『遠距離はやめておこう』


二十分。
とりとめのないやり取りを、短い吹き出しで終えてから経過した時間。

脈絡のないメッセージ。それなのに、恋人という関係、数ヶ月後には道を違えてしまう時分、最近顔を合わせたときのどこか考え込むような表情、思い当たる限りを並べるまでもない。遠距離はしない、できないとはっきり言葉にしない辺りに、まだ迷いが見て取れた。

大切なことは大抵、メッセージや通話ではなく直接会ったときに伝えてくれる人。そんな人があえてメッセージを寄越した理由を深く考えずにはいられなかった。夜の底のような、果てのない憶測。

ベッドフレームにもたれていた背を曲げて、立てた膝に鼻先を埋める。ぬるい液体が皮膚をつたい落ちて、足首に達するころには冷たく冴え渡る。

わたしとのやり取りを終えて、おやすみと一言放ったそのあとに、杜真は二十分間どんな気持ちでいたのだろう。


ざわついたまま、揺らめいたまま、涙を湛えたまま、通話ボタンに指先を添える。頭を駆け巡るのは、両手に抱えきれずに零れた思い出たち。濁流のように押し寄せる記憶の中に、間違いを探した。正しい選択をしていたら、こんな日は訪れなかったのではないかと推考する。

正しさも間違いもなかった、すれ違いもなかった。だったらもう、どうしようもない。ただ、定まっていたことだと諦めるには、いくつも言葉が足りなかった。

深呼吸の息を吸ってから吐く間に通話ボタンを押した。


「杜真」
『……りん』
「会いたい」


通話越しの声は掠れていた。いつから電波はこんなにも正確に声を似せることができるようになったのだろう。泣いていることも、泣いていたことも、誤魔化しようがないほど肉声に近い音を作り上げて運ぶ機器が疎ましい。


「あいたい」


そう口にすれば、杜真はたとえ真夜中でも家まで駆けつけてくれる。付き合ってから五年の間に、片手で数えられる回数だけ杜真にその権利を希った。勿体なくて、杜真の邪魔をしたくなくて、頻繁には使えなかった。

もう深夜に近い。わたしが隣を歩くときには三十分かかるけれど、杜真の足なら歩いても二十分ほどで着く。

二十分。杜真が先のメッセージを送るために使った時間を、今度はわたしが待たなければいけない。会いたいと口にしたくせに、会いたくないと相反する気持ちが胸を圧迫する。明日会って話そうと伝えていたら、あと半日はこの関係を解かずにいられたのに。

きつく結んだはずの繋ぎ目が一番脆い。両端にわたしと杜真がいて、丁寧に結んで、強固にして、解けないように重ねた恋だ。誰の言葉にも障壁にも負けないかわりに、解くときには、まっさらにするときには、ふたりの力が必要だった。片側を引かせるわけにはいかない。ふたりで築いた日々の終着地点だから。


心積りなんてどうしたらいいのかわからない。自室を出て玄関に向かう途中、リビングから両親の声が漏れ聞こえていた。テレビを観て、何が面白いのかどっと笑っている。対比が、温度差が、余計に気持ちを暗鬱とさせる。目縁に残っていた雫が瞬きの拍子に床に落ちた。

玄関の外に出て、コートの合わせ目をぎゅっとかき寄せる。月は厚い雲の向こうにいて、空気はずんと重い。風がないから寒いというよりは、冷たい夜だった。膝がやけに冷たいのは何故だろうと逡巡し、一度涙を吸っているからだと気付く。冷たい手で膝を撫でる。そのまま段差に座り込み、両腕をぎゅうっと抱き込んだ。


速いテンポの足音と、荒い息遣いが聞こえた。角を曲がって姿が見える前に、その人が誰なのかわかる。わたしが顔を上げるのと、杜真が塀の切れ目に姿を見せたのはほぼ同時だった。

まだ十分程しか経っていない。乱れた呼吸からも、急いで来たことがわかる。


「りん、どうして外にいるんだ。寒かっただろ」
「杜真」
「マフラー……手袋も」


身につけていたマフラーと手袋を躊躇なくわたしに渡した。マフラーを、苦しくない、緩くもない具合に巻いてくれる。その加減を知り尽くしているのに、どうして離れなければいけないのだろう。仕草ひとつ、思い出ひとつ、杜真を手放せる理由はどこにもない。

力の入らない足を叱咤し、立ち上がる。ここに蹲っていたら、泣き言ばかりが出てきてしまいそうだった。杜真の片側に体をぶつけるようにして歩き出そうとすると、待ってと制止される。


「家の人に一言伝えていい?」
「いいよ、言わなくて」
「駄目だよ。夜遅いんだから」


そう言うと、杜真は玄関ドアを開けて廊下の奥に声をかけた。程なくして、リビングから出てきたお母さんがわたしと杜真を見て目をまん丸くする。高校二年生のときから付き合って、もう五年が経つ。当然杜真とお母さんは面識がある。こんな時間に訪ねてきたことを非常識だと罵るような間柄ではない。寧ろ、わたしがわがまま言ったんでしょうごめんねとでも言い出しそうだ。でも、泣いた顔を見られたくなくて咄嗟に背を向けたわたしと、同じく目元を赤く腫らした杜真を見て、只事ではないと思ったのだろう。困惑げに、どうしたの? と問われる。


「夜分にすみません。りんさん、少しだけ連れ出してもいいですか」
「杜真くんと一緒なら構わないけれど……夜も遅いし、外は寒いでしょう。家に上がらない?」
「いいえ、外で話がしたくて。日付が変わる前に必ず戻りますから、お願いします」
「りんは? それでいいの?」


向けた背中に声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。顔は見せないまま、大きく何度も頷く。気をつけて、と送り出してくれたお母さんが玄関ドアを閉めるのを待ってから、重い雲を引き連れた寒空の下を歩く。

杜真はそれが自然とでもいうように手を繋いでくれた。先のやり取りがすっぽりと頭から抜け落ちでもしたのだろうか。だとしたら、この時間は何なのだろう。夜中のデートだなんてちょっと心の踊るような時間ではないことは、乾いた涙が何よりの証拠。それに、程なくして杜真は沈黙を破った。


「ごめん。もっと早くに言うべきだった」
「早く言ったからって、どうせ泣いてたよ」
「うん、それはそうだ」


止まりそうな歩みを、杜真の力で何とか進めている。

今は、その力添えが必要なだけだ。わたしは杜真がいなくても生きていけるし、杜真もわたしのことなんて振り切って進める。優しさの使い方を誤って、お互いの歩みを鈍らせることだけはしたくない。杜真の行く道に、できるだけ困難がないように祈ってきた。最短で目標の場所にたどり着けるように、願ってきた。こんな日が来ることも、知っていた。


「遠距離、できないの? 会いたくなったら会いに行く。我慢しないといけないときは我慢できるよ。いつかがあるなら、毎日頑張れる」
「僕は、遠距離はできない。毎日だって会いたいのに、顔を合わせる時間よりも頭の中のりんを想う時間の方が長くなる。だから、どうしても、それを選べない」


これがわたしのための別離だと口にしたのなら、泣いて喚いて別れたくないと騒いだだろう。杜真は自分の考えも思いも臆することなく口にする人だ。そしてそれを叶える術を人に託したりしない。たとえ片側を手にした恋人が、わたしが、相手だったとしても。


「ねえ、りん。本当に少しも準備をしていなかった? 別れるってほんの少しも思っていなかったの?」
「思ってたよ。杜真が夢を叶えるために遠くにいくことは、ずっとわかってた。でも、高校卒業したときも学校は離れたし住む場所も変わったけど、大丈夫だった。それは離れても大丈夫って証明にはならない?」
「高校のときとは違うんだよ。距離も、場所も」
「大丈夫って、言ってよ」


慮るばかりで、肝心のことを話せていない。言葉を、選択を、ひとつも間違えなければまだ取り戻せるのではないかと期待してしまう。まだこの手は繋がっているのに、しかと掴んで離さないと決めたいのに、どうしても、杜真の夢の邪魔をしたくない。


杜真は美しい絵を描く人だ。日本で一番レベルの高い芸術を学べる学校に現役合格して四年間研鑽してきた。その姿を間近で見てきた。会いたい夜も会いたいを押し込めて、頑張れって応援で上塗りすることが苦でないほど、杜真の夢は眩しくて輝かしくて、何よりも大切だった。

画材の匂いの染み付いた六畳の部屋で、絵画の散らばる床を避けて、高揚した杜真に抱きしめられるベッドの上で、この恋の終わりを何度も真っ白なキャンバスの上に見た気がした。遠い未来の、しわくちゃになった自分たちの姿が、どうしても見えなかった。


杜真は何度か海外の芸術家の元を訪ねていた。イタリアに帰化した老齢の男性。最初こそ相手にされなかったらしいけれど、メールや手紙のやり取りを熱心に続け、何度目かの訪問でようやく卒後に男性の元で学ぶ許しを得たと言っていた。それが、半年も前の話だ。生活拠点がまるきり変わる、そのための準備を杜真はずっと進めていた。

終わりは、見えていた。口にしなかっただけで。

使い切ってゴミ袋に放られた絵の具、選別された筆、整理されたスケッチブック、重ねられたキャンバス。杜真が過ごしやすいように組み上がっていた六畳の世界はすっきりと片付き、足の踏み場もなかった床はベッドに避難しなくても座って過ごせるほど広くなった。それでも、眠るときは隙間もないほど近くにいた。シングルベッドの片隅で、この部屋が世界の全てだったらいいのにと、そう願っていた。


外灯の下で立ち止まって、杜真はわたしと向き合い両手を握った。

気持ちが通じ合った日も、こんな風に手を握ったことを覚えている。

夏の暑い日だったから、お互いの手は汗ばんでいて、照れながら口にした好意の言葉に嬉しいとはにかんで恋人になったあの日のことを決して忘れることはないのだろう。そしてこの寒い夜のことも、忘れない。


一緒に行こうと、言ってくれない。

専門学校を卒業して、アシスタントとして働きはじめて春には二年が経つ。任される仕事も増えた。念願のスタイリストの夢を憧れや理想ではなく自分の姿で想像できるようになって、毎日が充実していて、杜真にその話をすると自分のことのように喜んでくれた。今日のメッセージのやり取りだって、サポートとして入ったカラーが練習よりもずっと上手くいってお客には大層喜ばれ、オーナーにも褒めてもらえたことを伝えたのだ。そんな話のあとで『遠距離はやめておこう』だなんて。杜真がどれだけ思い悩んだのか、計り知れない。空白の二十分の間に杜真がひとり泣いたことすら、今夜会わなければ知らないままだった。遠い地で、涙を流し会いたいを押し込めることを、良しとするわけがない。わたしも、逆の立場なら別れを選ぶ。夢を、叶えてほしい。


「ちゃんと、お別れをしよう」
「……うん」
「泣かせてごめん。好きだよ、りんのこと。ずっと好き」
「最後なんだから、そういうこと言わない方がいいよ」
「うん、でも、最後まで言いたい。りんのこと、大好きだよ」


こんなにも優しい人に、愛しい人に、この先また巡り会えるだろうか。この恋がわたしの人生の最高潮であればいい。人生の終わりまで添い遂げた人が、物語の一等でなくても構わない。今この瞬間が、杜真と過ごした五年間が、わたしの心を作ったのだと信じたい。

優しい人になりたいと、心を気遣える人になりたいと、夢を追う背中を押せる人になりたいと、いつか杜真の旅立ちを笑って見送りたいと、五年かけて育んだ心を大切にしたい。

間違いなく、揺るぎなく、とめどなく、好きな人だった。


ずっ、と鼻をすすると、瞼から溢れた雫が途端にきんと冷える。その一滴を皮切りに、お互いの双眸からは幾筋も涙がつたい落ちる。

杜真の肩口に額を押し当てて、さめざめと泣いた。

世界はどうして、この足で歩いて回れないほど広いのだろう。想い合っているのに別離を選ばなければいけない理由が、あなたが遠いからだなんて、同じ結末を選んだ人は納得しきれるのだろうか。

離れても、会えなくても、でもきっと、多分ずっと、好きなのに。


杜真はわたしを日付が変わる前には帰すと言ったから、タイムリミットが迫っていた。約束を破って大事になるような年齢ではない。一言、やっぱり今日は帰らないと伝えればいいだけなのに、杜真はこの夜を共に過ごそうとはしなかった。

頑ななわたしの手を包んで、指先を、わたしたちの恋を解くように促してくれる優しい手を拒絶することなんてできやしない。

覚悟はできていたって、心は決まっていたって、どうしたって終わりを口にするのは簡単じゃない。伝えたい言葉が喉の奥に詰まって、ひとつも出てこない。呼吸を確保する隙間すらも埋めて、息が浅くなる。

たとえば、記念日だけはわたしとの思い出を描いてほしい。
たとえば、思い出の場所の絵をいつも目のつく場所に飾っていてほしい。
そうやって、杜真の日々の中にわたしを残してほしい。わがままだろうか。それなら、わたしだけでも思い出を抱きしめていいだろうか。いつか、何年も何十年もかけて、必ず思い出の底にたどり着くから。時間をかけることを、許してほしい。

幸せを、願いたい。杜真が底抜けに優しくて、あたたかくて、聡明で、健気で、柔軟で、穏当な人だということわたしは誰よりも知っているから。


「りん」


声が耳元をふわりと舞う。愛しさを含むと声は柔らかく弾むのだと思う。そして届いたその音は、ときに涙を誘う。


「幸せになって」


杜真のジャケットに埋めていた顔を上げると、杜真は泣き腫らした目を細めて笑っていた。


「杜真も。夢、叶えてね。無理はしないで、ご飯はちゃんと食べて。没頭すると時間を見なくなる癖は治してね。眠気には逆らわない。体調が良くないと思ったらすぐに病院に行くこと。そうしたら、あとは、杜真の心の赴くままに、自由でいて」
「うん、必ず」


お節介は承知だ。こんなこと、家族にも友人にも散々言われているはず。だらしなくはないけれど、どうにも絵以外に無頓着な杜真は放っておくと顔も手も真っ青に染まっている。この人、本当に知り合いのいない土地で生きていけるのだろうか。お世話になるという芸術家も同じような性質の人間だったらと思うと、せめて今言ったことは守ってもらわないと心配でたまらない。


「杜真」
「はい」
「わたしのこと、追いやっていいからね」


まだ何か小言があると思ったのか、身構えて背筋を伸ばした杜真の手をするりと解く。冷たい頬に手袋越しの指先で触れる。

わたしを想って泣くくらいなら、一秒でも早く杜真の記憶から薄れてしまえばいい。忘れていいとは言わない。難しいことだとわかっているから。時間は遅効性だけれど、他の何よりも効果がある。いつかは朧気になるだろう。でもそれを待てないから、杜真の心を揺さぶるものに囲まれる輝かしい日々がわたしを頭の隅に追いやってくれたらいい。皆まで言わずとも、伝わる気がした。五年の歳月があるから。

杜真は目を見開いて、それから、ぎゅっと顔をしかめた。


「忘れない」


忘れられない、と小さな声が聞こえた。口の動きが見えなかったのは、自由になった杜真の手がわたしの背に回り抱き寄せていたからだ。世界にふたりきりになりたいと思った。とめどなく湧き出る欲をもう口にはしなかった。世界にふたりきりになったところで、杜真は遠くへ行ってしまうのだろう。絵に描くほど、世界は美しいことをわたしも杜真のキャンバスを通じて少しだけ、理解しているから。


母へ伝えた通りに、杜真は日付が変わる前にわたしを家に送り届けた。手袋とマフラーを返すと、杜真はそれを身につけずに冬の夜の中を歩いていった。


世界が六畳であればいいと思わずにはいられなかった。世界があまりにも広いから、杜真は夢を海外なんて遠い場所に見つけてしまったんだ。絵を描くだけなら、国内でだって、あの六畳の部屋でだって続けられた。海なんてろくに行ったことがないのに波間まで丁寧に描き夕焼け色と交わる青をのせていた。カーテンを開けない部屋の間接照明の下で、天井に透けない夜空を描いていた。何がそれほど杜真を魅了したのか、支持していた芸術家の名前も作品も知らないままだ。


冷えた体に毛布を抱き込む。布団に入って四十分が過ぎたころ、メッセージの通知音が鳴る。


『ごめん。本当に、未練がましいことはわかってる』
『今、家に帰ってきて』
『もし、僕の世界がこのへy』

『忘れて。りん。よく眠れますように』


杜真はテンキーではなくキーボード入力で文字を打つ。涙がスマホの画面に当たって途中送信。一瞬で冷静になって、端的な、こちらを気遣う文字を打ち込んだといったところだろうか。たぶん、当たってる。伝えたいことはもうないから、返信はしなかった。


きっと、この夜の刹那に杜真も同じことを考える。
朝目が覚めて、世界が六畳になっていたらいいのにと。


【世界が六畳であればいい。】