ふと意識を取り戻した私が、恐る恐る瞼を開ける。すると目の前には、薄暗くて静かな無の空間が広がっていた。
まだ半年しか着ていない高校のセーラー服と、その上にカーディガンを羽織り。
学校から帰宅したらすぐに解くはずのポニーテールも、後頭部で未だに揺れている。
残暑が続いた秋はようやく過ごしやすい気候になるも、夜は急に冷え込む時期を迎えた。
なのに、ここは寒いどころか風も音も、光もない。
そんな場所に、なぜか一人で佇んでいた。
「ここ、どこ?」
首を傾げながら、私は記憶を遡る。
たしか、夕飯のあと早急にお風呂を済ませた。そして、自分の部屋のベッドの上で、まったりとスマホを操作していたはず。
友達のSNSをチェックし、いいねボタンを押しているうちに――。
「……なるほど、そのまま寝落ちしたのね?」
私は顎に指を添え、探偵のようなポーズで呟いた。
ということは、ここは夢の中。
そう理解すると、何だか一人きりという不安が取り除かれた。
私はローファーを履いた足で、前方なのか後方なのかもわからない薄暗い中を、躊躇なく歩きはじめる。『今日はどんな夢を見せてくれるだろうか』なんて、上から目線な気持ちを抱きながら。
すると、不意に背後から聞き覚えのある声がした。
「紫乃〜!」
名前を呼ばれて振り向くと、薄暗い中を学ランを着た男子校生が駆け寄ってくる。
量産型の黒髪ストレートマッシュに、いつも周囲の人を惹きつける優しい顔立ち。
くしゃっと笑って目尻を垂らす別クラスの彼は、私の前で立ち止まった。
「え、辰希?」
私がそう呼んだ瞬間、薄暗い異空間がパッと強い光に包まれる。
そして突然、別の場所へと瞬間移動したように、風景が切り替わったのだ。
夕暮れ時を思わせる西の空は茜色に染まっていて、夏に比べると日の入り時間が早くなったこの頃。
いつもの通学路が、目を細めたくなるほどの眩しい夕日に照らされている。
つまり、夢の中の“今”が学校の帰り道だと理解した。
「紫乃、今帰り?」
「あ……うん、委員会だった。辰希は部活?」
にしては早い時間の帰宅だ。
頭ひとつ分背の高い辰希を見上げながら、私が不思議に思う。
すると、夕日を全身に浴びる辰希は、ごく自然な笑顔で答えてくれた。
「紫乃と帰るために部活休んだ」
「え⁉︎」
何の悪びれもない様子の辰希に、私は少しだけ苛立ちを覚える。
その思わせぶりな発言が、私の心を大きく揺さぶったから。
それに、辰希は小学生の頃からサッカーを頑張っている。
高校のサッカー部に入部してからは、一年生にしてレギュラー選手に選ばれたと喜んでいた。
そんな部活を“紫乃と帰るため”なんて理由で、休むような辰希ではない。
(サッカーより、私を優先するなんて……)
そもそも、地元と学区が一緒というだけの私たち。
同じ高校に入学してからは、自然と幼馴染ポジションとなった二人なのに。
辰希が私と一緒に帰ることに、何のメリットが?
色々と設定がおかしいと思ったけれど、ここが夢の中だと再確認して腑に落ちた。
(夢って、変なこと起きがちだもんね)
だから、辰希が私を追いかけてきてくれたこと。
そして一緒に帰りたいと言ってくれたことを、今は素直に喜ぶことにした。
「そういえば、もうすぐ神社のお祭りだな」
ともに帰り道を歩いているとき、辰希がポツリと言い出した。
私は小さく頷きながら、去年のお祭り風景を思い出す。
毎年、夏と秋に開催される地元の神社のお祭り。
境内には露店がいくつも並び、町内会役員の大人たちも、地元の子供たちも張り切って参加する。
そんな大掛かりなイベントを、一週間後の土日に控えていた。
「辰希は行くの?」
「んー紫乃が行くなら行く」
「ふふ、何それ」
私は子供みたいなことを言う辰希が可愛くて、つい笑ってしまう。
すると、辰希は沈黙したまま足を止めた。
一歩前に出たところで私が振り返ると、少し膨れ顔をした辰希が視界に入る。
何かまずいことでも言ったかな?と不安に思ったとき。
辰希は突然、私の手をとってきた。
「紫乃と、一緒に行きたいってこと」
「っえ?」
そう宣言した辰希は、真剣な表情と憂いを帯びた瞳を私に向けてくる。
その頬は微かに赤く染まっているのが確認できて、私の心臓も大きく跳ね上がった。
すると、再び強い光に包まれて、別の場所へと切り替わる。
(ま、また⁉︎)
さっきまで夕暮れ時の通学路を歩いていたのに、いつの間にか日は沈み東の空に満月が見えていた。
次に私と辰希が飛ばされたのは、地元の神社の境内。
お祭りは来週の土日だというのに、すでに石畳みの参道沿いには露店がずらりと並んでいる。
頭上には、無数の提灯がぶら下がり闇夜を照らし。
制服を着ていたはずの私たちは、お祭りによく馴染む浴衣を身に纏っていた。
白地に花柄が鏤められた浴衣に、オレンジ色の帯を巻く私。
そして辰希は藍色の縦縞浴衣を着て、いつもと違う色気を漂わせていた。
「あ、あれ? なんで……?」
「ほら紫乃、行こう!」
何の違和感も覚えない様子の辰希は、戸惑う私と手を繋いで参道を歩きはじめた。
互いの下駄が、カランコロンと音を鳴らす。
周囲には、焼きそばやたこ焼きを販売する露店のほか、水ヨーヨーやわたあめも目につく。
ただ、不自然だつたのはすべての露店に店番の人が不在だったこと。
しかし「これも夢の中だから」と受け入れていく。
そうして、徐々にお祭りムードを楽しめるようになっていた私は、きっと子供のように瞳を輝かせていたに違いない。
辰希も笑みを浮かべていて、楽しい雰囲気のまま露店を回った。
まるでデートのような時間を、私は辰希と過ごす。
「紫乃、見てみて」
言いながら辰希が指を指したのは、お面の露店。
今流行りのキャラクターものから、お馴染みのひょっとこやおかめまで。
幅広いお面が飾られている中、辰希が手に取ったのは――。
「これ、紫乃につけてあげるよ」
花柄が描かれたピンク色の狐のお面。
それを私の頭につけるため、辰希はスッと急接近してきた。
(わ……近いっ……)
手を繋いだ時の距離は全く違う。
目の前を辰希の体で遮られ、抱きしめられる直前のような感覚。
いつもと変わらない調子の辰希は、そのまま私の頭にお面をつけ終えた。
私だけが意識しているようで悔しい反面、気恥ずかしくて視線を逸らす。
今までにないくらい、心臓が音を立てているのがわかった。
「よし! 次、紫乃が選んで俺につけてよ」
「……わ、わかった」
使命感に駆られた私は、どれにしようかと真剣にお面を眺めた。
そして、小学生の頃に辰希が好きだったライダー系のお面を手に取ろうとする。
「こら紫乃、俺もう高校男児なんですけどー」
私の悪巧みがわかったらしい辰希が、腕を組んで監視してきた。
「あ、そうでしたそうでした」
「面白がってんな?」
バレたか、と私が笑ってみせると、辰希もため息を漏らしながら微笑んでくれた。
気心知れた辰希だからできる会話に、私も安心するし楽しくなる。
そうしているうちに、ずっと誤魔化してきた気持ちが、徐々に耐えきれなくなるのも自覚していた。
だけど、ここは私の夢の中。
今だけは許されると思って、辰希が私に選んでくれた狐のお面の水色バージョンを手にとった。
「お揃いでいい?」
私がそう尋ねると、頬を緩ませた辰希が「んっ」と言って頭を差し出す。
その意味を理解して、私は丁寧にお面をつけてあげた。
だけど、それだけでは物足りなくて、最後にそっと撫でるように黒髪を触った。
気づくか気づかないかの微妙な触れ方だったけれど、顔を上げた辰希は不思議そうな顔で尋ねてきた。
「髪に何かついてた?」
髪に触れたことを気づかれて、私は咄嗟に理由を考える。
そして、両手で大きな丸を作ってみせた。
「実は、こんなに大きなカメムシが――」
「最悪!」
そんな大きなカメムシは、この国に存在しないのに。
一気に青ざめて顔を歪ませた辰希は、小学生の頃虫が苦手だった。
今もそれは変わっていないようで、少しだけ懐かしさを覚えたと同時に申し訳ない気持ちを抱く。
未だにそれほど嫌がるとは思ってもみなかったから、私は両手を合わせて「ごめんウソ」と謝罪した。
それを聞いた辰希は無言のまま睨んできたあと、人差し指で私の頬を優しく突いてくる。
「もっと可愛いウソにしろよ」
さっきの、虫に対する拒絶反応が恥ずかしかったのか。
それとも、私の頬を突いたことが恥ずかしかったのか。
理由はわからないけれど、ほんのり赤く染めた辰希の耳を見て、何とも言えない想いが私の中で膨らんだ。
「……可愛いウソって、たとえば……?」
友達同士の楽しい雰囲気だったはずなのに、辰希の反応と放たれた一言で少しだけ甘くなる。
そんな気がして思わず聞き返すと、辰希もそれなりの回答をした。
「さ、触りたかった、とか?」
自分で言っておきながら、辰希の耳はさらに赤くなる。
どんなつもりでそんなことを口にしたのか、今すぐにでも問いただしたかったけれど。
辰希は一つだけ勘違いをしている。私はそれを、修正したかった。
「……それじゃ、ウソにならないよ」
だって、私はいつでも辰希に触れたいと思っているから。
隣を歩いて、手を繋いで、一緒に通学路を歩きたい。
地元のお祭りだけじゃなく、他にも一緒に行きたいところがたくさんある。
だから、辰希の言う“たとえば”は、私の本音なんだと叫びたくなった。
バァン!
その時、突然の大きな爆発音が鳴り響いて、私は空へと視線を向ける。
そうだ。神社のお祭りは、終わりの時間が近づくと締めに花火を打ち上げるのが恒例だった。
ということは、もう帰らなくてはいけないのか。
私が寂しい気持ちを抱きながら視線を戻すと、辰希はまだ空を見ていた。
その横顔から、なんとなく物悲しい雰囲気が漂っていて、私と同じ気持ちであることが窺えた。
「……紫乃」
空に向かって私の名前を呼んだ辰希が、ゆっくりと視線を動かす。
そうして目が合ったとき、辰希は切ない表情を浮かべながら私の頬に手を添えた。
「今まで気づけなくて、ごめん」
「いいよ。私もずっと隠してきたから……」
私の想いに気づいたような辰希が、小さな声で謝った。
夢の中なら素直になれる私が、鈍感な辰希を許す。
小学校から今までずっと一緒の、ただの幼馴染を貫いてきたけれど。
私だけが、いつの間にか辰希を男の子として意識するようになった。
もしかすると、ずっと前からそんな気持ちは始まっていたのかもしれない。
ただ、高校生になってやっと確信したのは間違いなくて。
そして、気づいた頃にはもう、辰希は――。
「私、ずっと辰希が好きだった……」
辰希の目を見て、私の秘めた想いをはっきりと言葉にして打ち明けた。
すると、特別驚いた様子もない辰希は、徐々に鼻先の距離を詰めてくる。
そして、私が一番求めていた言葉をくれた。
「俺も、紫乃が好きだよ」
ピピピピピ!
大音量のアラーム音で、本当の目覚めの朝を迎えた私。
慌ててスマホを操作して、アラーム音を止める。
自分で設定したくせに、乱暴に起こされて気分は最悪だった。
いや、なにも起こされ方だけを言っているのではなくて。
「……いつも、いいところで目が覚める……」
夜空に打ち上がった花火をバックに、辰希の顔が近づいてくる。
あれはもうキス以外に考えられない場面なのに、いつも私の夢は肝心なその先を見せてくれないのだ。
所詮夢だし。と思っていつも割り切るけれど、夢から覚めた後の虚無感は計り知れない。
大きなため息を漏らした私は、そっとベッドから下りる。
そうして本日も、辰希と同じ高校へと登校する準備をはじめた。
雨は降っていないけれど、どこかどんよりとした雲が空を覆う登校時間。
まるで私の心を映し出している空模様に、何だか笑ってしまいそうになった。
通学路を二十分ほど歩いて、短い坂を上がったところに校門が見えてきた。
その時、背後から聞き覚えのある声で名前を呼ばれる。
「紫乃!」
一瞬、昨夜見た夢と同じだと思った私が疑いもなく振り向いた。
すると視界に入ったのは、夢に出てきたままの微笑む辰希。
しかし、夢とは違う展開が目の前に待ち構えていた。
その隣には、艶やかな栗色ロングヘアとくっきり二重の垂れ目が可愛らしい、一人の女子高生。
辰希と同じクラスで、一ヶ月前から交際している水野さんだ。
「はよー、雨降ってなくてよかったな」
「……おはよう」
「あれ? 元気ない、寝不足?」
なんとか平常心で挨拶を返した私に向かって、辰希が尋ねてくる。
寝不足ではない。むしろ昨夜は良い夢を見させてもらった。
ただ、その後の辛い現実を、たった今突きつけられたから元気がないのだ。
だけど夢から覚めれば、私はいつもそれと向き合わなければならない運命にある。
「……面白い動画見てたら、夜更かししちゃっただけ」
「へーそんなに面白いんだ。俺にも教えてよ」
彼女の水野さんが隣にいるにもかかわらず、私との会話を続けようとする辰希。
その無自覚な性格が、私の傷を深く抉っているとも知らず。
「虫の動画だけどいいの?」
「うわ、それ以上話すな」
私がわざと興味を削ぐウソをつくと、辰希は潔く引いてくれた。
眉根を寄せて本気で嫌がっていたけれど、きっと心では私との会話を楽しんでくれているはず。
なのに私は、朝から辰気と会話できたことを、素直に喜べない。
そんな私たちを妨害するように、彼女の水野さんが辰希の腕を絡めとった。
「ねえ辰希、早く行こうよ」
「あ、ごめん。じゃあ紫乃またな」
水野さんの一言で会話を終わらせた辰希は、私を横切って水野さんとともに歩き出した。
そのとき、微かに聞こえてきた二人の会話が、私をさらに不快にさせる。
「今日の放課後、サッカー部休んでデート行こうよ」
「うーん、大会近いんだよなー」
「ちょっとくらいいいじゃん。お願い辰希ぃ」
部活に一生懸命取り組んでいる辰希に向かって、水野さんはありえない提案をしていた。
困っている様子が窺えた辰希は、はっきりとは断らず。
どうやら彼女のお願いには、判断力が鈍ってしまうようだった。
そうして二人は、私より先に校門をくぐっていった。
(……辰希のことが好きなら、応援してあげてよっ)
ただの幼馴染の私が、心の中で不満を漏らした。
だけど、そんな水野さんを選んだのは辰希だ。
二人が校舎内に消えていく後ろ姿を見送って、私は曇り空に目を向ける。
夢の中では素直になれるのに、現実世界ではこの有様。
私が辰希への好意に気づいたのも、「水野さんと付き合うことになった」と辰希から報告を受けた時なのだから。
何もかもが遅かった私の、完全なる自業自得。
涙なんてものは、流す資格がないからとっくに何処かへ飛んでいってしまった。
(……早く、夜にならないかな)
そんな思いを馳せながら、私は校舎の中へと入り、始まったばかりの一日を過ごすことになる。
見たくない現実を頑張って乗り越えたら、必ず夜は訪れる。
そうしてベッドに潜り目を閉じれば、私を夢の世界へと誘ってくれるのだ。
毎回見られるものでもないし、悪夢を見ることだってある。
だけど運よく辰希が出てきてくれたら、周囲の目も彼女の存在も気にしなくていい世界が待っている。
その時だけ、私は辰希に触れることも、素直に想いを伝えることも許される。
次は遊園地に行こうか、映画館も良いな。なんて夢の中でのデートプランを私は考え、それを楽しみにする。
この恋が報われなくても、そんな一度きりの夜を過ごせるだけで、行き場のない悲しみは軽減されるから。
だから、せめて今夜も――。
夢の中では、叶わぬ恋を叶えさせてと願うんだ。
fin.