夜の街を、人目を避けて歩いた。
 彼氏と彼女の距離より少し遠い、友だちの距離感で、並んで歩く。

 沈黙が続いて、とても気まずい。
 ホテルのネオンで照らされた横顔を盗み見ると、海斗くんは見たことのないくらい厳しい顔をしていた。
 海斗くんの感情を読み取ろうとするけれど、私には難しい。

 いくつか並ぶホテルの中で、海斗くんはお城みたいな外観のホテルを選んだ。
 ここでいい? と訊かれて、頷いた瞬間に、実感が湧いてきた。

 初めて入ったラブホテル。
 部屋の中はピカピカに掃除されていて、ベッドメイクも完璧。
 家具や照明も洋風のおしゃれな家、という印象だ。

 それでも私の心臓はうるさくて、鳴り止まない。
 いや、心臓に止まられても困るけれど、さすがに大音量すぎる。
 海斗くんに聞こえてしまうのではないかと不安に思っていると、しっかりと目が合ってしまう。

 まだどこか迷っているような。
 それでいてしっかり心を決めたような。
 少し色素の薄い瞳が、私をじっと見つめている。

「シャワー、どうする?」
「あ、浴びる……!」
「んじゃ先どうぞ」

 海斗くんの口からシャワーなんて単語が出たものだから、いよいよ私の心臓は口から飛び出そうになってしまって。
 それでも緊張を悟られないように、平静を装ってシャワールームに入った。
 たっぷり時間をかけて身を清め、下着とバスローブを身にまとい、震える足でベッドルームに戻った。

「お待たせしました…………」
「……俺も、シャワー浴びてくる」

 ベッドの中で待つのはさすがに無理だった。
 これからする行為を、意識してしまうから。

 でもどうやって待っていればいいのか分からなくて、ソファとベッドの間をうろうろしていた。

「あれ、なんで立ってんの」

 しばらくして髪を濡らした海斗くんがお風呂から出てきて、私は息を飲んだ。
 バスローブ姿で、髪が濡れているというだけですごく色っぽい。
 ドキドキとうるさい心臓の音は無視して、私は海斗くんの問いに答える。

「な、なんか落ち着かなくて!」
「それなー。俺も、今超そわそわしてるもん。何なら緊張してる」
「えっ、海斗くんも?」

 そう言ったことで、自分が緊張していることを告白してしまったのだから、やっぱり私はバカだ。

 海斗くんは私に笑いかけて、手を差し出す。
 おいで、という短い一言が、私の胸をきゅうと締め付けた。
 ドキドキしながら海斗くんに近寄り、その手にそっと私の手を重ねる。
 男の人の手だ、なんて考えていると、ぎゅっと手を握られて、ベッドに導かれた。

 とすん、と背中がベッドに倒れこんだけれど、スプリングのおかげで痛くはない。
 どちらかと言うと心臓の方が痛い。
 私に覆い被さる海斗くんの表情が、すごく真剣で。

 でもきれいな目は少し揺れている気がした。

「本当にいいの?」

 居酒屋で海斗くんが私に聞いた言葉を、今度は私が彼に投げかける。
 その瞬間、海斗くんの表情に迷いが浮かんだ。

 何も言われなくても、わずかな表情の変化で悟ってしまう。
 だって私、海斗くんのことが好きだから。

 海斗くんの喉仏が上下に動く。
 私の問いに答えないまま、キスをしようとする海斗くん。
 二人の顔が近づいて、唇が重なるその前に、私は自分の手を間に滑り込ませた。

「…………咲子?」
「やめよっか!」

 私は無理に明るい声を出して、海斗くんの胸を押し返す。
 覆い被さっていた海斗くんが、戸惑った顔でベッドに座り込むのを見て、私も身体を起こした。

「私が好きな海斗くんは、好きな人に一途でまっすぐで優しくて、浮気なんてしないんだよ」

 たとえ彼女が浮気をしていても。
 海斗くんは、腹いせに浮気をしようだなんて考えない人だ。

 そんな一途な海斗くんだから、この気持ちは叶わない、と私は諦めるしかなかったんだ。
 そんなまっすぐな海斗くんだから、私はこの気持ちをずっと捨てられないんだ。

「…………今の言い方だと、私がまだ海斗くんのことを好きみたいだね」

 誤解ではないけれど、この気持ちがバレてしまっては困るので、私はさっきの言葉を訂正する。

「私が好きだった海斗くんは、浮気なんて絶対にしないよ」

 芽夢ちゃんも、そういう海斗くんが好きなのかも。
 私の言葉に、海斗くんが泣きそうな顔をした。

「浮気してても海斗くんと付き合ってるのは、芽夢ちゃんなりに海斗くんのことが好きだからじゃないかなぁ」
「芽夢ちゃんが、俺を…………」
「うん! 私は芽夢ちゃんと会ったことないから、想像だけどね!」

 だって海斗くんのことが好きでなければ、浮気がバレたときに、きっとそのまま別れていたはずだから。
 私や海斗くんの価値観とは違うかもしれない。
 でもきっと、芽夢ちゃんも海斗くんのことが好きなんだ。

 ごめん、と海斗くんが頭を下げる。
 顔を上げたとき、海斗くんの目には迷いがなくなっていた。

「俺、芽夢ちゃんと話す。ごめん、咲子。巻き込んで、こんなところまで連れてきちゃって」
「やだな〜、私が誘ったんだよ?」
「……うん、ありがとう」

 私のおかげでやっと前に進めそうだ、と海斗くんは言った。

 ラブホテルに来て、シャワーを浴びて、バスローブに着替えて、ベッドまでもつれ込んだ。
 それなのに、何もしないで帰るなんて、なかなかの笑い話になりそう。

 そんなことを考えて、私は笑う。
 本当は苦しくてたまらなかった。
 無理矢理にでも笑顔を作らないと、涙が溢れてしまいそうだった。

 どうしたって、私は芽夢ちゃんにはなれない。
 海斗くんの運命の人には、なれない。
 
 失恋を思い知らされた夜。
 きっと私は、この夜を一生忘れないと思う。