男は毎日私の屋敷を訪れた。

「まずは一日目だ!」

 その翌日には。

「二日目もきたぞ!」

「……よくもまあ、飽きませんね」

 理解出来ない男の行動に、私は呆れることしか出来なかった。
 そんな日々が暫く続いて、私はある話を思い出した。
 私の暮らす森の屋敷には、沢山の本がある。本の持ち主は別の人間だったが、主人がなくなった本たちを、今は私が管理している。

 異世界に伝わる、『百夜通い』という話。
 それは、美しい女性にこがれた男が、想いの証明のために百夜女のもとに通うという話だ。けれど百夜目の夜、男は約束を遂げる前に死んでしまう。
 全くもって馬鹿な男だ。結局品では何もならない。思いも遂げられず、ただ百夜も通うことに、何の意味があるというのだろう?

 いつか終わるだろう。
 いつか諦めるだろう。

 そもそも、一方的な約束だ。たとえ男が果たそうと、私が彼の願いを聞き入れる理由がどこにあるというのだろう?
 そう思っている間に、男は九九日間、私の元にやってきた。

「明日来たら、この扉を開けてくれ」
「……」

 明るくて、真っすぐで、どこか真面目さを感じる声。
 扉越しの男の声はもう、私の耳に馴染んでしまっていた。
 男が去ったあと、私は空を見上げた。雨雲が近付いてきていた。

「……嵐が、来る」

 青い空にかかる雨雲を眺めて、私は何故か胸を押さえた。
 


「流石に今日は来ないでしょう」

 案の定、翌日は大雨だった。
 暖炉に火を入れる。パチパチと鳴る音を聞きながら、私は湯を沸かして風でガタガタと揺れる窓を見た。
 雨が止む気配はない。この雨の中、森の屋敷を訪れる者がいたとしたら愚か者としかいいようがない。
 それに、馬鹿がつくほどのお人好しそうなあの男のことだ。
 この雨の中、フィンゴットに送ってもらうような真似はしないだろう。
 
 ――今日でもう、あの男を待つ日々は終わるのか。

 そう思うと、何故か胸がざわついた。
 その時だった。
 
「うわっ!」
 外で何かがぶつかる音がして、次に誰かの声が聞こえた。
 まさか、こんな嵐の中を訪ねてくる人間なんているはずが――私が驚いて扉を開くと、びしょ濡れの濡れ鼠のような彼が、私を見てにこっと笑った。

「やあ!」

 やあ、ではない。
 男の体は濡れているだけでなく、体には小さな傷が沢山あるようだった。
 この嵐の中、男が私との約束のために一人森にやってきたのは、一目見れば明らかだった。

「……外は危ないですから、早く中に入ってください」

 私が男の手を引けば、彼は一瞬目を大きく見開いて、それから嬉しそうに笑った。



「ありがとう。君にごちそうしてもらえる日が来るなんて思わなかった」

 美しい金の髪には濡れ草が刺さり、顔には泥がついていた。彼の体は冷え切っており、ぐっしょりと濡れた服は随分と重そうだった。

「……とりあえず、服を脱いでください。髪と顔はこれで拭いてください。服の代わりにはこれを羽織ってください」
「ああ。ありがとう」

 私が彼の世話をしてやると、彼はこれまでとは違って、落ち着いた声音で私に礼を述べた。
 見目はいいのだ。いつもそうやって冷静なら、まだ君主として威厳もあるだろうにと私は心のなかでぼやいた。
 馬鹿そうな男になんて仕える気にはなれない。

「う……っ。こ、これは薬湯か何かか?」

 冷えた体が温まるよう、私が差し出した薬湯を一口飲んだ彼は、うっと顔を顰めた。
 やはり、どうも雰囲気が幼い。せっかく器はいいのに、中身はまるでどこにでもいるただの青年のようですらある。

「体を温めてくれる飲効果があります。こんな嵐の日に外に出る人間には、ぴったりな飲み物です」
 
 私が棘のある言葉を口にすれば、彼はじっと私を見つめてきた。
 その視線が慣れなくて、私は彼に背を向けて尋ねた。

「こんな日に、どうしてここに来たのですか」
「だって、約束しただろう。必ず君に会いに来ると」

 彼は当然のように言った。

「でも、今日来て良かった。だってちゃんと君の顔を見ることが出来た」

 私が用意した、一口飲んで顔を顰めていた薬湯を全て飲み干して、彼は私に微笑んだ。

「改めて自己紹介しよう。俺は、リヒトクリスタロス。君の名前を聞いてもいいだろうか?」
「……ユーゴ、です」
「いい名前だな。宜しくな。ユーゴ」

 男はどこか弾んだ声で、私の名を繰り返した。



 それからも彼は、毎日のように私の屋敷にやってきた。
 新しい魔法の研究で失敗した話、年下の弟が本当に可愛いという話。
 彼の話は、どれもたわいない日常でしか無かったが、彼がいつも楽しそうに話すから、私には不思議と、どれもどこか輝いて聞こえた。

「そろそろ来る時間か」

 ――いつ来るのだろう。今日はどんな話をしてくれるだろうか。

 そんな日が続く内に、私はいつの間にか、彼の訪れを心待ちにしていることに気が付いた。
 彼は甘いものが好きらしかった。好みまで子どもっぽい。
 特に苺が好きらしく、私は彼のために籠いっぱいの苺を用意した。

『ありがとう! 君が僕のために用意してくれたのか?』

 大げさに喜ぶ彼の姿を思い浮かべて、私はとあることに気が付いて自分の顔を叩いた。

 ――私は、今、何を。
 彼の笑顔を思い浮かべるだけで、顔がにやけるなんて気のせいなのだ。

「……遅いな」
 いつもなら、もう来る時間。
 でも彼は、その日森の屋敷に来なかった。

 ――流石に彼も国王だ。毎日にここに来ることは難しいだろう。

 そう自分に言い聞かせ、私は彼のために用意した果実を齧った。

「……あれ」

 彼が森に持ってくる料理なら、不味いと思っても食べるときは楽しかったはずなのに、一人齧った果実の味は、いつもと同じで美味しいはずなのに、私には何故か味気なく感じられた。
 翌日も、私は彼を屋敷で待つことにした。
 本当は水浴びにいこうかと思ったけれど、もし彼が、自分が居ないときにやってきたら、がっかりするだろうと思って待っておくことにした。

「今日も来ないのか」

 それから三日、四日、五日経っても、彼は来なかった。
 それまでは、三日とあけることなんて無かったのに。そして六日目の晩、土砂降りの雨が降った。
 屋敷をゆらすほどの強い風が吹く。
 蝋燭の明りを一つ灯した部屋の中で、私は一人呟いた。

「……ああ。飽きたのか」

 その声は一人きりの森の屋敷に、はっきりと響いた。
 そして声に出した瞬間に、耳に届いて私の心を強く揺さぶった。

 一〇〇日間。
 扉を開けることすらせず、嵐の中でさえ通わせて、ようやく受け入れるなんてひどい仕打ちをしたのは過去の自分自身なのに。
 私は、森にこない彼を恨めしく思っている自分に気が付いて唇を噛んだ。
 そして、もう二度と人に心を許すまいと思った翌日。
 彼は再び、私の前に現れた。

「久しぶりだな。ユーゴ。元気にしていたか?」
「……え?」

 もう、二度と来ないと思っていたのに。
 十日ぶりにやってきた彼は、私に向かっていつものように笑いかけた。

「な、なんで貴方が。もう来ないんじゃなかったんですか?」
「何でそんな悲しいことを言うんだ?」
「だって……! これまでは、こんなに来なかったことはなかったのに!」
「ああ、すまない。君との約束が合って果たせなかった用が溜まっていてな。少し国を離れていたんだ」
「え? 国を、離れて……?」

 ――じゃあ、私に嫌気が差したわけじゃ……?

「ああ。……というか、ユーゴ。少し顔色が悪いようだが大丈夫か? 目元も少し赤いようだが」
「べ、別にこれは……! 何でもありません!」
「君は一人で暮しているし、最近会ってもなかったから……何かあったんじゃないか気になるんじゃないか。何か困ったことでもあったのか? よし。わかった! 君の悩みは、友として責任を持って俺が聞こう」
「結構です!」  

 ――なんでぐいぐい来るんだこの男は!
 私は、距離を詰められて思わず叫んでいた。

「貴方が。貴方が来ないから。だからもう来ないのかと思って考え事をしていただけです!」
「え?」

 私の言葉に、彼は目を丸くしていた。

「俺のことを待っていたのか?」
「……あ」

 改めて聞かれると恥ずかしい。

「ち、違います。別に待ってなんか」

 私の声は、次第に小さくなってしまっていた。

「待って、なんか…………」
「……そうか」

 彼は、小さく頷いて、私に頭を下げた。

「暫く来られなくて済まなかった。一応国を出る前に君には話したんだが、考え事をしていそうなときに伝えたから、聞こえていなかったみたいだな」
「……」
「今度からはちゃんと、君に確認をとってから行くとしよう」
「……」

 何故か彼の表情が少し嬉しそうに見えて、私は少しだけ腹がたった。

「ところで、十日も一体国を空けてどこに行っていたのですか?」
「ああ、それは――」

 男は、嬉しそうに笑った。

「グラナトゥムのロイと、ディランのロゼリアに会いにいっていたんだ」
「え?」

 私は、その名を聞いて耳を疑った。

「大陸の王と海の皇女に……?」
「ああ。それでこれは、君へのお土産だ。国に戻ったら君に会いに行くと話をしたら、二人が君と食べるといいと――」
「待ってください。お二人と貴方は、どういう関係なのですか?」
「ん? いや、ただの友人だが」
「……『友人』……?」

 クリスタロスの国王が、グラナトゥムやディランの王と『友だち』だって?
 そんなこと、本当にありうるのだろうか?

「ああ。二人とも面白くて、優しいんだ。……ロゼリアは、たまに少し怖いけど」
 
 だが彼が、私に嘘をついているようには見えなかった。
 彼の言葉を聞いて、私は心の中にもやがかかるのを感じた。

 私は彼が来ない間、陰鬱な気持ちで過ごしていたというのに、当の彼ときたら、友人だという大国の王と皇女と仲良く過ごしていたというのだ。
 あまつさえその二人から、都でしか手に入らないような食べ物を持たせられて私にのもとにやってくるなんて。

 私は、差を見せつけられたような気がした。
 今の私が彼に用意できるのは、彼が顔をしかめるような薬湯や、森に自生する木の実や果実くらいだ。
 だが私が用意できるものなんて、彼の友人だという二人なら、指先一つで手に入れることが出来るに違いない。

「どうかしたのか?」
「……別に、何でもありません」

 そう思うと、私は少し苛ついた。