「──おめでとうございます」

いつもの朝にいつもの職場。違うのは出勤してきた香田(こうだ)課長の照れた顔とお祝いの言葉が聞こえてきたことだ。

「課長、結婚式には呼んでくださいよ」
宮本(みやもと)さん、昨日すごく幸せそうでしたね〜」 

私こと水野繭香(みずのまゆか)が所属している営業二課のメンバー達が、揶揄うように香田課長にそう言葉をかけるのを聞いて、私の心の中はあっという間に灰色の感情でいっぱいになる。

(まさか……香田課長と宮本さんが)

昨晩、月に一度の社内の飲み会があったのだが私はある理由から欠席していた。 

「おはよーございます、朝からなんの騒ぎっすか?」

とぼけた声と共に一足遅れて事務所に入ってきたのは私の同期である松永航平(まつながこうへい)だ。 

「ああ、松永えっと……」

香田課長の困った横顔を見ながら私は代わりに返事をする。 

「課長、総務の宮本さんとご結婚が決まったらしいよ」

私の言葉に航平は面食らった顔をしてから香田課長に視線を戻した。

「え、まじすか。課長おめでとうございます」
「はは。ありがとう」

香田課長の笑顔と結婚を肯定する返事に私のマウスを握っている手はショックから震えてくる。

「詳しく決まったらお知らせしますので、皆さんそろそろ勘弁してください」

茶目っ気たっぷりに軽く頭を下げた香田課長に、航平含め課のメンバーが笑いながらそれぞれの席へと戻っていく。
香田課長はようやく私の隣のデスクに腰かけると大きな手のひらで口元を覆いながら「まいったな」と私に向かって眉を下げた。

「水野も知ってたのか?」

知っているわけがない、寝耳に水とやらはこんな状況のことを言うのだろう。

「皆さんのお祝いムードで気づきました、おめでとうございます」 
「ありがとう、まさかこんなに早く皆にバレるとはな。ちょうど先週プロポーズしたんだ」 
「そう、なんですね」 
「まさか梨花(りか)……あ、宮本さんとのことを飲み会で話すことになるとは思わなかったけどね」

宮本さんのことを梨花と呼ぶ香田課長に私の目の奥は熱くなってくる。

(大丈夫、大丈夫) 

私は心の中で何度も呪文のようにその言葉を繰り返しながら、口角をなんとか引き上げた。

うちの会社は文房具全般を企画、販売しており創業して十五年目になる。創業してまだ浅いこともあり従業員も三十人ほどしかいない。また従業員の九割が二十代から三十代前半ということもあり、いい意味で砕けた関係で新規企画については肩書関係なく良いものが採用されることも多く、社内環境はとても良い。

「そういや水野は昨日来てなかったな」
「あ、ちょっと予定があって」

私は上手に笑って嘘がつけているだろうか。予定なんてない。行けなかったのだ。二人の交際がわかって二年、そろそろ結婚じゃないかと誰かが話すのを聞くたびに心が鉛のように重くなった。段々と社内の飲み会も二回に一度しか行けなくなった。
同じ空間で笑顔を見せている二人の姿を見るのがどうしようもなく辛いから。 

「デートも大事だな」
「そんなんじゃないです。セクハラですよ」
「あー悪い。詮索しすぎた」
「しょうがないんで許してあげます。それにしてもいつもクールな香田課長の困った顔、私も見たかったな」
「おい」 

香田課長が私にむかって綺麗な二重の目を細めて見せる。 

「ぜひ結婚式呼んでくださいね」

思ってもないことを言葉に出すのは苦しい。香田課長のタキシード姿と宮本さんのウェディングドレス姿のツーショットなんて、できることなら一生見たくない。 

「勿論だよ、ずっと俺のサポートをしてくれてる水野を呼ばないわけないだろう」

入社して五年目、香田課長は当時新入社員だった私の教育係であり、同じ営業二課でずっと営業と営業アシスタントとしてタッグを組んでいる。はじめは仕事のできる二つ年上の香田課長に純粋に憧れていた。気配りができて優しくて、残業になりそうになればさり気なくサポートをしてくれ仕事でミスしても叱ることなく励ましてくれた。

上司と部下。先輩と後輩。その距離も心のカタチも変えてはいけなかったのに気づけば私の中で香田課長は特別な存在になっていた。

「楽しみにしてます、宮本さんのドレスすっごい綺麗だろうなぁ」

私がそう言えば香田課長が僅かに頬を染める。 

「いやもう、恥ずかしいから梨花、あ……ほんとごめん。その話題はその辺で」
「宮本さんってとっても可愛らしい方ですけどお名前も可愛いですよね」  
「水野ー」
「すみません、もう言いませんよ」

香田課長が照れ隠しをするように柔らかい黒髪をくしゃっと握るとパソコンに視線を移した。そして直ぐに真剣な眼差しでメールをチェックしていくのが見える。

私はこの特等席からこっそり見る香田課長の横顔が大好きだ。パソコンを正確に叩いていく長い綺麗な指に大きな手のひら、すっと通った鼻筋、艶やかな黒髪にセンス良く合わされているシャツとネクタイ。ずっとこうやって五年間、隣で見ていた香田課長の左手の薬指にはもうすぐ宮本さんとおそろいの指輪が光る。
私はいよいよこみ上げてきそうになった涙をぐっと押し込めると、マグカップを持って立ち上がった。

「はぁあ……」

私は給湯室に入ると、誰も居ないことを確認してからようやくため息を吐きだした。そして、すぐに目じりに浮かんだ涙にハンカチを押し当てた。

「結婚か……」

今まではいつか二人が別れるかもしれない、もし別れたらちゃんと気持ちを伝えよう。そう思っていたが、もう香田課長に気持ちを伝えることは一生ない。

「もっと早くに言ってれば……なにか変わったのかな」

宮本さんが入社してきたのは私が入社した翌年だった。小柄で清楚な見た目と笑うと見える八重歯が可愛らしいと男性陣たちが騒いでいたのを思い出す。そんな宮本さんと香田課長が交際を始めたのは、ちょうど二年前の納涼会のすぐあとだった。あとから聞いた話では告白したのは宮本さんの方らしい。

『まさか告白されるとは思ってなくて。一生懸命に想いを伝えてくれる彼女に僕も応えてあげたいって思ってさ』

昨年の忘年会で酔った勢いで、そうのろけていた香田課長の言葉が忘れられない。

「私の方が宮本さんより……ずっと前から好きだったのにな」

ポタンとマグカップの横に落ちた涙を私は慌ててハンカチで拭う。
その時だった──給湯室の扉が開いて私の身体が小さく跳ねた。

「大丈夫?」

背後から聞こえてきたその声が宮本さんや香田課長じゃないことに安堵してから、私は口角を上げ、その人物を振り返った。

「ああ航平か。えっと、なにが?」
「なにがって決まってんじゃん」

航平は私の横にマグカップを置くと、ポットに水を入れスイッチをオンにした。すぐにポットからお湯を沸かす音が聞こえてくる。

「さっきの……その、なんだ」
「香田課長のご結婚のことでしょ」

結婚というワードを言いにくそうにしている航平に、私がなんてことない顔をしてそう答えると、航平が切れ長の目を訝し気に細めた。

「なんでそう強がるかね」 
「別に強がってなんか……」
「誤魔化そうとしても無意味だと思うけど」
「まぁね」

私の唯一の同期である航平は営業マンらしく社交的で明るくポジティブで、ややメンヘラ気質でどちらかといえば内気な私とは正反対だ。正反対なのになぜか馬が合う私たちは気づけば時折、食事にいく仲になっていた。
そして私は航平に仕事の悩みや愚痴を聞いてもらううちに、いつしか恋愛相談もするようになった。私が長らく香田課長に片想いをしていることを知っているのは航平だけだ。

「夜、話きいてやるよ。ちょうど本返す日だったし」
「そんな気分じゃないし。本も今度でいいよ」
「そういうなって。繭香の貸してくれた『恋の花火はコーヒーのあとで』すっげ良かったわ」
「前から思ってたけど、航平って何でも読むんだね」
「繭香のお勧めの本がハズレないんだよ。もうラスト、主人公が泣きながら“失恋花火”するシーンはウルっときたわ」

私は自他ともに認める本の虫だ。休日は外に行くより一人暮らしのアパートでゆったり読書を楽しむのが唯一の趣味なのだが、それを知った航平が私のお勧めの本を貸して欲しいといい出し、貸し出すようになってもう二年になる。

「私も久しぶりに読み返そうかな、ってやめとこ。傷抉りそうだし」

航平に貸している『恋の花火はコーヒーのあとで』は上司と部下であるヒロインの切ない恋を描いた恋愛小説だ。ヒロインは好きだった上司に恋心を伝えることができないまま、上司はヒロインの後輩と結婚してしまうのだ。そして物語のラストは“失恋花火”と称してヒロインが上司への想いを吐露しながら花火をし、どこにもいけない恋心を消化しようとする切ないラストとなっている。

「もう二度と読めないかも」
「…………」
「今の私と被ってるし……」
「やるか”失恋花火“」
「え?」

見れば急に真面目な顔をしている航平に向かって、私は思わず眉を顰めた。

「ちょうどこの間、倉庫整理してたら期限切れの手持ち花火でてきてさ。部長に言ったら捨てるか、企画にでも役立てろって言われてとりあえず営業車に積んでんだよな」
「あ、航平の今度の企画、花火ペンだっけ? 一本でどんどん色が変わるペンの企画だったよね。あれいいと思うよ」
「サンキュ。てことで”失恋花火“付き合ってやるよ」
「えぇっ! やだよ」
「いいじゃん。俺も花火の色味とか企画のヒントにしたいし、繭香の課長への恨み節もたんまり聞いてやるからさ」
「声大きいよ、ばか」
「ごめんごめん。じゃあ本返したいし、仕事終わったら一緒に帰ろーぜ。いつものコンビニ前で待ってて」
「ちょっと、航平っ」
「あ、そうそう深呼吸って気持ち切り替えのスイッチになるらしいぞ」

航平はそう言うと、私の返事も聞かずに給湯室から出て行った。そして気づけば私のマグカップからは航平が入れてくれていたコーヒーが湯気を立てている。

「いつの間に……ったくー」

そう口にしながらも仕事を終え家に帰れば、きっと泣いて一日が終わりそうだった私には航平の気遣いが素直にありがたかった。
航平にはなんだか気恥ずかしくて、いつも素直にありがとうって言えないけれど。

「今は仕事中だし、切り替えなきゃね」

私はマグカップを手に持つと、航平から言われた通り深呼吸をひとつしてからようやく事務所へと足を向けた。


(今日はいつもより疲れたな)

うんと伸びをしながら事務所の窓を見上げれば満月が見える。私の手元の時計はちょうど十九時を指していた。

「水野、あがれるか?」
「はい。この資料FAXしたら帰ります。課長ももう帰られますか?」
「ああ、ちょうどシャットダウンした。そうそう、今日も水野の作ってくれた見積書とプレゼンシートのお陰で一件契約決まったよ」
「私のお陰って課長のお人柄と営業トークの賜物かと」
「いやいや、水野の見積書は正確で粗利益率もそれしかない数字で作ってある。プレゼンシートは顧客が目で見て選ぶ楽しみもありつつ、うちの商品にしかない特色や良さを上手にアピールしてあっていつも本当に営業しやすいよ。ありがとう」

香田課長はこうやって契約が決まる度、私にねぎらいの言葉をかけてくれる。いつものことなのに今日はなんだか香田課長に優しい声色に泣き出してしまいそうだ。

(だめ、泣いちゃ、泣いたら困らせちゃう……)

私はこみ上げてきそうになる涙も想いも必死で喉の奥に押し込める。

「水野? どうかしたか?」
「褒められると照れちゃって……私あんまり自分に自信ないんで」  
「謙虚で心根が真っすぐなところが水野のいいとこだな、っとこれはセクハラにはいらないよな?」
「えっと、ギリセーフです」
「良かった。あんま無理するなよ」

そう言うと香田課長はにこりと微笑み鞄を手に持った。

「じゃあ、また来週」
「はい、お疲れ様です」

私は誰も居なくなった事務所でようやく引き上げていた口角を下げた。

「今日はしんどかったな……」

ぽつりと心の中を吐き出せば、それだけで目の前のパソコン画面が滲む。これからもこの会社で働く限り香田課長とは嫌でも顔を合わせる。これからも部下として後輩として香田課長と今までのように接することができるだろうか。  

(そのうち課長の前で泣いたらどうしよう)

私は深いため息を吐き出すと鞄を持ち、事務所の電気を消した。

(航平と約束してて良かったな)

きっとこのまま帰宅すれば、泣いて朝を迎えるのが目に見えているから。私が更衣室に向かっているとポケットの中のスマホが震え、見れば航平は間も無くコンビニに到着するとメッセージが入っている。

(急がなきゃ)

私はさっと着替えて従業員出入り口から外へ出ると、航平と待ち合わせているコンビニに向かって早歩きで向かっていく。そしてコンビニの明かりが見えた瞬間、私は思わず呼吸を止めた。

買い物袋をぶら下げてコンビニから仲良く出てきたのは香田課長と宮本さんだった。香田課長の見たことのない笑顔に心臓がひんやりする。そして宮本さんが辺りを確認してから香田課長の腕に手を伸ばし、街灯に照らされた二つの影がひとつになって寄り沿いながら歩いていく。

(──っ)

私の両目からは勝手に涙が転がっていた。胸が痛い。苦しい。やりきれない。どうにかなりそうなほどに呼吸が苦しくなる。

「課長あんな顔するんだ……」

私は涙がアスファルトに滲みを作っていくのを見ながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。

(宮本さんが嫌な子だったらよかったのに)

陰口を叩かれるようなろくでもない性格で見た目も可愛くなかったら良かったのに。仕事だって何年経っても全然出来なかったらいいのに。そしたら課長も愛想を尽かして二人は別れて、いつか自分にもチャンスが回ってきたかもしれないのに。

なんでなんで私じゃないの?
なんでなんで私じゃダメなんだろう。

「最低……」

この期に及んでそんなことが心に浮かんでくる私はなんて醜いんだろうか。こんな私だから課長は好きにならなかった。そう、本当はずっと前から気づいてる。

「課長が言ってくれたみたいに……真っすぐなんかじゃない」 

嫉妬に歪んで心がひん曲がっている。こんな自分大っ嫌いだ。

「だから好きになってもらえなかった……」

私は手の甲で雑に目尻を拭った。

「──ごめん、遅くなって」

その声に恐らくマスカラが取れてるであろう顔をあげると航平が立っている。航平はコンビニの袋とバケツを抱えていてビジネスバックからは手持ち花火が見えた。

「……とりあえず公園まで迂回するか?」

航平が困った顔でこのまま駅の方へ向かえば五分でつく公園に迂回して行こうと提案するのは、航平も駅に向かって並んで歩く香田課長と宮本さんの姿を見たんだろう。そして堪えきれず泣いている私に最大限気を遣ってくれている、ということがすぐにわかった。

「大丈夫。もう見えないから」
「ん、わかった」

私は歩き出した航平の半歩後ろを黙ってついていく。

そして辿り着いた公園には私たち以外に人影はない。

「こっち座って」

航平に言われるがままにスチールベンチに座った私の膝の上には、すぐにオムライス弁当がそっと置かれる。

「繭香の好きなオムライス」

わざわざコンビニで温めてもらったんだろう。お弁当はまだほんのり温かい。隣の航平は焼肉弁当だ。

「なんで知ってるの?」
「繭香が言ったんじゃん、コンビニ弁当はオムライス一択だって。なんでそれ一択なのか俺には全然理解できなくてさー、なんか記憶に残ってた」

私に返事をしながら航平は割り箸を割ると、大きな口で焼き肉弁当を食べ始める。

「冷めるよ。食べたら?」
「うん……」

正直、結婚報告だけでもお腹一杯なのにさっきのツーショットを見れば食欲なんて皆無だ。でも私の好きなものを覚えてくれていて、こうして一緒に居てくれる航平の優しさに気の置けない同期がいて良かったと心から思う。

「あ……おいしい」
「それは良かった。まぁ、いつもの本のお礼だな」

見れば航平はすでに食べ終わってゴミ箱に空のお弁当箱をポンと放りこんだ。

「早すぎ」
「繭香は遅すぎ」
「うるさいなぁ」

航平に憎まれ口を叩きながらも、思っていたよりも『食べる』という行為ができないほどに失恋の傷は深くなかったのか、はたまた日にちをおいてじわじわと『食べられない』日がやってくるのかはわからないが、目の前のオムライス弁当は気づけば綺麗になくなっていた。
そして航平がバケツに水を汲んでくると、空っぽになった私のお弁当を見て、さっとゴミ箱に入れる。

「はじめるか。”失恋花火“」
「あ、そうだった……」
「あのなぁ。ほら花火持って」

航平が呆れたようにそう言うとしゃがみ込む。私も航平の隣にしゃがむと、色とりどりの花火の中からスパーク花火を手に持った。

「俺もそれにしよ。点けるな」
「えっと、点けたらどうしたらいいの?」
「それ俺に聞く? 課長に言いたかったこと言えば。代わりに俺がきいてやる」
「なんかやだな」
「じゃあ課長に告白(こく)る?」
「できるわけないじゃない」

もし私が想いを伝えたら、香田課長はきちんと気持ちを受け止めた上で誠実に対応してくれるのだろう。ちゃんと告白して失恋すれば今より気持ちは晴れやかになるのかも知れない。でも課長からの返答がわかっていながら告白をして、また一緒に働けるほど私の神経は図太くない。

「泣いていいからな」

航平は真顔で私にそう言うと黙って私の花火に火を点けた。すぐに手に持っているスパーク花火から煌びやかな火花が舞う。その星を散らしたような輝きを見つめながら私は静かに口を開いた。

「五年間……課長が好きだった……」
「うん……」
「課長は頼りになるし優しいし、褒め上手だし……仕事失敗しても叱るんじゃなくて指摘して励ましてくれて……仕事の楽しさややりがい教えてくれたのも課長だった」

小さな火花が躍って消えてを繰り返す(さま)を見ながら、私は課長との五年間を振り返る。

「集中すると顎に手をかける癖も、照れたときに前髪を握る仕草も、笑うとくしゃっとなる笑顔も……大好きだった」

航平は私のスパーク花火が終わると、すぐにまた別の花火に火を点けて私にそっと手渡す。私は花火を受け取りながら鼻を啜った。

「なんかごめん……本で読むと泣けるのに私がやると笑けてくるね」
「そんなことない」

こうやって小説のヒロインの真似をして失恋の痛みを消化しようとしている自分が滑稽に思えてきて、そう口にしたが航平は真剣な顔をして花火だけを見つめていた。

そして私が口を閉ざしている間も航平は次々と花火に火を点けていき、静寂を彩るようにいくつもの花火が煌めいて儚く咲いては消えていった。

「繭香」

航平が私に残り僅かになった花火を差し出す。言われなくてもわかっている。本当はまだ全然足りない、心の中に燻っている。五年間の想いがどこへも行けずに涙と一緒に蹲っている。

「ずっと髪伸ばしてるのもカラーしないのも課長が黒くて長い髪が日本の女性らしくて好きだって言ってたから……見積書だってプレゼンシートだって課長のためだから頑張ったの」
「…………」 
「ずっと好きだった。ずっとずっと課長だけを見てたの」

目の前がさっきからずっと滲んでる。想いを吐き出す度に胸はズキズキ痛んで爛れていく。

「いつか好きになって欲しかった……私だけに向ける笑顔が欲しかった。私に気づいて欲しかった……っ」

この想いを花火のように燃やして、心の中から今すぐ消してしまえたらどんなにラクだろう。

「一度でいいから見て欲しかった……っ」
「これ使って」

航平からハンカチを受け取ると私は子供みたいに泣きじゃくった。

どのくらい泣いていただろうか。航平は私の背中を摩りながら、ただ寂しげな表情で花火を見つめていた。

「落ちついた?」

私は航平のハンカチを握りしめたまま頷く。

「無理に忘れなくていいと思う。あとちゃんと吐き出して偉かったなと思う」 
「なによそれ……ばかにしてるの?」
「してない。俺から見たらいっぱいいいとこあるのになって。勿体無いって思う」
「意味わかんない、なんで急にそんなこと言うの?」
「なんでだろうね。ほら最後、これは一緒にやろ」

そう言って航平が私の手に握らせたのは線香花火だった。

「どっちが長くもつか競争な」
「え?」

急に子供みたいな遊びを提案する航平に思わず私は目を丸くした。

「なに急に? 勝ったら何かあるの?」
「もし繭香が勝ったら俺の“失恋花火”の話もするわ」
「嘘っ、航平失恋したの?!」
「うっせ、点けんぞ」

すぐに二つの線香花火には、じりっとオレンジ色の小さな光が灯り、ぱちぱちと眩い光を放ちながら競うように火花が暗闇に爆ぜていく。線香花火は昔からあんまり好きじゃない。儚くて美しいけれど胸がぎゅっとなって痛くなる。まるで今の報われない自分の恋心みたいに。

「もう恋なんて一生できる気しない」

泣き腫らした目で私が小さな輝きを見つめながらポツリと呟けば、航平が深いため息を吐きだした。

「なら俺も一生片想いだわ」

私は航平の言葉を二度頭に浮かべてから、花火越しに航平に視線を向けた。

「今のどういう意味?」
「くわしく聞きたい?」
「べ、別に」

気になったのは事実だが航平から答えを知りたいかと問われれば素直に知りたいと言えない、拗らせてる自分がまたひとつ嫌になる。
もう線香花火も終わりが近い。踊るように跳ねていた火花はもう今にも消えてしまいそうだ。

「なぁ、コーヒー飲みに来ない?」
「えぇっ?!」
「わっ! ちょ……っ」

素っ頓狂な声を上げた私とその声に驚いた航平の手元は大きく揺れて、二つの線香花火は同時に地面に落っこちた。

「あーあ、繭香のせい」
「ちょっとなんで私のせいなのよっ、航平が……へ、変な事言うからじゃん」
「俺、コーヒー入れるの好きだし上手いじゃん? 失恋癒すのはコーヒーってよく聞くでしょ」
「聞いたことないんだけど」
「で? 今夜暇だろ?」

航平は燃え尽きた線香花火を私から取り上げると、バケツの中に入れ立ち上がる。私もつられて立ちあがれば、背の高い航平が涼しい顔で私を見下ろした。
なんだか胸の奥がほんの少しだけ騒がしくなる。

「日付変わるまでなら」
「ぷっ、シンデレラかよ」
「うるさいなぁ」

口を尖らせた私を見ながら航平がククッと笑う。

「コーヒー飲んだら『ちゃんと』送ってやるよ」
「当たり前でしょ」

そう可愛くない返事をしながらも、航平の誠実な言葉に心臓が無意識に跳ねた。私が安心して航平の家にコーヒーを飲みに行けるように。そして一線を超えることなく、零時になれば約束通り私をアパートに送っていくという意味が『ちゃんと』こめられているから。

「やば。あと二時間ちょいじゃん」

航平が公園の背の高い時計を指差すと、並んで歩くスピードを僅かに早めた。

夜空にはぽっかりと満月が浮かんで仄かな優しい光を放っている。恋が終わりを告げた夜はやっぱり切なくて悲しくて胸が痛い。乾いた涙はまた直ぐに零れ落ちそうになる。でも泣き明かす筈だったこの夜は、何故だか思っていたより苦しくもないし寂しくもない。

「何のコーヒー入れてくれるの?」
「繭香の好きなカフェラテ。生クリームつき」
「ん? なんで知ってるの?」
「さあな」

航平がケラケラ笑いながら、私に屈託のない笑顔を見せる。
コーヒーを飲み終わってこの夜が明けたとき、私の中の一部は何か変わるのだろうか。

「航平……いつもありがとう」

ようやく言えたお礼の言葉に航平が切長の目を大きくするとプイっと顔を背けた。

「別に暇だし」
「ふぅん」

何もかも不確かなまま、答え合わせをしないまま夜が更けていく。

でもただ一つだけわかっているのは航平の隣は案外、居心地がいいなんて思ってる私がいることだ。

今夜はまだ──恋かどうかは別として。