それから程なくして、私は『彼』と運命の再会を果たした。
「あ」
「あ」
「宝石職人さん……だったんですね」
異世界人の『弟』のために、精霊晶の宝飾品を買うために訪れた店で、私は彼と再開した。
「また、会いましたね。あの日の約束通り、貴方のお名前をお伺いしても?」
「リ……リアです! リア・アルベール。それが、私の名前です」
流石に『光の巫女』とバレたら、引かれるのは目に見えていた。私はとっさに偽名を使うことにした。
「今日は、どのようなご要件で?」
「『弟』が、魔法を使うので。そのために、精霊晶の宝飾品が欲しくて」
その言葉に嘘はなかった。ただ、私の返事に、彼は少し考え込むような表情をした。
「……なるほど」
商品の説明を追えたあとで、彼は私に、店の奥の工房を案内してくれた。
「いつもここで、作業をしているんです」
彼は私に、研磨されていない鉱石なども見せてくれた。
「どの石にも、違う魅力があると思いませんか?」
色の混じった石を一つ手にとって、彼は私に微笑んだ。
「この石は原石です。磨くことで、新しい魅力が生まれるのです」
彼は、魔法は使えない人だった。
けれど価値のなさそうにない石を、美しい宝飾品に仕立てる彼の瞳は真剣そのもので、そしてそれはまるで、一種の魔法のようだった。
彼の言葉は私の大好きな姉様に似ていて、それでいて彼の真っ直ぐな人柄は、どこか兄様に似ていた。
私は彼に会いたいという思いもあり、『弟』への贈り物という大義名分のもと、彼の元に足を運ぶようになった。
彼に会う度、言葉を交わす度に、私は彼に惹かれていった。
私は、彼が好きだった。
彼は私が知らない世界を、私に見せてくれような気がした。
◇
「アメリア様。ジュリアを置いて、今までどこにいかれていたのですか?」
ある日私が彼との逢瀬の為に神殿を抜け出して戻ると、私はあの男に捕まった。
「ね……姉様のところよ」
「異世界では、嘘つきは泥棒の始まりだというそうですが、貴方にその自覚はありますか?」
「どうしてそんなことを言って私を責めるの? 嘘だとしても、貴方には関係ない」
せっかく彼と話せて、幸せな気持ちだったのに。気分を害した私が彼をにらめば、彼は溜息の後にとんでもないことを言った。
「――王宮から、貴方に招請がありました。王妃様の容態が芳しくないようです。アメリア様。それでも、関係ありませんか?」
『光の巫女』である私の役目は、王族の治癒。私は、急いで姉様のもとに向かった。
「姉様!」
姉様の顔色は、明らかに悪かった。
「ごめんなさい。兄様。今すぐ私が魔法を――」
「何故」
兄様のそんなに低い声を聞いたのは、私は生まれて初めてだった。
「え?」
「何故、すぐに来なかった? 彼女を助けられるのは、お前しかいないのに」
「……兄、様……」
兄様の瞳には、私に対する敵意や憎しみが込められていた。私は、自分の足元がぐらつくのを感じた。
――兄様。兄様にとって私は、一体どういう存在なの?
私は変わらなくても、周りの世界は変わっていく。
私は『光の巫女』で、兄様は『王』だから。それは、仕方のないのことだ。
でもそれでも、私が兄様を思う気持ちは変わらなかった。遠く離れても、年をとっても、兄様が私の兄様であることに変わりはない。
兄様は、姉様を愛している。だから私も、姉様を愛している。兄様が愛する人を、兄様を愛してくれる人を、私が愛さない理由はない。
兄様は、愛情深い人だ。兄様は、家族を愛している。でも兄様の家族に――私は。兄様の中に、私はいるんだろうか?
もし兄様の中に私がいないなら――私のことを本当に思ってくれる人は、この世界に居るのだろうか?
私は幼い頃に両親と引き離されて、神殿で祈りを捧げることを義務付けられて育った。『光の巫女』と呼ばれるようになってから、私の仕事は姉様が急病の時は必ず駆けつける事になった。それだけが、今の兄様が私に求めることだ。
兄様にとって、一番大切なのは私ではなくて姉様だ。
もしそうなのだとしたら――私の人生に、本当に価値はあるのだろうか?
この世界に生まれ、誰かと結ばれることも、自分の血を引く子どもを残すことすら禁じられて、『光の巫女』という立場の、人々の思い描く人物像を守るために一生を終えるのだとしたら。
「私も、家族が欲しい」
兄様と私を比べる両親は本当の家族とは呼べない。異世界人の『弟』はいても、結局は本当に思う誰かの穴埋めに過ぎない。
家族が欲しい。
姉様みたいな、兄様みたいな、そんな優しい人。寂しいとき、暗い夜に、一緒に星を見上げて笑ってくれる、そんな人が。
貴方に――貴方に、会いたい。
神殿を抜け出して、私は一人、彼のもとへと走る。
好きだ。
貴方が好きだ。
世界で一番、私は貴方ことを愛している。だからこの場所から、どうか私を連れ出して。
その願いが叶わなくても、私は――私は自分が生きた証を、この世界に残したい。
貴方なら叶えてくれる。
何も知らない、貴方なら。
貴方なら私を、普通の女の子にしてくれる。
「リア?」
私は、彼の工房の扉を開いて、出迎えた彼に抱きついた。
「お願い。私の、家族になってください」
分かるの。魂が叫んでいるの。この人は私の、『運命』の人なんだって。
「貴方のことが、好きなんです」
◇
「巫女様が懐妊だと……!?」
「何を考えておられるのだ! あの方は!」
「いやしかし……これは、好機なのでは?」
神官たちや貴族たちの反応は様々だった。
「アメリア様! どうしてこんなことをなさったのですか!」
ジルは、一人神殿を抜け出して子どもまで作った私を責めた。
「私は彼を愛しているの。彼が生きるこの世界を愛しているの。もしこの気持ちを無かったことにするのなら、きっと私は、これまでのように魔法を使えないわ」
それから程なくして、私の愛する彼は捕らえられてしまった。罪状は、私を妊娠させた罪――馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。私はただ、愛する人と思いを重ねただけなのに。
「リア……いや、『アメリア』」
「嘘を吐いてごめんなさい」
「いや」
彼は、私を責めはしなかった。
「僕が愛した人は凄い人だったんだって、少し驚いただけだよ」
そう言うと、彼はふわりと笑った。
その笑顔を見るだけで、私は思わず泣いてしまった。この人を選んで良かったと思った。間違いじゃなかったとそう思えた。
だって彼が私に笑ってくれるだけで、私はこんなにも幸せな気持ちになるんだから。
彼の縄を解いて、再会の約束をして口付ける。彼を見送った私は、何故かあの男に腕を引かれた。
男の私室に入ったのは、それが初めてだった。
てっきり私欲を満たし、豪華なものに囲まれていると思ったけれど、予想とは違って彼の部屋にものはほとんど置かれてはいなかった。
「その手で、その唇で、貴方はあの男に触れたのですか?」
聞いたことのない男の声。
怒っているような、泣いているような――それは、そんな声だった。
「痛い。……離してっ!」
私が拒絶すれば、彼は私の腕の拘束をといた。私は、彼から逃げるように部屋をあとにした。
私室に戻った私は、閉じた扉に寄り掛かり、何故か痛む胸を押さえた。
「……なんで貴方が、そんな顔をするの。なんで私は……」
――あの男の顔が、頭から離れないんだろう?
私が好きなのは、彼なのに。
◇
「アメリア様、お体は大丈夫ですか?」
私が妊娠してからというもの、ジルはこれまで以上に私に過保護になった。
そして私の出産が近付くにつれ、神殿の中で妙な話をする男たちを見かけるようになった。
「しかし、これはいいきっかけになるかもしれないぞ。病弱なあの王太子妃に、子など本当に出来るのか?」
「そうだ。光の巫女様の子が、男の子なら――」
「アメリア様の子が男児なら、神殿で養育した者を、玉座につけることが出来るかもしれない」
彼らの話を、呆然として私が盗み聞いていると、そこにあの男が現れて彼らに言った。
「ここでは、人目につきます。詳しいことは、奥の部屋で」
「――ああ、そうだな」
彼らはそれから、しばらく部屋から出てこなかった。
彼らが奥の部屋で、どんな話をしていたか私は知らない。私は彼らが帰ったあと、男を問いただした。
「知ってたの?」
「最初から、こうなることはわかっていたことでしょう? 貴方は強い。そして貴方の兄の力は弱い。この世界での貴方と彼の価値は、決して等価ではないことを」
たとえ兄様にとって私が姉様に劣る存在であったとしても、私は、兄様を否定する人間が許せなかった。
だって一番悪いのは兄様ではなく、私と兄様の間に壁を作る、この世界の価値そのものだ。そしてそれを理由に、兄様を蔑む人間達だ。
「残念です。私なら貴方の心を、ちゃんとわかって差し上げれたのに」
「……貴方に、私の何がわかるの?」
「少なくとも私なら、子どもを作るような真似はいたしません」
私は、お腹に手を当てた。この男は何を言うのか。私は、望んでこの子を得たというのに。
「力を持って生まれた人間には、その責任がある。『愛する者のために』、なんて、そんな思想は無意味だ」
「だから……私に感情を殺して生きろと?」
「……」
男は、肯定も否定もしなかった。
「……私は、貴方のようにはならない」
「貴方は子どもだ。貴方はまだ、自分の運命を何も知らない。それでいて、全てを知った気でいる。いつか貴方は後悔するでしょう。一時の気の迷いで、彼の手を取ったことを」
「子ども扱いしないで。私は自分の決断に、後悔なんてしない」
「……貴方は、本当の痛みを知らない。貴方には信仰心というものが存在しない。しかしもし貴方がその痛みにさらされた時、貴方の心は、それに耐えることが出来るでしょうか?」
「私、貴方のことが嫌い」
「私は好きですよ。ですから必要なときは、私を頼ってください。私はいつだって、貴方の味方です」
――心にもないことを。
からかうような男の言葉を聞いて、私は彼を睨んだ。
大嫌い。大嫌いだ。
私と比べて、兄様を蔑むような人間。
神殿に心からの忠誠を誓うような人間に、私が心を許す日なんて絶対に来るはずがない。
◇
「子どもが出来たのでしょう? おめでとう」
姉様は、私の懐妊を喜んでくれた。
ただ兄様は、私が妊娠してからは、私にあってくれなくなった。
「私、兄様に嫌われてるんだわ」
「そんなことないわ。今はただ、周りが見えなくなっているだけ。だってリカルドは、可愛い人だもの」
「……兄様のことをそういうのは、この世界できっと姉様くらいです」
「そう?」
姉様は、落ち込む私を抱きしめてくれた。大丈夫と、安心させるみたいに頭を撫でてくれた。その温もりに触れた時に――私は改めて、姉様のことが好きなのだと、そう思った。
妊娠してからは、『彼』との面会は神殿のみで許されることになった。
週に一度、私は彼と部屋で会うことを許された。
「リア」
「会いたかった!」
彼はいつも、私を優しく抱きしめてくれた。
その腕に包まれている時は、愛されていると実感できた。
彼はいつも私に、愛の言葉を口にしてくれる人だった。その言葉を聞くと、私は安心できた。
彼の側に居ると、心の隙間が埋まっていくような気がした。
でも私には、一つ不思議なことがあった。
自分でも、理由はわからなかった。
だって、そうでしょう? 『彼』と兄様の姿が時折重なるだなんて――そんなこと、どう考えてもおかしいのに。
◇
痛い。
痛い。
子どもの出産を行う時、痛みで死ぬかと思った私は、初めて心の底から神様に願った。
お願い神様。この子を私に、無事に産ませてください。この子の幸せのためなら、私は死んだっていい――。
まさかそれが、『引き金』になるとも思わずに。
『……貴方は、本当の痛みを知らない。貴方には信仰心というものが存在しない。しかしもし貴方がその痛みにさらされた時、貴方の心は、それに耐えることが出来るでしょうか?』
彼の言葉のとおり、追い詰められた私は『未来』を見た。
しかしその光景は、私が思い描くものとは、あまりに違っていた。
これは――こんなものが、未来の光景だというの?
私には信じられなかった。この世界が、滅ぶだなんて。
どうしたらいいの?
どうしたら――この結末を変えられるの?
「あ」
「あ」
「宝石職人さん……だったんですね」
異世界人の『弟』のために、精霊晶の宝飾品を買うために訪れた店で、私は彼と再開した。
「また、会いましたね。あの日の約束通り、貴方のお名前をお伺いしても?」
「リ……リアです! リア・アルベール。それが、私の名前です」
流石に『光の巫女』とバレたら、引かれるのは目に見えていた。私はとっさに偽名を使うことにした。
「今日は、どのようなご要件で?」
「『弟』が、魔法を使うので。そのために、精霊晶の宝飾品が欲しくて」
その言葉に嘘はなかった。ただ、私の返事に、彼は少し考え込むような表情をした。
「……なるほど」
商品の説明を追えたあとで、彼は私に、店の奥の工房を案内してくれた。
「いつもここで、作業をしているんです」
彼は私に、研磨されていない鉱石なども見せてくれた。
「どの石にも、違う魅力があると思いませんか?」
色の混じった石を一つ手にとって、彼は私に微笑んだ。
「この石は原石です。磨くことで、新しい魅力が生まれるのです」
彼は、魔法は使えない人だった。
けれど価値のなさそうにない石を、美しい宝飾品に仕立てる彼の瞳は真剣そのもので、そしてそれはまるで、一種の魔法のようだった。
彼の言葉は私の大好きな姉様に似ていて、それでいて彼の真っ直ぐな人柄は、どこか兄様に似ていた。
私は彼に会いたいという思いもあり、『弟』への贈り物という大義名分のもと、彼の元に足を運ぶようになった。
彼に会う度、言葉を交わす度に、私は彼に惹かれていった。
私は、彼が好きだった。
彼は私が知らない世界を、私に見せてくれような気がした。
◇
「アメリア様。ジュリアを置いて、今までどこにいかれていたのですか?」
ある日私が彼との逢瀬の為に神殿を抜け出して戻ると、私はあの男に捕まった。
「ね……姉様のところよ」
「異世界では、嘘つきは泥棒の始まりだというそうですが、貴方にその自覚はありますか?」
「どうしてそんなことを言って私を責めるの? 嘘だとしても、貴方には関係ない」
せっかく彼と話せて、幸せな気持ちだったのに。気分を害した私が彼をにらめば、彼は溜息の後にとんでもないことを言った。
「――王宮から、貴方に招請がありました。王妃様の容態が芳しくないようです。アメリア様。それでも、関係ありませんか?」
『光の巫女』である私の役目は、王族の治癒。私は、急いで姉様のもとに向かった。
「姉様!」
姉様の顔色は、明らかに悪かった。
「ごめんなさい。兄様。今すぐ私が魔法を――」
「何故」
兄様のそんなに低い声を聞いたのは、私は生まれて初めてだった。
「え?」
「何故、すぐに来なかった? 彼女を助けられるのは、お前しかいないのに」
「……兄、様……」
兄様の瞳には、私に対する敵意や憎しみが込められていた。私は、自分の足元がぐらつくのを感じた。
――兄様。兄様にとって私は、一体どういう存在なの?
私は変わらなくても、周りの世界は変わっていく。
私は『光の巫女』で、兄様は『王』だから。それは、仕方のないのことだ。
でもそれでも、私が兄様を思う気持ちは変わらなかった。遠く離れても、年をとっても、兄様が私の兄様であることに変わりはない。
兄様は、姉様を愛している。だから私も、姉様を愛している。兄様が愛する人を、兄様を愛してくれる人を、私が愛さない理由はない。
兄様は、愛情深い人だ。兄様は、家族を愛している。でも兄様の家族に――私は。兄様の中に、私はいるんだろうか?
もし兄様の中に私がいないなら――私のことを本当に思ってくれる人は、この世界に居るのだろうか?
私は幼い頃に両親と引き離されて、神殿で祈りを捧げることを義務付けられて育った。『光の巫女』と呼ばれるようになってから、私の仕事は姉様が急病の時は必ず駆けつける事になった。それだけが、今の兄様が私に求めることだ。
兄様にとって、一番大切なのは私ではなくて姉様だ。
もしそうなのだとしたら――私の人生に、本当に価値はあるのだろうか?
この世界に生まれ、誰かと結ばれることも、自分の血を引く子どもを残すことすら禁じられて、『光の巫女』という立場の、人々の思い描く人物像を守るために一生を終えるのだとしたら。
「私も、家族が欲しい」
兄様と私を比べる両親は本当の家族とは呼べない。異世界人の『弟』はいても、結局は本当に思う誰かの穴埋めに過ぎない。
家族が欲しい。
姉様みたいな、兄様みたいな、そんな優しい人。寂しいとき、暗い夜に、一緒に星を見上げて笑ってくれる、そんな人が。
貴方に――貴方に、会いたい。
神殿を抜け出して、私は一人、彼のもとへと走る。
好きだ。
貴方が好きだ。
世界で一番、私は貴方ことを愛している。だからこの場所から、どうか私を連れ出して。
その願いが叶わなくても、私は――私は自分が生きた証を、この世界に残したい。
貴方なら叶えてくれる。
何も知らない、貴方なら。
貴方なら私を、普通の女の子にしてくれる。
「リア?」
私は、彼の工房の扉を開いて、出迎えた彼に抱きついた。
「お願い。私の、家族になってください」
分かるの。魂が叫んでいるの。この人は私の、『運命』の人なんだって。
「貴方のことが、好きなんです」
◇
「巫女様が懐妊だと……!?」
「何を考えておられるのだ! あの方は!」
「いやしかし……これは、好機なのでは?」
神官たちや貴族たちの反応は様々だった。
「アメリア様! どうしてこんなことをなさったのですか!」
ジルは、一人神殿を抜け出して子どもまで作った私を責めた。
「私は彼を愛しているの。彼が生きるこの世界を愛しているの。もしこの気持ちを無かったことにするのなら、きっと私は、これまでのように魔法を使えないわ」
それから程なくして、私の愛する彼は捕らえられてしまった。罪状は、私を妊娠させた罪――馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。私はただ、愛する人と思いを重ねただけなのに。
「リア……いや、『アメリア』」
「嘘を吐いてごめんなさい」
「いや」
彼は、私を責めはしなかった。
「僕が愛した人は凄い人だったんだって、少し驚いただけだよ」
そう言うと、彼はふわりと笑った。
その笑顔を見るだけで、私は思わず泣いてしまった。この人を選んで良かったと思った。間違いじゃなかったとそう思えた。
だって彼が私に笑ってくれるだけで、私はこんなにも幸せな気持ちになるんだから。
彼の縄を解いて、再会の約束をして口付ける。彼を見送った私は、何故かあの男に腕を引かれた。
男の私室に入ったのは、それが初めてだった。
てっきり私欲を満たし、豪華なものに囲まれていると思ったけれど、予想とは違って彼の部屋にものはほとんど置かれてはいなかった。
「その手で、その唇で、貴方はあの男に触れたのですか?」
聞いたことのない男の声。
怒っているような、泣いているような――それは、そんな声だった。
「痛い。……離してっ!」
私が拒絶すれば、彼は私の腕の拘束をといた。私は、彼から逃げるように部屋をあとにした。
私室に戻った私は、閉じた扉に寄り掛かり、何故か痛む胸を押さえた。
「……なんで貴方が、そんな顔をするの。なんで私は……」
――あの男の顔が、頭から離れないんだろう?
私が好きなのは、彼なのに。
◇
「アメリア様、お体は大丈夫ですか?」
私が妊娠してからというもの、ジルはこれまで以上に私に過保護になった。
そして私の出産が近付くにつれ、神殿の中で妙な話をする男たちを見かけるようになった。
「しかし、これはいいきっかけになるかもしれないぞ。病弱なあの王太子妃に、子など本当に出来るのか?」
「そうだ。光の巫女様の子が、男の子なら――」
「アメリア様の子が男児なら、神殿で養育した者を、玉座につけることが出来るかもしれない」
彼らの話を、呆然として私が盗み聞いていると、そこにあの男が現れて彼らに言った。
「ここでは、人目につきます。詳しいことは、奥の部屋で」
「――ああ、そうだな」
彼らはそれから、しばらく部屋から出てこなかった。
彼らが奥の部屋で、どんな話をしていたか私は知らない。私は彼らが帰ったあと、男を問いただした。
「知ってたの?」
「最初から、こうなることはわかっていたことでしょう? 貴方は強い。そして貴方の兄の力は弱い。この世界での貴方と彼の価値は、決して等価ではないことを」
たとえ兄様にとって私が姉様に劣る存在であったとしても、私は、兄様を否定する人間が許せなかった。
だって一番悪いのは兄様ではなく、私と兄様の間に壁を作る、この世界の価値そのものだ。そしてそれを理由に、兄様を蔑む人間達だ。
「残念です。私なら貴方の心を、ちゃんとわかって差し上げれたのに」
「……貴方に、私の何がわかるの?」
「少なくとも私なら、子どもを作るような真似はいたしません」
私は、お腹に手を当てた。この男は何を言うのか。私は、望んでこの子を得たというのに。
「力を持って生まれた人間には、その責任がある。『愛する者のために』、なんて、そんな思想は無意味だ」
「だから……私に感情を殺して生きろと?」
「……」
男は、肯定も否定もしなかった。
「……私は、貴方のようにはならない」
「貴方は子どもだ。貴方はまだ、自分の運命を何も知らない。それでいて、全てを知った気でいる。いつか貴方は後悔するでしょう。一時の気の迷いで、彼の手を取ったことを」
「子ども扱いしないで。私は自分の決断に、後悔なんてしない」
「……貴方は、本当の痛みを知らない。貴方には信仰心というものが存在しない。しかしもし貴方がその痛みにさらされた時、貴方の心は、それに耐えることが出来るでしょうか?」
「私、貴方のことが嫌い」
「私は好きですよ。ですから必要なときは、私を頼ってください。私はいつだって、貴方の味方です」
――心にもないことを。
からかうような男の言葉を聞いて、私は彼を睨んだ。
大嫌い。大嫌いだ。
私と比べて、兄様を蔑むような人間。
神殿に心からの忠誠を誓うような人間に、私が心を許す日なんて絶対に来るはずがない。
◇
「子どもが出来たのでしょう? おめでとう」
姉様は、私の懐妊を喜んでくれた。
ただ兄様は、私が妊娠してからは、私にあってくれなくなった。
「私、兄様に嫌われてるんだわ」
「そんなことないわ。今はただ、周りが見えなくなっているだけ。だってリカルドは、可愛い人だもの」
「……兄様のことをそういうのは、この世界できっと姉様くらいです」
「そう?」
姉様は、落ち込む私を抱きしめてくれた。大丈夫と、安心させるみたいに頭を撫でてくれた。その温もりに触れた時に――私は改めて、姉様のことが好きなのだと、そう思った。
妊娠してからは、『彼』との面会は神殿のみで許されることになった。
週に一度、私は彼と部屋で会うことを許された。
「リア」
「会いたかった!」
彼はいつも、私を優しく抱きしめてくれた。
その腕に包まれている時は、愛されていると実感できた。
彼はいつも私に、愛の言葉を口にしてくれる人だった。その言葉を聞くと、私は安心できた。
彼の側に居ると、心の隙間が埋まっていくような気がした。
でも私には、一つ不思議なことがあった。
自分でも、理由はわからなかった。
だって、そうでしょう? 『彼』と兄様の姿が時折重なるだなんて――そんなこと、どう考えてもおかしいのに。
◇
痛い。
痛い。
子どもの出産を行う時、痛みで死ぬかと思った私は、初めて心の底から神様に願った。
お願い神様。この子を私に、無事に産ませてください。この子の幸せのためなら、私は死んだっていい――。
まさかそれが、『引き金』になるとも思わずに。
『……貴方は、本当の痛みを知らない。貴方には信仰心というものが存在しない。しかしもし貴方がその痛みにさらされた時、貴方の心は、それに耐えることが出来るでしょうか?』
彼の言葉のとおり、追い詰められた私は『未来』を見た。
しかしその光景は、私が思い描くものとは、あまりに違っていた。
これは――こんなものが、未来の光景だというの?
私には信じられなかった。この世界が、滅ぶだなんて。
どうしたらいいの?
どうしたら――この結末を変えられるの?