——『瑞記(みずき)君はさ、物語の中の奇跡とかおまじないって信じるタイプ?』
 
 ◇◇

 きっとこの夜は全てが幻想だ。
 そうじゃないとしたら、この数時間は妙に現実味のある夢だろう。
 半世紀に一度、片想いのまま別れを迎えた死者との再会が叶う夜。

 —— フィクションナイト。
 
 四年前、初恋の貴女から教えられた一夜の奇跡を僕は願い続けた。
 貴女の好きだった小説に記されているファンタジックな夜を、盲目的に信じ続けた。
 何百回、僕は貴女を想って眠りにつき、目覚めて貴女がいない当たり前に絶望しただろう。
 今、この瞬間が訪れるまで。

栞乃(しの)さん ——」

 僕が十七歳の夏にこの世を去った彼女が、二十一歳になった僕の目の前で眠っている。
 柔らかく巻かれた色素の薄い髪が整った顔に掛かっていて、その隙間から(つや)っぽく色づいた唇が覗ける。少し顔を近づけると、当時と同じ甘く可憐な香りが僕の嗅覚を刺激した。
 彼女の(まぶた)(かす)かに動く。
 アーモンド形の瞳がゆっくりと開いていく。
 
「瑞記君、だよね?」
 
 その一言で確信する。
 この夜は幻想でも、妙に現実味のある夢でもない。僕は今

 —— 半世紀に一度の奇跡を叶えた。
 
 ◇◇ 
 
「瑞記君はさ、物語の中の奇跡とかおまじないって信じるタイプ?」
 
 微笑みながら、彼女は突然そう尋ねる。
 三年前、十四歳の夏。僕は本棚の隙間から見えた彼女に一目惚れした。
 それが、僕の遅すぎる初恋。
 
「どうですかね、そもそも僕はあんまりファンタジーとか読まないですし」
 
 それなら私がファンタジーの世界を教えてあげないとね、と冗談混じりに呟く。
 彼女は僕より七つ年上で、極度の本好きを理由に司書を務めている。その中でもファンタジー小説を好んで読む人だった。
 透け感のあるブラウスに淡い色のロングスカート姿が彼女の夏の格好で、それがよく似合っていた。背中まである色素の薄い髪は柔らかく巻かれていて、所作や言動からは気品が溢れ出ている。
 色っぽさと清楚さを兼ね備えた、品のある艶感を(まと)っているのが彼女だ。
 初恋にしては、ハードルが高すぎる。
 
「それじゃあ今日は私がこの世界で一番好きな奇跡の物語を教えてあげるよ」
 
「世界で一番、ですか」
 
「そうだよ? 私という世界の中で一番の奇跡だね」
 
 言った後、少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、手で口元を覆うように彼女は笑う。
 こうして僕たちは時々、彼女の休憩時間に合わせて敷地内のベンチで他愛もない話をする。
 彼女の猛烈な推薦によって『今月のおすすめ図書』に選抜された蔵書の話を聴かされたり、逆に僕が普段どんな学生生活を過ごしているのか探られたりすることもあった。
 穏やかな彼女だけれど、会話中だけは少し強引で話したいことと知りたいことをとにかく逃さない。本好きというだけあって好奇心に溢れているのだろう。
 そんなギャップにも僕はしっかり惚れ込んでいる。
 
「そんな自信満々に言われたらファンタジーを読まない僕だって知りたくなりますよ? 栞乃さんの世界で一番の奇跡」
 
「そんな言われ方されたら恥ずかしくなっちゃうよ、ちゃんと最後まで聴いてもらうからね?」
 
 満更でもなさそうな表情が可愛らしい。
 姿勢を正した後、彼女は(かばん)の中に手を入れて一冊の文庫本を取り出す。
 その瞬間、僕と彼女の間に流れる空気が絶妙に揺らいだ気がした。
 両手で持った文庫本を意味ありげに、心なしか少し寂しそうに数秒に見つめて僕へ視線を移す。そして躊躇うようにして口を開く。三年間で初めて感じる空気感を彼女の声が切り裂く。

「私が今から話す世界で一番の奇跡はね、この物語に綴られた作者の実体験と少しのフィクションが織り交ぜられたもののことなの」
 
 数秒前の空気感と彼女から発された話題が、僕の中で違和感として重なる。
 出会ってから数えきれないほどの言葉を交わしてきたけれど、彼女自身が読んだ物語を軸に話が始まったのはこれが初めてだ。
 
「初めてじゃないですか? 栞乃さんが読んだ本の話なんて」
 
「瑞記君には話しておきたいことなんだよね。いつか忘れちゃってもいいからさ、今だけは受け取ってほしい話なの」
 
 彼女は緊張した様子で僕にそう告げた。
 その理由が僕にはまだわからないけれど、その様子に引っ張られたように僕の心臓も強張(こわば)っているのがわかる。
 
「瑞記君はさ、片想いした経験ある?」
 
「片想い、ですか」
 
「私はあるの。高校生の頃、二つ上の先輩に一目惚れしちゃってね」
 
 懐かしむような口調で、彼女は絵に描いたような空の見上げ方をする。
 
「僕はきっと、片想いばっかりです」
 
 今、絶賛貴女に片想いしています。と言葉にする勇気を僕は持ち合わせていなかった。僕自身の情けなさを今更痛感する。
 そんなことは、三年間動かない彼女との関係性がすでに証明しているのに。 

「そっか、やっぱり瑞記君も片想いとかするんだね。それならこの話はより受け取ってもらわないとだね」
 
 奇跡の話より先に、僕はその表情に込められた切なさの理由を知りたい。
 今の彼女は笑っている、ではなく口角が上がっているだけのように見えて、なにかを抑え込んでいるような苦しさを感じる。
 
「瑞記君『フィクションナイト』って言葉、聞いたことある?」
 
「初めて聞きました」
 
「半世紀に一度『ある人』に会える奇跡の夜のことを言うの」
 
 彼女の口調から緊張感が薄れていく、その声で僕の強張っていた心臓が(ほぐ)れていく。
 きっと彼女から感じた躊躇いや切なさは僕の勘違いで、ここからいつもと変わらない会話が広がっていく。そう言い聞かせて、僕は彼女の言葉の隠された部分を追求する。
 
「ある人、って誰ですか」
 
「片想いのまま別れを——」
 
 遠回りな言い方は辞めるね、と彼女は一度言葉を呑む。
 
「亡くなった片想いの相手」
 
 片想いしたまま、想いを伝えられないまま会えなくなってしまった人。
 それが『ある人』とは誰か、に対する答え。
 想像力の(とぼ)しい僕はファンタジックな設定を器用に呑み込めないことが多い。だから必要に応じて主人公を僕自身に置き換えて理解しようとするのだけれど、この話だけはその方法を選びたくなかった。
 
「半世紀に一度、それはいつ来るかわからないの。ただその人を強く想って眠りにつくことで、亡くなったはずの片想いの相手が目の前に現れる夜が訪れる」
 
「それが、フィクションナイト——」
 
 曖昧なことが多すぎるけれど、間違いなく彼女の言うその夜が奇跡だということはわかった。それも『死者との再会』というファンタジーの世界ではありがちな(たぐい)の。ただひとつだけ、僕には引っかかっている要素がある。
 
「どうして、片想いの相手なんですか」
 
「瑞記君はなかなか鋭い疑問を抱くね」
 
「恋人とか家族とかなら想像ができるんですけど、片想いの相手との再会って不思議で」
 
 彼女は僕が(こぼ)した疑問を(すく)うように頷く。
 休憩時間は残り十数分。少しだけ駆け足な雰囲気で彼女は口を開いた。
 
「片想いってね、中途半端な気持ちじゃできないことなの。だって、相手は自分のことを見てすらいないかもしれないんだよ?」
 
 その気持ちを、僕は痛いほど知っている。
 
「それほど想っている人を気持ちすら伝えられないまま失うなんて悲しすぎるから」
 
 その気持ちも、僕には容易く想像できてしまう。でもどうしてそれが再会に繋がるのか、僕にはまだわからない。
 
「この話にはね、続きがあるの」
 
「続き……?」
 
「フィクションナイトに姿を現した死者は、再会した相手へ『その人の死によって失ったもの』を授けて去っていくの」
 
 作者の男性は高校生の頃、ともに小説家を目指していた片想いの相手を事故で亡くしたらしい。それ以来、塞ぎ込むように筆を握らなくなった彼はある夜、彼女との再会を果たす。そして当時共同で執筆していた原稿が彼女の声によって読み上げられた時、駆られるようにその未完成な物語の続きを描きたくなったのだそう。
 その一夜で彼は彼女から『夢を追う気持ち』を授けられたと綴っている。
 
「きっとそれほど想った人から授けられたことなら、二度と失わずに大事に抱えて生きていけるんだろうね。家族とも恋人とも違う、特別な感情を向けた相手だからこそ」
 
 彼女の横顔は寂しかった。
 文庫本が握られている手は心なしか震えて見えて、見つめることしかできない僕自身に不甲斐なさが積もっていく。
 
 ——フィクションナイトは、遺された人間が生きていくための夜なのよ。
 
 彼女は自ら語り出した奇跡に目を潤ませている。
 今日の彼女はどこか不思議だ。
 そして今になって思い出す。彼女はファンタジーを好んで読むけれど、その中に登場する奇跡やおまじないといった類を信じるタイプではない。
 どうして、と僕が問う前に彼女から答えが告げられた。
 
「最後に大事なことを伝えられてよかった」
 
 休憩時間はもう終わる。ただこの『最後』はきっと、そんな規模に収まる言葉ではないような気がした。
 彼女の表情が、そう僕に叫んでいる。
 
「最後って、異動とか ——」
 
「私ね、もうすぐ死んじゃうんだ。司書としてのお仕事でここに来るのは、今日が最後なの」
 
 どんなに予想外な結末を迎える物語よりも、強い衝撃を受けた。現実感がない。
 それでも数分間の表情や声色から、彼女の言葉を「そんなの嘘だ」と否定できずに受け入れてしまっている感覚の矛盾が苦しい。
 
「元気そうに見えるでしょう? でも実際そんなことないみたいでね。次の手術が最後だって言われたの。失敗したら——ごめん、言葉にされて聞くのはきっと怖いよね」
 
 僕の中の混乱を察して彼女は止めることなく事実を語り、そして確信的な言葉の手前で口を(つぐ)んだ。
 彼女の表情には寂しさも涙の予感すらもない。
 司書としての彼女しか知らない僕にとって、最後の日。それも休憩時間中という限られすぎた時間。自身の死を告げるには短すぎる。 
 ただそれはきっと、紛れもない彼女の優しさから選択された短さだ。
 
「本は確かに好きだったけど、司書になる気はなかったの。身体の都合を考えて仕方なくこの職を選んだ。でも瑞記君に出会えて、私はこの選択を初めて肯定できたんだ」
 
「僕に出会えて、肯定できた……?」
 
「この物語好きそうだなとか、逆にこのジャンルは読んだことがなさそうだから勧めてみよう、とかね。瑞記君と感性を共有してる時間が私の密かな生きがいだったの」
 
 だから最後は好きな物語を通じて未来を生きていく瑞記君に覚えていてほしいことを伝えようと思ったんだ、と彼女は柔らかな表情で告げる。
 私物だから、またいつか会えた時に感想と一緒に返却お願いします。なんて司書らしい台詞とともに両手で握っていた文庫本を手渡す。
 ページを(めく)ろうとする僕の手を彼女は止めた。
 
「好きな本は内面を覗かれるみたいで、目の前で読まれるのは恥ずかしいよ」
 
 言葉の通り頬を赤らめながら呟く彼女へ頷き、僕は開きかけた表紙を閉じた。
 そろそろ戻るねと立ち上がった彼女は突然俯き、少ししてなにかを振り払ったように顔をあげ、僕に背を向けたまま——。
 
「私、最後に人生の先輩らしいことできたかな」
 
 呟く彼女へ、僕は伝えたい答えがある。
 この数分間の初めの問いへ。
 
「栞乃さん、やっぱり僕は——」
 
 ——そういう奇跡とかおまじないを信じるタイプになりそうです。
 
 言えなかった。
 それが、僕にとっての彼女の最後だった。
 
 ◇◇
 
「大人になったね、今は……」
 
「二十一歳、です」
 
「そっかそっか、私が瑞記君と初めて会った年齢に追いつかれちゃったね」
 
 そこにいることがさも当然かのように、彼女は僕の隣に寝そべっている。
 この瞬間を願い続けてきたけれど、あまりの唐突さに困惑が喜びを邪魔している。
 
「栞乃さんは、栞乃さんのままですね」
 
「私はもう成長しないからね! あとは瑞記君に年齢も経験も追い越されていくだけだから」
 
 感動的な再会の始まりに似合わない野暮なことを言わせてしまった。
 夢だろうかと疑ってしまうほど、容姿はもちろん声も雰囲気も僕が片想いしていた彼女のままだった。
 もしかしたら本当に夢なのかもしれない。
 
「ほら、これでわかるんじゃないかな」
 
 彼女の綺麗な手が僕の後頭部へ触れる、繊細な指の動きを感じ取る。夢じゃないよと証明してくれているみたいで、こういう鋭いところも彼女は彼女のままだと感じた。
 そして、やっぱりこれは夢じゃない。
 
「瑞記君がこの奇跡を立証してくれるなんてね。それほど私のことを想ってくれてたって、嬉しくなっちゃうよ」
 
 奇跡が叶ってしまった事実を前に、隠したままの好意を見透かされたようで頷くことしかできなかったけれど、僕がこの一夜へ懸けた想いは数センチの首の上下で表せるほどのものではなかった。
 あの物語の作者に奇跡が訪れて半世紀を迎える今年に入って、僕の生活は彼女を軸に回っていた。
 夕方に眠りにつき、二十二時に目を覚ます。受ける講義を最低限に抑え、バイトは融通が効くように日雇いのものを転々とした。
 全ては、彼女にもう一度出会うため。
 
「僕のところに来てくれて、ありがとうございます」
 
「ありがとうは私の台詞だよ、大人になった瑞記君に出会わせてくれてありがとう」
 
 交わした言葉の余韻に浸りあう。彼女の可愛らしい笑い方が残っていることに感動する。
 話したさが溢れている時の少し強引な視線も変わらないまま。
 
「瑞記君、今こう思ってるでしょ?」
 
「え?」
 
「この人が僕になにを授けて去っていくんだろう、って」
 
 その言葉で気づかされる、確かに僕はこの夜でなにを授けられるのだろう。その前に、彼女の死によってなにを失ったのだろう。
 高校時代に彼女以外を恋愛対象として見れず一般的に描かれる青春ができなかったことも、この一年の不健康的な生活も、僕にとって『失ったもの』ではない。
 それなら僕は——。
 
「驚かせちゃったね。でもこの夜って、そんなに時間長くないからさ」
 
 なにが起きたのか、一瞬わからなかった。
 僕の唇に、彼女の唇が触れた。一般的な僕の年齢からしたら『そんなこと』なのかもしれないけれど相手が彼女という特例すぎるがために僕の鼓動は騒がしくなっていく。
 
「私は知ってるの、瑞記君になにを授けて去るべきか。だから少し強引だけど、私に委ねてくれないかな」
 
 ただでさえ幅の狭いベッドの中で、僕達の距離は更に近くなる。鼻先が触れてしまうほど近くに彼女がいる。
 あの日と同じブラウス姿を前に強張る僕を、彼女の温度のない肌が包む。
 頭を触れられた時の違和感が確信に変わる。どれだけ彼女の手に触れても温かくなる気配がない。頬も耳も首も、温めてはすぐに冷たくなってしまう。本来なら息がかかるほどの距離に来ても彼女から呼吸音は一切聞こえない。
 再会した彼女は紛れもない時間が止まった彼女のまま(ノンフィクション)の姿でそこにいた。
 
「これより先に、触れてもいいですか」
 
 静かな相槌が返ってくる。
 彼女が纏うひとつずつを解くためにボタンに手をかける。服を捲る僕の手を彼女が止めることはなかった。
 彼女の初めてみる姿に、見惚れてしまう。
 あの日、十四歳の僕が一目惚れをした時と同じ感覚。
 
「栞乃さん」 
 
「ん?」
 
「好きですよ、ずっと」
 
「私達、ほんの一瞬だったかもしれないけど両想いだったんだね」
 
 ずっとどこか僕の心に住み着いていた躊躇いが、その一言で崩れていく。
 七歳差の一目惚れの相手。
 何度言葉を交わしても素直になりきれなかった。彼女が亡くなった後は、傷つかないために喪失感を抱いてしまいそうなことを避けてきた。あの図書館には、近づくことすら出来なくなった。
 僕の中で抑え込んでいた願いと欲と寂しさ、全ての焦点が彼女へ向いている。
 
「栞乃さん」
 
「いいよ、大人になった瑞記君を教えて。だからなにも抑えない、本当のままでいて」
 
 ◇◇
 
 目が覚めて、陽の差した部屋の中に彼女の姿はなかった。
 本当に一夜で終わってしまうのか、と妙に冷静に呑み込んだ。
 数時間前の彼女の表情や声を僕は鮮明に覚えている。この人を好きになって良かったと心から思えた。
 この人を亡ったことが悲しいと心から感じることができた。
  
「栞乃さん」
 
 夜が終わったことを突きつけるように、窓から差す光が強さを増す。
 異様に静かに感じる室内に、僕が頼りなく名前を呼ぶ声だけが響いて消えた。
 ベッドに視線を移す、彼女がいた形跡はなにひとつ残っていない。僕の心には大きすぎる失ったものを授けて、彼女は本当に去った。
 
「栞乃さん、僕、初めて……初めて、栞乃さんに本当のこと——」
 
 言葉にはできなかった。
 彼女へ向けた言葉が独り言のように消えていくのが、あまりに寂しかったから。
 崩れ落ちる、手の甲に無数の水滴が落ちる。
 僕はその朝、彼女を(うしな)って初めて泣いた。
 奇跡の一夜が終わったことも、彼女へこの言葉が届かないこともわかっている。だからこれは、遺された僕が生きていくための独り言として——。

「ねぇ、栞乃さん。僕は貴女が好きでいてくれた僕のままを、生きていこうと思えたよ」