「そこで何をやっている」
「こっ、これは青龍さま。いえ、せっかくなので伴侶どのにご挨拶をしようかと、ええ、はい」
「それは時機を見て、いずれ紹介する。青の地の天候不順について、火急を要するのだろう。すぐにでも奥座敷で膝を突き合わせて議論をするべきだと思うが」
「いや、そうは言われましても、私ども政府にも報告する義務というものがありまして……」
「……伴侶はまだ到着していない。ここにいる者は何者でもない。そう報告しておけ」
このまま一触即発の事態になってもおかしくない、怒りを堪えているような蛍流の低い声に海音まで身震いする。全てを拒絶する凍り付いてしまいそうな冷たい声色は、まさに和華から聞いた噂通りの「冷酷無慈悲で冷涼な青龍さま」そのものであった。これには海音も危うく悲鳴を上げてしまいそうになって、咄嗟に両手で口を押さえてしまう。
息を止めて、その場で身体を丸めて座り込んでいると、やがて役人たちは諦めたのか「そうでしたか」と猫なで声で話し始める。
「これは大変失礼をいたしました。何分女人のものと思われる草履が玄関の沓脱石の側にありましたので、伴侶どのが到着されたとばかり……。早合点をしました」
「……用意が整い次第、すぐに本題に入ろう。お互い多忙の身、一分一秒も無駄には出来ない」
蛍流の迫力に気圧されたのか、役人たちは渋々奥座敷へと向かったようであった。全員の足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなったところで、ようやく海音は緊張を弛めて息を吐き出せたのだった。
(よっ、良かった~。蛍流さんが来てくれて……)
あのまま部屋を覗かれていたら、好き勝手なことを役人たちに言われていただけだろう。自分のことを言われる分には耐えられるが、海音が和華の身代わりと知ってもなお、優しくしてくれる蛍流について、あること無いことを近くで言われるのは我慢できない。つい頭に血が昇って、平手打ちくらいならやっていた。そんなことをしたって、蛍流を困らせるだけだとわかっているのに……。
一難去って気持ちが落ち着いてきたところで、気になるのは耳に留まり続ける蛍流の言葉。海音の存在を役人たちに隠すためとはいえ、どこか釈然としない。
(何者でもないか……)
蛍流からしたらその通りだろう。伴侶ではない自分と青龍である蛍流との関係は文字通りの「何者でもない」関係。当然伴侶じゃなければ、友人でも、召使いでもない。強いて言うなら、ただの居候。
伴侶に選ばれた和華の振りした割には、即日正体がバレてしまった身代わりとしても「使えない」存在。着物でさえ自力で着付けられない、この世界では全くの役立たず。
どこに行っても居場所が無ければ、無価値な海音。家も分からず、どこで何をしたらいいのかさえ検討もつかない。
(お母さん……お父さん……)
急に心細さが身体の奥から迫り上がってくる。この世界に来てから昨日の昼までは、和華の身代わりになるための用意と、青龍として崇め畏れられる蛍流に対する緊張でずっと気を張っていた。
灰簾夫婦が用意してくれたマナー講師と家庭教師に朝から晩までマナーと知識を叩き込まれ、空いた時間は嫁入り道具として持参する反物選び。
嫁入りの準備と言っても、嫁入り道具の用意は和華の母親である灰簾夫人と和華の二人が主体となってとんとん拍子で決められてしまったので、海音は口を挟む余地さえ与えられなかった。マネキンのように色んな柄や種類の反物を着せ替えられただけだったが、それでも四六時中、他人が側にいる環境というのは衆人環視のようでストレスしか感じなかった。気が休まるのは、夕餉を終えてから就寝までのほんの一時。朝が来れば、また「和華」に成るため、自分を磨かなければならない。
そう考えると、灰簾家で海音が「海音」としていられたのは、就寝までの短い時間しか無かったことになる。
むしろそれで良かったのかもしれない。「和華」の身代わりとして蛍流の元に嫁ぐ用意を整えている間は、あまりの目まぐるしさで他の余計なことは何も考えずにいられたのだから。
(お父さんはどうしているかな。お母さんに続いて私までいなくなったから、また塞ぎ込んでいないといいんだけど……。お母さんのお仏壇のお花も交換してくれるかな。気温が上がってきたからお花があっという間に枯れるようになって……。神社に参拝した後は、お母さんの大好きなお花を買って帰るつもりだったのに……)
自由に外出が出来ない分、少しでも季節感を味わいたいからと、どんなに症状が悪化しても、病室には常に季節の花を飾り続けていたたおやかな母親。いつ消えてもおかしくない儚げな母親の笑顔を思い出して、海音の目からはぽろぽろと涙が零れてくる。しばらく膝を抱えて泣いていると、生前母親と交わした約束が頭の中に蘇る。
『海音、貴女は人の心や痛みを知って、思い遣れる人になりなさい。相手が何に苦しんでいるのか、自分に何が出来るかを考えて行動できる大人になって、手を差し伸べられる人に。お父さん、お友達、先生、恋人、道端で出会った人、そんなのは関係ないわ。相手のことを見た目や噂で判断しないで、その人を本当に理解した上で、相応しい行動を起こせる大人になるのよ。自分で考えて、自分で判断できる人になるの。……お母さんと約束、できるわね?』
その時は何を言っているのかよく分かって無かった。それでも大好きな母親からのお願いだからと、約束を果たすことを誓った。
約束の本当の意味を知ったのは、母親が亡くなってしばらく経ってから。偏見にとらわれず、自分で思考して決断を下した上で、自ら行動を起こすということが、如何に難しいかを知った。
今だってそうだ。和華たちから聞いた「人嫌いの冷淡者」や「冷酷無慈悲な青龍さま」という信憑性が無い蛍流に関する噂話に翻弄されて、何も行動を起こせずにいる。噂通りの人なら、昨晩わざわざ夜道に取り残された海音を迎えに来て、寝ている海音を起こさないように怪我の手当てをして布団まで運んでくれるはずがない。まだ誰にも知られていない蛍流の温かな姿がきっとあるはず。
けれどもその顔を知って良いのは、海音では無い。蛍流の本当の伴侶――和華なのだから。
(私に出来ること……。蛍流さんの優しい一面を和華ちゃんに伝えること。そして私の代わりに蛍流さんの力になってもらうこと)
和華に意中の相手がいることを知りながら、二人の仲を引き裂くような真似をするのはとても心苦しいが、それでも身代わりの海音では「青龍の伴侶」になれないと言われた以上、ここに海音がいても役に立つことは何も無い。
そんな海音でも蛍流のために出来ること、それは蛍流が噂通りの人じゃなかったと和華に伝えて、伴侶に来てもらうこと。蛍流が冷酷無慈悲で人嫌いなじゃ無いと分かれば、きっと和華も「青龍の伴侶」になることを考え直してくれるに違いない。
そうと決まれば善は急げだと、海音は手の甲で乱暴に両目を拭いて立ち上がる。文机の引き出しを開けて、紙と鉛筆を見つけると、蛍流への簡単な謝辞と本来の伴侶である和華を連れて来る旨を悪筆で書き記す。
廊下に面した襖を開けて人の気配が無いことを確かめると、忍び足で玄関口に向かうが、廊下の角を曲がったところで、運悪くお茶の用意を整えた蛍流と鉢合わせをしてしまう。
「何をしているんだ?」
「お、お手洗いに、行こうかと……」
「厠なら反対側だ。奥座敷のすぐ側にある。方角が一緒だから案内するぞ」
「い、いいえ! 大丈夫です! 蛍流さんもこれから休憩ですよね!? 邪魔したら悪いので、一人で大丈夫です!」
蛍流は急須と人数分の湯呑み茶碗を乗せた盆を持っていた。打ち合わせがひと段落ついたのか、これから一服するところなのだろう。蛍流にことを好き勝手言っていた役人たちを待たせたら、余計に変なことを言われてしまうに違いない。そう考えた海音は何度も首を左右に振るが、蛍流は納得がいっていないのか怪訝な顔をしていた。
「案内ぐらい大した手間ではない。遠慮せずについて来い」
「あっ! やっぱり部屋に居たい気分かもしれません。お手洗いはまた後で行きます。邪魔してすみません、では!」
「待て」
早口で言い切って背を向けた海音だったが、蛍流の澄み切った低い声に呼び止められて振り返る。蛍流の長い指先が目元に触れたかと思うと、心配そうに顔を覗き込まれたのだった。
「目尻に涙が残っていた。……今まで泣いていたのか?」
「えっ……。いいえ、泣いていません」
「だが……」
後ろめたさで目線を下に落とすと、蛍流が何かを言う前に足早にその場を後にする。蛍流に触れられた目尻には、今も蛍流の指先の感覚が残っているようでくすぐったい。着物の袖でゴシゴシと目尻を擦ると、辺りを見渡す。すぐに引き返して玄関に戻れば、また蛍流と遭遇してしまう。
外に出るのはもう少し時間が経ってからの方がいいと頭では分かっていても、ここでグズグズしていたらまた昨晩のように慣れない山道で迷子になる。早く和華の元に行きたい焦りと自由に外に出られない苛立ちが浮かんでくる。
(そうだ……!)
海音は抜き足で廊下を進むと、今朝方外に出た硝子戸までやって来る。硝子戸を開けて沓脱石の上の草履を履くと、音を立てないように注意を払いながら庭に出て行く。おそらく蛍流のサイズに合わせた草履なので、足の大きさが違う海音は歩く度に足元がふらついてしまう。明らかに海音の足にはぶかぶかだが、履かないよりはマシだろう。邪魔になったら、途中で脱げばいいだけ。本当はそうなる前に下山出来ればいいのだが……。
(必ず和華ちゃんを連れて来ます)
そんな誓いを胸に海音は道なりに山道を下り始めたのだった。
「いったぁ……」
昨晩蛍流に背負われて登った道を反対方向の麓に向けてゆっくり歩き出したものの、すぐに鼻緒が当たる指の間からズキズキとした痛みを感じて立ち止まってしまう。草履から足を抜いて足袋を脱げば、鼻緒が当たっていた指の間の皮膚が剥けて赤く腫れていた。よく見れば、足袋には薄っすらと血が滲んでいる。
このまま履き続けても余計に指の間を傷付けてしまうので、草履を諦めると足袋で歩き出す。
(せめて、傷口の消毒くらいはしたいな……)
このまま放っておいたら、傷口が化膿してしまう。消毒液や包帯なんてものは持っていないのが、その代わりどこかで川か湧き水を見つけて、傷を洗えればいいが……。
大きな溜め息を吐いた直後、風向きが変わったのか微かに流水音が耳に入る。首を動かしながら耳をそばだてれば、音は途中で分岐した道の先から水の跳ねる音と轟音が聞こえてくるようだった。
(こっちには何があるんだろう……)
昨日は暗くて分からなかったが、蛍流の屋敷と山の麓までの道の途中には細い脇道が伸びていた。川や滝などの水辺に通じる道なのだろうか。
昔、何かで聞いたが、山で遭難した時は川伝いに歩くと人里に降りられることがあるという。本当かどうかは分からないが、試してみる価値はあるかもしれない。寄り道になるので、川に立ち寄ってしまうと今日中には和華を連れて戻って来られないかもしれないが、その時は近くの民家に泊まって、明日戻るという連絡を蛍流にすればいい。この世界には固定電話機すら無いようだが、電報くらいなら蛍流に送れるだろう。
鼻緒で擦れて痛む足を庇いながら歩き始めた脇道は、かつて人の往来があったのか、獣道ではなく適度に人の手が入った斜面の緩やかな平坦な道となっていた。薄っすらと生えた雑草とゴツゴツした石にさえ気を付ければ、草履を履いていなくて歩きづらいということは無さそうだった。昨晩の零雨の爪痕と思しき、水溜まりや泥濘もほとんど乾いていたので、昨日よりも歩きやすい。
(運が良ければ、川下で誰かに会えるかも)
昨日案内してくれた地元民が話していたが、蛍流の先代に当たる前の青龍は地元民に限らず、青の地の住民全てから慕われるような穏やかな賢人だったらしい。
困りごとや悩みごとの相談目的で二藍山を登ってくる役人や近隣住民が大勢おり、青龍を慕う人たちが麓や近くの山間に集まって里として栄えていた時期もあったという。
代替わりして蛍流が継いだ今でこそ、人嫌いの冷淡者という蛍流の噂を恐れて二藍山を訪れる者は滅多にいなくなり、麓に暮らしていた人たちも余所に移り住んでしまったが、それまでは誰でも入れる場所として二藍山の門戸が開かれていたとのことだった。この整った脇道も、きっとその時の名残りかもしれない。
この世界には上下水道なんて便利なものは都心から離れるほど備わっていないので、二藍山近くの人里に住んでいた人たちは、この先の川で水を汲んで生活用水として使用していたのだろう。誰でも立ち入り出来るように先代の青龍が二藍山を解放していたのなら、川に続く道も誰でも入れるように整備していた可能性がある。
道端の岩や枝葉で足裏を傷つけないように気を付けながら脇道の奥へと進んでいくと、次第に水のせせらぎが大きくなる。やがて木々に囲まれた脇道を抜けると、そこには想像を絶するような大きな滝壺が姿を現わしたのだった。
「これが音の正体……?」
目の前で轟音を立てながら次々に滝壺へと落ちてくる泡状の水に瞬きを繰り返す。視界の端では跳ねた水から生まれた小さな虹までかかっていた。息を吸えば、水気を含んだ清涼な空気にすうっと癒されていくのを感じて心が軽くなっていく。滝壺の周辺には木々が集まって木漏れ日となっている箇所もあるので、神聖な滝壺の風情を味わいながら日向ぼっこをするのも魅力的かもしれない。
エメラルドグリーンの水際を覗き込むと、穏やかな波が打ち寄せては太陽の光を反射してキラキラと輝き、透明な碧水から差し込んだ陽光が水底までをも明るく照らしていた。掌を皿にして濁りの無い澄んだ浄水を掬ったところで、自然と喉が鳴ってしまう。
(飲めるよね……?)
慣れない着物で山道を歩いて体力を消耗していたからか、海音の喉はからからに渇いていた。本当はこういう自然の真水を飲む場合、先に煮沸した方がいいらしいが、今の海音は煮沸に必要な道具を持っていない。飲むとしたら、このまま口を付けるしかない。
試しにほんの少しだけ口を付けたつもりが、喉を潤す甘い水にすっかり警戒心を忘れて掌の水を飲み干してしまう。それから数回水を飲んでようやく渇きが満たされると、今度こそ足袋を脱いで指の間の消毒に専念する。手巾を水に浸して傷口とその周辺を拭くと、裾を捲ってそろそろと爪先を水の中に浸したのだった。
「ひやぁ!?」
さすがに雪解け水が混ざった滝壺の水は冷たく、傷口に染みてじわじわ痛んだが、我慢してもう片方の足と共に膝まで水に入れてしまう。次第に水に慣れてきたのか、何も感じられなくなると、つい惚れ惚れして滝を眺め出す。
(綺麗な滝。こんな滝が山の中にあったなんて……)
元の世界で海音も観光地として有名な滝壺を見に行ったことがあるが、この場所はそこよりも清浄な気が満ちているように感じられた。心が洗われるようなこの神聖な気は、水の龍脈を守護するという青龍の蛍流とその片割れである清水によるものだろうか。
パチャパチャと子供のように爪先で水を蹴っていると、足首の包帯が取れそうになる。水面から足を出して蛍流が巻いてくれたのとほぼ同じ状態になりように包帯を巻き直すと、手巾で足を拭いて足袋を履いたのだった。
草履を片手に立ち上がった海音だったが、滝近くに設置された台座とその上の苔むした大きな岩が目に入る。絶えず降り注ぐ跳ねた水で苔が生えたのだろうが、それよりも岩の表面に彫り抜かれた文字が気に掛かってしまう。
興味本位で岩に近づくと、そこには風化してほとんど読めなくなった文字から溝が深い最近彫られた文字まで、彫刻された年代や文字の癖がてんで違う文字列が上下二段に分かれてびっしりと並んでいたのだった。
(一番新しい日付は二年前なんだ……。この茅って言うのは名前?)
一番下の新しい順から順番に人名らしき単語と年月日を眺めていた海音だったが、風雨に晒されて消え掛かっていた上段を見ていた時にハッとして目を留める。
石碑の中央には最近彫り直したと思しき、大きな文字でこう記されていた。
『七龍が一柱・青龍。この国の水を司るは青龍とその形代也。この地に眠る選ばれし形代とその令閨をここに記す』
たどたどしいながらも、灰簾家で学んだ知識を駆使してどうにか海音は読み上げる。刻印された言葉の意味に気付いた瞬間、海音の身体が総毛立ったのだった。
(これ……歴代の青龍とその伴侶に選ばれた人の墓石なんだ……)
それならこの日付は没年月日で間違いない。この国に古くから存在するという青龍なら、当然その半身に選ばれる人間とその伴侶の数も相当数いるはず。青龍に選ばれたとしても、生きとし生ける者である以上、寿命には逆らえない。
これはそんな役目を終えた青龍に選ばれた人間とその人間を支えた令夫人たちが眠る墓石なのだろう。水を司る青龍に選ばれた男女だから、水辺に最も近い場所に埋葬されたということか。
知らなかったとはいえ、そんな歴代の青龍とその伴侶たちが眠る厳かな場所に勝手に立ち入っただけではなく、後先考えずに騒いでしまったことが悔やまれる。
謝罪を込めて石碑の前で手を合わせると、心の中で謝罪を繰り返す。次に来る時は供花を持参しようと考えながら。
その時、背後から獣の唸り声が聞こえてきたので、反射的に飛び上がってしまう。後ろを振り返れば、警戒心と怒りを剥き出しにした虎の群れが海音を睨め付けていたのだった。
(嘘でしょう……いったい、どこから……)
屋敷を出た時は虎どころか、獣の気配さえ感じられなかった。そもそも獣の活動時間というのは、日暮らし頃から押し明け方に掛けての夜間ではないのか。それどころか虎が生息しているのは主に乾燥地帯であり、こんな標高が低い山に生息する虎など聞いたことが無い。
「グゥルルルゥ……」
動物園の檻の中でしか見たことがない黄色と黒色の縞模様をした成獣の虎たちがゆっくりと近づいてくる。明らかに青龍とその伴侶たちの眠りを妨げた海音を標的として、今にも飛び掛かろうと狙いを定めているようでもあった。
「ひぃ……っ!!」
叫びたくても喉からは引き攣った声しか出てこない。後ろに下がるが、すぐに墓石が鎮座する台座にぶつかって、尻餅をついてしまう。すぐに立ち上がろうにも腰が抜けて動けない。
「こっ、来ないでっ……!!」
どうにか声を振り絞ってみたものの、蚊の鳴くような声が口から発せられただけであった。絶体絶命のピンチに、涙を流して助けを乞うことしか出来ない自分がもどかしい。こんなことで、この異世界でどう生きていけるというのか。身を守るものを探して虎から目を離さずに掌で近くを弄っていると、サイズが合わない草履を手に持っていたことを思い出して目線だけを動かして場所を確認する。虎を刺激しないようにそろそろと手を伸ばして草履を掴むと、虎に向かって思いっきり放り投げる。草履は放物線を描きながら飛んでいったものの、海音と虎の中間辺りに落下してしまう。
それでも虎たちの意識が一瞬だけ草履に逸れたので、その隙に立ち上がると両手で裾を掴んで走り出す。
(今のうちに……!)
伸縮性のある洋服ではなく重い着物姿だからか、どうしても歩幅が小さくなってしまう。加えて、治ったばかりの足首が再び鈍痛を生じ出したからか、普段よりスピードが出ない。地面を踏みしめる度にズキズキと痛む足に悲鳴を上げそうになりながらも、口を固く引き結ぶことでどうにか堪える。
虎たちからの追跡を避けるように、草木を掻き分けて道なき森の中を駆け出したものの、すぐに目の前を切り立った岸壁に阻まれてしまう。
「そっ、そんな……!」
どうにか降りられないか覗き込むが、草木が生い茂る森と滝壺から流れた川で出来たと思しき川が遥か真下にあるだけ。飛び降りるにはあまりにも距離があり過ぎる。覚悟を決めて身を投げたところで、当然、無事では済まさないだろう。別の逃げ場を探してもたもたしていると、後ろからは虎の叫喚が聞こえてくる。首だけを動かして見返すと、海音に追いついた先程の虎たちが怒気を露わにして距離を詰めていたのだった。
(お母さん、ごめんなさい……お父さんを一人にして。お父さんも、全然親孝行出来なくてごめんなさい……)
憤怒の形相を浮かべる虎たちの大きく裂けた口と、そこから生える鋭い牙に戦慄する。元いた世界でも野生の虎が人を襲ったという海外ニュースをたまに聞いていたが、動物園や図鑑で見ていた虎たちしか知らなかった海音は恐怖を感じたことが無かった。
長年、虎のことを少し大きな猫くらいに思っていたが、実際に間近で目にした虎の大きさと身体に比例するように伸びた鋭利な牙は、そんな海音の幻想を打ち砕くのに充分であった。小動物程度の大きさなら余裕で丸呑み出来そうな口と並みの刃物よりも大きな牙に襲われたら、海音なんてひとたまりも無いに違いない。
恐怖心から嫌な汗で肌がベタベタしているのを感じつつも、海音はその場にしゃがんで懺悔をするように目を瞑る。
(和華ちゃん、ごめんね。何も役に立てなくて。ごめんなさい、蛍流さん……。優しくしてくれたのに、何もお返し出来なくて……)
絶えず唸り声はすぐ近くから聞こえていた。それに呼応するように、海音の鼓動の音もはっきりと聞き取れるようになる。
全てを諦めて虎たちの餌食になる覚悟を決めた時、爆発寸前といった空気を切り裂くような好音が耳に入ってきたのであった。
「海音!!」
海音に向かって必死に呼びかける清涼な鶯舌が耳朶を打つ。その声で弾かれたように目を開ければ、どこから現れたのか虎たちの真後ろには息を切らした蛍流が立っていたのだった。
「蛍流さん……!」
乾いた唇を舌で湿らせながら助けを乞うように名を呼べば、蛍流は安堵したように右目下の黒子ごと一瞬だけ相好を崩す。しかしすぐに顔を引き締めると、虎たちに向かって朗々と宣言したのだった。
「引け! この者はおれの大切な客人だ! 傷を付けることは一切許さんっ!!」
蛍流の一声に、目前まで迫っていた虎たちがピタリと動きを止める。そして言葉が分かっているかのように、くるりと背を向けるとあっという間に滝壺へと戻って行ったのだった。
あれよあれよという間の出来事に海音がその場で呆けていると、虎たちを見送っていた蛍流が歩み寄ってくる。
「無事か?」
ゆるゆると顔を上げた海音だったが、未だ衝撃が抜け切れてなかったからか、小さく頷くことしか出来なかった。そんな海音に目を細めていた蛍流だったが、やがて詰問するように声を荒げる。
「何故、こんな危険なことをした! 部屋から出るなと言ったはずだっ!!」
「わっ、私、和華ちゃんを連れて来ようとして……」
「それならどうして青龍の神域に立ち入っている!? 危うく守護獣たちに殺されるところだったんだぞ!! お前はもう少し自分の身というものを大切に……」
「伴侶じゃない私は、何者でも無いんですよね!? それなのにどうして部屋に閉じ込めて、今も助けてくれたんですか!? 伴侶じゃない私がここに居たって、何も意味が無いのに……この世界では要らない存在なのに……助けなくても良かったのに……」
緊張で張り詰めていた糸が切れたからか、海音の両目から涙が滲む。いくら手の甲で拭っても、涙は溢れるばかりで一向に止まらない。そのまますすり泣いていると、やがて頭から濃紺色の羽織を掛けられたのだった。
「悪かった。お前の気持ちも考えないで、酷いことを言ってしまって……」
しゃくり上げながら首を左右に振れば、小さな嘆息を返される。そうして泣きじゃくる海音を、羽織の上から抱きしめてくれたのだった。
「お前はこの世界に来てからずっと必死だったのだな。自分の居場所を見つけようと藻掻き苦しんで……。和華の身代わりを申し出たのも、和華の役に立つことで自分の存在価値を見つけたかったのだろう?」
「わったし、ここで、何をしたらいいのかさえっ、わからなくてっ……。なんで、ここにいるのかもっ……! どこに行けばいいのかも、わからなくて……っ! 夢なら覚めて欲しいって、ずっと思ってて……! 本当はおうちに、帰りたいのにっ! お父さんとお母さんに、会いたいのに……っ!」
皺一つない蛍流の白いシャツからは木蓮に似た優しい匂いがした。それが元の世界で眠る母親との思い出を想起させられて、ますます寂寥感で言葉が詰まってしまう。
季節感を大切にしていた母親は、この時期になるといつも木蓮の香水を身に付けていた。病気を患ってからは消毒薬の臭いが気になるからと、パフュームオイルを好んで使うようになった。
今でも母親と同じ香りを嗅ぐと恋しさで涙が溢れてしまうが、この世界には母親を身近に感じられるものが何も無い。それがますます海音の心に穴の空いたような気持ちにさせる。
肩を震わせて涙に咽び続けていると、頭上から柔らかな声が落ちてくる。
「不安な気持ちを隠さなくていい。見ず知らずの世界に連れて来られてずっと心細かったのだろう。頼る者どころか、誰を信用したらいいのかさえ分からない。何もかもがはっきりしないこの世界で、自分がどう生きていけばいいのかさえ、皆目見当がつかない。先の見えない不安や心配で心細い気持ちになるのも当たり前だ。ここはお前が生まれ育った世界とは違う場所なのだから」
「でも……」
「この世界に居る意味が何も無いのではない。この世界に居る意味が何かを見つければいい。これから時間を掛けてゆっくりと……」
そうして蛍流は海音の両頬を挟むように両手で触れると、流れる涙を指先で拭ってくれる。冷たい蛍流の掌が火照った頬に染み入り、昂る感情まで鎮めてくれたのだった。
「帰ろう。今はあの屋敷がお前の……海音の居場所だ」
そうして海音の手を引いて歩き出した蛍流だったが、海音が動かないので不思議そうな顔をする。足元に目を向けたところで合点がいったのか、海音の目の前で背を向けるとその場で膝をついたのだった。
「乗れ。その足で歩くのは厳しいだろう」
「ゆっくり歩けば大丈夫です。先に戻って下さい……」
「昨日も運んでいるから問題ない。軽量なお前一人くらい、屋敷まで運ぶのはお安い御用だ」
このままでは昨晩と同じように押し問答になるだけだと悟ると、海音は素直に蛍流の背に掴まる。そして昨日と同様に「軽いな」と蛍流が呟いたのだった。
「振袖を着てもこの重さか。まるで羽根のようだな。この世界に来てからまともに食べていなかったんじゃないか。朝餉もほとんど残していただろう」
「昨日の朝までは灰簾家に居候の身でしたので……。女中さんと同じものを食べていました……。冷めた料理と残り物を少々」
「女中と同じ扱いだったのか?」
「私が女中さんと同じでいいって言ったんです。灰簾家の人たちも、青龍の伴侶になれたのなら毎日贅沢三昧が出来るって言っていたので、今だけだと思って……。それに……」
「それに?」
「……太ったら、白無垢が着られないので」
滝壺に向かう道すがら話していた二人だったが、気まずそうに囁いた海音の言葉でその場が水を打ったようにしんとなってしまう。
「……着たいのか? 白無垢」
「家に飾られていたお父さんとお母さんの神前式の写真をずっと眺めて育ったので……。ウエディングドレスにも憧れていますが、この世界にはなさそうですし……」
母親の仏壇には幼い海音を抱いた母親の写真と一緒に、両親の神前式の写真も飾られていた。父親に聞いたところ、ウエディングドレスの写真もどこかにあるらしいが、母親の療養で引っ越しを繰り返している内に、どこかに紛れて分からなくなってしまったという。
「この世界での、というより、七龍の形代との婚礼は基本的に書面だけで終わる。豪華な衣装の用意や儀礼は行わない」
「そうなんですか……」
「せいぜい角隠しに留振か振袖を合わせて、お神酒を酌み交わすくらいだな。希望があれば、伴侶側の親族ぐらいは呼ぶが……」
どこか申し訳なさそうに教えてくれるのは、期待を膨らませて身代わりを演じた海音に気を遣ってくれているのか。伴侶になれないと分かっていながら、海音の憧憬を壊さないようにしてくれる蛍流の優しさがどこか居心地悪い。
「残念です……」
「あくまで七龍の形代と婚姻を挙げる場合の話だ。他の男と式を挙げる場合は望み通りの神前式が出来るだろう。この先、輿入れ相手に頼むといい」
「蛍流さんはやってくれないんですか? その、伴侶から頼まれても……」
「伴侶が望むのなら、おれはやってもいい。途方もない長い時間、人生の苦楽を七龍の形代と共に過ごすんだ。些細なことで波風は立てない方が良い。その代わり、七龍の形代はここから離れられないので、斎主を呼んであの屋敷で執り行うことになるが」
歴代の青龍とその伴侶はどうしていたのか、尋ねようと口を開きかけた時、先程の滝壺まで戻ってきてしまう。何を思ったのか、蛍流は水際近くの岩の上に海音を下ろすと、「少し待っていろ」とだけ短く言って離れてしまう。
「先に足首だけ冷やしてしまおう。そのままではますます悪化して、立つことさえ辛くなってしまう」
蛍流は懐から取り出した手巾を滝壺の冷水に浸すと、土埃と枝葉でボロボロになった海音の足袋を脱がして、昨晩捻った足首に巻いていた包帯も外してしまう。
「やはり腫れが酷くなっているな。しばらくは安静にした方がいい。指の間の傷は草履か? 大きさの合わない草履を履くと、鼻緒で擦れて切り傷になってしまう」
鈍痛が悪化しているところから、ある程度は予想していたものの、包帯下の足首は見るからに赤く腫れていた。そんな足首に蛍流が濡らした手巾を当てたので、海音は飛び上がってしまう。
「ひゃあ!?」
「冷たいだろうが、今だけ我慢してくれ」
苦笑しながらも、蛍流は湿布代わりの手巾と一緒に手早く包帯を巻き直してくれる。その手際があまりにも良いので、これには看護師を目指す海音でさえ、惚れ惚れと見入ってしまったのだった。
「明朝、行商人に来てもらうように手配している。お前の着替えや治療に必要な医薬品を持参してもらうつもりだ」
「行商人が来るんですか?」
「おれはここから離れられないからな。七日に一回程度、必要な物品や食料を届けてもらう。この国に流通している物なら大体揃えてもらえる。ついでに情報もな。ここに来ている行商人は情報屋と各地の七龍の形代たちとの連絡役も兼ねている。お前も必要な物があれば頼むといい。火急の要件も、都合次第では聞いてもらえることがある……その分、高く吹っ掛けられるが」
「私は大丈夫です。この世界のお金を持っていないので……」
「七龍の形代とその伴侶の生活費は、全て国の政務を司る政府から支払われるから心配ない。万が一にも、国を守護するおれが行き倒れなんてことになったら、この国は大変なことになるからな。そして今のお前はおれの客人だ。七龍の形代の客人にもしものことがあったら、守護龍とひいてはこの国に影響を及ぼしかねない。政府だってお前のことを悪しざまに扱わないだろう。伴侶に与えられる支度金の話をされた時に聞かなかったか?」
「いえ……。私は灰簾家の人じゃないので、お金の話なんて無かったのかもしれません……」
「……そうか。それならこれからは遠慮しなくていい。おれの客人としてあの屋敷で好きなように過ごしてくれ」
ほっと安堵の息を吐く。明日もここに居て良いと言われただけで、こんなに胸が熱くなるとは思わなかった。住む場所があることを当たり前だと思っていた元の世界では到底思えなかった感情にゆっくりと笑みを浮かべると、改めて衣食住の有難みを噛みしめる。
すると、突然滝壺の中心部が泡立ち始めたので、海音は身体を仰け反りかける。噴水の水が噴射する直前にも似た光景にあんぐりと口を開けて見ていると、蛍流はなんともないように「やっぱりな」と独り言ちたのだった。
「ここまで騒いだら、さすがに姿を現すと思っていた」
そんな蛍流の言葉が合図になったのか、滝壺の中心部から天に向かって浅葱色の鱗に覆われた巨大な龍が立ち昇る。水飛沫をあげながら天へと昇っていく迫力ある姿は、まさに映画や漫画のようでもあった。この地を守る守護龍の清水は上空を一回転すると、海音たちの目の前に降り立つ。
「騒がせてしまってすまない。おれの無責任な発言が彼女を傷付けて、屋敷から飛び出す原因を作ってしまった。青龍の神気を持たない者が無断で神域に立ち入ったことを謝罪する」
その言葉の真偽を確かめるかのように、次いで清水が海音に目線を送る。足首の怪我を庇いながら立ち上がった海音も、その場で「すみません」と頭を下げたのだった。
「道に迷って、清水さまの神域と知らずに立ち入ってしまいました。うるさくしたことを謝ります。すみません」
無言のまま海音を見つめていた清水だったが、やがて今朝と同じ風声が長めに聞こえてきたかと思うと、蛍流が「分かった」と首肯したのだった。
「彼女……海音にはおれから伝えておく。……そう心配せずとも、ただの痴話げんかだ。お互いに枕を濡らすようなことはするものか」
その言葉に満足したのか、清水は滝壺の中心へ飛んでいくと再び水中に潜ってしまう。蛍流から借りた濃紺色の羽織で水飛沫が掛からないように頭をすっぽりと覆いつつ、その隙間から水も滴る蛍流のほんのり赤く染まった横顔を眺めたのだった。
(何を言われたんだろう……)
海音が視線を向けていることに気付いたのか、蛍流は軽く咳払いをすると「今のはな……」と説明をしてくれる。
「神域に立ち入ったことは怒っていないから問題ない、とのことだ」
「それだけですか? 他にも言われたように見えたのですが……」
「それはだな……」
しばらくもごもごと口ごもっていた蛍流だったが、やがて覚悟を決めたのか海音から目線を逸らしながら教えてくれる。
「……伴侶を迎えたいと申し出た以上、もう少し女人に対する気遣いを覚えろ。とのお達しだ。昨晩お前が来るまで、ここに女人が来たのは二年ぶり。年頃の娘は、おれが覚えている限り一度も無い」
「つまり……女慣れしていない蛍流さんに対する注意も含まれていたということですか?」
「……まぁ、そういうことになるな」
恥ずかしそうに話す蛍流に、つい破顔すると俯いて肩を震わせてしまう。声を立てないように両手で口元を押さえて隠したものの、その様子だけで海音が思っていることがバレてしまったらしい。顔を紅潮させた蛍流が「だから言いたくなかったんだ!」と声を荒げる。
「あの時はまさかお前の部屋に役人たちが立ち入ろうとするとは思わなくて、咄嗟に誤解を招くような発言をしてしまった。その……心から悪かったと思っている」
異性と触れ合うことに不慣れな男性と言えばいいのか、それともいくら大人ぶっていても内面はまだまだ年相応なのか。
浅葱色の長めの前髪で顔を隠そうとする今の蛍流の姿が、この国の守護者という人間離れした存在ではなく、一人の初心な男性として目に映る。
ここに居るのは、和華たちから聞いた数々の怖い噂を持つ特別に選ばれた青龍ではなく、青龍としての務めを果たそうとするどこにでもいるような青年なのだと、ようやく蛍流を身近な存在として感じられたのだった。
「いえ……。私も勝手に誤解して屋敷を飛び出してすみませんでした。でもそれなら今度から私のことを聞かれた時は、女中や臨時のお手伝いとして紹介して下さいね」
「だが、今のその姿では……。いや、何でもない。お前さえ良ければ、次回からそう説明しよう」
「そうしてください。それから女中に見えるように、普段から屋敷のことを手伝わせてください。そうしたら、いざという時も女中として振る舞えるので」
「そうかもしれないが、客人のお前を無給で働かせるのも……」
「無給じゃありません。既に衣食住の三つをいただいています。食べる物と着る物があって、住む場所をいただけるだけでも充分です! お世話になっている間は、精一杯青龍としての務めを果たす蛍流さんのお手伝いをさせていただきます!」
「そうか……。正直、今日のように来客がある日は手を借りられると助かる……が、足と首の怪我が治らない内は無理をしないでくれ。嫁入り前の娘を傷物にしたなんて清水に知られたら、それこそ次は何を言われるか分かったものではない。おれを育ててくれた師匠にも顔向けが出来ない」
照れ隠しのつもりなのか、顔を伏せながら蛍流が背を向けてしゃがんだので、海音は手を伸ばすとまた広い背中に掴まる。海音を背負い直す蛍流に向けて、そっと話しかける。
「師匠さんを慕っているんですね」
「おれにとっては青龍としての全てを教えてくれた師匠であり、育ての親だからな。もう会うことは叶わないが、せめて師匠に恥じない生き方をしたいものだ」
そうして屋敷に向けて歩き出した蛍流に身を預けた海音だったが、元の山道に戻ったところで二人を追い掛けてくる気配を感じて頭だけ動かす。そこには成獣した虎が一頭、二人の後をついてきていたのだった。
「蛍流さん。後ろに虎がいます……」
小声で囁いて再び虎を見ると、その虎は先程海音を追い掛けてきた虎たちとは違って、白と黒の毛並みをしたホワイトタイガーであった。そうしてよく観察すると、口には何かを咥えており、それを海音たちに渡したいようにも思えたのだった。
目を細めて虎が咥えているものの正体に気付くと、「あっ!」と声を上げてしまう。
「あの虎、口に草履を咥えています!」
「草履?」
足を止めて振り向いた蛍流に白い虎は颯爽と走ってくると、蛍流の身体に頭を擦り付ける。そうして忘れ物を拾ってきてやったぞ、とでも言いたげな顔で、咥えていた草履を蛍流に差し出したのだった。
これには受け取った蛍流でさえ、どこか怪訝そうな顔をする。
「これは庭に置いていた草履だな」
「すみません。私が屋敷を出る時にお借りしたんです。虎たちの気を逸らすつもりで放り投げて、その隙に逃げようと……」
片方は虎たちに向けて放り投げたが、もう片方の草履は今も滝壺近くの石碑の辺りに落ちているはずだった。どちらかを拾ってくれたのだろうか。
そんなことを考えていると、蛍流は「そういうことだったのか」と何故か納得したようだった。
「それでわざわざシロがおれのところに持って来たのか……ようやく理解した」
「何を理解したんですか?」
「部屋からいなくなったお前を探している時にシロ……この虎が、もう片方の草履を持って屋敷に姿を現したんだ。清水の住処である滝壺を守護する虎が屋敷に来た時点で異常が起こっていることは分かったから、お前が誤って滝壺に侵入してしまったというのも想像に難くなかったが……。まさか草履はお前が履いて行ったものだったとはな。庭に侵入した動物が盗んだのをシロが見つけて、ついでに回収したものとばかり思っていた」
蛍流の説明によると、海音を侵入者と勘違いして襲ってきた虎たちとこのシロと呼ばれた白い虎は、どちらも清水が住む滝壺を守る番犬ならぬ番虎として、蛍流が森に放っている獣とのことだった。いずれも主人である蛍流に忠実であり、もし滝壺や清水に異常があれば屋敷まで報せるように躾けているという。
ちなみに黄色の毛並みの虎たちは全て雄虎、白い虎は一頭しかいない雌虎にして虎たちの紅一点。白い虎に「シロ」という名前が付いているように、他の黄色の虎たちにもそれぞれ名前が付けられているらしい。
「つまりこの白い虎と先程の黄色の虎は、蛍流さんのペットということですか?」
「ペットというよりは、おれが持つ青龍の神気で作り出した幻獣のようなものだ。本物の虎じゃないから餌や手入れの必要がない。ついでに青龍の財産目当てで山に侵入する悪党と、山に暮らす野犬や狼たちを追い払う役目も果たしている。青龍の神気に反応するから、おれが呼べばすぐに来るぞ」
「幻獣が虎の姿をしているのも、何か決まりがあるんですか?」
「虎にしたのはおれの趣味だ。昔、動物園で見た虎を気に入ってな。自宅で飼いたいと強請ったが、使用人にダメだと言われた。それが悔しかったのを思い出して再現したんだ。どうせ番犬となる生き物を飼うなら、強くて見目が良い虎にしてしまおう、と雪辱を果たすつもりでな」
「そうだったんですね……」
虎を飼いたいと駄々をこねる幼少期の蛍流を想像して、どこか微笑ましい気持ちになる。
蛍流のペットなら触れるかと期待して手を伸ばすが、ふいと頭を避けられてしまう。青龍の神気が無い海音には、触ることも許してくれないのかもしれない。
目的を果たしたシロは足早に滝壺に続く道へと戻っていくと、道を塞ぐかのように山道の真ん中に座り込んでしまう。そうして未だ海音を警戒するかのように白と黒の縞模様の尻尾を立てて、じっと様子を伺い出したのだった。
「警戒されていますね……」
「青龍の神気を持っていないからな。草履を持ってもらえるか?」
蛍流から草履を受け取ると、腕の中で大切そうに抱える。きっとこの草履に残っていた蛍流の気配から、主人を追いかけてくれたのだろう。わざわざ届けて持って来てくれるなんて、随分と躾の行き届いた番虎だとしみじみ考えてしまう――忠実すぎる故に、危うく殺されそうにもなったが。
蛍流に背負われたまま、屋敷の門前から玄関に戻ろうとした海音だったが、二人を出迎えるかのように玄関口からは「これはこれはっ!」とわざとらしく驚いた声が響いてくる。
「打ち合わせの席を中座してどこに出掛けていたのかと思えば、我々を置いて逢引きですかな。今代の青龍さまは」
「若者は血気盛んで良いですな……。国を守護するお役目を軽んじられているのは、些か否めませんが」
棘のある言葉を投げかけてくる役人たちを無視して、蛍流はそっと海音を玄関口に下ろす。自分の勝手な行動が原因で好き放題言われている蛍流を弁明しようと、海音は頭から被っていた蛍流の羽織から顔を出そうとするが、すかさず役人たちが気付いて舌尖の矛先を変えてくる。
「おおっ! こちらのご令嬢が噂の伴侶どのですかな! 青龍さまが自ら出迎えに行くとは、なんとも盲愛なことで……」
「これは待ちくたびれた甲斐がありましたな。どれ、その美しいご尊顔を拝見してご挨拶でも……」
そう言って、役人の一人が海音の顔を覆う羽織を掴むが、即座に蛍流がその手を弾いて羽織の上から海音を抱き寄せると、胸の中に埋めてしまう。
これには役人たちも呆気に取られたのか、一瞬その場が静まり返るが、すぐに「何の冗談ですかな」と役人たちが下品な声を上げて嘲りだす。
「妬いているのですかな、青龍さまは。何も我々は伴侶どのを取って食おうとは思っておりません。麗しいお姿を一目拝見しようと思っただけでして……」
「この者は新たに雇った屋敷の使用人だ。だが、今後関係性が変わるかもしれない……。その時に改めて紹介させて欲しい」
関係性が変わるかもしれない。という言葉に海音の身体がビクリと動いてしまう。嫌な想像が頭を過ぎって、両手を握り合わせて縋るように身を寄せれば、そんな海音を安心させるように蛍流が軽く肩を叩いてくれたのだった。
「使用人? たかだか使用人のために、わざわざ出迎えに行ったのですかな。青龍さまともあろうお人が」
「そうだ。この山道は女人の足には歩きづらく、ついで道に迷いやすい。間違えて青龍のご神体を祀る滝壺に入られては困るからな。こうして迎えに行ったわけだ。分かったなら通してもらおうか。彼女を部屋に送り次第、すぐにでも再開しよう」
すっかり魂消てしまった役人たちをその場に残して、蛍流に抱えられる形で部屋まで送られる。「大丈夫か?」と小声で気遣われて、海音はただ頷くことしか出来なかった。
「耳障りな言葉だけでも耐え難いところに触れられもして、さぞかし不快だっただろう。肩身が狭い思いをさせてすまない」
「平気です……。蛍流さんも私が原因で役人さんたちとますます険悪になりますよね……すみません」
「気にせずとも、元から邪険に扱われている。アイツより年齢が下なだけではなく、青龍としての経験も浅いからな。まだまだ失敗も多い。師匠に比べて頼りなく思われてしまうのも仕方がない」
「最初から上手くいく人はそういません。失敗を恐れず、今後の糧に出来ればいいんです」
励ますつもりで返したつもりだったが、偉ぶっているように聞こえてしまったのかもしれない。急に黙ってしまった蛍流によって、半ば借りている部屋の中に押し込まれるように入れられてしまうが、その手は罪人を連行する刑務官というよりも、昨晩の「和華」だと思われていた時と同じくらい真綿に触れるように優しい。
大切な打ち合わせの席を抜け出してまで海音を探してくれる辺り、この蛍流という青年は不器用で初心なだけで、本当は噂以上に思いやりのある人なのだろう。どうして「人嫌いで冷酷無慈悲な冷涼者」という噂が広まってしまったのか、不思議なくらいであった。
海音の顔を見ることなく襖を閉めた蛍流は、今度こそ役人たちとの話し合いの場に戻ってしまう。「終わったら様子を見にくる」とだけ残して。
それでも襖が閉まる直前、ほんの僅かな隙間から見えた蛍流の紅潮した横顔を、海音ははっきりと目にしたのだった。