リヒトとの約束を果たすために、子どもは精霊晶に力を込めた。

 魔法の威力を増幅させる魔法陣が、花形のペンダント裏側には書かれた。
 それはかつて――彼が忠誠《こころ》を捧げた王が、作り出した魔法だった。

 いつからだったかは覚えていない。
 復讐のために研究を続けるうちに、子どもの体にあったはずの強い魔力は、徐々に失われていった。
 それはまるで、神の罰とでも言うように。

 幼い頃から子どもは、自分に与えられたものが『神の祝福』だなんて信じてはいなかった。
 彼の住む村で病が蔓延したとき、自分だけを残して周りの人間が死んだとき、一人残された彼は思った。
 自分に与えられたのは、『祝福』ではなく『呪い』だと。
 病が流行ったとき、王は村を見捨てた。
 けれどだからといって、復讐は考えなかった。
 何故なら彼らは死にゆくときに、神の権能で自分たちを救わない子どもに、呪いの言葉を吐いたから。

 成長しない外見も、強い魔力も。
 村人たちは表面上こそ彼に礼を尽くしてみせたが、その裏では彼のことを恐れ、あるいは忌み嫌っていた。
 結局自分に与えられた優しさは、偽りだったのだと。
 それこそが、それだけが、『真実』だったとわかったから。

 元々、人と関わることは面倒だった。
 村人たちが死んでから、彼は一人暮らすようになった。
 幸い地属性魔法のお陰で、森の奥で一人暮らすことに不都合はなかった。
 長い時が流れ――新しく即位した王が、彼の森の屋敷を訪れるまでは。

『はじめまして。突然だが、俺と友だちにならないか?』

 出会ったばかりの頃の印象は、『いい人ヅラした馬鹿そうな男』。
 正直、二度とここに来るなと思った。『友だち』だなんて、自分を馬鹿にしているのかと思った。
 どんな言葉を並べても、結局は『神の祝福された子ども』である自分を臣下にして、箔をつけたいだけの男なのだろうと。

 けれど苛つきながらも男と交流を重ねるうちに、いつしか男の来訪を待っている自分に気が付いた。
 最悪だと思った。
 人と関わるのは面倒なのに、自分に生まれた感情を悔いた。
 『寂しい』という感情も、誰かを『恋しい』という感情も、男と会わなければ、知らなくてすんだのに。
 
 森の奥の屋敷はずっと、光が差し込んでいると思っていた。
 けれど馬鹿みたいに池に落ちて、跳ねた水で虹を作るような男の見せる世界には、その輝きは遠く及ばなかった。
 男が見せた『新しい世界』は、男のその名のように光り輝いて見えた。
 その世界を知ってしまったら、もう元には戻れなかった。
 男が魅せる世界に、心は奪われていた。
 その光の中で、ずっと生きていたいと思うほど。

 だから、男を主人に選んだ。
 自分がそばにいることで、男に王としての箔がつくことが誉れだった。
 生まれて初めて、『神の祝福』を受けたことに感謝した。
 才能はあってもどこか頼りない彼のことを、自分が支えて生きていくのだと決心した。

 自分がいなくては駄目なのだと、王はそう思わせるような存在《ひと》だった。
 でも王がいなくては駄目だったのは――本当は、自分の方だった。

 認めることが怖かった。
 結局は自分が、ただの与えられた光に縋る人間だったこと。
 自分の復讐を果たすことが、王の願いに反することだと気付くことが。
 そうしなければ自分の心を、守ることは出来なかったから。

『貴方のためだって!? そんなこと、言われた相手がどんな気持ちになるかわかってるのか!? 貴方のためにやりました。貴方のせいで時間を失った。そんなふうに相手に伝えたときに、それはもう、相手のためだけじゃなくなる。お前は自分のためにやったんだ。現実に耐えきれなくて、逃げて逃げて逃げて。相手のためだなんて理由をつけて、そうやって生きてきたんだ!』

 王に似た少年の言葉を思い出して、子どもは笑った。
 そして彼が守ろうとした少女を思いだして――子どもは、あることに気が付いた。
 
「……なるほど。そういうこと、ですか。だから彼女は、あんなにも……。流石、『我が君』が愛した人だけのことはある」

 だがその呟きは、誰にも届くことはない。
 子どもの髪は風の中で暴れ回る。
 『腐食』の魔力――空に浮かぶ巨大な『魔王』と、子どもは対峙していた。
 風魔法の出力を最大にして闇の魔力を払おうにも、なかなか思うようには行かない。
 彼は、剣の形をした耳飾りを耳から外した。

「――神よ。貴方が、あの方を再び私と巡りあわせてくれたというのなら。どうかあの方の願いを叶える力を、あの方の国を守る力を、私にお与えください」

 子どもは、祈るように両手で持つと、耳飾りに口付けた。
 唇越しに石に魔力を込めれば、耳飾りは剣へと形を変える。
 小さな彼の体には少し不似合いな長剣。
 剣を手にした子どもは跳躍すると、かつてローズがそうしたように、赤い石に剣を突き立てた。
 だがローズの時とは違い、彼を守る『加護』の力は存在しない。
 
「はああああああああああッ!」

 精霊病の罹患者の心臓の石。
 かつてユーゴが誰かを傷付けて得たその魔法《ちから》は、『魔王』と対峙するために命がけで戦う彼に、まるで力を貸すかのように、力強い輝きを放っていた。


 
「リヒト様、この光は……!!」

 空を覆い尽くさんばかりの輝きに、ローズは思わず声を上げた。

「……くそっ!」
 まるで消える直前に一番美しく夜空を彩る花火のように、その光からは強い命の波動のようなものをリヒトは感じた。

「急いでくれ。フィンゴット!!!」
「ピィ!」

 リヒトの声にフィンゴットは返事をすると、翼を大きく羽ばたかせた。
 速度が増す。

「きゃっ!」
 風のせいで体が傾いたローズの体を、リヒトは無言で抱き寄せた。

「……っ!」
 ローズは息をのんで、ぎゅっと目を閉じた。
 その瞬間だった。
 空中に浮かんでいた『魔王』は、無数の欠片となって飛散した。
 そして『魔王』が居た場所から、『何か』が落ちていることに気付いて、リヒトはフィンゴットに目配せした。

「まさか……! フィンゴット!!」
「ピィ!」
 フィンゴットは、こくりと頷くと急降下した。
 だがその速さは、ローズがフィンゴットに魔力を与えたときの速さには及ばない。

「……間に合うか……っ!」
 リヒトは紙の鳥の魔法を発動させた。
 白い鳥は宙を舞い、墜落する子どもの体を支えようと奮闘するも、紙が破けて上手くいかない。その光景を見て拳を作ったリヒトの手に、ローズは自身の手を重ねた。

「ロー……ズ……?」
「今は、この程度しか出来ませんが……」

 糧として魔力を吸い取られたせいで、まだ魔力が回復していない。ローズは頭の痛みをこらえて、精一杯の魔力をフィンゴットに与えた。
 魔力を帯びたフィンゴットの体は銀色に輝く。
 魔力を帯びた防壁を自身に纏わせたフィンゴットは、一気に速度をあげてなんとか子どもの体を受け止めた。
 だがその小さな体は、所々紫に変色していた。

 フィンゴットは地面に着地した。
 リヒトは子どもの体を抱えて降りると、苦痛に顔をゆがめる子どもに何度も呼びかけた。

「ユーゴ。ユーゴ! おい、大丈夫か!?」
「……おそらく、『魔王』の力に当てられています。私のときとは違い、│光の聖女《アカリ》の加護が無かったから、その力の余波を体に受けているのでしょう」
「くそ……っ!」

 ローズの言葉を聞いて、リヒトは叫んだ。
 それから脱いだ服の上に子どもを横たえさせると、指輪に触れてリヒトは少年の胸の上に手を置いた。

「死なせない。絶対、俺が助けてやる。だからお願いだ。目を、目を開けてくれ」

 リヒトが使えない、沢山の魔力を必要とする治癒魔法。
 彼がその魔法を、心から使おうとした瞬間、何故かローズの聖剣が光を帯びた。
 剣に嵌められた石は、リヒトの願いに呼応するかのように強く光って点滅する。
 リヒトは胸を抑えた。

「…………げほっ!」

「リヒト様!」
 リヒトが血を吐いたのを見て、ローズは思わず声を上げた。
 急いで、可能な限りの光魔法を施す。
 だが魔王の糧として魔力を吸われすぎた今のローズでは、リヒトの状態を緩和することが精一杯で、子どもの治癒などとても出来ない。
 咳き込むリヒトに気付いたのか、子どもはゆっくりと瞼を押し上げてリヒトに言った。

「我が君……無理を、なさってはなりません……。今の貴方は、器を失っていらっしゃる。魔法を使えない状態で、これ以上……」
「う、つわ……?」

 子どもの言葉に、リヒトは胸を押さえて顔を顰めた。
 リヒトはロイから手紙を受け取っていた。
 そこにはリヒトには器がなく、だからこそ魔法が使えないということ。そしてその器は、何者かによって取り出された可能性があるということが書かれていた。
 でもそのことは、父にさえリヒトは話してはいなかった。
 ――それを、何故この子どもが知っているのか?
 顔を強ばらせたリヒトに、子どもは続ける。
 
「その石こそ、貴方が本来持つべきだった器なのです」
「聖剣の石が……俺の、器……?」

 リヒトは聖剣に嵌められた石を見た。
 その大きさは、ローズが持っていると示された器と同じくらい大きく見えた。
 だがもしそれが事実だとしても――『今のリヒト』が、子どもを救うための治癒魔法を使えないということに変わりはなかった。

「なんで……。どうして、俺は……!」

 リヒトは無力さに涙をこぼした。
 自分に力さえあれば、救えるはずなのに。もしかしたら時間さえあれば――それは可能かもしれないのに。
 子どもの命の火は今、リヒトの目の前で消えようとしていた。

「沢山の方を傷つけた。そんな私のために、貴方は泣いてくださるのですか?」
「……っ」

 子どものその言葉に、リヒトは何も言えなかった。
 目の前の子どもが善人か悪人かと問えば、きっとこの世界の誰もが、悪だと言うだろう。
 
「これで、よいのです。私が生きていれば、きっと貴方の立場を悪くしてしまう。争いの火種にもなるでしょう。罪を犯したものは、この世界に生き続けることは許されない」
「違う! そんなことない! 俺は、俺は……!」

 ――夢見草が見せる記憶の、その世界で。お前はずっと、『俺』を思ってくれていたのに。

 リヒトの中に、『誰か』の感情《ことば》が浮かぶ。
 リヒトは、その記憶の全てをまだ受け止めきれずにもいた。
 ただ断片的な記憶の中で、『自分』と子どもとの間に強い絆があったことだけは、確かに感じていた。 
 失いたくない。失ってはいけない。目の前の相手は自分にとって、そんな人間だったことだけは。
 
「私の目は、貴方により再び開かれた。今ならわかる。彼女が運命を覆す力を、強い魔力を持ち得た理由《わけ》が」
「ユーゴ……?」
「……どうか、貴方は、笑っていてください。我が君。私の、たった一人の――『光の王』よ」

 子どもは、リヒトの顔に手を伸ばした。
 しかしその瞳が閉じるのと同時、その手は力を失い、下へ下へと降りていく。
 リヒトは、必死になってその手を掴んだ。

「ユーゴ! おい、ユーゴ!」
 だが、リヒトが何度呼びかけても、子どもが再び目を覚ますことはなかった。
 子どもが首から提げていた首飾りの精霊晶は、まるでその中にあった魂が、最後の戦いを共にした戦友と共に天に昇ってしまったかのように、ひび割れて壊れていた。

「あ……ああ……」

 『ユーゴ』のことを、リヒトは全て思い出せたわけではなかった。
 ただ目を閉じれば、まるでパズルのピースのように、様々な子どもの姿が浮かんだ。

 『神に祝福された子ども』
 千年を生きる子ども。
 心を閉ざし、森で一人暮らしていた彼を城に招くため何度も足を運んだ。
 一人で生きていくのだと言っていた。
 子どもはベアトリーチェとどこか似ていて、自信家で一人なんてへっちゃらだという顔をして、そのくせ寂しがり屋で臆病で――少し面倒な性格をしていた。
 でもそんな彼の全てを、愛したいと思った。

 だから王城に招いた。宰相の地位を与えた。誰もが彼を信頼し、自分自身も、誰よりも彼を信頼していた。 
 長い時を生きる。
 そんな宿命を背負った彼に、沢山の人と関わって、自分の人生は無駄ではなかったと、そう思ってほしかった。

『我が君、こんなところにいらしたのですか?』

 驚かせたくて、よく子どものように隠れんぼをした。
 自分に振られた仕事を置いて、自分の臣下たちのもとに足を運んでは、仕事をしろと執務室に連れ戻された。
 子どもはよく呆れるような溜め息を吐いた。よく引きずられた。
 立場なんてあったものではなくて、周りに示しなんてつかなくて――でもそのたびに、二人を見る周りの人間は、温かな笑い声を響かせた。

 この時間がずっと、続けばいい。
 幸せだと、そう『思う』。けれどその幸せは壊れてしまった。
 だからこそかつての友人は、闇に落ちるしかなかった。

「……ユー、ゴ……」

 明るい方に光は伸びる。人は、光がなくては生きてはいけない。
 子どもを、一人きりの場所から世界へと連れ出した人間かどうなったのか、リヒトは思い出そうとして頭をおさえた。

 割れるように頭が痛い。
 口の中に血の味が滲む。心臓がえぐられるような痛みが、体の内側を剥ぎ取られるようなそんな痛みが、リヒトの中に蘇る。
 羽が落ちる。空を飛ぶ鳥が、墜落する姿が頭に浮ぶ。
 リヒトは膝を降り、地面に右手を置いて体を支えた。空から墜落した鳥は、赤い血で染まっている。

 『太陽《かみ》に近すぎた人間は、蝋で固められた翼を失い墜落する』

 そんな言葉が頭に浮かぶ。
 体が動かない。鳥の姿はやがて、金髪の青年へと変わる。
 青年の周りには、赤い石が落ちていた。その石は、聖剣の石とよく似ている。
 霞む視界で、青年は石に手を伸ばす。

『どうか光魔法を!』
 悲鳴のようなユーゴの声が、頭の中にこだまする。
 身を焼かれるような苦しさから逃れようと、青年は魔法を使おうと力を込めた。
 けれどいつもなら使えるはずの癒やしの魔法は、どんなに魔力を込めても使えなかった。

 ――どうして、魔法が使えない?

『我が君! ああ、どうして。どうして、こんなことを……!』

 笑い声に溢れていたはずの場所には、代わりに誰かの泣く声が響く。

『お願いです。私を、私を一人にしないでください。貴方が私に教えたんです。この世界に、あたたかな場所があることを。それなのに……それなのに……っ! 貴方が、貴方がいない世界なんて。私は、私は……!』

 でもその声を笑い声に変えることは、もう青年には不可能だった。

『リヒト様。私のたった一人の、光の王よ』
 子どもは、そう言って幸せそうに笑う。
 でもその小さな手のぬくもりは、もうこの世界のどこにもない。

『笑ってくれ。そうしたら、俺も嬉しい』
『見てくれ! 薔薇の騎士』
『空を飛べない君にこの国を見せてやる』
『ありがとう。君の忠義に感謝する』
『――君の手は、温かいな』

 誰かの笑顔、誰かの言葉。
 自分によく似た知らない青年。金色の髪に赤い瞳の青年は、フィンゴッドの背に乗り空を翔る。
 彼の傍らには赤い本があり、その本には金の装飾が施されていた。
 よく知る誰かに似た男の結婚式で、紙の鳥が空を舞う。
 水晶で作られた魚たちは、悠々と宮殿を泳ぐ。
 まるで物語の龍宮の姫のように――『友人たち(さんにんのおう)』はその光景を見上げて優しく微笑む。

『君に指輪は渡さない。でも、どうかこの心だけは、君の傍に居させてくれ』

 それはリヒトが知らないはずの、優しくて悲しい何かの欠片。

「う……。あ、……あ、ああああ……」

 自分の中に流れ込む濁流のような記憶に、リヒトは悲鳴を上げた。頭痛がする。胸が苦しくてたまらない。

「ああ、ああ……あああああああああ!」
「リヒト様! リヒト様、大丈夫ですか!?」
「――ロー……ズ……」

 リヒトはそう言うと、ローズの手を取って呟いた。

「俺の、薔薇の騎士……」

「リヒト様? リヒト様、リヒト様!!!」

 そしてリヒトは、そのまま意識を失った。