右からキャスターがガラガラガラッと回転する音がした。

「お先に失礼します」

「お疲れ様」

 私は、正面のPCモニターに体を向けたまま、首だけ回して返事をした。

 私と目が合うと、向こうは律儀にペコリと頭を下げた。その顔は遠慮がち。

 そして、そろそろっと退出していった。

 今日頼んだ仕事が済んでるんだから、堂々と帰ってくれていいのに。

 けれど一方で、いかにも新入社員らしいな、とも思う。

 斎藤くんのOJT担当になって半年が経つ。

 仕事は徐々に覚えてくれている。そろそろもう少し専門性の高い仕事を始めてもいい頃合いかもしれない、うん。

 なにしろ、斎藤くんには1日も早く戦力になるように育ってもらわなければいけないのだから。

 そう思った直後に、私自身の囁き声が頭の中で響いた。

『本当に? 焦ってて、的確な判断ができてないんじゃないの?』

 過度なことを要求すれば、控えめな性格の斎藤くんを潰してしまいかねない。

 急がば回れ?

 迷いが生じた。

 目を閉じて、天井を仰いだ。

 私が新人だった頃、園田先輩はどうだった? 私にどんな仕事をくれていたっけ……

 そこまで考えて、園田先輩が私のOJTをしてくれていた当時の業務メモを読んでみよう、と思いついた。

 大切に(でもないけれど)保管している使用済みノートの束から、表紙の日付が最も古いものを取り出そうと、屈んで引き出しに手をかけた──

 ギッ!

 たった今退出したはずの隣の席から、椅子が沈み込む音が聞こえてきた。

 斎藤くんが戻ってきた? もしかして忘れもの? だとしても、わざわざ椅子に座るものかな……

 お目当てのノートを発掘して上半身を起こすと、自然と椅子に座っている人物が視界に入ってきた。

 こちらから『どうしたの?』と訊くより早く、向こうから話しかけてきた。

「よっ。今日はまだ残業する?」

 そこに座っていたのは、同期の上林リョウタだった。

 私は第一設計部、リョウタは隣の第二設計部所属だ。入社依頼ずっと同じフロアで働いてきた。

「そこまで緊急の案件でもないからキリがいいところで帰るつもり」

「なら、飯行かない?」

 『ああ、彼もか』と直感した。

 彼の顔を見ただけで把握できてしまった。そのすっきりした表情を見るのは本日2度目だ。

 私はそれでも『いいね』と答えた。

✼••┈┈┈┈••✼

 この会社で正式に人事報が発令されるのは、異動日のわずか1週間前だ。

 『ナメてんの?』と言いたい。それはつまり、私たちが1週間で引き継ぎできるような業務をしてる、と思ってるってこと?

 それに1週間前に知らされたのでは、送別会をする猶予もないじゃない! 人情ってものがないの?

 とはいえ、憤ったところで就業規則にそう定められているのでどうにもならない。

 というわけで、部長は異動の内示をおこなうときに、とーってもわかりやすく会議室へ連れ出してくれるのだ。

 まず、わざとらしい咳ばらいをして第一設計部をゆーったりと見回す。次に席を立ってある人物に体を向ける。それから、その人物が所属するグループ中どころか部内中にまで聞こえるほどの大きな声で「あー、今ちょっといいか?」と声をかける。

 これでみんな(※新入社員ととんでもなく鈍い人を除く)は、暗黙のうちに知ることになるのだ。内示が出る、と。

 そして、今日内示が出たはずだ。園田先輩に。

 わかっていた。既定路線だ。

 私の所属するグループは、決して余裕があるわけではなかったけれど、それなりには人員は足りていた。

 にも拘らず、この4月に新人が入ってきた。

 ということは、新人がある程度育った時点で誰かが出るのは必至だ。

 そして順当にいけば、それが園田先輩であることも予想がついていた。

 会社の方針で、若いうちに1度は異動して経験を積むことになっている。

 その先は、数年で元の部署に戻ってくる人もいれば、それきり移動先で定着する人、また別の場所へ移動する人、と様々。

 にも拘らず、先輩はまだ異動したことがなかった。入社以来、今のグループひと筋。すでに若手でもなく中間管理職になっていて、遅すぎたくらいだ。

 そして、そのことを誰よりも気づいていたのが先輩本人だった。

 だから、先輩は今年度に入ってからというもの、事あるごとに『海藤もすっかり1人前だな』と言って私を認めてくれた。

 実際には、まだまだ先輩には遠く及ばないのに。

 ああ、それにしてもまさか先輩がこんなに早くいなくなってしまうとは思わなかった。もう半年は先だろうと油断していた。

 しかし先輩のほうはというと、部長に呼ばれたときにはすっきりとした顔をしていた。

 グループの誰とも目を合わすことなく、部長のあとに続いて軽やかに会議室の中へ消えてしまった。

 ドアが閉まると同時に、私は動揺する指先と半分働かない頭でも、どうにかキーボードを叩いた。そうしてグループ長へメールを送った。

 『私に送別会の幹事をやらせてください。海藤』と。
 
✼••┈┈┈┈••✼

 注文を済ませ、おしぼりで手を拭いたところで尋ねた。

「で、異動先はどこの事業所?」

「福岡」

 内示が出たことを私が知っていても、不思議に思うことなく返してきた。

 リョウタは微笑んでいた。

 それはどういう笑顔? うれしいの? それとも……

「希望してたんだっけ?」

「してないけど、異動しないといけないならって感じでは挙げてた」

「そっか」

 なら、リョウタにとっては喜ばしいことなのかな。

「あーあ、同期入社メンバーでは、私が最後になるのか」

 私たちが入社した年に、ここ名古屋事業所へ配属された総合職の新人は6名いた。

 入社して2年目、最初にレンがいなくなった。彼の場合は転職だった。

 次に入社3年目で、ナオとアカネが東京にある本社と広島にそれぞれ異動した。

 4年目には、カイトが千葉に。

 そして5年目の今度はリョウタだ。

 もちろん、ほかの事業所から名古屋へ異動してきたほうの同期もいる。

 だけど、入社したときから一緒のメンバーはどうしたって特別なのだ。

「なあ、ミヤコ、」

「なあに?」

 しかしそのとき、ドリンクとお通しが運ばれてきた。

「じゃあ、お疲れ様!」

 私はグラスを傾けた。

 カチ、と控え目な鈍い音しかしなかった。

「送別会はこれじゃなくて、きちんとやらせてね」

「送別会……送別会な」

「部署の送別会や荷作りもあるんだろうけど、同期の送別会はマスト!」

 言いながら私はお通しの酢の物に箸を伸ばした。

 こっちの幹事も、絶対に私が引き受けよう。

「ミヤコ、」

 胡瓜は、ポリッ! といい音を立てた。

「うん?」

 と、そこで注文していたポテサラとホタルイカの沖漬けがやってきた。

「……さっきからタイミング悪いな」

 リョウタはボヤきながらも取り皿を並べてくれた。

「今ならいいよ。何なに?」

「こういうのは、言おうってしてたところを挫かれると難しくなるんだよ」

 不貞腐れている。

「ふーん。なら、鶏軟骨の唐揚げがきたら話すってことにしない?」

「何だ、それ」

「ゴーヤチャンプルーでもいいけど?」

「……俺に内示が出たってのに、普通だな」

 ホタルイカの目玉が残っていたらしい。固いものを思いっきりガリッと噛んでしまって痛い。

 そんなの、淋しいに決まってる。

 園田先輩がいなくなることも、リョウタがいなくなることも……

 けれど、会社員なんだ。異動で仲間がいなくなることを、いちいち『淋しい』と嘆いてなんていられない。

「まあ、異動したところで同じ会社にいるんだから、これからだってけっこうな頻度で会うことあるんだろうし。福岡に出張するときには、リョウタの席まで挨拶に行くね。リョウタも名古屋に来ることあったら、顔を見せてよ」

 ホタルイカの目玉を噛んだときの嫌な感触は、ペラペラ喋っている最中も口の中に居座り続けていた。

「そんなんじゃなくて……」

「そんなんじゃなくて?」

 私はリョウタの瞳を覗き込んだ。

「ミヤコも一緒に来ない?」

 真っ直ぐに見つめ返された。

「ええっと……」

 知らず目が泳いだ。

「私も異動希望調査票に福岡って書けと?」

 書いたところで……と思った。

 だって、うちのグループからは園田先輩が抜けるのだ。

 その穴を私が埋め、

 私の穴を斎藤くんが埋め……

 られるわけがないでしょーが!!

 私にとっても斎藤くんにとっても任が重い。

 これから大変になるのは目に見えている。

 向こう2年は若手の異動はないだろう。

「私の福岡異動が叶う頃には、リョウタは名古屋に戻ってきてたりして」

 いかにもあり得そうで、私は『ぷぷっ』と笑った。

「そんなんじゃなくて!」

 驚いたせいで、私の肩は跳ね上がってしまった。

 ついでに鶏軟骨とチャンプルーの皿を持った店員さんの腕も震えた。

 私とリョウタは黙ったまま、テーブルの上にあるものを端に寄せて、皿2枚分のスペースを作った。

「ご注文の品は以上となります」

 店員さんは、そそくさと引き上げていった。

 店内で、この6番テーブルだけ気まずさが漂っている。

 私はことさらに明るく言った。

「わー、おいしそうだよ。食べよ、食べよ!」

「両方きたから、このまま話をさせて。ミヤコは食べながら聞いててよ」

「いいけど。あっ、レモン搾るね」

 リョウタが唐揚げにレモンをかける派なのは、もちろん知っている。

 けれど、もしかしたら今日は口内炎ができていてレモンはほしくない、なんてこともあるかもしれないから、念のため声をかけた。

「そんなんじゃなくて、俺が言いたいのは、」

 私は櫛形レモンを持つ指先に力をこめた。

「会社辞めて一緒に来ない? ってこと」

「はあ?」

 搾ったレモンから種が飛び出した。

 私はテーブルの上を追いかけた。

「結婚しない?」

「えっ、えっ?」

 驚きながらも手は動く。素早くキャッチした種をペーパーナプキンの上に置いた。

「好きだったんだ、入社してすぐの頃からずっと」

 それは知……っていたと思う、たぶん。

 そうだ。なんとなくリョウタの好意は伝わってきていた。

「俺たち結婚したら上手くやっていけると思わない?」

 私とリョウタが? 結婚?

 それって、同じ家に住むってことだよね?

 毎日こんなふうに向かい合って、ごはんを食べて……

 お互い名古屋で暮らしてるうちに気に入ったから、お味噌汁は赤だしでいいよね?

 だけど目玉焼きには何をかけたい?

 それと、リョウタはバスタオルを毎日洗う派だろうか?

 おおっと、もっと重要なことがあった! 寝るときはベッドと敷布団、どっち?

 まあ、リョウタとなら、そういう諸々はいくらでも擦り合わせていけるはず……

 って、あれ? 楽しいかもしれない。

 それに、リョウタの勤務態度は信頼を置くのに充分なものだ。

 それと後輩の面倒見もいい。

 子どもができたりしたら、いいお父さんになるんだろうな。

 私が子どもをきつく叱ったあと、陰でフォローしたりしてくれそう。

 どうしよう……上手くやっていける未来がいとも容易く描けてしまった……

 これって、いわゆる交際0日婚ってやつでは?

 これまで交際0日婚なんて信じていなかった。どうしたって不可能でしょ? と。

 それなのに、事もあろうにこの私にその可能性が降ってこようとは!

 しかし、なるほど。可能だ。リョウタとなら。

 私たちはお互いの手すら触れたことはない。

 けれど、会社の同期として、リョウタとは同じ釜の飯を食べてきた。

 ひとつ屋根の下で暮らす夫婦として、同じ炊飯器のごはんを食べることもできる。

 そこまで考えたとき、ふっと疑問が浮かんだ。

 ならほかの同期とだったら?

 それは無理! と即答する自分がいた。

 ああ、そうだったんだ。私もリョウタのことが好きだったんだな。

 リョウタと結婚できたら、しあわせになれる。

 だけど……

 だけど、そうしたら会社は?

 私の専門分野は、全社的に人材が足りていない。

 だからギリギリ回せているだけで余裕はないにも拘らず、新人を採って、第一線でバリバリ活躍できる園田先輩を出すことになったのだ。本来であれば、異動先との人材トレードであるべきなのに。

 私が辞めたらどうなるか……

 それが想像できる程度には社内事情に通じて、自分に求められている役割が何なのかも見えている。

 そうなるまで育ててもらったから。

 それに、私にとってもようやくひとり立ちでき、これからというときなのだ。

「簡単に『仕事辞めろ』とか言わないでよ」

「簡単に言ったつもりはないよ。めちゃくちゃ勇気いった」

「私ここまでがんばってきたの」

「知ってる。同期の中で誰よりもがんばってた。だけど……って、おーい、泣くなよ」

 私は泣き上戸ではあるものの、まだ1杯目だし、人生が変わるかもしれない局面で酔うことなんてできない。

 けれどリョウタの口ぶりからは、いつものやつだと思ってくれていることが窺える。

 そのほうがいい。そう勘違いしてて。

 リョウタに慰めてもらうわけにはいかないのだから。

 ペーパーナプキンでこぼれ落ちてくる涙を押さえた。ゴワゴワしていて目には固かった。

「私は福岡には行けない」

 リョウタまで目を赤くして、それから弱々しく微笑んだ。

「断られるってわかってた。それでも言いたかったんだ。悪かったよ」

「ごめんね。本当にごめんね」

「いいって」

 だけどね、リョウタ……私はうれしかったんだよ。プロポーズしてくれてありがとう。

「ごめんねえ」

「もういいって。俺も新天地でがんばらないといけないし、実際はそれどころじゃないと思う」

「それでもごめんねえぇ」

「わかったから、もう泣き止めって」

 リョウタは追加のペーパーナプキンを次々と寄越してきた。

 涙で滲んで、もう見ることはできなくなっていた。

 あれは、ほんの束の間の……泡沫(うたかた)の夢だったのだ。

 それでも、その中で私はたしかにしあわせだった。


END