「こ、ここは……?」

 ローズが目を覚ましたのは、埃っぽい古い建物の中だった。
 天井の中心にはガラス細工の天窓があり、崩れかけた壁には蔦が這い、薄汚れた窓はところどころひび割れている。
 ローズの体は赤い薔薇の茨に覆われており、少しでも動けば棘が刺さって血が滲んだ。
 彼女の胸元には大きな赤い石がくくりつけられ、石の周りには、黒い靄のようなものが浮かんでいた。

「目がさめましたか」

 抑揚のない声が聞こえてローズが視線をうつすと、そこには目隠しをした、小さな一人の少年が立っていた。 
 子どもが纏う雰囲気は、ローズには何故か、ベアトリーチェによく似ているように思えた。

「貴方は……?」

 ローズは、尋ねてから顔を顰めた。
 『占いの館』で意識を失う少し前――自分はこの子どもと、会ったような気がしたからだ。
 体に力が入らない。気を抜いたら、ローズはすぐに意識が飛んでしまいそうだった。
 
 ――あの時、この子はなんと言ったんだった……?

 ローズは思い出そうとして――ふと、少年の首から提げられていたあるものに気が付いて大きく目を見開いた。

 彼の首から提げられていたのは、沢山の精霊晶。
 それは、精霊病の罹患者の心臓の石だ。
 ロイほどの王が苦労して集めたそれを、ただの子どもにしか見えない彼が所持していることは、明らかに異常だった。

「どうして貴方が、その石を……」
「これですか? ……そもそもこれは、私が作ったものですから」

 ――作った?

 子どもの言葉に、ローズは耳を疑った。
 青い薔薇。屍花で作られた特効薬。
 ベアトーチェの最愛の少女や、沢山の人間を死に追いやったその病を、この少年が作ったと?

「私は『天才』ではありません。ただ、私には時間があった。貴方もよく知っているでしょう? 『神の祝福を受けた子ども』という存在を」

 子どもの声は、まるで笑っているようですらあった。

「人とは異なる時間を生きる私は、あらゆる不可能を可能に出来る。私一人で、違う世界から一人の人間を召喚することも」
「召喚魔法は、聖女や勇者の召喚以外は――……」
「禁じられている? それを、私に守る義理があるとでも?」

 召喚魔法が現在禁じられているのは、魔法を使うことで『歪み』が大きくなるせいだ。
 それが大きくなればなるほど、世界と世界の境界が曖昧になり、二つの世界での『魂』や『肉体』の交換が起きやすくなってしまうため、今は法律で禁じられている。

「それでは貴方が……貴方が、アカリをこの世界に連れてきた方なのですか……?」

 実はアカリの話を聞いてから、ローズは彼女の召喚について疑問に思った点があった。
 アカリ・ナナセの召喚は、少し奇妙な点があったらしい。
 異世界の門を開くとき、記録によれば魔法陣は白く光ると記載があったのに、何故か彼女の召還時の光は黄金色だったというのだ。
 聖女召喚は珍しい魔法だからこそ、単なる記録の間違いだと思われていたらしいが――それがもし、何者かによる魔法の介入の証だったとしたら?

「その通り」
 『精霊病』を流行らせ、『精霊晶』をつくり、異世界から『光の聖女』を召喚した。
 ローズには、子どもがどうしてこんなことをするのか理解出来なかった。

「なぜ……なぜ貴方はこんなことを……」
 ローズは震える声で尋ねた。

「――この世界は、私の『王』を裏切った」

 子どもは、無感情な声で言った。

「裏、切った……?」
「あの方はこの世界で誰よりも、強い魔力を持っていた。誰よりも優しく、そして他国の王の心さえ得て不可能を可能にした私の王を――この世界は、この世界の人間たちは忘れてしまった……!」

 子どもの言葉を聞いて、ローズの中にとある王が頭に浮かんだ。
 かつて兄に読んでもらった絵本。
 学院でローズたちが演じた劇『心優しいお姫様』の元になった話。

 『優しい王様』
 強い魔力を持ち、民に慕われ――だが優しすぎたがゆえに身を滅ぼした、悲しい一人の男の話を。

 絵本によると、王は民に分身である人形を分け与えたという。
 人形のおかげで国は栄え、国民は王に感謝したが、結果としてその人形は王が魔力を肩代わりしていたにすぎず、王は魔力の使いすぎで死んでしまう。
 だがローズは、この話が実話だなんて聞いたことはなかった。

「あまつさえその弟は……あの方の功績を全て自分のものにして、この国の王となった。だから私は、贄にあの二人の人間を選んだ」
「『選んだ』?」

 ローズは目を瞬かせた。
 まさか自分の兄たちが十年も眠り続けたことが、誰かの意思によるものだったなんて、ローズは簡単には受け入れられなかった。

「そうだ。『ギルバート・クロサイト』と『レオン・クリスタロス』――無能な予言者と、偽りの王を魂を持つ者たちを」
「偽りの、王……?」

 『賢王』レオン。
 レオン・クリスタロスは、その転生者であるとされている。

「『三人の王』? 『賢王』? ……賢《さか》し立《だ》っただけのの無才の人間のくせに、あの男は、学院を作った功績も、何かも――我が君が積み上げたもの全てを奪った」

 学院を作った三人の王。
 それは、大陸の王、海の皇女、賢王だとされる。
 今のクリスタロス王国で、世界で広く名を知られる王は『賢王』レオン・クリスタロスただ一人だ。
 
「我が君に比べたら、この世界の全ての人間など無才に等しい。『古代魔法』そう呼ばれるものの全てを、たった一人で作りあげたあの方に、及ぶ者など存在しない。――ローズ・クロサイト。貴方は自分の兄が、『先見の神子』だいうことさえ知らないのでしょう?」

「『先見の神子』……?」 

 その『存在』を、ローズは知っている。
 遠い世界を見ることのできる、歴史上に時折現れる稀有な光属性の才能を持つ存在だ。
 そして記録では、彼らの全て若くして息を引き取っている。

 子どもの話を聞いて、ローズはあることを思い出した。
 ギルバートはかつてローズを守るために、ローズに結婚を申し込むためにやってきたロイに『何か』を渡した。
 それが何なのか、ローズは兄に教えてはもらえなかった。
 もしあれが、『先見の神子』である兄が、自分の命を削ってグラナトゥムの未来を視たものだったとしたら……?
 ロイが兄を国に招こうとした理由が、今のローズにはわかるような気がした。

 だが眠りにつくまでも目覚めてからも、ローズは兄からそんな事実を聞いたことはなかった。
 ローズは動揺が隠せなかった。
 ローズは兄を信じている。この世界で誰よりも――。でも兄はそれを利用して、自分に真実をひたがくししてきたということなのか?

「人は絶望した時に、与えられた光に縋る。私があの少女をこの世界に呼んだのは、あの少女であれば世界を滅ぼしてくれるだろうと思ったから。『聖女』は一人しか召喚出来ない。だったらその座に不適格な少女を招けば、世界は闇に包まれる。力ある者にはお優しい貴方方だ。貴方たちに、彼女を殺せない。光の聖女は、終焉をもたらす災厄の魔女となる。そのはずだった。あのまま力に目覚めなければ、全てが上手くいくはずだった。だが敵にも情をかけた一人の人間が、何の力も持たなかった『異世界人《かのじょ》』に力を与えた。『世界中のどこにも、自分の思いを理解してくれる人間など居らず、自分は世界で最も孤独な人間だと不幸に浸っていた人間』に、貴方が手を差し伸べた」

 子どもは冷めた声で言った。

「予想外でしたよ。まさかあの少女が、貴方に『加護』を与えようとは。計画が崩れたのは貴方のせいだ。……だから、思いついたのです。今度は貴方で『魔王』を作り、貴方が命をかけて守ろうとしたこの世界を滅ぼすことを」

 ローズはその言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
 自分を糧に『魔王』をつくる? いやそれよりも、もし彼の言葉が本当ならば。

 ――まさか。だとしたら、アカリは。『光の聖女』として招かれ、この世界で重圧に潰されようとしていたあの子は……。誰かの悪意のせいで、傷つかなくてはいけなかったというの?

「それでは……アカリが選ばれたのは、アカリに力が無かったからだと、そういうのですか……!」
「その通り。事実貴方さえいなければ、あの少女は加護の力は使えなかった」

 ローズの問いに、子どもは当然のように頷いた。

『私、自分の選択が、自分の勇気が、運命《みらい》を変えることが出来るって、そう信じたいと思うんです』

 かつてアカリが、ベアトリーチェを前に口にした言葉を思い出して、ローズは唇を噛んだ。
 ローズはアカリのことは嫌いではない。むしろ自分にはない魅力があると、尊敬さえしているところだってある。

 だからこそ、異世界にたった一人召喚された彼女の心を、理解出来なかった過去の自分を悔いたのだ。
 それなのに、こんなふうに――誰かの想いや願いを、踏みにじるようなことがあっていいわけがない。
 けれど子どもは身動きの取れないローズを前に、口端をあげて何処か艶のある笑みを浮かべると、ローズの顎に手を添えて、彼女を見下ろして言った。

「力なきものほど力に焦がれる。自分にないものを人は求める。絶望の、深い闇の淵の中に差し込む光に手を伸ばす。窓の向こうで空を飛ぶ鳥に自らを重ね、そうして『ここは自分の場所ではない。本当は、自分は選ばれた存在なのだ』――そんな幻想を抱いて、自分が特別な存在だと思いたがる。貴方だって本当は、彼女を愚かだと思っていたのでしょう? 貴方は特別だ。貴方に、彼女の心がわかるはずがない」

 努力も願いも、その全てを否定する。
 その声はまるで、氷のように冷ややかだった。
 
「違う」
 
 ローズは、子どもの言葉を否定した。

「……何?」 

 ローズの言葉に、子どもは僅かに眉をつりあげた。

「――違う。私は……私だって、何も変わらない」

 体に力が入らない。
 今のローズには、口を動かすことすら苦しかった。
 ローズには、彼の言う『王』が誰なのかは分らない。
 『賢王』レオンの功績が他の誰かの功績だとして――『三人の王』の最後の一人が、本当は誰なのか。
 そして自分の兄が『無能な予言者』と言われる理由《わけ》も、レオンが『偽りの王』と呼ばれる理由《わけ》も。
 でも、これだけはわかる――ローズは、そう思った。

「私だって、何も……」

  どんなに恵まれた力を得ても、人は一人では生きてはいけない。
 ローズは、兄を取り戻すまでの日々を思い出していた。そして、『魔王』と戦った日のことを。

 思い出す。
 すべての属性を持ち、測定不能の魔力を持っていたとしても、どんなに優れた才能を持っているともてはやされて、これまで生きてきていたとしても。
 心が泣いていた時に呼んでいたのは、自分のそばにいた、愛する人たちの名前だけだった。

 ――お兄様、ミリア。

『お前なら出来るよ』 
『私はここで、お嬢様をお待ちしています』

 誰からも称賛される、周りからはきらびやかな世界を生きていると思われても、いつだって心の中では、終わりの見えないような暗い道を歩いていた。
 幼い頃の幸せな時間を取り戻すために、兄たちを目覚めさせ、もう一度あの陽だまりのような場所でみんなで笑い会える日々を願って、ローズは剣や魔法の腕を磨いた。
 ローズは下を向いて瞳を閉じた。
 瞼の奥に広がるのは、幼い頃の自分の姿だ。

 ――ああそうだ。私は弱い。絶望の淵で差し出された光に、今もずっと焦がれている。

 ローズは唇を噛んだ。
 いつだって自分は、自分の心に気づくのが遅すぎる。
 今ならわかる。

『兄上たちはもう、目を覚まさないかもしれない。だけど、俺は傍に居る。ローズを一人にして、泣かせたりなんかしない。だから』

 差し出された指輪を受け取ったのは、決して自分が何もわからなかった子供だからではなかった。

『俺と、婚約してほしい』
 遠い日に、自分がかけてもらった優しい言葉は、冷えた心を熱くする。

「……リヒト様」
 力を奪われ何も出来ない。無力さを知って漸く解る。
 自分の弱さ、本心を。
 時は戻せない。今更悔いてももう遅い。
 ローズは拳に力を籠めようとした。けれど括り付けられた石が、それを許さない。

『ローズ』
 彼女の頭の中にはただ、一人の少年の笑顔が浮かんでいた。

 ――どうして。どうしてこんな時に、貴方の顔が浮かぶの? 何も持たない貴方が私を助けに来るなんてこと、絶対に有り得ないのに。

 自分のために『兄』の代わりになろうとした彼を。
 力がないのに精一杯『王子』であろうとした彼を。
 自分自身が苦しいときに、辛いときにでも、人に手を差し伸べられる彼だから、自分は彼に惹かれたのだ。
 遠い日の約束が、いつか彼の弱さによって破れられる日が来ても、本当はずっと心の何処かで期待していた。
 彼の心が、まだ自分にあることを。

「ずっと……ずっと。お慕いしておりました」

 力の色。強い魔力を持つ証。
 ローズの赤い瞳から、涙が一筋零れ落ちた。

 ――その時。

「うわっ!! お、お前な!? と、と、とまれ! とまれってばフィンゴット!!!!」

 聞き慣れた声が聞こえて、ローズは思わず顔を上げた。
 そんなはずはない。だって彼は――……彼はきっと今、アカリの傍に居るはずなのに。

「え……?」

 白い大きな塊が、光の差し込む天井のガラス細工を突き破る。
 ガラスが割れる音。床に落ちた硝子は砕け、古びた建物の石の床には砂埃が舞う。
 ローズは思わず咳き込んだ。
 そして視界が晴れたとき、見慣れた金の色を見つけて、ローズは呆然として彼の名前を呼んだ。

「リヒト、様……?」

 ――どうして、貴方がここに?