間に莉亜が使った食器や調理器具を片付けていると、さっきまで静かだった炊事場の社から切り火たちが続々と出て来たのだった。
「切り火ちゃんたち、社に居たんだ」
莉亜の言葉に切り火たちは不思議そうに首を傾げつつも、ぞろぞろと莉亜の元に駆け寄ってくる。複数で協力して自分の身体より食器や調理器具を戸棚に戻すと、米粒や塩が零れた調理台を拭き出す。切り火たちが掃除をする調理台に近づいてきた蓬は調理台に落ちていた塩を指で掬うと、何かを考えているようだった。
「おむすびを作っていたのか?」
「作ったのは私じゃないですが……。塩おにぎりを食べました」
「そうか……」
蓬はそのまま店を開けるために身支度を整えに行ってしまったので、先程の青年の話も、蓬が何を考えていたのかも聞けないままであった。
そうして莉亜も手伝っておにぎり処を開店して少し経った頃、本日最初の客が現れたのだっだ。
「ごめんくださいませ」
「これは金魚の。久しいな。こっちに戻って来たのか」
「いいえ。まだ人の世に住んでいますわ。実家に帰省したので、戻る前に立ち寄っただけですの。これよろしければ、実家で作っている青唐辛子の味噌ですわ。少々辛いものですが、お召し上がりくださいませ」
「ああ。感謝する」
紺色に優雅に泳ぐ赤い金魚柄の小袖を着た妙齢の女性は親しそうに蓬と話す。赤と黒のチェック柄のエプロン姿の莉亜がそっと近づいていくと、女性は「あらっ?」と声を漏らしたのだった。
「どなたか雇われたのですか?」
「雇ったというよりは、ここを手伝ってもらっているというところだ。莉亜、彼女は金魚の幽霊というあやかしだ。久しく来ていないが、この店の常連だ」
「初めまして。莉亜です」
「莉亜さまですね。わたしは金魚の幽霊と申します。どうぞ、金魚とお呼びくださいませ。今は主人の仕事の都合で現世――人の世に住んでおります」
金魚が袖で口元を隠しながら優雅に笑うと、頭の上で黒髪を結い上げていた金色の金魚飾りがついたびらびら簪も一緒に揺れる。金色の金魚が宙を泳いでいるようだと莉亜は思ったのだった。
「私たちの――人の世界にあやかしが住んでいるんですか!?」
「ええ。人に紛れて生活しているあやかしは多いのですよ。あやかしの世界は古の時代より、妖力の強いあやかしによる支配が続いております。鬼や妖狐、天狗などの強いあやかしはいいのですが、わたしのような弱いあやかしたちの中にはそんなあやかしたちの支配から逃れて、人の世に住んでいる者もおりますわ」
「あやかしも苦労が多いんですね……」
「わたしの場合は、主人が人の世に移住したあやかしたちが人間に悪さをしないように、監視する仕事に就いているからというのもありますが……以前はこの辺りの治安維持を担当していましたので、家族でよくここに来ていましたの」
もしかすると、莉亜が気づいていないだけで、これまでも道端であやかしとすれ違っていたり、どこかで人に化けたあやかしと出会っていたりするのだろうか。人と同じように、あやかしにもあやかしなりの気苦労が多いのかもしれない。
すると、金魚から受け取った青唐辛子の味噌を何ともない顔で味見していた蓬が声を掛けてくる。
「相変わらず塩むすびしか出ないが、食っていくか?」
「せっかくですが、家族が帰りを待っておりますので、持ち帰りで握っていただけます?」
「承った。切り火たちを呼んでくれないか。お前も用意を手伝ってくれ」
「はい」
莉亜は戸棚からマンゴーのドライフルーツの袋を取り出すと、切り火たちに声を掛けながらドライフルーツを社の前に落としていく。莉亜の声とドライフルーツの音に気付いた切り火たちが社から出て来たのを見届けると、ドライフルーツを仕舞って竹皮の包みを用意する。
「どれくらい必要ですか?」
「とにかくたくさん用意してくれ。それが終わったら、今度は持ち帰り用の袋の用意だ。こっちも一番大きいものが数枚必要だ」
「すみません。うちは子供が多くて、大家族なのですわ」
おにぎりを握りながら、もっと竹皮を用意するように指示を出す蓬に金魚が苦笑する。莉亜は「いいえ」と返すと、倉庫に行って蓬が人の世で買ってきたという白いビニール袋を手に持って来る。蓬が包み終わった竹皮を袋に入れていると、また引き戸が開いたのだった。
「よもぎにいちゃ~ん、りあおねえちゃ~ん。おなかすいたの~」
「あれ、金魚のお姉さんがいるの~」
「雨降り小僧の子供たち。見ない間に随分と大きくなりましたのね」
いつもの雨降り小僧の兄弟は店内に入って来ると、莉亜たちには目もくれずに金魚の元に行く。常連客同士、顔見知りなのだろう。金魚が雨降り小僧たちに気を取られているのを見計らったかのように、おひつを混ぜていた蓬がこっそり莉亜を呼ぶ。
「莉亜、この飯を味見してくれないか? 金魚の主人用に用意したものだ」
「他と違うんですか?」
「塩の量を減らしている。金魚の主人は塩分摂取量を制限しているからな。他と違って、塩を減らしている」
どうして蓬が味見しないのか気になりつつも、莉亜は言われた通りに味見をする。いつもより塩が少なく、米本来の味を強く感じたのだった。
「いつもよりしょっぱくないので、これで良いと思います」
「助かる」
すぐに蓬は金魚の主人用のおにぎりを握り始める。その間に莉亜は雨降り小僧たちに出す煎茶の用意をしようとしたところで、金魚から貰った青唐辛子の味噌がカウンターに放置されていることに気付く。その時、この味噌を味見していた蓬の姿を思い出す。
(蓬さん、平気な顔をしていたけど、辛くないのかな……)
実家に住んでいた時に莉亜も母が作る青唐辛子の味噌を使った焼きおにぎりを食べたことがあるが、ほんの少し舐めただけでも口の中がヒリヒリと焼けるような痛みが走った。水も飲んでも辛味は消えず、しばらく強烈な刺激に悶え苦しむことになった。
けれどもさっきの蓬の反応を見る限り、とても辛さに藻掻いている様子はなかった。辛くない青唐辛子の味噌もあるのだろうか。金魚も「少し辛い」と言っていたので、莉亜が想像しているより辛くないのかもしれない。それとも蓬が辛味に強いだけだろうか……。
莉亜は蓬や金魚たちが見ていないことを確認すると、ほんの少しだけ小指で掬って舐める。すると、想像を遥かに上回る青唐辛子の強烈な辛味成分に口中を支配される。のた打ち回りそうな辛さに涙が溢れてきたのであった。
(か、からっ~!?)
慌てて水道を捻って水を口にするもののそれでも口の中は未だ痺れており、涙は止まりそうになかった。とりあえず、お茶の用意をしようと涙を拭いていると、竈の火を調整しながら切り火たちが心配そうに見つめていた。莉亜は片手を上げると、大丈夫と合図をしたのだった。
(ちょっと舐めただけでこんなに辛いって……。蓬さんは平気なの!?)
涼しい顔でおにぎりの用意をする蓬の横顔を盗み見る。さっき金魚の主人用のご飯の味見を頼んできたのは口の中が辛かったからだろうか……。そんなことを考えていると、切り火のひとりが莉亜の身体によじ登ろうとする。掌を差し出すと、慣れたように切り火が飛び乗ってきたのだった。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから……」
切り火が指したのは冷蔵庫だった。そこに連れて行けということなのだろうと、莉亜は冷蔵庫の扉を開ける。切り火は冷蔵庫内に飛び乗ると、牛乳が入った瓶の前まで走って行ったのだった。
「牛乳……を飲めばいいの?」
切り火が何度も頷いたので、莉亜は牛乳を取り出して蓋を開けるとコップに注いで呷る。まだ少し残るものの、口の中を刺すような刺激が鳴りを潜めたのだった。
再度切り火に礼を言おうとするが、いつの間にか竈に戻ってしまったようで姿を見つけられなかった。その代わりに金魚から代金を受け取る蓬の目を盗んで、調味料棚を悪戯するハルの姿を見つけたのだった。
「ハル、駄目よ! 悪戯したらっ!」
莉亜は調味料棚に近づくと、ハルを引き離そうと身体を持ち上げる。しかしその際にハルの尻尾が当たってしまったのか、調味料棚に置いていた塩や砂糖などが調理台や床に中身をまき散らしながらひっくり返ってしまったのだった。
「ああっ!」
ハルを床に下ろすと、すぐに調味料棚を元通りに直して、雑巾で調理台を拭き始める。すると、蓬が「どうした!?」と血相を変えて戻ってきたのだった。
「すみません。目を離した隙にハルが調味料棚を悪戯してひっくり返ってしまって……」
「ここは俺が片付ける。お前はハルを外に出してくれ」
莉亜は店内を隈なく探して座敷席の下で丸くなっていたハルを見つけると、店の外に連れて行く。戻った時には蓬は雨降り小僧たちに煎茶を出して、味噌汁を仕上げているところであった。
「ところで蓬さんは辛い物が平気なんですか?」
「何故だ」
「さっき金魚さんからいただいた青唐辛子の味噌を味見していましたよね。あれ、少し食べただけでもとても辛かったのですが……。牛乳を飲まなくても平気なんですか?」
その言葉に蓬は鍋を混ぜる手を止めると大きく目を見開く。何度か瞬きを繰り返すと、「そうだな……」と小声で話し始めたのだった。
「辛い物は……平気だな」
「そうですか。でも無理しないでくださいね。さっき青唐辛子の辛さに悶えていたら、切り火ちゃんに牛乳を飲むように勧められたんです」
「そうさせてもらおう」
莉亜と話しながらも、蓬は調味料棚から塩を取り出して味噌汁を整える。お玉でかき混ぜた後、小皿によそって味噌汁を味見していた。
どうやら今日の具材は絹豆腐と油揚げの味噌汁らしい。見ているだけで莉亜のお腹が鳴りそうになる。そこに追加の米が炊けたのか、蓬は鍋の火を消すと竈に向かったのだった。
その背には後ろめたいことがあるのか、隠したいことがあるのか、どことなくいつもと違う雰囲気が漂っているような気がしてしまう。
――意図的に話を逸らされたような、何とも言えない気持ちになったのだった。
気になるものの、また新しい客が入店して忙しくなってしまったので、結局この時はそれ以上の追及が出来なかった。
「ねぇねぇ、りあおねえちゃん」
それから少しして他の客の対応をしていると。おにぎりを食べていた雨降り小僧たちに声を掛けられる。
「どうしたの?」
「きょうのおみそしる、へんなあじがするの」
「味噌汁?」
雨降り小僧から味噌汁のお椀を見せてもらうが、特におかしなところは無かった。匂いにも違和感はなく、腐っている様子はない。具材の豆腐と油揚げにも異常は無さそうだった。
「なんだろう……。蓬さんに聞いてくるね」
「おい、なんだ! この味噌汁は!? とても食えたものじゃないぞっ!」
店内を満たような怒号に莉亜は顔を上げる。カウンター席では初めて来店したと思しき鼠の姿をした年配の男性が蓬に詰め寄っていた。
「変というのは?」
「あんこ餅のように甘ったるくてとても食べられたもんじゃない! 食ってみろ!」
「あ、ああ……」
緊張しているのか委縮したように蓬はぎこちない動きで味噌汁を小皿によそうと、言われた通りに味を確かめる。すぐに何か言うだろうと莉亜も様子を見ていたが、蓬は小皿から口を離しても、青白い顔を強張らせたまま無言で固まっていたのだった。
(蓬さん……?)
その間も男性は勝ち誇った顔と共に「どうだ? おかしいだろう!」と蓬に詰め寄り、味噌汁を飲んだ他の客も「本当だ」、「味がおかしいわ……」と小波のように騒ぎ出したのだった。
「蓬さん!」
この状況に居ても立っても居られず、カウンターに戻った莉亜は小声で声を掛ける。放心していて莉亜の声に気付かなかったのか、蓬は少し経ってから「あ、ああ……」と力ない返事をしたのだった。
「雨降り小僧ちゃんたちも言っていました。今日の味噌汁は味がおかしいって」
「そうか……」
いつもの蓬とは違って、言葉尻が弱く、今にも項垂れそうな様子に莉亜の焦りはますます募ってくる。
今日の蓬はどこか変だ。このままにしてはいけない。そう考えた時には声を掛けていた。
「私も味見してもいいですか?」
「頼む……」
弱弱しい蓬に変わって、味噌汁を小皿によそって口にする。口に入れてすぐその原因に気付き、危うく吹き出しそうになったのだった。
「な、なにこれっ!? あまっ! お汁粉みたい!」
砂糖を入れ過ぎたような菓子のように甘ったるい味噌汁に莉亜も口を押さえてしまう。そんな莉亜の様子に、鼠も満足そうに鼻を鳴らしたのだった。
「ほら見ろ。そこのお嬢ちゃんの言った通りだろう!! こんなに甘ったるい味噌汁なんて食べられるか! 美味い店だと噂に聞いて来たが無駄足だった!」
男性は吐き捨てるように言って乱暴に代金をカウンターに置くと、息も荒く、店を出て行ってしまう。その後、店内は水を打ったように静まり返っていたが、やがて他の客も徐々に帰り支度を始める。その中には常連客もいたので、莉亜は代わりのものを用意すると引き止めるが、今日は蓬の体調が良くないようだからと、丁重に断られてしまったのだった。
莉亜が会計をしている間も、蓬は顔面蒼白のまま直立不動でいた。いつの間にか店内に戻ってきたハルが慰めるように足元をうろつき、切り火たちが社から顔を出しているものの、蓬は気づいていないようだった。そんな蓬を心配しつつも、莉亜は客の相手や後片付けを続けたのだった。
ようやく蓬がショックから立ち直ったのは、本日最後の客となった雨降り小僧たちが帰った後であった。雨降り小僧たちが使ったテーブルを片付けていると、蓬が暖簾を外して店内に戻ってきたところだった。
「今日はもう閉めるんですか?」
「誰も来ないだろう。さすがに今日は」
暖簾を片付けると、蓬はカウンター席に座って大きく息を吐き出す。どんなに店が混んでも、忙しくても疲れた様子を今まで見せなかった蓬にしては珍しい姿だった。さすがに今日は心身共に堪えたのだろう。
「すみません。きっと私が原因ですよね」
「何故、お前が?」
「さっきハルが調味料棚を悪戯した時によく見ないで棚に戻したから……。その後、蓬さんが味噌汁を作った際に間違えてしまったんですよね」
思い出せば、ハルが調味料棚を悪戯した後、莉亜はよく元の場所を確かめもせずに適当に調味料を戻してしまった。特に塩と砂糖は同じ形状の調味料ケースに入れているので、逆に戻してしまったのかもしれない。その後、蓬が味噌汁を作る際に塩と間違えて砂糖を入れてしまったのなら合点がいく。
莉亜は肩を落として、再度謝罪の言葉を口にするが、蓬は顔を背けたまま静かに否定する。
「……いいや。お前やハルが原因じゃない。遅かれ早かれ、いずれはこうなっていたんだ」
「それはどういうことですか……?」
「お前も今日はもう帰った方が良い。俺も竈と調理台の片付けをしたら休む。……迷惑を掛けたな」
蓬は立ち上がると、竈の後始末に行ってしまう。足取りもふらつき、力ない様子にこのまま帰っていいのか迷ってしまう。他の客の言う通り、今日は調子が悪いだけかもしれない。それなら早く休ませるためにも、そっとしておいた方がいい。元気になったら、元の蓬に戻るだろう。でも――。
(本当にこのまま帰っていいの?)
今の蓬はとても放っておいていいような雰囲気ではない。脆く儚く、今にも崩れてしまいそうな砂の城のように思えてしまう。
それに塩を入れ間違えたという甘い味噌汁は蓬も味見していた。ハルが調味料棚を悪戯した時と鼠の男性に指摘された後の二回。
最初に飲んだ時に気付いたのなら、その時点で味を直しただろう。鼠姿の男性に言われた時もすぐに謝罪しただろう。莉亜でさえ一口飲んであの強烈な甘さに気付けたのだから。
あそこまで味がおかしければ、誰だって気付くだろう。例えば、病気などで味覚が異常|じゃない限りは――。
(まさか……)
そこまで考えて、莉亜はハッと顔を上げる。金魚から貰った青唐辛子の味噌を舐めていた時から蓬に感じていた違和感。それなら金魚の主人用のご飯の味見を頼まれたのも納得できる。あの時は青唐辛子の辛さで味覚が正常に働かないからだと思っていた。けれども、そうじゃなかったとしたら……?
莉亜は冷蔵庫を開けると、あるものを取り出す。そして自分のトートバッグを取りに行くと、コンビニエンスストアの白いビニール袋を取り出したのだった。
「蓬さん、もう竈の片付けは終ったんですか?」
「お前、まだ残っていたのか……」
「はい。今日は差し入れを持って来ていたんです。お店を閉めたら一緒に食べようと思って」
莉亜はカウンターにコンビニエンスストアで買った大ぶりのシュークリームを載せた白い皿と、黒々とした飲み物を淹れた黒い湯呑みを置く。シュークリームは店に来る前、牛鬼に渡すおにぎりと一緒に購入したものだった。今日は早くお店に来られそうだったので、開店前に蓬と食べようと思い、二個購入した。
それを皿に盛り付け、店にあった紅茶を勝手に淹れさせてもらったのだった。
「棚にあった紅茶も勝手にいただいてしまいました。やっぱりシュークリームのような洋菓子には紅茶だと思ったので」
「せっかく用意してもらったところ悪いが、今は何も食べたい気分じゃない」
「疲れた時は甘いものが一番です。紅茶だけでも飲んでください。砂糖を入れて甘くしたので」
莉亜が笑みを浮かべて進めると、根負けしたのか蓬は渋々カウンター席に着くと紅茶を手にする。一口飲んだ蓬はそっと息を吐いたようだった。
「お前の言う通りだな。これを飲んであれから何も口にしていなかったのを思い出した。甘いものは良いな。心が落ち着く」
「それ、本当に甘い紅茶ですか?」
「どういうことだ?」
「実は蓬さんが飲んだものは醤油をお湯で溶いたものなんです。塩と粉末出汁も入れてスープ風にしてみました。甘いシュークリームを食べた後は、しょっぱいものが欲しくなると思ったので」
その言葉に蓬の表情が固まる。喉の辺りを軽く押さえて、動揺を隠そうとしているようであった。そんな蓬の様子に気付いていない振りをしつつ、莉亜は話しを続ける。
「最初から醤油だと言ったら飲んでもらえなさそうだったので、嘘をついてしまいました。黒い湯呑みだと、見た目から中身が判断できないですよね」
「そうだな。確かに薄っすらと醤油の味がするな……」
「そんなわけないじゃないですか。いくらしょっぱいものが欲しくなるとしても、醤油を飲ませたりしません。中身は紅茶です。レモン果汁くらいは淹れましたが」
わざわざ黒い湯呑みを選んで紅茶を淹れたのも、見た目から蓬に判断させないためであった。
他の湯呑みで出してしまうと、紅茶の琥珀色から中身が気付かれてしまう。けれども内側も黒い湯呑みなら、見た目から判断されない。なるべく匂いがしない茶葉を選んだので、口にしない限り紅茶だと分からないだろう。
その代わり、一口飲んだのなら、どんなに莉亜が醤油だと言っても、紅茶と醤油の違いに気付かれる。味が全く違うのだから。それこそさっきの甘い味噌汁と同じくらいに。
それも全て――蓬の味覚が正常ならば、の話だが。
「ということで、シュークリームも食べてください。せっかく買ってきたので。こっちは何も手を加えていません」
「……いただこう」
先程の紅茶の件を気にしているのか、蓬は舐めるようにシュークリームを観察していた。そんな蓬に苦笑しながら、莉亜も自分のシュークリームを食べる。今日の疲れも吹き飛ぶような、カスタードクリームの濃厚な甘さに身体中が満たされる。
莉亜が先にシュークリームを食べたことで警戒心が解けたのか、ようやく蓬もシュークリームを食べ始める。その様子を見ながら唇についたカスタードクリームを舐めると、莉亜は話しを続ける。
「どうですか?」
「人の世に何度か足を運んだ際に食したが、同じ見た目でも作り手によって皮も中身も違うな」
「シュークリームを食べたことがあったんですね」
「長く生きていれば当然だ」
「それなのに……そのシュークリームを変とは思わないんですね」
「なんだと……?」
莉亜は蓬からシュークリームを受け取ると、包丁を取り出して二つに割る。そして割かれた断面から現れたシュークリームの中身に、蓬は絶句したようだ。片手で顔を押さえながら、唸るような低い声を発したのだった。
「これにも仕掛けがされていたのか……。迂闊だった」
蓬に出したシュークリームには、先程金魚から貰った青唐辛子を大量に練り込んでいた。
莉亜が少し舐めただけで涙が溢れてきたのだから、きっと蓬も青唐辛子の辛さに耐えられず、文句の一つも言うだろうと思っていた。
けれども、蓬は何も言わなかった。醤油と騙して飲ませた紅茶も、青唐辛子の味噌を入れたシュークリームも。これが答えなのだ。
蓬は味覚を失っている。料理人としては致命的にして、最上の武器を。