虫の音色が響く、真夏の夜。
 アパートの一室から飛び出した私は、言葉で言い表せない不安を抱えながら、光を求める虫のように一つの店に吸い寄せられていく。
 握り締めらされた千円札と引き換えに、長方形の箱と三個入りのマスクを手にした私はそれを装着して。その他の残存物をビニール袋に突っ込んだ。
 一つの箱を残して。

 ……別に平気だし。なんなら今からでも、全然余裕だし。
 そう思いながら店の前で軽い箱を開けようとするが、目の当たりにする現実はあまりにも重く、私の手を震えさせてくる。

「先輩?」
 背後より聞こえる馴染みがあり過ぎる声に、私はビクンとなり、咄嗟に手にしていた箱をビニール袋に突っ込んだ。
「やはり、先輩でしたか」
 ドラッグストアから出て来たのは、同じバイト先の後輩である後藤くん。一つ年下で、二十一歳の大学三年生。
 街頭に照らされた彼は、黒の短髪、黒の長袖長ズボン、メガネまで黒縁の、黒ずくめの真面目くん。
 こんな真夏に暑くないのかと思いつつ、自分も長袖長ズボンだったと気付き、やはり彼も……と勝手に邪推してしまう。

 後藤くんとは同じ学生バイトで、居酒屋で一緒に働いて三年になるが、仕事以外話さずポーカーフェイスで黙々と仕事をこなしている。
 まさに真面目くんであり、彼が笑った姿など一度も見たことがない。

 だけど、そんな彼が最近妙に話しかけてくる。
 彼氏とはどうか? とか。
 別れないのか? とか。
 その意味が分かっていたからこそ、私は困っていた。
 そしてこんな時に彼に会ってしまった私は、どんな表情を浮かべて良いのかが分からない。
 ただ一つ言えることは、マスクをしていたのだけが救いだった。

「こんな時間に不用心ですよ? 送りますから」
 スマホを持ち合わせていない私は今の時間を確認する手段がなく、店で会計した時間を思い出そうとするけど。あまりにもソワソワしてしまい、頭から抜け落ちてしまっていた。
 思わず目を逸らしてしまう私に、後藤くんは。
「……また、彼ですか?」
 表情を険しくして、鋭い瞳で睨み付けてくる。
 すると、タイミングを合わせたかのように翳る月。
 その瞳から逃れたかった私は、少し薄暗くなった空を見上げるが、彼は間髪入れずそう呟いた。
「……家に来ませんか?」
 真っ直ぐな瞳で。
 あ、やばい。これは。
 そう思った瞬間、後藤くんは私の袖を掴んで引っ張って行く。

 え? あ。
 いつもの控えめな彼とは違う強引さに、私はあたふたとしてしまう。
 行かないと言えば。この手を振り払えば。これ以上のことはしてこないだろう。
 だけど部屋に帰りたくなかった私は、さっき買った物全てをポケットの中にぐいっと突っ込んで、黙って付いて行った。