【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜

「……そうして、私はこの和華ちゃんの代わりとして、二藍山にやって来ました。灰簾家が雇ってくれた日雇いの地元住民に道案内と荷運びを依頼して……」
「そうだったのか……」
 
 海音の話を聞いた蛍流の呟きが、室内を包む雨音に紛れて消える。いつの間に本降りになったのか、外からは絶えず窓に打ち付ける甚雨の音が聞こえていた。

「お願いします。どうか私を和華ちゃんの代わりとして置いて下さい。伴侶として必要なことは何でもします。私のことはどう扱っていただいでも構いません。背中に龍の痣が必要なら刺青でも何でも入れます。なので、どうかこの通り……」

 畳に指をついて深々と頭を下げる。しばらく海音はそのまま土下座をし続けていたが、やがて独り言ちた蛍流の微かな声が耳を打つ。

「お前もか……」
「えっ……」
「もういい。……頭を上げろ」

 怒りを堪えているような冷ややかな声に、おっかなびっくり身を起こす。顔を上げた瞬間、首元から水が滴り落ちているような気がしてそっと指先で触れると、先程切った首の傷から血が流れていたのだった。

「すっ、すみませんっ……!」

 藍色の目を見開いて、何か言いたげな顔をする蛍流から目を逸らして、海音は傷口を押さえると畳に垂れてしまう前に何か拭くものを探す。羞恥で頭が回っていなかったが、辺りを見渡してここまで着ていた薄青色の着物を見つけると、袖から汚れた手巾を取り出す。
 汗と泥を吸って色が変わった手巾で首筋を流れる血を拭くと、止血を兼ねて傷口に当てたのだった。

「本当にすみませんっ……! あの、傷のことは気にしないでくださいっ! お借りした着物や部屋を汚す前に自分で何とかしますからっ!」

 手巾から血が溢れないように気をつけながら、先程よりも軽く頭を下げる。
 出血の量はさほど多くなく傷も浅い。止血さえ出来れば数日で塞がるだろう。蛍流の手を煩わせるまでも無い。
 それ以前に正体を知られてしまった以上、身代わりの海音に蛍流がそこまで気を使うはずが無い。
 その証拠に蛍流はおにぎりが載っていた皿や小刀を持つと、海音に背を向けたのだった。

「今夜はもう遅い。疲れただろうから、早く休むといい。……こんな時間まで付き合わせて悪かった」
「ここに居てもいいんですか? 私は和華ちゃんじゃ無いのに……」
「お前のことは明日決める。今は何も考えなくていい。こんな時間に追い出しても、遭難して獣に喰われるか、凍死するかのどちらかだからな」

 音を立てて襖を閉めた蛍流が遠ざかると、ようやく海音は肩の力を抜けたのだった。

(切り捨てられなかったということは、話を信じてもらえたのかな……)

 あの時、確かに蛍流は「お前もか」と呟いた。もしかしたら海音のように、異なる世界から来た人のことを知っているのかもしれない。
 それでも本来嫁入りするはずだった和華ではなく、海音が来てがっかりしてしまっただろう。日没を過ぎて足元が悪くなった中、わざわざ和傘を差してまで迎えに来てくれた蛍流の様子を見る限り、きっと和華が嫁いでくるのを楽しみにしていたに違いない。

(全て明日決まる。追い出されるのも、和華ちゃんの代わりでも伴侶として認められるのかも)
 
 息を吐き出しながら窓辺に寄りかかると、寒々とした外気が身体に当たる。体温が奪われていくのを感じながら、春の雨音に耳を傾けつつ、そっと目を閉じたのだった。

 ◆◆◆

 次に目を開けると、雨はすっかり晴れていた。春の柔らかな陽気が澄んだ碧空から室内に射し込んで、海音が横になっていた布団を優しく照らしていたのだった。

(あれっ……?)

 寝ぼけ眼を擦ってゆっくりと起き上がると、いつの間に運ばれたのかお日様の匂いがするふかふかの布団に寝かされていた。昨晩目を瞑った時は窓辺にいたはず。そこから先の記憶が無いので、窓辺に寄りかかったまま、眠ってしまったのだろう。身代わりがバレて、和華になりすました罪で自分の命が脅かされているというのに、緊張感の欠片も無い。
 風邪を引かないように気を遣ってくれたのか、足元には布に包まれた湯たんぽまで入っている。海音が眠った後、蛍流が持ってきてくれたのだろうか。挫いた足首には見覚えのない白い布が巻かれていた。

「あっ、首の怪我……」

 慌てて首に触れれば、足首と同じように包帯らしき白い布で覆われていた。やはり海音が寝た後に蛍流が部屋を訪れて手当てをして、布団まで運んでくれたに違いない。昨晩は怒りと落胆を堪えるような様子だったのに、いったいどうして――。

(部屋から出ても良いよね……?)

 監禁されているわけでは無いので部屋から出ても良いだろうが、なんとなく蛍流と会うのが気まずい。騙していた上に風呂や食事、傷の手当てまでさせてしまったからだろう。蛍流の手を煩わせてしまったという罪悪感に苛まれるが、このままここでじっとしている訳にもいかない。布団から起き上がって着替えようと、薄青色の着物を探すが昨晩置いた場所に見当たらなかった。荷物入れと思しき行李を開けても中身は空っぽ。首に当てていた泥だらけの手巾も無いので、着物と一緒に蛍流がどこかに持って行ったのだろうか。
 替えの着物が入っていた荷物を持ち逃げされた以上、今の海音にとってあの着物が一張羅だ。多少の泥汚れは気にしないので、どうかして取り返したい。これからどうなるか分からない以上、今後も使えそうなものはなるべく手元に残しておいた方が良いだろう。
 あの着物だって、汚れた部分さえ洗って目立たなくするか、汚れだけ切り取りさえすれば、売って生活の足しにすることもできる。金になる可能性がある以上、せめて捨てられることだけは避けたい。
 替えの着物が他に無かった以上、海音は寝巻として借りている蛍流の着物の衿を正して――今度こそ左右の合わせを間違えていないか再度確認すると、手櫛で髪を整えながら、部屋を後にしたのだった。

 昨晩は夜半だったこともあり、隅々まで観察できなかったが、蛍流の屋敷の内部は思っていたよりもあまり部屋数が多くなかった。青龍とその伴侶、そしてその子供たち、あとは使用人が一人か二人くらい住めればいいという前提で建てられたのか、最低限度の部屋しか無かった。家具もあまり多くないので、どこかこざっぱりした雰囲気さえある。この辺りは家主である蛍流のセンスだろうか。ここの世界に来てからお世話になっていた灰簾家は、いかにも贅沢の限りを尽くした資産家の家といった佇まいの大きな屋敷で、和と洋の様式を組み合わせや豪奢な家具や調度品の数々が印象的だった。
 蛍流が言っていた通り、海音と蛍流の他に住んでいる者はいないらしい。春光と静寂に包まれた屋敷の中をぺたぺたと裸足で歩いていると、庭から微かに蛍流の声が聞こえてくる。

「……どうしても認めないというのか。()()をおれの伴侶に……青龍の伴侶に迎え入れたいと頼んでも……」

 こんな時間帯に来訪者がいるのは意外だが、国を守る七龍の蛍流にとってはよくあることなのかもしれない。何か深刻そうな話をしているようなので、様子だけ伺ったら部屋に引き返そうか。そんなことを考えながら、蛍流の声を頼りに海音は庭に通じる硝子戸を探していた時だった。

「ここに来て日も浅い。まだ間に合うだろう。どうか彼女を傍に置かせて欲しい。……無論、今のままでは添い遂げられないことを理解している。それでも知ってしまった以上、このままにしてはおけない。彼女のためなら、おれは如何なる代償も罰さえもこの身に受けよう……」

 滝壺に流れ落ちる碧水のような蛍流の声が訴える、青龍の伴侶――和華に捧げる羨ましいくらいの純愛。冷涼な蛍流が愛する伴侶に向けて、朗々と語る真っ直ぐな想いはどこまでも清く眩しいが、澄んだ声が和歌への熱情を述懐した分だけ、身代わりの海音を責めているようでもある。
 お前は呼んでいない、不要だと言われているようにも聞こえてしまい、自分の内側にぽっかりと穴が空いているのを感じて足を止めてしまう。

(身代わりがバレた以上、分かっていたじゃない。蛍流さんにとって私はお呼びじゃないって。所詮は和華ちゃんの身代わりで、この世界の人間ですらないもの。今度こそ本当の伴侶である和華ちゃんを連れて来て欲しいと頼むのは当然のこと)

 身体の内側が重くなって、息苦しささえ感じられる。硝子戸に反射する自分の姿に目を向ければ、今にも泣きそうな顔をしていた。

(ここでの私はひとりぼっち。この世界に紛れ込んで、この世界の人の振りをしているだけの、ただのまがい物。本当なら行き倒れていたり、乱暴な目に遭っていたり、不審者として逮捕されていてもおかしくないところを、灰簾家の皆さんや蛍流さんの温情で生かされているだけの存在なんだから……)

 家族や友人もいないこの世界での海音は孤独だ。
 仮に灰簾家や蛍流に受け入れられたとしても、異なる世界からやって来た海音がこの世界の一部になれるはずが無く、他所から紛れた異物でしかない。会おうと思えばいつでも会える距離に家族がいて、帰りたい時に帰れる故郷があるような、一人で海外に移住するのとは意味が違ってくる。
 異なる世界から紛れ込んだ海音でも、今後の身の振り方次第では蛍流や和華などのこの世界で生まれ育った人たちとの距離が縮まることもあるだろう。それでも異世界からの混ざり者である海音と、この世界の人たちとの間に生じる溝が埋まることは永久に訪れない。この世界と海音を繋ぐ縁は存在せず、共有するような過去や思い出、心の内が湧くような愛着や故郷としての慕情さえ持たないのだから。
 自分が生きてきた痕跡がどこにも残っていない、ただの知らない世界である以上、この世界を大切に想う人たちと他所からやって来ただけの海音の間には、見えない壁によって隔たれてしまっている。これまで積み重ねてきた自分の功績や生きてきた証が無い世界に、思い入れなど持てないから。
 海音の中でわだかまる言葉にしがたい空虚な思いを、この世界の住人たちに説明することは難しく、そして理解してもらうことも到底出来そうにない。
 ある日突然、これまで住んでいた世界とは生活様式や常識も全く違う世界に連れて来られて、元に帰る方法さえ分からないと言われた海音の気持ちを理解できるのは、同じように異なる世界からやって来た人だけ。
 蛍流や和華などの生まれた時からこの世界で生きている人たちには、きっと分かってもらえない。
 そんな誰にも理解してもらえない孤独感と、自分だけがこの世界の一部では無いという疎外感。そして今まで積み重ねてきたものを全て失ってしまった喪失感。
 それこそが海音の心に空いた穴の正体であった。

(もし和華ちゃんの身代わりだって気付かれなかったら、今の言葉は私に向けられたのかな……)

 決して「海音」とは呼ばれず、「和華」としての自分に向けられた言葉であっても、蛍流の情熱的な言葉の数々が海音の胸に空いた穴を代わりに埋めてくれただろうか。寂しい、辛い、苦しいといった海音が胸に抱く数々の暗い感情を遠くに洗い流してくれただろうかと、関係ないことばかり考えてしまう。
 身代わりとしての役目を果たせなかっただけではなく、せっかく「和華」として愛されるチャンスを棒に振ってしまったような損した気さえしてくる。
 どこか落胆した気持ちを抱えて硝子戸から目を離した瞬間、硝子戸が音を鳴らしながら小刻みに震え出す。強風でも吹いたのかと硝子戸に視線を向ければ、獣に似た大きな切れ長の黒目が硝子戸一面を覆っていたのだった。

「きゃあ……!?」

 短い悲鳴を上げて後退れば、黒曜石のような黒目が動いて海音に焦点を合わせる。朝になって獣の気配がしなくなったからとすっかり気を抜いていたからか、黒目を見つけた時に足が竦んでしまったようだった。その場から逃げられず、せめて喰われないようにじっと息を止めて黒目を睨み付ければ、黒目も品定めするように海音を見つめ返してくる。長いような短いような沈黙の後、程遠くないところから戸惑うような蛍流の声が聞こえてきたのだった。

清水(しみず)。屋敷なんて覗いてどうした? 何かあるのか?」

 その声で清水と呼ばれた黒目は興味を失ったように海音から目を逸らすと、蛇のような細長い身体を揺らしながら硝子戸から離れてしまう。庭の奥の方へと飛んで行ったので、おそらく蛍流の元に向かったのだろう。硝子戸越しではあったが、朝陽に照らされて鱗らしき硬質状のものが見えたのも気に掛かった。

(蛇じゃないよね……あんなに大きな蛇なんて見たことがないし……。それなら今の生き物は何だろう?)

 硝子戸に近づけば、すぐ近くの沓脱石には草履が置かれていた。海音は硝子戸を開け放つと、サイズが合わないぶかぶかの草履を履いて黒目の後を足早に追う。
 手入れが行き届いた庭を抜けると、耕したばかりと思しき小さな畑に出る。慣れない下駄で耕地を踏み進めた先には、海音に背を向ける大きな浅葱色の蛇が鎮座していたのだった。

「わぁ……!」

 海音が上げた感嘆の声に、浅葱色の蛇が首をめぐらせて海音を見つめ返してくる。その蛇は絵に描いたような龍の姿をしていた。
 目の前に現れた浅葱色の蛇は海音の何倍も大きく、そして屋敷よりも高さがあった。朝陽を浴びた浅葱色の硬い鱗がきらきらと輝く様子は、陽光を反射して水面が揺れて見える水陽炎のように幻想的であり、白銀の毛に覆われた長い尾が動く姿は細波に似て優雅。天に向かって枝葉のように伸びる角は、鹿と似た形をしているが、どこか研ぎ澄まされた鋭さを感じさせられる。人一人を飲み込むくらい容易そうな大きな口からは刃物を彷彿とさせる鋭利な牙が見えているが、恐怖というよりも龍の威厳を体現しているように思えたのだった。

「もう起きたのか?」

 元の世界で見聞きしていた浅葱色の龍に見惚れていると、その陰から蛍流が姿を現わす。龍に隠れて姿が全く見えなかったが、ずっとそこにいたのだろう。昨晩とは違って洋装姿の蛍流は、襟付きの白いドレスシャツと黒のスラックスを身に纏い、肩からは昨晩海音が借りた濃紺色の羽織を掛けていたのだった。

「身体は辛くないか? もう少し休んでたっていい」
「足の痛みももうすっかり治ったので大丈夫です。怪我の手当てをしてくださっただけではなく、布団まで運んでいただいてありがとうございます。湯たんぽまで用意していただいて……」

 深々と頭を下げれば、ふかふかの作土に覆われた茶色の地面に頭が付きそうになる。すると蛍流は微かな声で「……すまなかった」と謝罪を口にする。

「頭を下げなくていい。和華を拐かした賊と勘違いして刃物を向けただけではなく、か弱い女人に怪我まで負わせてしまった。謝って許されるとは思わないが、この詫びは必ずさせてくれ」
「そっ、そんな大した傷ではありません! 誰も身代わりが来るなんて思わないでしょうし……」
「いや、お前は悪くない。人の世でのおれの噂は知っている。分かっていながら、和華が身代わりを立てることを想定していなかったおれにも非がある。……おれ自身が直接和華を迎えに行ければ良かったのだがな」

 ゆるゆると頭を上げれば、蛍流は顔色を失っているようにも見えた。海音に怪我を負わせたことを後悔しているのだろう。和華の身代わりと知った後も、どうしてここまで海音を気にしてくれるのか。蛍流が手当てしてくれた首の傷に触れながら、海音は「あの!」と尋ねる。

「昨晩の私の話を信じてくれたんですか? 作り話とか嘘を吐いているとか思わないんですか?」
「どうしてそうなる?」
「だって、違う世界から来たとか、たまたま出会った青龍の伴侶である和華ちゃんに拾われたとか、そんなの普通はあり得ないって疑うものなんじゃ……」
「事情を話していたあの時のお前は曇りなき目をしていた。今でさえも……。それに本当に悪意のある者なら、とっくに清水が山から追い出している。万が一にもおれの身に何かあったら、この国の水の龍脈は枯れてしまうからな」
「龍脈……?」
「この国のことを何も聞かされていないのか?」
「この世界に来た日に和華ちゃんの身代わりになることを決めたので、この国のことや仕組みを聞く暇も無かったです。昨日までは和華ちゃんと同等の教養や知識を身に付けるのに手一杯でしたし……」

 後ろめたさと共におずおずと正直に打ち明ければ、蛍流は呆気に取られた顔をした後に「分かった」と頷く。

「それならこの世界の仕組みが分かる書物を数冊貸そう。これからこの世界で生きていく以上、常識的なことは知っていた方が良い。この地を守護するおれは外出も自由にままならないが、何の制約も持たないお前はこの山を降りて、国中を旅することだって出来る。今後のことを踏まえて、少しでも学んでおいて損は無い」
「えっ!? ここにいていいんですか!? てっきり入れ替わった罪を咎められて、追い出されると思っていましたが……」
「入れ替わりについては昨晩咎めた。あれで充分だ。それそもここから追い出されたところで、行く当てはあるのか?」
「それは……」

 一瞬だけこの世界に来て世話になった灰簾家が頭を過ぎったが、身代わりがバレてずこずこと帰った海音を温かく迎えてくれるだろうか。それこそ役に立たなかった罪で制裁を加えられてもおかしくない。それなら住み込みの仕事を見つけて、その日暮らしをするしかないだろう。贅沢は出来ないが、最低限の生活くらいなら送れるに違いない。

「仕事を見つけます。私でも出来るような住み込みの仕事を……」
「この国は余所者に厳しい。何かの拍子にお前がこの国の者じゃないと知られたら、どんな目に遭うか分からない。山を降りて住み込みで働くのなら、もう少し知識を蓄えてからの方が安全だ。それまでここに滞在してもらって構わない。山奥で不便なところもあるだろうが、住んでいる間は好きに寛いでくれ」
「ありがとうございます。でも、せめてお世話になっている間は、屋敷のことを手伝わせてください。掃除とか洗濯とか、何でもやります。居候のままでは申し訳ないですし、今日からでも早速……」
「その必要は無い。少なくとも、今日の分は全て終わっているからな」
「終わっている? あの、どなたがやってくださったのでしょうか……?」
「おれだ。……趣味みたいなものだからな、家事は。勝手に持ち出して悪いと思ったが、お前の振袖も裾や袖の泥汚れが目立っていたので、昨晩染み抜きのため預からせてもらった。止血に使っていた手巾もな。今は衣桁に掛けて、おれの部屋で乾かしている。後で部屋まで届けよう」
「すみません、そこまで気を遣っていただいて……」

 気遣いというよりも、むしろ暗にお前は必要ないと言われているようにも聞こえてきて、ますます居たたまれない気持ちになってしまう。分かってはいたものの、これで青龍の伴侶ではない海音の居場所がここにも無いことが明白になる。この先、蛍流の元を離れて一人で生きて行く際に、どこかに身を落ち着けられる場所を見つけられればいいのだが……。
 するとモールス信号のように長音と短音が連続する小さな風声が近くで吹いたかと思うと、おもむろに蛍流が背を向けていた浅葱色の龍を振り返る。
 海音に対して、何か言いたげな顔をしているように見える龍に向かって話し出したのだった。



「そう焦らずとも分かっている。今から尋ねる」
「何か聞こえるんですか?」
「そうか。お前には清水の声が聞こえないのだな。七龍の声が聞こえるのは七龍が形代に選んだ人間と、その伴侶となる嫁御寮だけという話は本当らしい」
「今の風の音って、この龍が言葉を発した音だったんですか?」
「そうだ。この地を統べる青龍が、早くお前を紹介しろとせがんでいるんだ。伴侶の身代わりでやって来たお前のことを」
「青龍……さまは蛍流さんのことじゃないんですか? 青龍ってこの地を守る人の称号だと思っていましたが……?」
「そうだな。青龍の形代であるおれと、古よりこの地を守護する青龍は一心同体の間柄だから、その認識でも間違っていない。青龍はこの二藍山を中心として国中に展開されている水の龍脈に力を注いで人々の生活に潤いを与える役割を担い、おれは人と青龍を繋ぐ仲介役にして、龍脈に流れる青龍の力を調整する役を受け持っている。ここにいるのはおれを形代に選んだ青龍だ。名を清水という」
「清水さま、という名前なんですね」

 水を司る青龍だから清き水という意味を持つ「清水」という名前なのだろうが、もっと神聖で特別感のある難しい名前を想像していた分、親近感のある名前が意外に思えてしまう。
 すると、またきゅるきゅるという風の音が海音たちの近くで聞こえたかと思うと、蛍流が「特別に清水と呼ぶことを許可しよう、と言っている」と通訳をしてくれる。

「清水という名は、青龍に選ばれた時におれが名付けた。普通の名前で驚いたかもしれないが、元は青龍に選ばれるまで世話になった使用人の名前だ」
「そうだったんですね。その清水さまは私の何を知りたいのでしょうか?」
「名前、だそうだ。お前の本当の名前を。おれも知りたいと思っていたところだ」
「まだ名乗っていませんでしたね。暮雪海音と言います」
「字はどう書く?」
「海の音って書きますが……。私の名前、そんなに変ですか……?」
「いや、素敵な名だな。よく似合っている」

 変な名前だろうか、と思って首を傾げた直後に褒められたので、驚く間もなく面食らってしまう。礼を述べた方が良いのかと迷えば、蛍流も自分が言った意味に気付いたのか、薄っすらと染まった頬を隠すように、軽く咳払いをしてから説明してくれる。

「ここでは本名を名乗らないのが普通だからな。七龍に選ばれた者――七龍の形代とその伴侶は、人の理から外れた存在となる。七龍に選ばれた者と同じ寿命を生きて、特定の年齢に達した後は歳を取ることもない。俗世から離れた存在として、人の名を捨てて別の名を名乗る。例えるなら、出家した僧侶と同じだな」
「じゃあ蛍流さんも……?」
「おれの名は師匠……前任の青龍に名付けてもらった。伴侶は身に纏う七龍の神気と伴侶としての名、そして伴侶として相応しい曇りなき心魂を、伴侶に選んだ七龍に認められることで、正式に迎え入れられる。おれとおれの伴侶となる和華の場合は青龍だな」

 蛍流に呼ばれた青龍こと清水がじっと海音を見つめてきたので、無意識のうちに数歩後ろに下がってしまう。

「七龍の伴侶になれる者は七龍の神気に加えて、背中に龍の形をした痣を持つとされている。それが(まこと)の伴侶の見分け方だと清水に教えられたな」
「やっぱり、私は青龍の伴侶になれないんですよね……。龍の形の痣が無いですし、青龍の神気も持って無いですし……」
「そうだな……」

 肩を落としていると、清水の身体がすうっと消えてしまう。海音が驚いて小さく声を漏らすと、蛍流は「自分の住処に戻っただけだ」と端的に教えてくれる。

「長々と話してしまったな。お前の分の朝餉も準備している。居間に用意するつもりでいたが、部屋に運んだ方が良ければ届けよう。どうする?」
「居間に行きます。蛍流さんの分は無いんですか?」
「おれはもう済ませた。この後、来客があるからな。政府から派遣された役人だ。最近雨が多くて農作物に被害が出ているから、その相談だろう」
「私もお手伝いを……」
「必要ない。来客が帰るまで部屋に待機してもらえると助かる。……誰にも見られたくないからな」

 屋敷に戻っていく蛍流が呟いた「誰にも見られたくない」という凍えそうな低い声が耳朶を打つ。やはり伴侶ではない、海音は必要ない存在なのだろう。
 この屋敷の女中として紹介する気も無いどころか、人目に触れることさえも憚るような蛍流の言葉がますます索漠とさせる。

(いったい、私は何のためにこの世界にやって来たんだろうね……)

 どうしてこの世界に来てしまったのか、この世界で自分が果たすべき役割さえ分からない。こんな足元さえ覚束ない今の状態でこの先どうなるのか。
 海音の未来には暗雲しか立ち込めていなかった。
 蛍流お手製の朝餉――旅館の朝食並に豪勢な和食だった。を食べられるだけ食した後は、部屋に戻って言われた通りに待機する。海音が朝餉を食べている間に蛍流が持ってきてくれたのか、文机の上には和綴じの本が数冊置かれており、布団の上には蛍流が染み抜きしたという海音の薄青色の着物と新品の足袋、手巾が置かれていた。昨晩履いていた足袋は見るも無惨な状態になっていたので、屋敷に着いて草履を脱いだ際に処分してもらった。それならこの足袋は蛍流のものだろう。
 ありがたく思いながら、寝巻きに借りていた着物を脱いで薄青色の着物と足袋に着替える。蛍流が染み抜きしてくれたという着物は汚れが全く目立っておらず、ほとんど昨日灰簾家で着せてもらった時の状態に戻っていた。一人で着替えるのはまだ覚束ないが、こればかりは蛍流の手を借りるわけにもいかない。
 時間をかけてどうにか着物を身に付けると、他にやることが無くなったので、とりあえず布団を片付けようと押し入れを開ける。元の世界の自宅と同じ中板で上下に分かれた押し入れのうち、上段の空いていたスペースに布団を仕舞っていると、下段も場所が空いていることに気付く。
 おそらくここに持ってきた荷物を仕舞うように、蛍流が場所を開けてくれたのだろう。そんな推測をしながら、がらんどうの下段から目を離して反対側の襖を開ける。
 反対側の上段は同じように空いていたが、何故か下段の奥まったところに埃を被った行李がポツンと置かれていたのだった。

(何が入っているんだろう……)
 
 その場に膝をついて奥から行李を引っ張り出すと、軽く埃を払う。舞い上がった埃で咳き込みながらも、興味本位で行李の蓋を開ける。すると中からは古新聞に包まれた双六や羽子板、毬、おはじき、独楽、お手玉、人形などの子供用の玩具が多数出てきたのだった。

「蛍流さんが昔使っていた玩具かな……?」

 元の世界でも歴史の教科書や博物館でしか見たことがないような、ブリキで作られたゼンマイ式の馬の人形を手に取る。槍を構えた遊牧民らしき男が馬の背に乗ったゼンマイ式人形は、至るところが錆びて、塗装も剥がれていたものの、ゼンマイを回せばガタガタとぎこちない音を鳴らしながら畳の上を進んだのだった。

(こういうレトロな玩具、可愛いかも。この世界ではこれが流行っているのかな?)

 せっかく見つけたから部屋のどこかに飾ろうかと馬の人形を行李から出して、他の玩具を見ていた時、ふと気が付いて目を留める。

(ここにある玩具、どれも二人用だ……)

 薄汚れた年季の入った羽子板、紙が煤けてボロボロになった双六、土汚れが目立つ毬、汚れて濁った色をしたおはじき、複数の独楽、どれも蛍流一人用の玩具ではなく、必ず複数人で遊べるような玩具ばかりであった。今のこの屋敷に蛍流一人しか住んでいないが、かつては他に住人が住んでいたのだろうか。

(さっき、師匠さんから青龍としての名を付けてもらったって話していたし、その師匠さんと遊ぶのに使っていたとか?)

 それにしても二枚の羽子板の大きさがどちらも子供用と思しき小さいサイズであることや、子供の手の大きさに合わせたひも独楽用の短い紐が数本あるところから、蛍流の師匠用と考えるにはどこか腑に落ちない。まるでもう一人、この屋敷に子供が住んでいたかのような……。
 そんなことを考えながら、元通りの場所に行李を片付けていると、訪問客でも来たのか屋敷の玄関口辺りがにわかに騒がしくなる。蛍流が話していた政府の役人だろうか。粗野とも言える、複数人の靴音が遠くで聞こえていたかと思うと、やがて話し声と共に海音の部屋へ近付いてきたのだった。

「噂の伴侶どのは部屋に居りますかな。灰簾子爵家は娘が伴侶に選ばれたことを自慢していましたが、果たしてどんな別嬪なのやら……」
「市井では噂で持ちきりですぞ。眉目秀麗な佳人を伴侶どのに迎えられるとはさぞかし鼻高々でしょうぞ。虚勢を張った半人前の癖して生意気な」
「ぜひともご尊顔を拝みたいものですな。今代の青龍さまの伴侶どのは如何なる女人なのか……。まぁ、この地の気候すらまともに操れないような、青二才の若造の伴侶など、目先が利いた先代青龍さまの伴侶どのに到底敵うわけがありませんがな。傍若無人な当世娘に違いない」
「伴侶どのが何日持つか見物ですな。人嫌いの冷涼者と巷でも有名。未熟な癖して伴侶を迎えたいなど、今代の青龍さまは我が儘だけは一人前なようで」
 
 そう言って、げらげらと下心を含んだ下卑た笑い声が徐々に近づいてくる。玄関口から海音の部屋まではそう遠くないので、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。

(ど、どうしよう……)

 ここにいるのは伴侶ではなく、伴侶になるはずだった和華の身代わりとしてやって来た海音。身代わりがバレてしまう前なら自ら伴侶と名乗り出て挨拶をすることも出来ただろう。だがここに来たその日の内に、蛍流に正体を知られてしまった。
 そのまま「和華」の振りをして、伴侶として顔合わせを許されたのならいざ知らず、蛍流は誰にも会わせたくないことを理由に部屋から出ないように頼んできた。
 それはすなわち、蛍流にとって海音がここにいることを役人たちに知られたら都合が悪いということだろう。姿を見られないように、押し入れかどこかに隠れるべきだろうか。それとも部屋に居るはずの海音がいなくなっている方が、余計にあらぬことを詮索されてしまうか……。

(鉢合わせはマズイよね……? 偶然を装って、入れ違ったように見せかけるべき……?)
 
 どうもあの役人たちは、蛍流にあまり良い感情を抱いていないらしい。先代の青龍――蛍流の師匠と比較してばかりいる。
 年若い蛍流を見下しているのか、それとも蛍流自身に何か悪しざまに言われてしまうような問題でもあるのだろうか。どのみち海音が自ら役人たちの前に姿を現したところで、事態が好転するはずもない。蛍流を貶める材料として利用されてしまうに違いない。
 それならここは下手に部屋から出ずに押し入れの中に身を潜め、厠に行った振りをしてこの場を凌いだ方が得策かと考える。さすがに役人たちも、海音が不在だからといって、勝手に部屋の中を物色するような泥棒まがいのことはしないだろう。役人たちの目的は、蛍流の伴侶である海音を辱め、蛍流との仲を裂くところにあるのだから。
 海音は押し入れを開けると、先程玩具の入っていた行李を仕舞った押し入れの下段を確認する。多少埃っぽいが、体育座りをすればどうにか隠れられそうなスペースを見つけて身を隠そうとした時、部屋の前から凛然とした蛍流の問い詰める声が聞こえてきたのだった。

「そこで何をやっている」
「こっ、これは青龍さま。いえ、せっかくなので伴侶どのにご挨拶をしようかと、ええ、はい」
「それは時機を見て、いずれ紹介する。青の地の天候不順について、火急を要するのだろう。すぐにでも奥座敷で膝を突き合わせて議論をするべきだと思うが」
「いや、そうは言われましても、私ども政府にも報告する義務というものがありまして……」
「……伴侶はまだ到着していない。ここにいる者は何者でもない。そう報告しておけ」

 このまま一触即発の事態になってもおかしくない、怒りを堪えているような蛍流の低い声に海音まで身震いする。全てを拒絶する凍り付いてしまいそうな冷たい声色は、まさに和華から聞いた噂通りの「冷酷無慈悲で冷涼な青龍さま」そのものであった。これには海音も危うく悲鳴を上げてしまいそうになって、咄嗟に両手で口を押さえてしまう。
 息を止めて、その場で身体を丸めて座り込んでいると、やがて役人たちは諦めたのか「そうでしたか」と猫なで声で話し始める。

「これは大変失礼をいたしました。何分女人のものと思われる草履が玄関の沓脱石の側にありましたので、伴侶どのが到着されたとばかり……。早合点をしました」
「……用意が整い次第、すぐに本題に入ろう。お互い多忙の身、一分一秒も無駄には出来ない」

 蛍流の迫力に気圧されたのか、役人たちは渋々奥座敷へと向かったようであった。全員の足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなったところで、ようやく海音は緊張を弛めて息を吐き出せたのだった。

(よっ、良かった~。蛍流さんが来てくれて……)

 あのまま部屋を覗かれていたら、好き勝手なことを役人たちに言われていただけだろう。自分のことを言われる分には耐えられるが、海音が和華の身代わりと知ってもなお、優しくしてくれる蛍流について、あること無いことを近くで言われるのは我慢できない。つい頭に血が昇って、平手打ちくらいならやっていた。そんなことをしたって、蛍流を困らせるだけだとわかっているのに……。
 一難去って気持ちが落ち着いてきたところで、気になるのは耳に留まり続ける蛍流の言葉。海音の存在を役人たちに隠すためとはいえ、どこか釈然としない。

(何者でもないか……)
 
 蛍流からしたらその通りだろう。伴侶ではない自分と青龍である蛍流との関係は文字通りの「何者でもない」関係。当然伴侶じゃなければ、友人でも、召使いでもない。強いて言うなら、ただの居候。
 伴侶に選ばれた和華の振りした割には、即日正体がバレてしまった身代わりとしても「使えない」存在。着物でさえ自力で着付けられない、この世界では全くの役立たず。
 どこに行っても居場所が無ければ、無価値な海音。家も分からず、どこで何をしたらいいのかさえ検討もつかない。

(お母さん……お父さん……)

 急に心細さが身体の奥から迫り上がってくる。この世界に来てから昨日の昼までは、和華の身代わりになるための用意と、青龍として崇め畏れられる蛍流に対する緊張でずっと気を張っていた。
 灰簾夫婦が用意してくれたマナー講師と家庭教師に朝から晩までマナーと知識を叩き込まれ、空いた時間は嫁入り道具として持参する反物選び。
 嫁入りの準備と言っても、嫁入り道具の用意は和華の母親である灰簾夫人と和華の二人が主体となってとんとん拍子で決められてしまったので、海音は口を挟む余地さえ与えられなかった。マネキンのように色んな柄や種類の反物を着せ替えられただけだったが、それでも四六時中、他人が側にいる環境というのは衆人環視のようでストレスしか感じなかった。気が休まるのは、夕餉を終えてから就寝までのほんの一時。朝が来れば、また「和華」に成るため、自分を磨かなければならない。
 そう考えると、灰簾家で海音が「海音」としていられたのは、就寝までの短い時間しか無かったことになる。
 むしろそれで良かったのかもしれない。「和華」の身代わりとして蛍流の元に嫁ぐ用意を整えている間は、あまりの目まぐるしさで他の余計なことは何も考えずにいられたのだから。

(お父さんはどうしているかな。お母さんに続いて私までいなくなったから、また塞ぎ込んでいないといいんだけど……。お母さんのお仏壇のお花も交換してくれるかな。気温が上がってきたからお花があっという間に枯れるようになって……。神社に参拝した後は、お母さんの大好きなお花を買って帰るつもりだったのに……)

 自由に外出が出来ない分、少しでも季節感を味わいたいからと、どんなに症状が悪化しても、病室には常に季節の花を飾り続けていたたおやかな母親。いつ消えてもおかしくない儚げな母親の笑顔を思い出して、海音の目からはぽろぽろと涙が零れてくる。しばらく膝を抱えて泣いていると、生前母親と交わした約束が頭の中に蘇る。

『海音、貴女は人の心や痛みを知って、思い遣れる人になりなさい。相手が何に苦しんでいるのか、自分に何が出来るかを考えて行動できる大人になって、手を差し伸べられる人に。お父さん、お友達、先生、恋人、道端で出会った人、そんなのは関係ないわ。相手のことを見た目や噂で判断しないで、その人を本当に理解した上で、相応しい行動を起こせる大人になるのよ。自分で考えて、自分で判断できる人になるの。……お母さんと約束、できるわね?』

 その時は何を言っているのかよく分かって無かった。それでも大好きな母親からのお願いだからと、約束を果たすことを誓った。
 約束の本当の意味を知ったのは、母親が亡くなってしばらく経ってから。偏見にとらわれず、自分で思考して決断を下した上で、自ら行動を起こすということが、如何に難しいかを知った。
 今だってそうだ。和華たちから聞いた「人嫌いの冷淡者」や「冷酷無慈悲な青龍さま」という信憑性が無い蛍流に関する噂話に翻弄されて、何も行動を起こせずにいる。噂通りの人なら、昨晩わざわざ夜道に取り残された海音を迎えに来て、寝ている海音を起こさないように怪我の手当てをして布団まで運んでくれるはずがない。まだ誰にも知られていない蛍流の温かな姿がきっとあるはず。
 けれどもその顔を知って良いのは、海音では無い。蛍流の本当の伴侶――和華なのだから。

(私に出来ること……。蛍流さんの優しい一面を和華ちゃんに伝えること。そして私の代わりに蛍流さんの力になってもらうこと)

 和華に意中の相手がいることを知りながら、二人の仲を引き裂くような真似をするのはとても心苦しいが、それでも身代わりの海音では「青龍の伴侶」になれないと言われた以上、ここに海音がいても役に立つことは何も無い。
 そんな海音でも蛍流のために出来ること、それは蛍流が噂通りの人じゃなかったと和華に伝えて、伴侶に来てもらうこと。蛍流が冷酷無慈悲で人嫌いなじゃ無いと分かれば、きっと和華も「青龍の伴侶」になることを考え直してくれるに違いない。
 そうと決まれば善は急げだと、海音は手の甲で乱暴に両目を拭いて立ち上がる。文机の引き出しを開けて、紙と鉛筆を見つけると、蛍流への簡単な謝辞と本来の伴侶である和華を連れて来る旨を悪筆で書き記す。
 廊下に面した襖を開けて人の気配が無いことを確かめると、忍び足で玄関口に向かうが、廊下の角を曲がったところで、運悪くお茶の用意を整えた蛍流と鉢合わせをしてしまう。

「何をしているんだ?」
「お、お手洗いに、行こうかと……」
「厠なら反対側だ。奥座敷のすぐ側にある。方角が一緒だから案内するぞ」
「い、いいえ! 大丈夫です! 蛍流さんもこれから休憩ですよね!? 邪魔したら悪いので、一人で大丈夫です!」
 
 蛍流は急須と人数分の湯呑み茶碗を乗せた盆を持っていた。打ち合わせがひと段落ついたのか、これから一服するところなのだろう。蛍流にことを好き勝手言っていた役人たちを待たせたら、余計に変なことを言われてしまうに違いない。そう考えた海音は何度も首を左右に振るが、蛍流は納得がいっていないのか怪訝な顔をしていた。

「案内ぐらい大した手間ではない。遠慮せずについて来い」
「あっ! やっぱり部屋に居たい気分かもしれません。お手洗いはまた後で行きます。邪魔してすみません、では!」
「待て」

 早口で言い切って背を向けた海音だったが、蛍流の澄み切った低い声に呼び止められて振り返る。蛍流の長い指先が目元に触れたかと思うと、心配そうに顔を覗き込まれたのだった。

「目尻に涙が残っていた。……今まで泣いていたのか?」
「えっ……。いいえ、泣いていません」
「だが……」
 
 後ろめたさで目線を下に落とすと、蛍流が何かを言う前に足早にその場を後にする。蛍流に触れられた目尻には、今も蛍流の指先の感覚が残っているようでくすぐったい。着物の袖でゴシゴシと目尻を擦ると、辺りを見渡す。すぐに引き返して玄関に戻れば、また蛍流と遭遇してしまう。
 外に出るのはもう少し時間が経ってからの方がいいと頭では分かっていても、ここでグズグズしていたらまた昨晩のように慣れない山道で迷子になる。早く和華の元に行きたい焦りと自由に外に出られない苛立ちが浮かんでくる。

(そうだ……!)

 海音は抜き足で廊下を進むと、今朝方外に出た硝子戸までやって来る。硝子戸を開けて沓脱石の上の草履を履くと、音を立てないように注意を払いながら庭に出て行く。おそらく蛍流のサイズに合わせた草履なので、足の大きさが違う海音は歩く度に足元がふらついてしまう。明らかに海音の足にはぶかぶかだが、履かないよりはマシだろう。邪魔になったら、途中で脱げばいいだけ。本当はそうなる前に下山出来ればいいのだが……。

(必ず和華ちゃんを連れて来ます)

 そんな誓いを胸に海音は道なりに山道を下り始めたのだった。
「いったぁ……」

 昨晩蛍流に背負われて登った道を反対方向の麓に向けてゆっくり歩き出したものの、すぐに鼻緒が当たる指の間からズキズキとした痛みを感じて立ち止まってしまう。草履から足を抜いて足袋を脱げば、鼻緒が当たっていた指の間の皮膚が剥けて赤く腫れていた。よく見れば、足袋には薄っすらと血が滲んでいる。
 このまま履き続けても余計に指の間を傷付けてしまうので、草履を諦めると足袋で歩き出す。

(せめて、傷口の消毒くらいはしたいな……)

 このまま放っておいたら、傷口が化膿してしまう。消毒液や包帯なんてものは持っていないのが、その代わりどこかで川か湧き水を見つけて、傷を洗えればいいが……。
 大きな溜め息を吐いた直後、風向きが変わったのか微かに流水音が耳に入る。首を動かしながら耳をそばだてれば、音は途中で分岐した道の先から水の跳ねる音と轟音が聞こえてくるようだった。

(こっちには何があるんだろう……)

 昨日は暗くて分からなかったが、蛍流の屋敷と山の麓までの道の途中には細い脇道が伸びていた。川や滝などの水辺に通じる道なのだろうか。
 昔、何かで聞いたが、山で遭難した時は川伝いに歩くと人里に降りられることがあるという。本当かどうかは分からないが、試してみる価値はあるかもしれない。寄り道になるので、川に立ち寄ってしまうと今日中には和華を連れて戻って来られないかもしれないが、その時は近くの民家に泊まって、明日戻るという連絡を蛍流にすればいい。この世界には固定電話機すら無いようだが、電報くらいなら蛍流に送れるだろう。
 鼻緒で擦れて痛む足を庇いながら歩き始めた脇道は、かつて人の往来があったのか、獣道ではなく適度に人の手が入った斜面の緩やかな平坦な道となっていた。薄っすらと生えた雑草とゴツゴツした石にさえ気を付ければ、草履を履いていなくて歩きづらいということは無さそうだった。昨晩の零雨の爪痕と思しき、水溜まりや泥濘もほとんど乾いていたので、昨日よりも歩きやすい。
 
(運が良ければ、川下で誰かに会えるかも)

 昨日案内してくれた地元民が話していたが、蛍流の先代に当たる前の青龍は地元民に限らず、青の地の住民全てから慕われるような穏やかな賢人だったらしい。
 困りごとや悩みごとの相談目的で二藍山を登ってくる役人や近隣住民が大勢おり、青龍を慕う人たちが麓や近くの山間に集まって里として栄えていた時期もあったという。
 代替わりして蛍流が継いだ今でこそ、人嫌いの冷淡者という蛍流の噂を恐れて二藍山を訪れる者は滅多にいなくなり、麓に暮らしていた人たちも余所に移り住んでしまったが、それまでは誰でも入れる場所として二藍山の門戸が開かれていたとのことだった。この整った脇道も、きっとその時の名残りかもしれない。
 この世界には上下水道なんて便利なものは都心から離れるほど備わっていないので、二藍山近くの人里に住んでいた人たちは、この先の川で水を汲んで生活用水として使用していたのだろう。誰でも立ち入り出来るように先代の青龍が二藍山を解放していたのなら、川に続く道も誰でも入れるように整備していた可能性がある。
 道端の岩や枝葉で足裏を傷つけないように気を付けながら脇道の奥へと進んでいくと、次第に水のせせらぎが大きくなる。やがて木々に囲まれた脇道を抜けると、そこには想像を絶するような大きな滝壺が姿を現わしたのだった。

「これが音の正体……?」

 目の前で轟音を立てながら次々に滝壺へと落ちてくる泡状の水に瞬きを繰り返す。視界の端では跳ねた水から生まれた小さな虹までかかっていた。息を吸えば、水気を含んだ清涼な空気にすうっと癒されていくのを感じて心が軽くなっていく。滝壺の周辺には木々が集まって木漏れ日となっている箇所もあるので、神聖な滝壺の風情を味わいながら日向ぼっこをするのも魅力的かもしれない。
 エメラルドグリーンの水際を覗き込むと、穏やかな波が打ち寄せては太陽の光を反射してキラキラと輝き、透明な碧水から差し込んだ陽光が水底までをも明るく照らしていた。掌を皿にして濁りの無い澄んだ浄水を掬ったところで、自然と喉が鳴ってしまう。

(飲めるよね……?)

 慣れない着物で山道を歩いて体力を消耗していたからか、海音の喉はからからに渇いていた。本当はこういう自然の真水を飲む場合、先に煮沸した方がいいらしいが、今の海音は煮沸に必要な道具を持っていない。飲むとしたら、このまま口を付けるしかない。
 試しにほんの少しだけ口を付けたつもりが、喉を潤す甘い水にすっかり警戒心を忘れて掌の水を飲み干してしまう。それから数回水を飲んでようやく渇きが満たされると、今度こそ足袋を脱いで指の間の消毒に専念する。手巾を水に浸して傷口とその周辺を拭くと、裾を捲ってそろそろと爪先を水の中に浸したのだった。

「ひやぁ!?」

 さすがに雪解け水が混ざった滝壺の水は冷たく、傷口に染みてじわじわ痛んだが、我慢してもう片方の足と共に膝まで水に入れてしまう。次第に水に慣れてきたのか、何も感じられなくなると、つい惚れ惚れして滝を眺め出す。

(綺麗な滝。こんな滝が山の中にあったなんて……)

 元の世界で海音も観光地として有名な滝壺を見に行ったことがあるが、この場所はそこよりも清浄な気が満ちているように感じられた。心が洗われるようなこの神聖な気は、水の龍脈を守護するという青龍の蛍流とその片割れである清水によるものだろうか。
 パチャパチャと子供のように爪先で水を蹴っていると、足首の包帯が取れそうになる。水面から足を出して蛍流が巻いてくれたのとほぼ同じ状態になりように包帯を巻き直すと、手巾で足を拭いて足袋を履いたのだった。
 草履を片手に立ち上がった海音だったが、滝近くに設置された台座とその上の苔むした大きな岩が目に入る。絶えず降り注ぐ跳ねた水で苔が生えたのだろうが、それよりも岩の表面に彫り抜かれた文字が気に掛かってしまう。
 興味本位で岩に近づくと、そこには風化してほとんど読めなくなった文字から溝が深い最近彫られた文字まで、彫刻された年代や文字の癖がてんで違う文字列が上下二段に分かれてびっしりと並んでいたのだった。