このまま、何者にもなれないまま終わってしまうのだろうか。私の人生は何だったのだろう。
一人になると押し寄せる荒波。もっと何かできたのではないだろうか。気づけば何にもなかった。
このまま、命が終わってしまうのだろうか。
三十歳になって乳がんが発覚した。試練を与えられた。また手術が必要で、抗がん剤や放射線などの治療が必要になる。若年性のがんだ。若年性のがんの場合、保険で遺伝子検査を受けられる。念のため遺伝子検査をしたけど、遺伝ではないらしい。
体にメスを入れるのは初めてだった。初期の多分ステージ一程度ではないかと医師は淡々と話した。手術は避けて通れない。悪い部分を切除しないと細胞がどんどん大きくなる。嫌なのは体にメスを入れること。嫁入り前の体にメスを入れるのはしんどい。嫁入りの予定は全くもって未定だけど。
幸い場所が上の方だったので、胸に人工物を入れるようなことはしなくていいらしい。ただ傷は二か所に残る。脇のリンパを取って転移していないかを見る。脇にメスを入れなければいけない。そして、悪がいる場所は開けてみないと広がり方はわからないけど、多分三十回ほど、放射線を脇と胸にあてなければいけないらしい。ネットで調べると素人にはちんぷんかんぷんな専門用語も多いし、真面目ではない私が本を買ってまで病気について学びたいという気持ちにはならなかった。多分、無意識に向き合いたくなかったのかもしれない。
飲み薬で治る時代が来ればいいのにと思ってしまう。
手術をするために、全身の検査をする。CT、MRI、X線、血液検査、エコー検査、PET検査。検査という名のものは一通り経験した。様々な方法で私の体を様々な方法により、細胞レベルで調べるらしい。PET検査はおおまかに全身を診る検査だ。ペットとはいっても、犬猫の動物のペットではない。こんなの普通は高額なので受けることはないと思う。ただ、入院前に必ず受けなければいけない。他に転移をしていないかを診る。
MRI検査は横になり、時にはうるさい音の機械の中に入って検査をした。これは、手術を受けるための検査。これで、やっぱり手術は受けなくてもいいなんていうことにはならないのが残念でもあった。手術を受けて切り取った部分を検査して抗がん剤をしなければいけないのか、しなくていいのかは判断するらしい。抗がん剤はいわゆる髪の毛が脱毛になるとかイメージしやすいと思う。これは、必ずというわけではなく、症状に応じて医師が判断する。放射線治療は退院して落ち着いた頃に行うらしい。痛くはないけど、強い光を当てるから、永久脱毛みたいに毛根が焼かれてしまうらしい。
検診で再検査になった時、まさか私がと思った。
再検査では検査着に着替えて点滴を打たれ、健康なはずなのに病人みたいなんて、どこか他人を見るような自分がいた。どこかの誰かが病気になっても、自分がなるとは思わなかった。
最終的には針を刺して、その部分を切り取って悪性かどうかを判断される。
正直たかをくくっていて、私はその日は好きな映画を見て帰ったくらい楽観的だった。
周囲に若くして乳がんになった人間はいなかったからだ。
仕事は体力面から非常勤社員として小学校の図書館に勤めていた。というのは建前で、正職員試験を司書教諭、小学校教諭を含めて何年も受けて落ちている。どうせ受からないと思いながら、とりあえず受けてはいた。
一応地方の国立大学卒業だったが、私は奇跡的に推薦で受かったため、学力で入学はしていなかったというのはあると思う。やる気と高校の評定があれば入ることができた時代だった。
地方国立に入ればなんとかなるだろうという適当な入学理由もあり、実際は教育に興味関心があるというほどでもなかった。文系で入れるところで、推薦で競合がいなかったのでとりあえず受験をした。私はとてもいいかげんな進路選択をした高校生だった。
一抹の不安とわずかな希望に挟まれるととても不安な気持ちになる。ひとりぼっちはどうしようもなく寂しい気持ちになる。病院に来ると、独特なかおりがする。
薬品のにおいのする病室、無機質な部屋のつくりも娯楽とは縁遠い。何故、私は生まれてきたのだろうか?
私は、孤独だと思う瞬間だった。結婚すらしていないのに。周囲は結婚をして出産をしてという絵にかいたようなライフステージを登っているように感じた。自分はずっと変わらないひとりもの。外見も良くないし健康でもない。彼氏もいないし、結婚する予定もない。ないないづくしの三十歳。
非常勤職員の週五日で働いているとはいえ、病休は年間五日程度しかない。
一応年休もあるが、年間十四日程度。
正職員になっていたほうが三カ月休んでも給料が入るし、病休が取れたと聞いて後悔した。
でも、図書館の正職員はほとんど採用しない。
残業も多いと聞いていた。
入院が十日以上になるので、私の場合は無給休暇という形になるだろう。
私の体は欠陥品だ。
地元のPTAや町内会を支え、子どもたちに三十年以上読み聞かせをしてくれた冴野さんが病気になったらしい。
おしゃべり上手で抑揚のある話し方はいつもみんなに元気を与えてくれた。
冴野さんが手術をすることになったらしい。突然入院すると聞いて、個人的にお見舞いに来た。
私が勤務して七年間、ずっとボランティアで図書室に出入りしていたお世話になった女性。
インターフォンを鳴らす。
出てきたのはきれいな顔の男性だった。
「小学校の司書をしている美幸茜と申します」
丁寧にお辞儀と自己紹介をする。息子さんだろうか。
「もしかして、教育大学にいた美幸茜さん? 大学が一緒だった冴野楽希だよ」
私の目は疑いに満ちていた。
「えっと……」
「サークルがちょっと一緒だった程度だったから、多分覚えてないかもね」
愛想がいい男性は年齢より若く見えた。同級生ならば同じ歳だろうと思う。
「文芸サークルに友達に誘われてちょっとだけ入っていた。本業はサッカーサークルだったんだけどね」
たしかに私もあまり熱心ではないけど文芸サークルに入っていた。ネットで作品を発表するという流れになっているから、コンテストに応募しようとかそんな感じのノリについていけなくて、ただ読書してたほうが気が楽とかそんな理由で行かなくなってしまった。長文を書く体力も想像力も私にはなかった。私は二次創作が趣味だったので、二次創作の同人誌を作るのかと勘違いして入ってしまった。そこにいたのは、二次創作ではなく一時創作でプロになろうと志している人ばかり。同人誌ではなく自分がイチから想像した作品で商業出版を狙っている頑張り屋さんばかり。夢小説でも趣味で書いて、私だと気づかれないようにネットの片隅にでも投稿しておこう。そんなことを考えていた。
「今は小学校の教師をしているんだ」
言われてみれば、子供好きな優しい感じの人だ。
若手の先生にいそうなタイプ。
体育会系のイケメン枠のスポーツマンといった印象を受けた。
「たしか小学校に学習支援員のボランティアに行った時に美幸さんがいたのを覚えていて、先生やってるのかなって思ってたんだ」
「私は図書館司書と司書教諭を生かして仕事をしているの。小学校の図書館で働いているんだ」
たしかに、一応教育学部卒業だけど、図書館関係の仕事を選んだ。というか、教師という仕事は体力がない私には難しいと思っていた。
教育学部も人数が多かったので、ほとんど知らない人ばかりだったように思う。同じ空間にいたのに全く関わらずに卒業した人がたくさんいた。
「ここはあなたの自宅?」
「今は近くに一人暮らしをしてるんだけど、母の入院のこともあって、ここによく来てるんだ」
「冴野さんは病気なの? 突然のことでびっくり。お見舞いに来たの」
「実は、乳がんを患ったんだ」
私も、とは言えなかった。
「全摘出しないといけないみたいで、再建手術をどうするかとか聞かれたりしたよ」
男性の後ろから聞きなれた声がする。冴野さんだ。
「あら、美幸さん? 入院はしばらく先だし、今は何も痛くもかゆくもないから、遊びに来てよ」
その日は冴野さんの病状を聞きつつ、小学校の五十周年記念誌への寄稿を依頼に来た。
あたたかな夕食をごちそうになった。なんだか心に沁みるな。
冴野さんにもしものことがあったら食べられなくなるかもしれない味。
母のような面影をどこか追っていたのもあったのかもしれない。
というのも母は、精神的におかしくなって入院した。
手術では治らないという病気は別の意味で辛い。
頼れる人はいなかった。
家族になったような気がする。お味噌汁の味は深くて優しい味がした。
相変わらず仕事と家との往復をしながら、時々病院に通院していた。
そして、冴野さんとは個人的に年の離れた友達であり、同じ病気だったので、相談がてら訪れるようになっていた。
病気のことを話した。
裏表のない冴野さんと一緒にいると同級生の女性といるより、ずっと安心できたし、学べることも多かった。
二次創作やアニメ好きだということも冴野さんには話していた。
キャラクターは歳をとらないし、誠実な対応を裏切らない。影で浮気をしたり、恋人を作ることもない。つまり私だけの恋人というわけだ。夢小説にはたくさんの夢が詰まっていたように思う。甘くて居心地がいい世界だった。今でも当時の推しのことは好きだし、時々現実から逃れるために推しの恋人になる。とはいっても、三十歳にもなった女がそんなことをしていたら、結婚や出産の波に乗り遅れてしまう。本来大人しく積極的ではない私は現実の恋愛はとても苦手だった。まだなの? というせっつくような世間の目も苦手だった。
大学生時代にはまった私の推しは、天使を名乗る死神キャラだった。優しそうで端正な顔立ち。でも、どこか言葉は毒があって、私には炭酸水のような程よい刺激となった。現実にいないであろう完璧なキャラクター。
二次創作のキャラクターなので、原作ありきだ。
彼は、原作では彼女らしき相手もいなかったので、夢小説にはうってつけだった。
とは言っても、こんな妄想を並べた文章を書いていること自体恥ずかしいという感覚は持っていた。
だから、匿名でネットに投稿する。ネット上の知らない人から称賛されることがただ密かなる喜びとなっていた。
妄想が詰め込まれたお菓子のような甘い夢小説はこんな感じだ。
スマホで今でも創作することもあるが、最近は忙しくもっぱら読み専だ。
【魅惑的な天使との夜】
題名はこんな感じで書いた。卒業前に書いた夢小説が一番評価が高く、PVも高かった。
私の好きな『天使を名乗るジュメイに愛されてます』という少女漫画の二次創作だ。
もちろん原作漫画家に許可を取っているわけでもないけど、寛大な原作者様に拍手だ。
原作は短編形式で基本ジュメイが担当する人間は変わる。
ジュメイは本気にならない。でも、女子たちは彼に惹かれてしまう。罪なキャラだ。
一見優しそうなのに実はダークな部分を持った死神。
魅力的で顔もいいのでファンは多い。
架空の登場人物になったつもりで読むとこれは感慨深い。
場合によっては名前変換機能もあるので、自分の本当の名前を文章上で囁いてくれるという驚きのシステムもある。
この情報化時代に驚くこともないんだけど、私が学生の時は画期的だなと感心したシステムだった。
ハッシュタグには天使とか魅惑とかキャラ名のつけてくれたり、ジュメイという名前を付ける。
そうすることで、趣味嗜好の合う仲間が世界のどこかから『いいね』をつけてくれたりレビューを書いてくれた。
プロでもないのに、文章にはこだわっていた。
自分では結構上手なんじゃないかと密かに思っていた。
あとで読み返すと誤字脱字があったりで修正することも多いんだけど。
私が書いた文章は以下のような感じだ。
【魅惑的な天使との夜】
私は小さい頃から病弱で、学校にもあまり行けていなかった。遊園地に行ったことや一般的なレジャーなど楽しい経験はあまりない。体に負担をかけるアウトドアやスポーツは経験があまりない。なにもできないまま、私は命が終わってしまうのだろうか。もしかしたら、よくなってちゃんと大人になれるかもしれない。長く生きていけるのかもしれない。先が見えない毎日。アルコールの香りに囲まれた白い檻の中で私は死んでしまうのだろうか。恋愛も友達との遊びも学校生活もこの先、絶望的だ。いつ死んでもおかしくない弱い体。己を憎む。病院での生活が当たり前となった体。普通がよかった。普通の体で生まれたかった。一般的な同世代が羨ましい。
とても不安な気持ちになる。ひとりぼっちはどうしようもなく寂しい気持ちになる。薬品のにおいのする病室、無機質な部屋のつくりも娯楽とは縁遠い。学校にあまり行けていないので友達はいない。何故、私は生まれてきたのだろうか? 窓の外の桜の木を見つめる。家族も仕事があり、ずっと一緒にいるわけではない。毎日会えるわけではない。私は、孤独だ。
入院している窓から見える桜は花びらが散ってしまい、青々とした新緑に覆われていたのにいつのまにか紅葉していた。私は何もしていないのに、季節だけが変わっていく。木の葉がどんどん落ちていき、枝ばかりになる様子を見ているとさびしい気持ちになる。私も、冬の枯れ木みたいになって終わっていくのだろうか。マイナス思考になる。話し相手は看護師さん、医師くらいだろうか。そして家族。青春らしい思い出もないなんて、私の体は欠陥品だ。
すると、声が聞こえた。幻聴だろうかと耳を疑う。
「俺は天使だ。君の好きな場所に連れて行ってあげるよ」
そこにはきれいな顔の少年がいた。突然どこからか入ってきたようだ。
「まさか、そんなことできるわけないでしょ。ここは病院で入院中なんだから、あなた誰なの? 何者?」
私の目は疑いに満ちていた。
「天使の力だったら幽体離脱でばれないように外にいけるよ。実体には負担はかからないから、病気でも息切れすることなく空を飛んで移動できるんだよ」
信じられないけれど、天使という彼は、宙に浮いていた。普通の人間ではないらしい。そして、私以外の人間には見えないとのことだ。
天使と名乗る彼は、ある日、突然現れて、私が望むねがいをかなえてくれた。無限に広がる空の世界は斬新だった。幽体離脱する時間は看護師が来ない時間帯で私が寝ている時間。長い入院でどの時間帯に見回りが来るかどうかは把握できていたし、肉体に負担がかからないから、苦しくはない。幽体離脱には天使が側にいなければいけないから、必然的にいつも彼と一緒だ。
上を見ると粉を散らばめたような星が輝く広い世界。下を見ると、広がる金平糖みたいなピカピカの景色が私を包む。俗に言うイルミネーションとか夜景というものを私は病院の窓からしか見たことがなかった。思いのほか、空の上はちっとも怖くなかった。少年の手が私の手を握ってくれていたからかもしれない。
遊園地、公園、夜だけれど特別な空間だ。ずっと行きたくても行けなかった場所にいけたことは大変ありがたい。同じ歳くらいの男の子と一緒に行くこと自体初めての体験だ。
彼は、想像していた天使そのものだった。
思わせぶりに、にこりと笑うと、じっと漆黒の瞳で私の顔をのぞきこむ。
距離が近いので、私の心臓はおかしくそうだ。
「こんなに話が合うとは思わなかった。もしよかったら、一緒に闘病してください」
「一番近くで支えられたら幸せだって思ってる」
天使は今日も私を連れ出してくれる。幽体離脱は肉体の疲れがないので、実体には影響が全くないようだ。
ビルの屋上に二人で座る。
「デートみたいだね」
私が言うと、天使は少し照れくさそうな顔をして片手を自分の頭の上に置きながら髪の毛を触っている。空を見上げながら天使は優しく微笑む。
ある日の夜、彼はどこかに連れていこうとはしない。しばらくの沈黙が続く。
「実は……もっと楽しみたかったんだけれど……もう期限が来るんだ」
「期限?」
「もう今日から幽体離脱のデートはできないんだ」
「どういうこと?」
彼は真剣な目をする。
「俺は本当は天使なんかじゃないんだ。君を輪廻転生させる存在だ。実は期限ぎりぎりまで君を生かしていたんだけれど、期限を過ぎるとペナルティーがあるから、僕はあの世に君を連れていかなければいけないんだ」
「死神なの?」
「……うん。ゴメン、今まで黙っていて」
死神だと名乗る少年は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。イメージしていた死神とは違う。不気味さも恐怖もない。そこには優しさしかなかった。
「なんとなくわかっていたよ。こんな不思議な事、天使か死神くらいじゃなきゃできないでしょ?」
私はあっさりと事実を受け入れていた。
「ペナルティーって何かあるの?」
「生まれ変わったら好きな人と一緒になれないんだ」
彼は私をあの世に導く。
彼の正体は死神だった。
でも、世界中の誰よりも優しい私にとっては天使同様の神様だ。
彼は、今までできなかったことをたくさん実現させてくれた。
死ぬ前に一度くらい体験してみたかったデート。
それをかなえてくれた彼は世界一優しい死神だ。
「ありがとう。大好きだよ」
星空の中で、私の体はまるで小さな星のように砂のように散ってしまう。
つないでいた手がほどかれた。
「ありがとう。俺も君が好きだった。長く生きてほしいから、ぎりぎりまで会いに行くのを待ったんだ。でも、もう迎えに行けと上から命令されて。天使という嘘をついてごめん。気持ちを伝えたら、君専属をはずされてしまうから……好きだなんて言えなかった。死神失格だな」
罪悪感を感じながら、彼は申し訳なさそうに悲しい顔をした。涙を浮かべている。死神なのに、情が深いんだね。
私の視界に映るのはただ闇だけになった。もう何もない世界に来てしまったようだ。
私は次の世界に行く準備をはじめる。
そう、枯れ木が春に向かって芽を出す準備をするように。
告白と死は終わりじゃない。はじまりだ。
そこには死神だったはずの彼が待っていて――一緒に手をつないで次の世界に旅立つ。彼と私の間には赤い糸が見える。運命の赤い糸というのは、生まれる前に決まっているんだね。そして、大きくなった時にめぐりあえることが約束されているんだね。
明るい世界に向かって私は彼と手をつないで歩き出す。
新しい命として生命は輪廻するんだね。
あと何年かたったらまた君に会えるね。
完
我ながら惚れ惚れする。なかなかの傑作だ。
でも、現実は彼氏もいないし、イケメンの天使や死神が現れるわけでもない。
それに、病気という事実が重くのしかかる。どこか今の自分と重なる。まるで予知小説みたいだ。
もし、結婚や出産をするなら抗がん治療との両立はできるのか?
最近検査でわかったためまだ何も調べていなかった。
術後、どれくらい経てば出産ができるのだろうか。
予定もないけど、卵子凍結をしたほうがいいのだろうかと考える。
図書の仕事は子どもたちに貸し出しをしたり、返却作業をしたりであっという間に夕方となった。
静かな時間が図書館に訪れる。
夕方、見慣れない男性が図書室を訪れた。冴野さんの一人息子の冴野楽希だった。
彼はここの卒業生らしく、懐かしそうに本を眺めていた。
「ラッキーとかけて楽希という名前になったんだ。楽しい希望という漢字は気分を上げてくれるだろ。名前が珍しいから、図書カードを見て話してみたいって声をかけられたこともあったなぁ」
懐かしそうな眼をする。
冴野さんにとても似た瞳だ。
もしかして、私の病気のこと聞いたかな?
「もし、何かあったら連絡して。うちの母も会いたいって言ってたからいつでも遊びに来てよ。母親はずっと地域ボランティアをしていたからここへの想いは誰よりも熱いんだ」
私は記念誌担当だったので、打ち合わせがてらしょっちゅう遊びに行った。
週末や仕事帰りに遊びに行く前には一応楽希に連絡を入れるようにした。
それが礼儀だと思ったから。
彼は仕事が終わってから、夕食を食べに実家を訪れたり、週末は家の掃除や片づけをしに来ていた。
職場が近いらしい。
卒業後に彼と仲良くなるとは思わなかった。
気が合わないかもしれないというのは杞憂だった。
「俺、婚活したりしたんだけど、外見から入っちゃうから、あまりお見合い向けではないらしい。仕事してる方が楽かな」
「彼女いないの?」
「以前図書カードの名前を見て大学で声をかけられて付き合ったことはあるんだけど、卒業して、忙しくなって自然消滅」
意外と経験が少ないらしい。モテそうなのにあまりぐいぐい入り込まないから、付き合うまではいかないのかもしれない。
今日は冴野さんの家を訪ねて十回目となる。
文集のうちあわせもあり、ご飯をその度作ってもらったりして、家族みたいな付き合いになっていた。
ごはんの味に馴染んでしまっている自分がいた。
二人きりで、庭先で初夏の家庭用花火をした。楽希が初物を買ってきたらしい。
線香花火をどう長く最後まで火を灯すかは醍醐味だ。
緑から赤に変わる家庭用花火は勢いがあり、変色の色合いも好きだ。
友達だとしても、普通は健康で若い女性がいいと思う。
正直に話そう。
「私、乳がんの初期みたいなんだ。黙っていてごめん。今後、手術とか治療とか色々あって……」
「話は聞いてるよ。いつも母の相手をしてくれてありがとう」
「私、これから手術をしてから、抗がん剤をしなければいけないかもしれない。運が良ければ脱毛するような薬を使う必要はないみたい。でも、私は女性ホルモンのせいでがんを引き起こしたの。だから、女性ホルモンを薬を飲んで抑制しないと再発するかもしれない。出産も普通の人みたいにすんなりとはいかないと思うから婚活どころじゃないんだよね」
「母は、病院で検査を受けたんだけど、ステージ二以上らしい。触ると小石みたいなしこりがあるんだ。だから、抗がん剤を受けてからの手術なんだ」
「私は自分ではしこりがわからない程度なんだよね」
「顔つきがいいがんなのかもしれないな」
がんには顔つきがあって、穏やかでゆっくり進行するがんは顔つきがいいと言われている。
顔つきが悪いと進行が早く、転移があったり治療に時間を要することもある。
がんの治療は十人十色だ。
「これから大変だけど、連絡してもいいかな?」
「これからのことはわからないよ。多分全摘出ではないから、放射線で焼かなければいけないみたい。リンパも取るからむくみやすくなるかもしれない。リンパを調べて転移しているかどうかがわかるみたい。放射線で焼く場所も切り傷も二か所になると思うし、初期だとしても、転移の可能性もまだ拭えないから」
「俺もいつ病気になるかわからない。若くても、明日何かが発覚するかもしれない。美幸さんは幸せという漢字が入っているから、幸せを呼べる人だと思うんだ。幸い初期でよかったって思ってる」
優しい人だな。
「正直こんなに話が合うとは思わなかった。もしよかったら、一緒に闘病してくれたら心強いな」
こんなこと言っていいのかな。
「一番近くで支えられたら幸せだって思ってる」
まるで夢小説みたいなセリフ。これは夢小説で使ったことがある。
思わず口角が上がる。
一人で抱えていた病気の秘密生きていればは共有することで少し楽になった。
「君のとなりで支えたい」
「私には、なんにもないよ」
彼は全てを受け止めうなずいた。
なんにもない私に支えたいと言ってくれる人が現れた。
「家庭用花火のように小規模ながら力になれればと思ってる」
「家庭用花火って意外とすごいんだから。毎日自宅で楽しめるんだよ」
「これ発明した人天才だな」
私は暗がりの中、庭先に座りながら初めて男性と手をつないだ。
花火の火が消えると庭は真っ暗な闇に包まれる。
彼は私のおでこにそっと唇をあてた。
優しい優しいキスだった。
「教諭にも育休代替とか任期付き教諭になると、病休も取れるし、ボーナスも出るんだ。免許あるなら、図書館でなくてもそっちのほうが福利厚生が整ってると思うよ。それに、正規の職員にもなりやすいんだ。まだ年齢的にも大丈夫だろ」
彼は私に色々と情報を教えてくれた。
「学習支援員をしていたときに、教える楽しさとか喜びがあったんだ。でも、いつの間にかその現場から逃げたのかもしれない。ずっと採用されなかったから」
また教諭として子どもに接してみようかな。
いつのまにか、何にもない自分ではなくなっていた。
「まだ三十歳だろ」
もう三十歳だからと諦めていた私に彼はまだと言ってくれた。前置詞一つで変わる。
その少し後に冴野さんは入院した。手術の前に抗がん剤を投薬して小さくしてから手術をするらしい。
私はこれから手術の予定が入っている。
未来はわからないし、飲み薬の副作用がどんなものかもわからない。
女性ホルモンが少なくなれば女性らしさが失われるかもしれない。
「いってきます」
「待ってるから」
体の傷は、どの程度になるのかわからない。
でも、待っててくれる人がいる。
未来への一歩を白い建物の中へと踏み出した。
一人になると押し寄せる荒波。もっと何かできたのではないだろうか。気づけば何にもなかった。
このまま、命が終わってしまうのだろうか。
三十歳になって乳がんが発覚した。試練を与えられた。また手術が必要で、抗がん剤や放射線などの治療が必要になる。若年性のがんだ。若年性のがんの場合、保険で遺伝子検査を受けられる。念のため遺伝子検査をしたけど、遺伝ではないらしい。
体にメスを入れるのは初めてだった。初期の多分ステージ一程度ではないかと医師は淡々と話した。手術は避けて通れない。悪い部分を切除しないと細胞がどんどん大きくなる。嫌なのは体にメスを入れること。嫁入り前の体にメスを入れるのはしんどい。嫁入りの予定は全くもって未定だけど。
幸い場所が上の方だったので、胸に人工物を入れるようなことはしなくていいらしい。ただ傷は二か所に残る。脇のリンパを取って転移していないかを見る。脇にメスを入れなければいけない。そして、悪がいる場所は開けてみないと広がり方はわからないけど、多分三十回ほど、放射線を脇と胸にあてなければいけないらしい。ネットで調べると素人にはちんぷんかんぷんな専門用語も多いし、真面目ではない私が本を買ってまで病気について学びたいという気持ちにはならなかった。多分、無意識に向き合いたくなかったのかもしれない。
飲み薬で治る時代が来ればいいのにと思ってしまう。
手術をするために、全身の検査をする。CT、MRI、X線、血液検査、エコー検査、PET検査。検査という名のものは一通り経験した。様々な方法で私の体を様々な方法により、細胞レベルで調べるらしい。PET検査はおおまかに全身を診る検査だ。ペットとはいっても、犬猫の動物のペットではない。こんなの普通は高額なので受けることはないと思う。ただ、入院前に必ず受けなければいけない。他に転移をしていないかを診る。
MRI検査は横になり、時にはうるさい音の機械の中に入って検査をした。これは、手術を受けるための検査。これで、やっぱり手術は受けなくてもいいなんていうことにはならないのが残念でもあった。手術を受けて切り取った部分を検査して抗がん剤をしなければいけないのか、しなくていいのかは判断するらしい。抗がん剤はいわゆる髪の毛が脱毛になるとかイメージしやすいと思う。これは、必ずというわけではなく、症状に応じて医師が判断する。放射線治療は退院して落ち着いた頃に行うらしい。痛くはないけど、強い光を当てるから、永久脱毛みたいに毛根が焼かれてしまうらしい。
検診で再検査になった時、まさか私がと思った。
再検査では検査着に着替えて点滴を打たれ、健康なはずなのに病人みたいなんて、どこか他人を見るような自分がいた。どこかの誰かが病気になっても、自分がなるとは思わなかった。
最終的には針を刺して、その部分を切り取って悪性かどうかを判断される。
正直たかをくくっていて、私はその日は好きな映画を見て帰ったくらい楽観的だった。
周囲に若くして乳がんになった人間はいなかったからだ。
仕事は体力面から非常勤社員として小学校の図書館に勤めていた。というのは建前で、正職員試験を司書教諭、小学校教諭を含めて何年も受けて落ちている。どうせ受からないと思いながら、とりあえず受けてはいた。
一応地方の国立大学卒業だったが、私は奇跡的に推薦で受かったため、学力で入学はしていなかったというのはあると思う。やる気と高校の評定があれば入ることができた時代だった。
地方国立に入ればなんとかなるだろうという適当な入学理由もあり、実際は教育に興味関心があるというほどでもなかった。文系で入れるところで、推薦で競合がいなかったのでとりあえず受験をした。私はとてもいいかげんな進路選択をした高校生だった。
一抹の不安とわずかな希望に挟まれるととても不安な気持ちになる。ひとりぼっちはどうしようもなく寂しい気持ちになる。病院に来ると、独特なかおりがする。
薬品のにおいのする病室、無機質な部屋のつくりも娯楽とは縁遠い。何故、私は生まれてきたのだろうか?
私は、孤独だと思う瞬間だった。結婚すらしていないのに。周囲は結婚をして出産をしてという絵にかいたようなライフステージを登っているように感じた。自分はずっと変わらないひとりもの。外見も良くないし健康でもない。彼氏もいないし、結婚する予定もない。ないないづくしの三十歳。
非常勤職員の週五日で働いているとはいえ、病休は年間五日程度しかない。
一応年休もあるが、年間十四日程度。
正職員になっていたほうが三カ月休んでも給料が入るし、病休が取れたと聞いて後悔した。
でも、図書館の正職員はほとんど採用しない。
残業も多いと聞いていた。
入院が十日以上になるので、私の場合は無給休暇という形になるだろう。
私の体は欠陥品だ。
地元のPTAや町内会を支え、子どもたちに三十年以上読み聞かせをしてくれた冴野さんが病気になったらしい。
おしゃべり上手で抑揚のある話し方はいつもみんなに元気を与えてくれた。
冴野さんが手術をすることになったらしい。突然入院すると聞いて、個人的にお見舞いに来た。
私が勤務して七年間、ずっとボランティアで図書室に出入りしていたお世話になった女性。
インターフォンを鳴らす。
出てきたのはきれいな顔の男性だった。
「小学校の司書をしている美幸茜と申します」
丁寧にお辞儀と自己紹介をする。息子さんだろうか。
「もしかして、教育大学にいた美幸茜さん? 大学が一緒だった冴野楽希だよ」
私の目は疑いに満ちていた。
「えっと……」
「サークルがちょっと一緒だった程度だったから、多分覚えてないかもね」
愛想がいい男性は年齢より若く見えた。同級生ならば同じ歳だろうと思う。
「文芸サークルに友達に誘われてちょっとだけ入っていた。本業はサッカーサークルだったんだけどね」
たしかに私もあまり熱心ではないけど文芸サークルに入っていた。ネットで作品を発表するという流れになっているから、コンテストに応募しようとかそんな感じのノリについていけなくて、ただ読書してたほうが気が楽とかそんな理由で行かなくなってしまった。長文を書く体力も想像力も私にはなかった。私は二次創作が趣味だったので、二次創作の同人誌を作るのかと勘違いして入ってしまった。そこにいたのは、二次創作ではなく一時創作でプロになろうと志している人ばかり。同人誌ではなく自分がイチから想像した作品で商業出版を狙っている頑張り屋さんばかり。夢小説でも趣味で書いて、私だと気づかれないようにネットの片隅にでも投稿しておこう。そんなことを考えていた。
「今は小学校の教師をしているんだ」
言われてみれば、子供好きな優しい感じの人だ。
若手の先生にいそうなタイプ。
体育会系のイケメン枠のスポーツマンといった印象を受けた。
「たしか小学校に学習支援員のボランティアに行った時に美幸さんがいたのを覚えていて、先生やってるのかなって思ってたんだ」
「私は図書館司書と司書教諭を生かして仕事をしているの。小学校の図書館で働いているんだ」
たしかに、一応教育学部卒業だけど、図書館関係の仕事を選んだ。というか、教師という仕事は体力がない私には難しいと思っていた。
教育学部も人数が多かったので、ほとんど知らない人ばかりだったように思う。同じ空間にいたのに全く関わらずに卒業した人がたくさんいた。
「ここはあなたの自宅?」
「今は近くに一人暮らしをしてるんだけど、母の入院のこともあって、ここによく来てるんだ」
「冴野さんは病気なの? 突然のことでびっくり。お見舞いに来たの」
「実は、乳がんを患ったんだ」
私も、とは言えなかった。
「全摘出しないといけないみたいで、再建手術をどうするかとか聞かれたりしたよ」
男性の後ろから聞きなれた声がする。冴野さんだ。
「あら、美幸さん? 入院はしばらく先だし、今は何も痛くもかゆくもないから、遊びに来てよ」
その日は冴野さんの病状を聞きつつ、小学校の五十周年記念誌への寄稿を依頼に来た。
あたたかな夕食をごちそうになった。なんだか心に沁みるな。
冴野さんにもしものことがあったら食べられなくなるかもしれない味。
母のような面影をどこか追っていたのもあったのかもしれない。
というのも母は、精神的におかしくなって入院した。
手術では治らないという病気は別の意味で辛い。
頼れる人はいなかった。
家族になったような気がする。お味噌汁の味は深くて優しい味がした。
相変わらず仕事と家との往復をしながら、時々病院に通院していた。
そして、冴野さんとは個人的に年の離れた友達であり、同じ病気だったので、相談がてら訪れるようになっていた。
病気のことを話した。
裏表のない冴野さんと一緒にいると同級生の女性といるより、ずっと安心できたし、学べることも多かった。
二次創作やアニメ好きだということも冴野さんには話していた。
キャラクターは歳をとらないし、誠実な対応を裏切らない。影で浮気をしたり、恋人を作ることもない。つまり私だけの恋人というわけだ。夢小説にはたくさんの夢が詰まっていたように思う。甘くて居心地がいい世界だった。今でも当時の推しのことは好きだし、時々現実から逃れるために推しの恋人になる。とはいっても、三十歳にもなった女がそんなことをしていたら、結婚や出産の波に乗り遅れてしまう。本来大人しく積極的ではない私は現実の恋愛はとても苦手だった。まだなの? というせっつくような世間の目も苦手だった。
大学生時代にはまった私の推しは、天使を名乗る死神キャラだった。優しそうで端正な顔立ち。でも、どこか言葉は毒があって、私には炭酸水のような程よい刺激となった。現実にいないであろう完璧なキャラクター。
二次創作のキャラクターなので、原作ありきだ。
彼は、原作では彼女らしき相手もいなかったので、夢小説にはうってつけだった。
とは言っても、こんな妄想を並べた文章を書いていること自体恥ずかしいという感覚は持っていた。
だから、匿名でネットに投稿する。ネット上の知らない人から称賛されることがただ密かなる喜びとなっていた。
妄想が詰め込まれたお菓子のような甘い夢小説はこんな感じだ。
スマホで今でも創作することもあるが、最近は忙しくもっぱら読み専だ。
【魅惑的な天使との夜】
題名はこんな感じで書いた。卒業前に書いた夢小説が一番評価が高く、PVも高かった。
私の好きな『天使を名乗るジュメイに愛されてます』という少女漫画の二次創作だ。
もちろん原作漫画家に許可を取っているわけでもないけど、寛大な原作者様に拍手だ。
原作は短編形式で基本ジュメイが担当する人間は変わる。
ジュメイは本気にならない。でも、女子たちは彼に惹かれてしまう。罪なキャラだ。
一見優しそうなのに実はダークな部分を持った死神。
魅力的で顔もいいのでファンは多い。
架空の登場人物になったつもりで読むとこれは感慨深い。
場合によっては名前変換機能もあるので、自分の本当の名前を文章上で囁いてくれるという驚きのシステムもある。
この情報化時代に驚くこともないんだけど、私が学生の時は画期的だなと感心したシステムだった。
ハッシュタグには天使とか魅惑とかキャラ名のつけてくれたり、ジュメイという名前を付ける。
そうすることで、趣味嗜好の合う仲間が世界のどこかから『いいね』をつけてくれたりレビューを書いてくれた。
プロでもないのに、文章にはこだわっていた。
自分では結構上手なんじゃないかと密かに思っていた。
あとで読み返すと誤字脱字があったりで修正することも多いんだけど。
私が書いた文章は以下のような感じだ。
【魅惑的な天使との夜】
私は小さい頃から病弱で、学校にもあまり行けていなかった。遊園地に行ったことや一般的なレジャーなど楽しい経験はあまりない。体に負担をかけるアウトドアやスポーツは経験があまりない。なにもできないまま、私は命が終わってしまうのだろうか。もしかしたら、よくなってちゃんと大人になれるかもしれない。長く生きていけるのかもしれない。先が見えない毎日。アルコールの香りに囲まれた白い檻の中で私は死んでしまうのだろうか。恋愛も友達との遊びも学校生活もこの先、絶望的だ。いつ死んでもおかしくない弱い体。己を憎む。病院での生活が当たり前となった体。普通がよかった。普通の体で生まれたかった。一般的な同世代が羨ましい。
とても不安な気持ちになる。ひとりぼっちはどうしようもなく寂しい気持ちになる。薬品のにおいのする病室、無機質な部屋のつくりも娯楽とは縁遠い。学校にあまり行けていないので友達はいない。何故、私は生まれてきたのだろうか? 窓の外の桜の木を見つめる。家族も仕事があり、ずっと一緒にいるわけではない。毎日会えるわけではない。私は、孤独だ。
入院している窓から見える桜は花びらが散ってしまい、青々とした新緑に覆われていたのにいつのまにか紅葉していた。私は何もしていないのに、季節だけが変わっていく。木の葉がどんどん落ちていき、枝ばかりになる様子を見ているとさびしい気持ちになる。私も、冬の枯れ木みたいになって終わっていくのだろうか。マイナス思考になる。話し相手は看護師さん、医師くらいだろうか。そして家族。青春らしい思い出もないなんて、私の体は欠陥品だ。
すると、声が聞こえた。幻聴だろうかと耳を疑う。
「俺は天使だ。君の好きな場所に連れて行ってあげるよ」
そこにはきれいな顔の少年がいた。突然どこからか入ってきたようだ。
「まさか、そんなことできるわけないでしょ。ここは病院で入院中なんだから、あなた誰なの? 何者?」
私の目は疑いに満ちていた。
「天使の力だったら幽体離脱でばれないように外にいけるよ。実体には負担はかからないから、病気でも息切れすることなく空を飛んで移動できるんだよ」
信じられないけれど、天使という彼は、宙に浮いていた。普通の人間ではないらしい。そして、私以外の人間には見えないとのことだ。
天使と名乗る彼は、ある日、突然現れて、私が望むねがいをかなえてくれた。無限に広がる空の世界は斬新だった。幽体離脱する時間は看護師が来ない時間帯で私が寝ている時間。長い入院でどの時間帯に見回りが来るかどうかは把握できていたし、肉体に負担がかからないから、苦しくはない。幽体離脱には天使が側にいなければいけないから、必然的にいつも彼と一緒だ。
上を見ると粉を散らばめたような星が輝く広い世界。下を見ると、広がる金平糖みたいなピカピカの景色が私を包む。俗に言うイルミネーションとか夜景というものを私は病院の窓からしか見たことがなかった。思いのほか、空の上はちっとも怖くなかった。少年の手が私の手を握ってくれていたからかもしれない。
遊園地、公園、夜だけれど特別な空間だ。ずっと行きたくても行けなかった場所にいけたことは大変ありがたい。同じ歳くらいの男の子と一緒に行くこと自体初めての体験だ。
彼は、想像していた天使そのものだった。
思わせぶりに、にこりと笑うと、じっと漆黒の瞳で私の顔をのぞきこむ。
距離が近いので、私の心臓はおかしくそうだ。
「こんなに話が合うとは思わなかった。もしよかったら、一緒に闘病してください」
「一番近くで支えられたら幸せだって思ってる」
天使は今日も私を連れ出してくれる。幽体離脱は肉体の疲れがないので、実体には影響が全くないようだ。
ビルの屋上に二人で座る。
「デートみたいだね」
私が言うと、天使は少し照れくさそうな顔をして片手を自分の頭の上に置きながら髪の毛を触っている。空を見上げながら天使は優しく微笑む。
ある日の夜、彼はどこかに連れていこうとはしない。しばらくの沈黙が続く。
「実は……もっと楽しみたかったんだけれど……もう期限が来るんだ」
「期限?」
「もう今日から幽体離脱のデートはできないんだ」
「どういうこと?」
彼は真剣な目をする。
「俺は本当は天使なんかじゃないんだ。君を輪廻転生させる存在だ。実は期限ぎりぎりまで君を生かしていたんだけれど、期限を過ぎるとペナルティーがあるから、僕はあの世に君を連れていかなければいけないんだ」
「死神なの?」
「……うん。ゴメン、今まで黙っていて」
死神だと名乗る少年は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。イメージしていた死神とは違う。不気味さも恐怖もない。そこには優しさしかなかった。
「なんとなくわかっていたよ。こんな不思議な事、天使か死神くらいじゃなきゃできないでしょ?」
私はあっさりと事実を受け入れていた。
「ペナルティーって何かあるの?」
「生まれ変わったら好きな人と一緒になれないんだ」
彼は私をあの世に導く。
彼の正体は死神だった。
でも、世界中の誰よりも優しい私にとっては天使同様の神様だ。
彼は、今までできなかったことをたくさん実現させてくれた。
死ぬ前に一度くらい体験してみたかったデート。
それをかなえてくれた彼は世界一優しい死神だ。
「ありがとう。大好きだよ」
星空の中で、私の体はまるで小さな星のように砂のように散ってしまう。
つないでいた手がほどかれた。
「ありがとう。俺も君が好きだった。長く生きてほしいから、ぎりぎりまで会いに行くのを待ったんだ。でも、もう迎えに行けと上から命令されて。天使という嘘をついてごめん。気持ちを伝えたら、君専属をはずされてしまうから……好きだなんて言えなかった。死神失格だな」
罪悪感を感じながら、彼は申し訳なさそうに悲しい顔をした。涙を浮かべている。死神なのに、情が深いんだね。
私の視界に映るのはただ闇だけになった。もう何もない世界に来てしまったようだ。
私は次の世界に行く準備をはじめる。
そう、枯れ木が春に向かって芽を出す準備をするように。
告白と死は終わりじゃない。はじまりだ。
そこには死神だったはずの彼が待っていて――一緒に手をつないで次の世界に旅立つ。彼と私の間には赤い糸が見える。運命の赤い糸というのは、生まれる前に決まっているんだね。そして、大きくなった時にめぐりあえることが約束されているんだね。
明るい世界に向かって私は彼と手をつないで歩き出す。
新しい命として生命は輪廻するんだね。
あと何年かたったらまた君に会えるね。
完
我ながら惚れ惚れする。なかなかの傑作だ。
でも、現実は彼氏もいないし、イケメンの天使や死神が現れるわけでもない。
それに、病気という事実が重くのしかかる。どこか今の自分と重なる。まるで予知小説みたいだ。
もし、結婚や出産をするなら抗がん治療との両立はできるのか?
最近検査でわかったためまだ何も調べていなかった。
術後、どれくらい経てば出産ができるのだろうか。
予定もないけど、卵子凍結をしたほうがいいのだろうかと考える。
図書の仕事は子どもたちに貸し出しをしたり、返却作業をしたりであっという間に夕方となった。
静かな時間が図書館に訪れる。
夕方、見慣れない男性が図書室を訪れた。冴野さんの一人息子の冴野楽希だった。
彼はここの卒業生らしく、懐かしそうに本を眺めていた。
「ラッキーとかけて楽希という名前になったんだ。楽しい希望という漢字は気分を上げてくれるだろ。名前が珍しいから、図書カードを見て話してみたいって声をかけられたこともあったなぁ」
懐かしそうな眼をする。
冴野さんにとても似た瞳だ。
もしかして、私の病気のこと聞いたかな?
「もし、何かあったら連絡して。うちの母も会いたいって言ってたからいつでも遊びに来てよ。母親はずっと地域ボランティアをしていたからここへの想いは誰よりも熱いんだ」
私は記念誌担当だったので、打ち合わせがてらしょっちゅう遊びに行った。
週末や仕事帰りに遊びに行く前には一応楽希に連絡を入れるようにした。
それが礼儀だと思ったから。
彼は仕事が終わってから、夕食を食べに実家を訪れたり、週末は家の掃除や片づけをしに来ていた。
職場が近いらしい。
卒業後に彼と仲良くなるとは思わなかった。
気が合わないかもしれないというのは杞憂だった。
「俺、婚活したりしたんだけど、外見から入っちゃうから、あまりお見合い向けではないらしい。仕事してる方が楽かな」
「彼女いないの?」
「以前図書カードの名前を見て大学で声をかけられて付き合ったことはあるんだけど、卒業して、忙しくなって自然消滅」
意外と経験が少ないらしい。モテそうなのにあまりぐいぐい入り込まないから、付き合うまではいかないのかもしれない。
今日は冴野さんの家を訪ねて十回目となる。
文集のうちあわせもあり、ご飯をその度作ってもらったりして、家族みたいな付き合いになっていた。
ごはんの味に馴染んでしまっている自分がいた。
二人きりで、庭先で初夏の家庭用花火をした。楽希が初物を買ってきたらしい。
線香花火をどう長く最後まで火を灯すかは醍醐味だ。
緑から赤に変わる家庭用花火は勢いがあり、変色の色合いも好きだ。
友達だとしても、普通は健康で若い女性がいいと思う。
正直に話そう。
「私、乳がんの初期みたいなんだ。黙っていてごめん。今後、手術とか治療とか色々あって……」
「話は聞いてるよ。いつも母の相手をしてくれてありがとう」
「私、これから手術をしてから、抗がん剤をしなければいけないかもしれない。運が良ければ脱毛するような薬を使う必要はないみたい。でも、私は女性ホルモンのせいでがんを引き起こしたの。だから、女性ホルモンを薬を飲んで抑制しないと再発するかもしれない。出産も普通の人みたいにすんなりとはいかないと思うから婚活どころじゃないんだよね」
「母は、病院で検査を受けたんだけど、ステージ二以上らしい。触ると小石みたいなしこりがあるんだ。だから、抗がん剤を受けてからの手術なんだ」
「私は自分ではしこりがわからない程度なんだよね」
「顔つきがいいがんなのかもしれないな」
がんには顔つきがあって、穏やかでゆっくり進行するがんは顔つきがいいと言われている。
顔つきが悪いと進行が早く、転移があったり治療に時間を要することもある。
がんの治療は十人十色だ。
「これから大変だけど、連絡してもいいかな?」
「これからのことはわからないよ。多分全摘出ではないから、放射線で焼かなければいけないみたい。リンパも取るからむくみやすくなるかもしれない。リンパを調べて転移しているかどうかがわかるみたい。放射線で焼く場所も切り傷も二か所になると思うし、初期だとしても、転移の可能性もまだ拭えないから」
「俺もいつ病気になるかわからない。若くても、明日何かが発覚するかもしれない。美幸さんは幸せという漢字が入っているから、幸せを呼べる人だと思うんだ。幸い初期でよかったって思ってる」
優しい人だな。
「正直こんなに話が合うとは思わなかった。もしよかったら、一緒に闘病してくれたら心強いな」
こんなこと言っていいのかな。
「一番近くで支えられたら幸せだって思ってる」
まるで夢小説みたいなセリフ。これは夢小説で使ったことがある。
思わず口角が上がる。
一人で抱えていた病気の秘密生きていればは共有することで少し楽になった。
「君のとなりで支えたい」
「私には、なんにもないよ」
彼は全てを受け止めうなずいた。
なんにもない私に支えたいと言ってくれる人が現れた。
「家庭用花火のように小規模ながら力になれればと思ってる」
「家庭用花火って意外とすごいんだから。毎日自宅で楽しめるんだよ」
「これ発明した人天才だな」
私は暗がりの中、庭先に座りながら初めて男性と手をつないだ。
花火の火が消えると庭は真っ暗な闇に包まれる。
彼は私のおでこにそっと唇をあてた。
優しい優しいキスだった。
「教諭にも育休代替とか任期付き教諭になると、病休も取れるし、ボーナスも出るんだ。免許あるなら、図書館でなくてもそっちのほうが福利厚生が整ってると思うよ。それに、正規の職員にもなりやすいんだ。まだ年齢的にも大丈夫だろ」
彼は私に色々と情報を教えてくれた。
「学習支援員をしていたときに、教える楽しさとか喜びがあったんだ。でも、いつの間にかその現場から逃げたのかもしれない。ずっと採用されなかったから」
また教諭として子どもに接してみようかな。
いつのまにか、何にもない自分ではなくなっていた。
「まだ三十歳だろ」
もう三十歳だからと諦めていた私に彼はまだと言ってくれた。前置詞一つで変わる。
その少し後に冴野さんは入院した。手術の前に抗がん剤を投薬して小さくしてから手術をするらしい。
私はこれから手術の予定が入っている。
未来はわからないし、飲み薬の副作用がどんなものかもわからない。
女性ホルモンが少なくなれば女性らしさが失われるかもしれない。
「いってきます」
「待ってるから」
体の傷は、どの程度になるのかわからない。
でも、待っててくれる人がいる。
未来への一歩を白い建物の中へと踏み出した。