労働の前には、どんな好きな曲も無力だ。
 朝起きた瞬間から職場につくまで、ずっと流しているお気に入りの歌。最初は元気をもらえていたけれど、最近ではこの曲じゃ効果がなくなってきた。そろそろ変えないと。次はどんな音楽にしよう。いっそヒーリングミュージックでも聴いた方が心は整うのだろうか、と考えながら、苗実は無理矢理笑顔を作る。
 おはようございます! と挨拶して店内に入ると、「苗実ちゃん来た! 助かる!」とパートさんから声が上がる。
 はいはい忙しいのね。シフトは十一時半からだけどタイムカード押したらすぐに来いってことね、分かってますよ。
 心の声でぼやきながら、早足で休憩室に荷物を置き、タイムカードを押す。
 あと十五分、ゆっくりできたのになぁ。なんていうわがままは通用しない。なぜなら苗実は社会人で、正社員だからだ。

 苗実が勤めているのはレストラン併設のケーキ屋だ。駅の近くなので、ありがたいことにいつも繁盛している。
 特に平日はサラリーマンが多く訪れるため、ランチタイムは目が回るほど忙しい。
 手洗いと消毒を済ませ、すぐに仕事を始める。すると早速ベテランのパートさんに声をかけられ、嫌な予定を告げられた。
「苗実ちゃん。また例の、いちごのショートケーキ百個予約だって。予定表に入れておくからよろしくね」
「毎月ありがたいですね。了解です」
 ありがたい、と言いながらも心の中では誰かシフト変わってくれ、と思っている。毎月百個のケーキを予約してくれるお得意様がいて、ありがたいのは確かだ。ただ、百個のケーキを箱詰めするのはなかなか骨が折れる。苗実は毎回その役目を店長に押し付けられてしまうのだ。ベテランのパートさんと苗実が組む。それが一番速くて効率がいいと分かってはいるけれど、たまには違う人がやってくれてもいいでしょ、と思ってしまうのが本音だった。

 その日のランチタイム。シフト構成は以下の通り。仕事のできるパートさん、口だけは達者なパートさん、初心者マークの大学生のアルバイト、いい人だけどミスの多い先輩、そして苗実の五人である。
 実質動けるの二人だけだろうが、ふざけんな店長、と上司に心の中で怒るものの、そんなものは顔には出さない。
 なんとかランチを乗り切り、三時になると苗実の休憩時間になったが、休憩に入るのは二十分ほど遅れた。ランチ後のデザートタイムも、ケーキやパフェの注文にドリンクの追加で忙しいのだ。
 パートさんの一人が十六時上がりのため、苗実の休憩時間は伸ばせない。四十分で我慢するしかない。キッチンさんに作ってもらったパスタを食べ、社員割引でお会計も済ませる。
 閉店の二十二時までは、明日からの新商品のポップの準備、同時にセールが始まるので値札を印刷し直す。レストランとケーキの販売をこなしながら、少しずつ締め作業と仕込み作業、明日の準備を進める。
 閉店の時間を迎えれば、苗実はアルバイトと一緒に素早く締め作業を行っていく。明日の早番への連絡事項をノートに書き込み、アルバイトさんは先に帰した。
 すでに二十二時四十分。一人の時間になったので、店内でお気に入りの音楽を流しながら仕事の続きに取り掛かる。発注、仕込み、清掃、全て終わっているか入念にチェック。ショーケース内のシュークリームやエクレアの販売期限は問題なし。販売期限は消費期限よりも長く設定されているが、これを間違えると大変なことになるので、苗実は毎回必ずチェックしている。
 先入れ先出し。先に発注した消費期限の近いものを、先に販売する。基本中の基本だ。
 商品をしまうときは、期限の近いものが手前、もしくは上にくるように、と徹底されているはず。それなのに、焼き菓子の棚はぐちゃぐちゃだった。今日入荷したものを一番上に置いたに違いない。今日の早番は誰だったかな、と確認すると、ドジっ子の先輩だった。勘弁してくれ。
 苗実は大きくため息をつき、焼き菓子の箱を一種類ずつ棚から出し、日付順に並び替える。丁寧にそれをしまい、次の商品へ。それを繰り返した後に不安になったのは、焼き菓子の販売期限だ。生菓子に比べて焼き菓子は消費期限が長いこともあり、販売期限は商品ごとに細かく決められている。たとえば、消費期限プラス十日、というように。一つ一つそれを計算するのは確かに面倒だ。しかし、サボってしまえば販売期限の過ぎたものをお客様に提供しかねない。
 念のため、と心の中で呟きながら確認すると、一つ目の項目で引っかかったので、苗実は思わず期限一覧のファイルを床に投げつけてしまった。それから深呼吸をして怒りを抑えると、ファイルが割れていないことを確認する。
 本来ならば一番上の商品が最も販売期限が近いので、一番上だけチェックしていけばいい。それなのにルールを守らずに適当に棚にしまうから、一番上をチェックしたのかもしれないが、結果として間違っている。
 昨日のチェック時の日付と全然違うのに、頓珍漢な数字を書いていて、おかしいと思わないのだろうか。
 イライラする心を必死で宥めながら販売期限をチェックし、過ぎていたものは一つだけだと確認できた。売り上げリストと照らし合わせ、そこに同じ商品名がないことに安堵する。販売期限切れをお客様に販売してしまう、という最悪の事態だけは回避できたらしい。廃棄リストを印刷し直し、苗実はふと気づく。
 明日から新商品のケーキが並ぶ。販売の方はケーキの並びも変更したし、セール価格の値札を準備して、ポップも並べた。
 でもホールの方は、確か先輩がケーキメニューの印刷をしたのではなかっただろうか。嫌な予感がして苗実がレストラン側のケーキメニューを一つ確認してみると、案の定間違ったメニューが入っていた。
 いい加減にしてよ頼むから! テーブルの数と同じ枚数の正しいメニューを印刷し、メニューを入れ替えた。ガスの元栓に電気のチェックまで終えて、更衣室に着く頃には終電ギリギリの時間になっていた。
「なんで岡先輩って毎回こうなの!? 学習できないの!? 後輩に尻拭いされてる自覚あるわけ!?」
 くたくたに疲れていたけれど、明日は休みだ。電車に乗ってしまいさえすればこっちのもの。そう思っていたのに、苗実は改札口で終電の発車アナウンスを聞くことになった。
 全部岡先輩のせいだ。それはさすがに言い過ぎかもしれないけれど、正直ぶん殴ってやりたいくらいには腹が立っていた。

 お金がもったいないけれど、タクシーで帰ろうか。あまりタクシーを利用することがないので、いくらぐらいになるのか分からない。お財布の中身が思い出せず、苗実はすぐに諦めた。
 東京は二十四時間やっているレストランやカフェも多いし、インターネットカフェやカラオケという手もある。
 とりあえず空腹を満たすために、と入ったファミリーレストランで、苗実はこっそり財布の中身を確認した。二万円入っているので、どこで過ごすとしてもまず大丈夫だろう。
 がっつり食べるか、軽く済ませるか悩んでいると、苗実の横で男がふいに足を止めた。
「あれ? ケーキ屋さん?」
「はい?」
 答えながら無意識に笑顔を作るのは接客業の性だ。苗実はお客様の顔を覚えるのがあまり得意ではない。しばらく考えていたが、「ほら、毎月十日にいちごのショートケーキを百個予約する……」とヒントを出してもらって思い出した。
「ああ! いつもありがとうございます」
 確か領収書の宛名は、苗実も知ってる大手企業だ。どうしてあのお店でケーキを予約してくれるのかは知らないが、販売する身としてはありがたい話である。
 そういえば今日の出勤早々に、次の予約が入ったとパートさんに聞いた気がする。またあの地獄の箱詰めがあるのか、と内心げんなりしながらも、笑顔は崩さない。社会人歴は短いが、接客業のプロなのだから当然の話だ。
「あれ、家この辺り?」
「残業で終電を逃しちゃって」
「お疲れ様。タクシーで帰るの?」
「いえ、始発までどこかで適当に時間を潰そうかと」
 相手は一応お客様だ。蔑ろにするわけにもいかず、苗実は教えたくもない情報を仕方なく語っていた。
 男はなぜか嬉しそうに笑い、苗実の正面に腰を下ろす。
 嘘でしょ居座る気なの? ごはん食べたいんですけど。さっさと自分の席に戻ってよ、むしろ帰って!
 心の中で毒づくけれど、男は立ち上がろうとしない。それどころか、なぜか二人分のメニューを勝手に注文してしまった。
「え、ええっと……………?」
「ハンバーグ、嫌い?」
「好きです、けど」
「いいじゃん、今晩だけ付き合ってよ。奢るからさ」
 そうは言われても知らない人に奢ってもらうのは気が引ける。知らない人というか、店のお客様だし、申し訳なさは倍増だ。でも男はかなり強引に苗実の前を陣取り、奢ると言い張る。
 迷っているうちにハンバーグが二つテーブルに届けられた。オニオンソースの和風ハンバーグとデミグラスソースのチーズハンバーグ。選ばせてもらえたので、チーズハンバーグにした。
 男の名前は秋斗というらしい。アキくんとか、アキちゃんとか好きに呼んでいいよ、と言われた。懐かしい響きだな、と思いながら、苗実は笑顔で聞き返す。
「苗字はなんて言うんですか?」
「内緒。教えたら苗字で呼ぶんでしょ」
 にこにこと食えない笑顔で言い返され、思わず顔が強張った。慌てていつもの営業スマイルに戻し、秋斗さんはどうして私に構うんですか? と訊いてみた。あだ名で呼ばないのが苗実にできる唯一の抵抗だ。
「秋斗さんかー。他人行儀な呼び方もいいなぁ」
「からかってます?」
「まさか。ケーキ屋さんが疲れた顔してるから、元気になってもらいたくて?」
 一人でいる方が楽なのだが、秋斗は善意で言っているらしい。優しいですね、とありきたりな言葉をかけたのに、秋斗は嬉しそうに笑った。たぶん苗実と同い年か、少し上。二十代後半だろうか。どこか幼い、無邪気な笑い方だった。
「俺の知り合いで絶対泣かない子がいてさ。そういう人を見るとガス抜きしてあげたくなるんだよね」
 その言葉に、ふわりと昔の記憶がよみがえる。
『苗実は泣かないよね』
 あれは、誰に言われた言葉だっただろうか。少し考えて、目の前の秋斗をまっすぐに見つめ返す。
「元彼に、お前は泣かないからかわいくないって言われたことありますよ。うるせえ泣き虫って言ったらケンカになって」
「あはは! いい切り返し!」
 雑談をしながらハンバーグを食べて、手を合わせてごちそうさまでした、と言うと、秋斗は伝票を持って立ち上がる。
「あ、お会計、自分で払います」
「いいのいいの。まだ帰らないんでしょ? 二軒目付き合ってよ」
 秋斗の強引な言葉に、ぐっと唇を噛む。
 正直に言えば疲れたし、早く帰って休みたい。でもタクシーで無駄金は使いたくない。となると、選択肢は一つ。始発まで時間を潰すしかない。
 お酒飲めないです、と伝えると、「じゃあカラオケでも行く?」と訊かれる。ほとんど何も知らない男の人と、密室で二人きり。それは、一般的にどうなんだろう。
 別に彼氏がいるわけではない。生娘でもあるまいし、何かあったとしても問題はないけれど。
「カラオケ、秋斗さんは何を歌うんですか」
 苗実の質問に、秋斗がいくつか挙げたアーティストの名前。その中に、苗実が昔から応援している大好きなアーティストの名前があったせいだ。気づいたら苗実の方から誘っていた。
「駅の裏にあるとこでいいですか? ライブ映像入ってるところがいいので」
「…………もちろん」
 やわらかく。でもどこか色気のある表情で、秋斗が笑った。

 カラオケの個室は暗い。明かりを調節できるけれど、暗めの方がライブ映像が映えるので、いつも通り暗めにしてしまった。
 そして秋斗に促されるままに奥の席に座り、苗実は逃げ場がないことに気づいた。秋斗は特に気にした様子もなく、二人分のドリンクとポテトとチョコレートを頼んでいる。それから先に歌う? と訊いてきたので、苗実は首を横に振った。最初は緊張していたけれど、手を出される心配はなさそうだった。
 秋斗の歌声は優しく響いた。伸びやかなテノールの声は耳に心地がよくて、苗実は「これ歌って!」と好きなアーティストの曲をどんどんリクエストしていった。
「これじゃあ俺のリサイタルじゃん。ジャイアンかよ」
「ふふっ、大丈夫、秋斗さんはうまいから」
 秋斗が国民的アニメの人気キャラクター(音痴)に自分を例えるので、苗実は笑いながらフォローを入れた。
「いいねぇ、ケーキ屋さん。敬語外れてきたじゃん」
「ダメでした?」
「まさか。今の俺はただの秋斗さんだし、ケーキ屋さんはケーキ屋さんじゃないんだよ」
 間奏の合間になぞなぞみたいなことを言って、秋斗が笑う。ケーキ屋さんって呼び方どうにかならないの、と苗実が言うと、「訊いたら本名教えてくれるの?」と聞き返されてしまう。別に本名を教えたところで困ることなんて何一つないだろう。実際店で働いているときは苗字の書かれたネームプレートをつけているし、名前だって教えるのにためらうようなものでもない。
「よし、けーちゃんって呼ぶわ」
「ケーキ屋だから?」
「そう、かわいいっしょ?」
「かわいくはないかなぁ」
 苗実が苦笑しながら名前を告げるか迷っていると、秋斗が割り込みで一曲予約をいれた。女性アーティストの曲だった。苗実が高校生の頃にすごく流行った、ドラマの主題歌。当時苗実も流行りに乗って視聴していたけれど、ドラマの泣きどころはいまいち分からなかった。
 余命を宣告された少女が彼氏と二人で最後の旅に出る。不器用な彼氏と、泣かないヒロイン。彼女が泣かない理由は、大好きな彼に悲しまないでほしいから。身体の弱っていた彼女は、旅先で倒れてしまう。彼に手を握られたまま、彼女は静かに命を落とした。そのまなじりに、一粒の涙を残して。
 苗実の感想は「余命宣告されてる入院患者を連れ出すとかほぼ殺人じゃない?」だ。ドラマはあまり好きになれなかったけれど、主題歌は好きだった。
 夜のバス停で彼氏と一緒にバスを待ちながら、イヤホンを片耳ずつつけて、二人で一緒に小声で歌ったのを思い出す。そうだ、アキくんだ。泣かない苗実をかわいくないと言った元彼。フルネームは、もう思い出せないけれど。
「はーい。けーちゃんの番です! 歌って歌って!」
「私あんまり歌うまくないよ?」
「いいの! どーぞ!」
 マイクを手渡されイントロが流れると、懐かしい記憶が溢れ出す。
 名前も思い出せない。顔ももう朧げで、誕生日なんて季節すら覚えていないくらいだ。
 それでもアキくんと過ごした日々は、不思議と鮮明に思い出すことができた。縁石の上を転ばないように歩いていたら、ガキってバカにされたこと。大きな手が苗実の手首を掴み、車道側から遠ざけられたこと。手首を掴まれたままは嫌で、緊張しながらも苗実から手を繋いだこと。驚いた彼が、手をほどいて、それから今度は指を絡める恋人繋ぎをしてくれたこと。
 そういえばあのときもこの曲をご機嫌で歌っていたかもしれない。久しく聴いていなかった曲なのに、不思議と歌詞はすらすら出てきた。画面を見なくても、考えごとをしながらでも歌えるくらいに自然と。
 歌詞を改めて見返すと、あのドラマに通じるものがあった。君が自分のために泣かないなら僕が代わりに泣くから、君は僕のために泣いてくれ。そんな歌詞だ。彼氏を悲しませたくなくて泣かないヒロインはいじらしいのかもしれないが、彼氏からしたら弱音だって吐いてもらいたいのだろう。
 そんなことを考えて、ふと思い当たった。元彼のアキくんが言っていた、「苗実は泣かないよね。かわいくない」という言葉。あれはもしかしたら、頼ってほしいという意味だったのかもしれない。あまりに不器用すぎてまるで意味が伝わっていないので、翻訳機が欲しいレベルだ。あくまでこれは想像なので、アキくんは苗実のことを「涙一つ見せないかわいくない女」と思っていたかもしれないが。
 歌い終えると、秋斗はぼんやりディスプレイを眺めていた。何か物思いに耽っているような気がして、少しだけ声をかけるのにためらう。でも秋斗はハッとした表情で苗実の方を見やり、うまかったね、と笑った。
「懐かしい曲。この曲すごい流行ったでしょ? 当時好きだった女の子と、イヤホン半分こして聴いたりしてた」
「私もやってたー。あれカップル感あっていいよね」
「また彼氏とやればいいじゃん」
 彼氏なんていないよ、と言うのは悔しくて、苗実は口をとがらせた。
 たくさん秋斗の歌を聴き、苗実も少しだけ歌った。そうしているうちにまぶたが重くなってきて、ガムシロップを混ぜたウーロン茶を飲んでみるも、目は覚めない。ウーロン茶にガムシロップを混ぜるの? と学生時代はよく揶揄われたものだ。そういえば秋斗には何も突っ込まれないな、と苗実はぼんやりした頭で考える。秋斗は苗実の意見も聞かず、勝手に苗実のウーロン茶と自分用のビールを注文した。
 ウーロン茶とビール。それならどうしてガムシロップがここにあるんだろう。眠い頭で考えても分からない。苗実の働く店ではウーロン茶にガムシロップはつけないが、他の店では一緒に提供するのだろうか。そんなことを考えているうちに、眠気がピークに達した。頭が落ちそうになるのを、あたたかい手に止められる。そして苗実の頭が少し高めの肩に寄りかかるようにセットすると、上から優しい声が降ってくる。おやすみ。その声は、どこかで聞いたような甘やかな響きをしていた。

 苗実は目覚めてすぐに状況を把握できなかった。秋斗とカラオケに来たまま、寝落ちてしまったのだと思い出すまで数秒かかった。
 苗実は秋斗に寄りかかって眠っていたようだ。隣の秋斗も静かに寝息を立てている。苗実はふと自分の手が秋斗に絡め取られていることに気づいた。これじゃあ恋人繋ぎだよ、と苦笑しながら解こうとして、静かに息を飲む。
「………………してるんじゃん、結婚…………」
 左手薬指に光るシルバーリング。それは日本では配偶者がいる証だ。
 別に好きになったわけでもないのに、胸のあたりがもやもやして気持ち悪い。乱雑に手を振り解くと、秋斗が目を覚ました。
「……あれ、朝?」
「はい。始発ももうすぐみたいです」
 ありがとうございました、と他人行儀な口調と接客で鍛えた営業スマイルを向ける。秋斗は目をまたたかせるが、苗実は荷物をまとめて立ち上がった。
「行きましょ」
 カラオケを出ると朝日が眩しかった。目が痛い。コンタクトを入れっぱなしだから、ドライアイが悲鳴をあげている。駅まで迷わず歩いていく苗実に、秋斗が「楽しかった、また誘っていい?」と訊ねた。
「また、ケーキ買いに来てくださいね」
 既婚者のくせに誘うな、と遠回しにお断りの言葉を口にするが、秋斗は困ったような顔で眉を下げてしまう。
「ごめん、俺何かした? もしかして寝ぼけて手を出そうとしたりとか……」
「まさか。何にもないですよ」
「でもけーちゃん、急に態度変わってるし……」
 思い当たる節がない、と言わんばかりの秋斗に、苗実はとびきりの笑顔を向けてやった。
「指輪。外してから誘ってもらえます? 奥さんに誤解されたら困るので」
 棘のある言い方になったが、これは苗実の本心だった。
 確かに秋斗と過ごした夜は楽しかったけれど、誰かを傷つけてまで秋斗に会いたいとは思わない。それに、この気持ちが恋にならないなんて、誰が保証できるだろう。妻帯者を好きになるなんてダメだ。誰も幸せにならない。だったら、恋になる前の、一緒にいてなんとなく楽しかった、くらいの気持ちでおさめておく方がいいに決まっている。
 秋斗に呼び止められたが、苗実は無視して改札を通り抜けた。始発電車に乗って、最寄駅まで帰る。家に帰って一寝入りすれば、全て一夜限りの夢だった、と分かるに違いない。

 その人は珍しく十日ではない日にやってきた。苗実はレストランの方で仕事をしていたのだが、お客様が名指しで呼んでいるというので、仕方なく販売の方へ足を向ける。
 ケーキのショーケースの前に、スーツ姿の彼が立っていた。いつもは部下らしき人と来るのに、秋斗は珍しく一人だった。
 いらっしゃいませ、と呼びかけると、少し戸惑ったような表情で秋斗は笑った。
「突然ごめん。でも、他に会う方法が思いつかなくて」
「何か、ご用ですか?」
 秋斗の真意が分からない。どうして妻がいるくせに、他の女にちょっかいをかけるのだろう。疲れきった寂しそうな女を放っておけない性格? だとしたら余計なお世話だ。苗実は一人でもやっていける。
「けーちゃんと話がしたくて」
「申し訳ありません。仕事中なので」
 もうすぐ休憩だけど、と心の中だけで呟く。苗実はにこやかに断ったのだが、じゃあシュークリームをくださいと言われてしまえば応えないわけにはいかない。
 お会計をする際に、いつも通り領収書を発行する。
「今日は俺の名前でお願いしていい?」
 いつもは会社名で領収書をもらっていくのに、個人名なんて珍しい。苗実は白いメモ用紙とボールペンを差し出し、そこに名前を書いてもらう。
 梁瀬秋斗。メモ用紙に書かれた名前を領収書に書き写そうとして、苗実の手が止まった。難しい漢字の苗字が、妙にすんなり書けたことが気になる。漢字はそんなに得意ではないのに。それに、その名前に見覚えがある気がしたのだ。メモに書かれた名前が、ふいに苗実の記憶と交わった。
「…………アキくん?」
 ささいなやり取りは思い出せるのに、フルネームが思い出せなかった昔の彼氏。アキくんと呼んでいた彼の名前は、梁瀬秋斗だ。一度思い出すと、どうして今まで忘れていたのか不思議になるくらい、一気に記憶が溢れ出した。
 付き合う前は梁瀬くんと呼んでいたはずだ。付き合ってからはずっとアキくんと呼んでいて、その印象が強かったせいか、苗実は名前を忘れてしまっていたのだ。
「やーっと思い出してくれた」
 受け取った領収書をひらひらと指先で振りながら、秋斗が眉を下げて笑う。
「俺は初めて買いに来たときに気づいたのに、苗実は全然気づかないんだもん。俺、十回は通ってるよ?」
 元彼で知り合いとはいえ、今は苗実にとってお客様だ。失礼しました、と苦笑をこぼしながら謝罪すると、秋斗はシュークリームを苗実から受け取る。
「仕事の邪魔しちゃ悪いから、今日は帰るよ。でも、後で連絡ちょうだい」
 そう言って、秋斗は先ほどのメモを再び手に取り、名前の下に電話番号らしき十一桁の数字を書いた。
 無理矢理渡されそうになったメモを受け取るわけにはいかなくて、苗実は笑顔を崩さないまま断る。先日帰り際に告げた言葉は、苗実の本心だ。
『指輪。外してから誘ってもらえます?』
 不倫なんてぜったいにごめんだ。秋斗が昔好きだったアキくんだとしても、その気持ちに変わりはない。一緒に過ごしたあの夜が楽しくて、少しだけ気持ちがときめいたけれど、それだけだ。これはまだ恋じゃない。まだ、引き返せる。
 連絡先を受け取ろうとしない苗実に、秋斗が自身の左手を苗実の目の前に差し出してみせた。
 その意味は、すぐに理解できた。薬指のシルバーリングを今日はつけていないのだ。
 確かに指輪外して出直してこいとは言ったけど、バカなの? 奥さんを裏切ってわざわざ指輪を外してまで、元カノに接触したい理由って何? 不倫? ふざけんな。
 ふつふつと湧く怒りに、苗実は黙って唇を噛む。秋斗は毎月たくさんケーキを購入してくれる上客に違いないが、どうしても怒りが我慢できなかった。「指輪、苗実に意識してもらいたくて、自分で買ったやつなんだ」という言葉が秋斗の口から紡がれて、苗実は脱力した。
 いやいや、さすがにそんなに都合のいい話、あるわけがない。絶対に結婚指輪だ。間違いない。
 …………でももしかしたら、本当かもしれない。だとしたら、まずは秋斗の指輪が結婚を証明するものなのか。それとも秋斗の言葉通り、ただの見栄の産物なのかを確認する必要がある。突き放すのはそれからでも遅くない。そんな風に言い訳して、連絡先を受け取ってしまう苗実もきっと大バカ野郎だ。
「…………連絡するとは言ってないから」
「来なかったら、連絡が来るようになるまで店に通い詰めるよ」
 苗実は連絡先のメモをエプロンのポケットにしまい、秋斗に背を向けた。ホールへ戻ると休憩に入ってと声をかけられる、休憩室で一人きりになると、苗実はメモを財布の中にしまい、心の中で呟いた。
 すぐには連絡してやるもんか。スマホを眺めてやきもきしていればいい。指輪なんかつけて、苗実の心を弄んだことを後悔すればいいのだ。

 そんなことを考えている時点で、この恋は苗実の大敗である。
 あの夜、久しぶりに歌った懐かしいメロディを口ずさみながら、苗実は飾り気のない左手薬指をそっと撫でるのだった。