仕事で疲れたとき、私は毎回このバーに立ち寄る。
ビル街の中に、静かにぽつんと建っているバー。
あまり人気のない所にあるため、店内はいつも常連客しかおらず人も多くないため居心地がいい。
好きな席で、好きなようにお酒を飲める。
ここが、私に至福の時間をくれる場所。
いつものようにバーに入る。
もう見慣れた顔になってしまったバーテンダーさん。
いつものように軽く会釈をして、正面から左に2つ横の席へ座る。
ここはいつも私が座る特等席。
バーテンダーの華麗な手付きを見ながら、棚に並んだお酒を眺めながらゆっくりと1人の時間を過ごす。
正に最高に至福な時間。
今日も一日疲れたな…。
やっと終わったと思ったら方針の変更でやり直しになる企画書。
休憩できると思った瞬間にかかってくる電話。
おまけには終業間際に急を急ぐ内容の仕事が回ってくるという本当に最悪な一日。
そんな時はいつもこれに限る。
「すみません、カルーアミルクもらえますか。」
疲れた時に、いつも頼む甘く香り高いカクテル。
お酒にしては甘すぎるぐらいの甘みが、体の奥の奥までじわじわと染み込んでいく感覚がたまらなく好きだ。
お酒のふわふわとした浮遊感にだけ体を任せ、心地よい感覚になるのがたまらない。
コトッと静かに置かれた見慣れたカクテル。
これを見ると、やっと一息付けるという安心感に包まれる。
私には恋人がいない。
寂しくないと言えば嘘になるが、別に恋人を欲しているというわけではない。
ただ、今日みたいに大変なことがあったり、悲しいことがあったときに話を聞いてくれる相手がいないことは少し悲しいようなむなしい気持ちになる。
恋人はおろか、友人も少ない私は話を聞いてもらい慰めてもらったり、愚痴を聞いてもらう友人もいない。
だから、そんな気持ちを埋める相手としてお酒で慰めてもらっている。
ここだけを聞いたらなんとも悲しい女なんだろう。
もうすぐ30代になるような女の慰める相手が酒だなんて。
そんなことを考えながらグラスに閉じ込められている美しく氷と共に輝くお酒を眺めながらちびちびと飲んでいると、カランコロンッと店のドアが開く音がした。
この時間に誰かが入ってくるなんて珍しい。
いつもここへ来るときは大体私が最後で、ドアの音を聞くのは客が帰る時だけだ。
聞きなれない音でドアの方を見れば、そこには初めて見る青年が立っていた。
とても幼い見た目で、やっとお酒を飲めるようになった20代前半の青年、という印象だった。
少し伏目がちで入ってきたその青年は、とても綺麗な瞳をしていた。
そして、なにか引き寄せられるような瞳だと思った。
そんな彼はなぜか、私の席から1つ席を開けて右側の席へ腰かけた。
特に広い店内というわけではなかったが、青年が私の近くに座ったことについ驚いてしまった。
だがその席はバーテンダーの目の前の席だったため、ただ動きを間近で見たかったからなのかもしれない。
その青年は迷わずあるカクテルを頼んでいた。
私はなぜか、彼がどんなお酒を頼んだのかが気になってしまい、お酒が青年の元へ届くと同時につい声をかけてしまった。
「ねぇ、今頼んでたカクテルって、どんな味なの?」
「…アクダクト。僕の好きなカクテルの一つです。」
彼は少しだけ間を置いて、少し笑みを浮かべて答えた。
数ミリ目にかかったサラサラの前髪が、言葉を紡ぐ仕草と同時に揺れてその妖艶さについ目を奪われてしまった。
「そうなんだ。好きなうちの1つってことは、お酒が好きなんだね。」
私は彼の瞳に見とれてしまったのを隠すようにそう会話を続けた。
「はい。カクテルが、好きなんです。お姉さんは?」
「私もお酒、好きだよ。自分だけの時間、自分だけの世界に浸れるからね。」
「お姉さん、なにか悩んでたりするの?」
「え?」
思わぬ図星を突かれて変な声で聞き返してしまった。
「だって、お姉さん、自分だけの時間、世界って言ったから。普段の自分だけじゃない日常に不満でもあるのかなって。」
そういって、青年はクスッと笑いながら私の目をじっと見つめた。
なにか、見透かされているような気がした。
「図星、なんだね。
僕で良かったら、お姉さんの話いくらでも聞くよ?」
青年は、綺麗な瞳で私を見つめたまま真剣な表情で私を揺るがす。
「で、でも、私の話なんてつまらないし…。それに、君は私の話を聞いたって分からないことが多いよ。」
こんな若い子に心を許して愚痴を吐くなんて、大の大人がやることじゃない。何か聞いてあげるのはむしろ私の方だ。
「ふふっ、遠慮しなくていいのに。僕、こう見えて意外と大人だよ?年齢も、きっとお姉さんが思ってるより少しだけ上だと思うけど。」
「じゃあ、君はいくつなの?」
「秘密。」
青年は、口元に人差し指を添えてそう言った。
その仕草はあまりに絵になるもので、お酒の雰囲気も交わりつい見蕩れきってしまった。
「お姉さん、顔赤いよ?
お酒飲みすぎたんじゃない?」
そういう彼は心配の言葉とは裏腹に少し笑っている。
そう、お酒で顔が赤いわけじゃないのをとっくに見抜いているが、わざと私を試すように言葉を選んだのだ。
「…君、中々大人みたいだね。」
「だから言ったでしょ?僕はお姉さんが思ってるより、ずっと大人だよ。」
そういった彼は、どこかミステリアスで危険な香りがした。
そんな彼とこの会話をきっかけで他愛のない話をしながらお酒を嗜んだ。
愚痴まではいかないが、仕事のちょっとした話、私生活の話…。
お互い、詳しいことは話さずに少し雲をのかかった会話を楽しんだ。
「…こんな、誰かとゆっくり話をしながらお酒を飲むなんて久しぶりだなぁ…。」
いい感じに体が火照ってきた頃、つい思っていた本音が口から出る。
「そうなの?お姉さん、彼氏さんとかいないんだ。」
「居たらこんなとこで1人でお酒飲んでないでしょ。
見たらわかるくせに、彼氏持ちじゃない事ぐらい。」
痛いところを突かれてしまい、つい拗ねたような声が出てしまった。
「それは申し訳ないことを聞いちゃったな。
じゃあ…そのお礼に、また次もお姉さんの話聞かせてよ。仕事の愚痴でも、普段の何気ない話でも何でも。」
「え?」
思ってもみなかった提案に思わず聞き返す。
「来週の金曜日。またここで会わない?」
それは、またお酒を一緒に飲もう、という提案だった。
青年は、悪戯っぽい笑みを浮かべて私を誘っている。
この誘いに、乗ってもいいのだろうか。
彼には、なにか引き寄せられるものがある。
理由は分からない。ただ、本能として惹かれてしまう。
危険だから辞めておいた方がいい、という私も居たが、私はその自分の声に気付かないふりをして返事をした。
「わかった。じゃあ、また来週の金曜日。ここで会おっか。」
あぁ、言ってしまった。
何となく、危険と分かっていたのにも関わらず。
でも、刺激のない人生に刺激が欲しいと願ってしまった私の心も、また危険なのかもしれない。
彼とバーで別れを告げ、さっきまでのやりとりを思い出して、その余韻に浸りながら家路を辿る。
いつもと同じバーに寄って、いつもと同じお酒を飲んでいたのは変わらない。
ただ、隣に彼が居ただけ。
ただそれだけの事なのに、今日は心がとても軽い。少女の頃のように、胸が少し踊っている。
我ながら単純だなと思った。
話し相手が居て、私の話を聞いて貰って会話をする事がこんなに楽しい時間だったことを思い出させられ、次の金曜日が待ち遠しくなる。
「今までの私だったら、次が待ち遠しい曜日なんか無かったのに。」
金曜日はもちろん仕事を始めてから好きだ。
職場に居なくて済むから。変に気を使わずに済むから。疲れないから。
けれど、今回はそう言った週末の楽しみではなく、「金曜日」が楽しみだった。
名前も、年齢も結局聞けなかったあの彼に、惹かれてしまった。
彼によって、私の金曜日は特別なものへと変わった。
早く、早く時間が早く進んで、すぐに金曜日になればいいのに。