私は恋人と身体を重ねるのが苦手だ。
恥ずかしいし、痛いし、うまくできない。
よく言葉では伝えきれない想いを表現する行為だって漫画なんかで見るけれど、そんなのはフィクションだと思っている。
男の人が気持ちよくなったら、それでおしまい。
私はその間、恥ずかしさと痛みに耐え、気持ちのいいフリをしなくてはならない。
演技をしている自分も恥ずかしくて、ひたすらに目を閉じて早く終わってほしいと願う。
そんな経験しかしたことがないから、そういうことはずっと苦手なまま。
だけど、男の人にとっては重要なことだともわかっているから、恋人に誘われれば断れない。
断ったら気まずい雰囲気になるし、浮気をされるのも嫌だ。
だから、私なりに努力していたつもりだ。
身体を重ねるのが苦手なだけで、彼のことはちゃんと好きだったから……。
***
「それはきっと、相手が悪かったんだな」
名前も知らない男性が、呆れたような声を出した。
私は何杯目かのカクテルを飲み終え、彼に視線を向ける。
「女の子にそんなふうに思わせるなんて、その男が悪いよ」
「でも彼だけじゃなくて、今までの彼氏ともうまくできなくて……」
だから康二が悪いんじゃなくて、きっと私が変なのだ。
童顔だけど、女の子なんて年じゃない。24歳にもなって、うまくできない私が……。
もしかしたら、女性としてなにか欠陥があるのかもしれない。
そう思うと、余計に惨めになって涙が滲んだ。
『咲とヤッても楽しくないんだよ。お前、ただベッドに転がってるだけだし』
先ほど投げつけられたばかりの言葉が刺さったまま。
真新しい傷口からは見えない血がドクドクと流れている。
本来は、そんな酷いことを言う人ではなかった。
康二は気分屋ではあったけれど優しくて、強引なところもあるけれど行動力があって、優柔不断な私をぐいぐい引っ張ってくれる頼もしさがあった。
私のせいで不満を募らせ、あんな言い方になったのかもしれない。
隣に座る男性にそう反論すると、彼は飲んでいたウイスキーのグラスを置いて私をじっと見据えた。
「百歩譲っても、悪いのは君の男運だ。君自身じゃない」
「男運……?」
「普段どれだけ優しかろうと、頼もしかろうと、自分が浮気をしておいて君に酷い言葉をぶつける男は碌な奴じゃないよ」
浮気。
そう、康二は浮気をした。
ほんの数時間前、久しぶりに定時で仕事が終わった私は、康二を驚かせようと思って連絡をしないで彼の家に行った。
火曜日の今日は、美容師の康二はお休みのはず。
家にいる確率は半々だったけど、もしいなかったら連絡して会えるか聞いてみればいい。
そんな軽い気持ちで彼の住むマンションへ行くと、中からドタバタと慌てた物音が聞こえた。
玄関のドアが開くのに数分。足元には華奢なヒールのパンプス。
信じたくなかったけれど、康二が私以外の女性を自宅に連れ込んでいるのはあきらかだった。
そして、この数分の間に彼は選んだ。
1年付き合っていた私ではなく、部屋にいた浮気相手の女性を。
裏切りを目の当たりにし、康二のマンションから逃げ出した私は、ひたすらに走った。
辺りはもう薄暗く、空には頼りなさげな三日月が浮かんでいる。
「さいてい……っ、どうして……!」
ひたすらに走ったせいで息が切れ、喉も、脇腹も、足も痛い。
でもいちばんは、心が引き裂かれそうに痛い。
『咲は本当に俺のこと好きだったの? それとも不感症?』
そう問いかけた康二の後ろで、素肌をシーツで隠した浮気相手の女性がクスッと笑ったのが見えた。
その勝ち誇った笑顔が頭から離れてくれなくて、悲しくて、悔しくて、苦しくて、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「俺が教えてやろうか?」
たった数時間前の最低な出来事を思い出していたせいで、隣の彼の言葉をうまく拾えなかった。
「え?」
聞き間違いかもしれない。
だって、そんなのドラマでしか見ない展開だ。
「聞こえなかった? 俺が教えてやろうかって言ったんだ」
もう一度同じセリフを口にされ、私は目を見張った。
なにを、とは聞かなくてもわかる。
〝身体を重ねることが苦手〟なせいで浮気をされて別れたのだと、ついさっき私が話したばかりなのだから。
隣に座る男性は今日が初対面というわけではないけれど、名前も、なにをしている人なのかも知らない。
ただ行きつけのバーが同じで、カウンターの定位置が隣同士なだけ。たまに一緒になると少しだけおしゃべりをすることもある、知人と呼べるほどでもない関係性。
今日もいつものバーへ逃げ込むと、定位置に彼がいた。
自分とはほぼ無関係だからこそ、見栄を張ることなく泣き顔を晒し、愚痴を零すことができた。
私が彼を見かける時は仕事帰りなのかいつもスーツで、きっと少し年上だと思う。
クールな印象で、話していても無表情な場合が多い。
真っ黒で艶やかな髪はきっちりセットしていて、美容師らしく明るい髪色を遊ばせている康二とは真逆の雰囲気だ。
真面目なサラリーマン。そういう印象だった。
それに……。
ちらりと彼の左手の薬指を見た。
――――あれ?
そこに先月まで嵌っていた銀色の印がない。
その指輪を見ていたからこそ、こんな提案をされてとても驚いていたのだ。
彼は泣きすぎて真っ赤になった私の目尻に空っぽの左手を伸ばし、人差し指でそっと触れる。
「間違いなく、今までの男が〝下手〟だったんだよ」
自信満々に断言する様に困惑しながら隣を見ると、彼は頬杖をつき、私を試すようにじっと見つめている。
「どうする?」
その瞳にはギラギラとした熱情が籠もっていて、頭からかぶりと食べられてしまいそうな錯覚に陥った。
――――知りたい。
純粋に、そう思った。
だって私にはもう、操を立てるべき相手はいない。
教えてくれるというのなら、教えてほしい。
悪かったのは私ではなく、私の男運だったのだと。
身体を重ねる心地よさがあるのだと。
私は彼に向けて、ほんの少しだけ顎を引いて頷いた。
きっとそれだけで伝わったのだろう。
彼はカウンターの奥に立つマスターに私の分のチェックも一緒に頼むと、「行こうか」と悠然と微笑んだ。
***
「今夜は三日月か。まるで君みたいだな」
「どういう意味ですか?」
ホテルの窓の外には、くっきりと浮かび上がる三日月が見えた。
言葉の意味がわからずに私を組み敷く相手を見上げると、彼は口の端を上げて笑う。
「三日月は女性らしさや優しさの象徴だ。月は満ち欠けすることから、成長の象徴とも言われる」
「そう、なんですか」
いまいち納得しきれない私の耳元に、大人の男性の色香をふんだんに纏った低く甘い声音が注がれた。
「君はこれから俺に抱かれて、女性として成長するんだろ?」
「……っ」
息が触れるほど耳の近くで囁かれ、反射的に身体が竦んだ。
「今夜、なんて呼ばれたい?」
「え?」
「名前でもいいし、教えたくないのなら偽名でもいい。それとも、姫と呼んで傅こうか?」
冗談交じりに私の手の甲にキスをする。
そんなキザな仕草がおかしくて、緊張で硬くなっていた身体から少しだけ力が抜けた。
「咲、でお願いします」
「咲か。可憐で君にぴったりの名前だ。本名?」
「ご、ご想像にお任せします。あなたは? どう呼んだらいいですか?」
「お好きに。元彼の名前でも呼んでみる?」
意地悪な質問にじろりと睨むと、彼は可笑しそうに笑った。
「冗談。陸斗でいい」
「りくと、さん」
「うん」
見ず知らず、ではないけれど、付き合ってもいない人とそういうことをしたのは初めてだった。
だって恋人とするのすら苦手なのだ。
たいして自信のない身体を晒すのは恥ずかしいし抵抗がある。
シャワーを浴びたって色々気になるし、他の子と比べてなにか変だったらどうしようという不安も付き纏う。
けれど、そんなネガティブな感情はあっという間に吹き飛ばされてしまった。
まるでガラス細工に触れるように大切に扱われ、丁寧に身体を開かれる。
痛みなんて欠片もなくて、恥ずかしいと感じる余裕もなくて、自分の身体が自分のものじゃなくなっていくような気がした。
それと同時に、心もゆっくりと解きほぐされていく感覚に涙が止まらなかった。
「今夜、咲の彼氏は俺だよ」
三日月が見守ってくれるこの夜だけ、私は陸斗さんの彼女。
本名も、年齢も、職業も、なにも知らない、私の恋人。
一夜の夢が覚めないよう、私がいかに女性として魅力的なのかを言葉と身体を使って伝え続けてくれた。
髪がサラサラだとか、爪の形が可愛いだとか、肌の感触がもちもちしていて気持ちいいだとか、些細な褒めポイントを逃さず、すべて口にする。
それは、ベッドに入る前からそうだった。
バーで飲んでいる時の姿勢がいいとか、話す時にしっかりと目を見て話すとか、きちんと手を合わせていただきますを言うとか、私自身も気づいていなかった長所を、彼はスラスラと教えてくれる。
恥ずかしいけれど嬉しくて、自己肯定感がぐんぐんと上がり、彼への信頼度も増していく。
こんなにも繊細に触れられたことがあっただろうか。
こんなにも大切に想われていると感じられたことがあっただろうか。
答えは、ノーだ。
康二だけじゃない。
これまでの恋人との経験でも、1度もないのだ。
『好きだよ』
『愛してる』
そんな言葉を並べていた彼らよりも、今日まで名前も知らなかった陸斗さんの方が、私を大切に思ってくれている気がするほどに。
『間違いなく、今までの男が〝下手〟だったんだよ』
陸斗さんのあの言葉の意味は、こういうことだったのだと実感した。
テクニックじゃなく、互いに大切に思い合わなくては、きっとこの行為は成り立たない。
単なる一方通行じゃダメなのだ。
そう気づき、私はそっと彼の背中に腕を回した。
すると、陸斗さんは満足げに微笑む。
さらに強く抱きしめられ、より安心感と充足感が高まっていく。
苦手だと思っていた時間が、もっとずっと続けばいいのにと願ってしまいそう。
即物的な快楽じゃなくて、心も身体も満たされ、癒やされているような感覚だった。
「大丈夫?」
「……はい」
事前にシャワーを浴びたからすっぴんな上、涙でぐちゃぐちゃな顔を見られるのはさすがに恥ずかしい。
シーツで顔を隠しつつ頷いた。
すると、隣に寝転んでいた陸斗さんが上半身を起こして覗き込んでくる。
「それは、後悔の涙?」
バーで何杯飲んだかは覚えていないけれど、多少お酒の勢いはあったと思う。
いくら浮気されて失恋したからって、シラフならよく知りもしない男性についていくなんて絶対にしなかった。
色んな意味でスッキリして頭が冴えている今、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。
それでも陸斗さんにはきちんと伝えておきたくて、私はシーツから目元だけ出して正直に告げる。
「いいえ。自分の男運の悪さと、見る目のなさに気づいたショックの涙です」
すると、陸斗さんは口の端を上げて「そっか」と小さく微笑んだ。
「少し寝ていこう」
「でも」
「まだ月が出てる。夜のうちは、咲は俺の恋人だろ?」
そう言って私の頭を撫でる大きな手を見て、ふと思った。
陸斗さんについてきたことに後悔はしていない。
私を大切に扱ってくれない人に、いつまでも気持ちを残しておく必要などない。
彼との一夜は、それを教えてくれた。
でももしかしたら、私は誰かを泣かせる側に立ってしまったのではという懸念が今さらながらに湧いてくる。
そんなつもりはなかった、とは言えない。
私は、彼が以前左手の薬指に指輪をしているのを見たことがあるのだから。
ちくりと胸が痛んだけれど、今夜だけだと目を逸らす。
明日、ううん、あと数時間もすれば他人に戻る。
もう少しだけ、大切にされる気分を味わっていたい。
今夜の代償は大きな罪悪感と、行きつけのバーを失うこと。
どちらも辛いけれど、私にとってこの夜は必要だったから。
私は誘われるままに彼の胸の中で目を閉じた。
――――陸斗さんの奥さんは、どんな女性だろう。
そう考えようとしてやめた。
だって私は、今夜限りの恋人なのだから。
たった一晩優しくされただけで、絆されてはダメだ。
そんなの、彼は望んでいない。
「おやすみ、咲」
「おやすみなさい、陸斗さん」
***
お財布にギリギリ入っていた一万円札と【ありがとうございました】と記したメモだけを残して、こっそりと部屋を出てきた。
明け方の空には、白い月がうっすらと残っている。
私はぐっと伸びをしながら空を見上げた。
「成長、できるかな……」
彼は、私を三日月みたいだと言った。
昨夜バーに入る前に見た時はなんだか頼りなさそうに思えたのに、今目に映る三日月はどこか頼もしく感じる。
欠けても、必ず満ちる。
ギラギラと熱を放って輝きはしないけれど、そっと光を放ち、静かに見守ってくれる。
そう思えば、私も頑張ろうと勇気づけられる気がした。
彼のおかげで、失恋した翌日にもかかわらず、この明け方の空を美しいと感じられる。
本当は直接言いたかったけれど、やめておくことにした。
なんとなく陸斗さんは起きている気がしたけれど、あえて声は掛けなかった。
もう1度陸斗さんに甘えてしまったら、なんだか離れがたくなる気がしたから。
もう私はあのバーに行く気はないから、きっと二度と会うことはない。
そもそも、彼にはきっと大切にしなくてはならないお相手がいるはずだ。
――――やっぱり、私って男運が悪いんだなぁ。
苦笑しながら駅までの道のりを歩く。
優しい光を放つ三日月に見守られ、次こそはいい恋がしたいと願いながら。
Fin.