懐かしい、青春の気配が蘇っていた。
ど、どうしてこんなことに……。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、助手席に座る私の心臓は先ほどから早鐘を鳴らしていた。商談の時や社内会議で発表をする時でさえこんなに緊張することはない。当然、頭の中も真っ白だった。
「いやー、やっぱミッチーはミッチーだな! ほんと変わってねーよ」
朗らかな声が隣から聞こえる。
ハンドルを握る彼はとても楽しそうで、その笑顔は高校を卒業して随分と経った今でも変わっていない。
「その言葉、亮くんにそっくりそのままお返しするよ」
私は窓の外に視線を留めたまま、どうにかそれだけを言った。オーディオから流れるジャズの音楽がちょうど切り替わる。
私は、かつての想い人と再会し、家まで送られていた。
こんなことになったのは、まさに巡り合わせというほかなかった。
*
青春なんて、もう忘れたな。
夜の繁華街を彩る煌びやかな光に目を細め、ビルの壁に設置された青春映画の広告ムービーを見上げながら、私は思った。
この映画は、私が高校生の時に観た映画の続編だ。十年ぶりの新作ということでSNSでもトレンドに入っていた。そういえば昨日、友達から次の日曜に一緒に観に行こうってメッセージが入ってたっけ。もっとも、次の日曜は翌日の商談に向けた資料作成をしないとなんだけど。
私は既読だけつけていた友達へのメッセージに謝る猫のスタンプを送ってから、ちょうど青に変わった横断歩道を渡る。あの頃は気にも留めなかったすれ違うサラリーマンたちが、なんだか同志のように思えた。
「ふぅー……」
無意識にため息がこぼれる。大学を卒業し、社会人になって早くも五年が過ぎた。六年目にもなればいろいろな仕事を任され、さらにはジョブコーチなどという後輩の相談係もすることになった。ついこの前内定をもらって喜んでいた気がするのに、時が経つのは早いなと実感する。
って、なに私。考え方老けすぎじゃん。
横断歩道を渡り終えてから、私は自分の思考に愕然として思わず笑みを溢した。ありえない。高校生の時にバカにしたお父さんの言葉にそっくりだ。
ほんとに、いつの間にか私は大人になっていた。
高校生の時はもちろん、大学生の時も大人なんてどこか遠い存在のように感じていた。いつか自分も大人になるのだと頭ではわかっていても、まるで実感がなかった。それは入社してからも同じで、休日に高校の友達と会っては「実感湧かないよね〜」と笑い合っていた。
それが、今では立派な疲れた大人だ。
会社では上司から割り振られた仕事をこなし、営業成績を上げるべく顧客接待やら市場調査やらを行い、お願いされた後輩の面倒を見ていたらすぐ一日が終わる。毎日はそれの繰り返しで、あっという間に一週間、一ヶ月と時間は駆け抜けていく。
あれほど遠くに感じていた大人の実感は、ぼんやりとした頭で電車の吊り革に掴まっていた社会人三年目の時にふと湧いてきた。なんの感慨もなくて、心に残ったのは一抹の寂しさだった。
「……ほんと、アホくさ」
私は小さく頭を振って思考を振り払い、足早に駅へと歩いていく。ようやく今週の仕事が一区切りついたのだ。まだ残務はあるけれど、とりあえず今日は帰ってゆっくり休もう。
そう心に決め、私は人の流れに乗って駅構内へと入っていった。けれど、改札の上に吊られた電光掲示板を見てまた心が重くなった。
「遅延って、うそでしょ……」
そこに流れていたのは、私がいつも使っている路線が車両の不具合により運転を見合わせているとの内容だった。表示された時間を見る限り、かれこれ一時間は点検しているらしい。とんだ災難だ。
待つっきゃないか……。
私の家の最寄り駅に行くには、この路線を使うしかない。タクシーは高いし、給料も少ないので極力無駄遣いもしたくない。私は仕事の疲れやら降って湧いた障害やらにため息をつきつつ、気分転換に音楽でも聴こうとワイヤレスイヤホンを取り出した。
その時だった。
「あれ? もしかしてミッチーか?」
唐突に呼ばれた懐かしいあだ名に、私はハッと振り返った。忙しなく往来を行き交う人だかりの中に、爽やかに手を振るスーツ姿の男性が立っていた。
「え、もしかして、亮くん?」
「そうだよ! うわ〜めっちゃ久しぶりだな!」
大きなスーツケースを引いて走り寄ってきたのは、高校三年間クラスが同じだった男友達、早川亮くんだった。高校を卒業して以来だから、かれこれ十年の月日が流れている。
「えーっ! ほんと久しぶりだね! あれ、なんか痩せた?」
「いやぜんぜん! むしろ飲み会ばっかでウエストヤバ気味。ミッチーはあんまし変わってねーな。ちょっと老けたくらいか」
「おいこらぁ、ぶっ飛ばすぞ」
亮くんはぜんぜん変わっていなかった。
いや、ぜんぜんというと語弊があるか。雰囲気はいかにも好青年サラリーマンという感じになってるし、身体つきもやっぱり少しシュッとして見える。
それでも、遠慮ない軽口をたたいてくるこの性格やノリは高校生の時と同じだ。なんだかすごく安心する。
「はははっ! なんかミッチーとのこのやりとり懐かしいな。って、さすがにこの歳になってミッチーはあれか。春野がいいか? それとも名前の美智香のほうが呼ばれ慣れてたりする?」
「ううん、ミッチーでいいよ。てか名前のほうが呼ばれ慣れてるって、私どんな職業してんのよ」
名前を呼ばれて一瞬どきりとしつつも、私は平静を装ってツッコミを入れた。忘れたはずの想いが、ちくりと私の胸を刺激する。
「ははっ、冗談だよ。それより、こんなとこでどうしたんだ?」
そんな私の胸中に気づいた様子はなく、亮くんは相好を崩して訊いてきた。落ち着くためにも小さく息を吐いてから、私は電光掲示板のほうを振り返り口を開く。
「遅延よ、電車の遅延」
「あちゃーほんとだ。かなり長い間止まってんじゃん」
「そうなのよー。せっかくの金曜日なのに、帰るのめっちゃ遅くなりそう」
さっきの痛みは、きっと気のせいだ。
この痛みはとっくの昔、それこそ青春時代に置いてきたはずの痛みだから。
青春は過去となり、大人になった今の私にとっては、既に思い出となったも同然のもので……
「なるほどね。じゃあ、俺の車で送ろうか?」
唐突だった。
いつか感じた、記憶のなかに封じたはずの高鳴りが、私の胸を衝いた。
こうして私は、かつて失恋した相手に、家まで送られることになった。
*
亮くんとは、高校一年生の体育祭で仲良くなった。
私たちは二人とも運動部で、クラス対抗リレーでそれぞれ男子と女子の枠を担当することになったのがきっかけだった。
「春野! ここだ!」
「はいっ、早川くん!」
反射神経に自信のあった私が一走目で、突破力に強い早川くんが二走目。隣のクラスとの合同授業で練習することもしばしばあり、そこからクラスでも話すようになった。
「春野〜、英語の宿題やった?」
「うん、やったよー。結構難しかった」
「マジで! じゃあ、大問五教えてくんない? マジで意味不明なんだよ!」
「もうーしょうがないなー。じゃあ、代わりに数学教えてよ! 確率のとこ!」
「おーいいよ! 俺、数学だけは得意だから!」
お互いの苦手科目はちょうど相手の得意科目で、よく昼休みや放課後に教え合っていた。
「春野〜! 昨日リリースされた新曲聴いたかー?」
「聴いた聴いた! 歌詞とかリズムとかもうむっちゃ良かったよねー!」
しかも同じアーティストが好きで、
「早川くん! 昨日のやつ見た!? 夜九時!」
「もちろん見た! 最後の橋のシーン、泣きそうだったんだけど!」
「わかるー! 私なんて泣いたよもう〜っ!」
好きなドラマの趣味も同じだった。「昨日のやつ」で通じるほどには、とにかく話が合った。
そして驚くべきことに、私たちは高校の三年間すべて一緒のクラスだった。
「ミッチー! また一緒かよ!」
「こっちのセリフ! 亮くんの顔見飽きたんだけど!」
しかも私たちは、名字の五十音的に出席番号が並ぶ。だから私はいつも身長の高い亮くんの背中を押しのけるか横からのぞくかして板書をしなければならなかった。
「へぇー。ミッチーの第一志望ってこの大学なんだー」
「ちょ! 見ないでよ! ルール違反! 変態!」
「おい待て、たたくな。ジョーダンだから、見てないマジで見てない、ごめん、ごめんて! いたっ!」
もっとも、時々仕返しのごとく私が回したプリントを見られるかいじられるかはしたのだけれど。
あのころは、すべてが何気ない日常のひとコマだった。青春だなんだなんて、これっぽっちも思っていなかった。
けれど、今思い返せばそのどれもが青春だった。
そんな青春の日々の積み重ねが、きっと少しずつ私の中に芽生えた想いを育てていったのだと思う。
「なぁ、亮? お前さ、春野のこと好きなのか?」
そんな質問が階段のあたりから聞こえたのは、高校二年生もそろそろ終わる放課後のことだった。義理チョコと銘打った手作りチョコを渡した翌週に、彼は友達と階段付近の壁に寄りかかって立ち話をしていた。
「なんだよ、いきなり」
「いや、いきなりではないだろ。お前ら去年からずっと仲良いじゃん。噂になってんぞ、付き合ってるんじゃないかーって」
その噂は私の耳にも入っていた。
でも、私は否定することなく曖昧に流していた。
だってそのころの私は、どうしようもなく亮くんのことが気になっていたから。
ドキドキと高鳴る胸をおさえながら、悪いとは思いつつも私は二人の話に聞き耳を立てた。
「付き合ってねーよ。仲はいいと思うけど、ただの友達だ」
「今はそうでも、お前の気持ちはどうなんだよ。恋愛対象として見てんのか?」
落ち着かなくて、持っていたリュックをギュッと抱きしめる。それでも鼓動は早くなるばかりで、血の巡りが良くなりすぎたのか目の前までクラクラとしてきた。
亮くんは、なんて答えるんだろう。
もし、恋愛対象として見てくれているなら、その時は、私は……
「いや、見てないかな。ミッチーは友達だよ。それに俺、昔からずっと好きな人いるから――」
目の前が、真っ暗になった。
*
「――ッチー? おーい? ミッチーってば」
「え! あっ、な、なに?」
薄暗がりの車中で、私はハッと我に返った。
「あれー? もしかして人に運転させておきながら寝てたのかー?」
「ね、寝てないよ! ちょっとボーッとしてただけ!」
短く笑いながらからかってくる亮くんに反論する。
危なかった。
暗がりのせいで、無意識のうちに高校時代のことを思い出していた。
あの、絶望した瞬間まで……。
「まあミッチー大変そうだもんなー。食品メーカーの営業とか、俺こなせる自信ねーもん」
ハンドルを握る彼の横顔に、淡い街灯の光が規則的に当たる。髪型が変わっても、服装が変わっても、十年という歳月が流れても、やっぱり私の心はまだ反応してしまうらしい。
「そんなことないと思うけど。というより、亮くんはコンサルタントなんでしょ? そっちのほうがすごいじゃん」
「つっても、アベイラブル……プロジェクトにアサインされてない時は結構時間あるよ。リモートワークもできるから、この前はワーケーションがてら旅行行ってきたし」
「いや待って待って、横文字多すぎでしょ。意味わかんないって。あの英語嫌いな早川亮くんはどこに行ったのよ」
「はははっ! 懐かしいな! 確かによくミッチーから英語教えてもらってたわ! あの時の落書きされたノート、たぶんまだ家にあるよ」
雰囲気は変わってない。
けれど、時間は着実に経過している。
あの立ち聞きした日以降、なんとか気持ちは押さえ込んで卒業までいつも通り過ごせた。
卒業後はまったく別々の大学に進んだから、それっきり会うことはなくて、たまにSNSで連絡は取り合っていたけどそれも自然消滅した。
けれど、行き場を失った私の気持ちはそれからもくすぶっていて、大学でも何回か付き合ったけれどどれも長続きしなかった。しかも、どうやら今も火種は消えてないらしい。
いっそのこと、告白してフラれてみようか。
人気の少ない道を抜けて、住宅街に差し掛かったころ、ふいにそんな気持ちが芽生えた。
加速していく心音に急かされたのか。
はたまたフラッシュバックした青春の思い出にあてられたのか。
あるいは、隣で朗らかに笑う彼にもう一度恋をしてしまったのか……。
トートバッグをギュッと抱き締めながら迷っているうちに、亮くんにお願いしていた公園の前に着いた。ここから一分ほど歩いたところに、私が借りているアパートがある。
「さっ、着いたぞ。ここでいいんだよな?」
「うん、大丈夫だよ」
バクバクという音が耳奥で響く。
また、一瞬記憶が蘇ってきた。
あれは卒業式の日。
どうせ最後なら思い切って告白しようとして、結局言い出せずにバイバイしてしまったんだっけ。自転車に乗って遠ざかっていく彼の後ろ姿と、赤色の反射板がいやに脳裏にこびりついている。
どうしよ。どうしよ。どうしよ。
言うなら今しかない。
高校生の時と違って約束しなければ会うこともないんだし、勤め先もまったく関わりがないから結果がどう転ぼうと影響はまったくない。
言おうか。言っちゃおうか。でも、でもな。
「ここまで送ってくれて、ありがとうね」
迷って、迷って、迷う。
シートベルトをゆっくりと外し、バッグから物なんて出してないのに「忘れ物はないかな」なんて言いながら周囲を見回す。
ここで言わなかったら、あの時と同じで。
でもきっと言わなければ、“仲の良かった高校時代の友達”のままでいられて。
私は、わたしは、わたしは………
「ねっ、良かったら、少しあがってく?」
私の口から出たのは、そんな言葉だった。
なぜか視界がうるんできて、彼の顔がぼやけた。
ずるい女だと、思わずにはいられなかった。
「ありがとう。でも、遠慮しとくよ。また今度、ランチにでも行こうぜ」
彼は一瞬の沈黙ののち、笑って優しい言葉を返してくれた。
良かった、と思った。
亮くんは、やっぱり亮くんのままだった。
そっとバックミラーに目を向けると、彼らしくないキーホルダーがかかっていて。
彼の指には何もないけれど、柔らかな笑顔の裏にある幸せの気配に、私はどうしようもなく悲しくて、嬉しくなった。
「うん、わかった。ここまで、本当にありがとう!」
私は自然と浮かんだ笑顔を向けて、車から降りた。夏だというのに、夜風はひんやりと心地良く感じた。
「じゃあな、ミッチー! 久々に話せて楽しかった! あんまし無理すんなよ! おやすみー!」
「うん! 亮くんも気をつけて! おやすみなさい!」
最後の言葉を交わして、私たちはわかれた。
遠ざっていく車のテールランプが、いつの日かの反射板と重なった。
「……本当に、ここまでありがとう。亮くん」
私はバッグからスマホを取り出すと、映画に誘ってくれていた友達に「やっぱ映画いこー!」と送った。すぐに驚いた子犬のスタンプが返ってきて、つい笑ってしまう。
そして再び顔を上げると、そこには静かな暗闇だけがあった。
私は、大人になっていた。
けれど、大人になれていないこともあった。
私は、彼のことが好きだった。
私は、やっぱり彼のことが好きだった。
この恋のおかげで、私は長い間目を背けていた「私」に気づけた。
「よしっ。映画のためにも、もう少しだけ頑張るか」
見えなくなったテールランプに、この恋心を乗せて。
私はまた一歩、前へと進んでいくんだ。