思わず光平を抱きしめた。
 回る風景。
 そして、響いたゴツリという鈍い音。
 光平の頭がアスファルトに叩きつけられて、動かなくなった光平の向こうに真っ赤な血が流れ出た。
『光平っ! 光平っ!』
 喉がちぎれるくらいに叫んでも、光平は答えてくれない。
 力のない光平の手のひらの向こうには、地面に放り出された真っ白なスマートフォン。
 光平にあたしの声を届けてくれていたのに。
 光平にあたしの顔を見せてくれていたのに。
 電源が切れて、画面がひび割れて、そこに痛々しく転がっている。
 振り返ると、階段の一番上で女性刑事が係長の襟首を掴んでいた。
 係長は目を泳がせて、なにやら言い訳がましいことを怒鳴り散らしている。
 すぐに若い男性刑事が階段を駆け下りてきて、光平の様子を見ながら大声で電話をかけ始めた。
「救急です。十七歳の男子高校生がコンクリートの屋外階段で転落して頭から出血しています。呼び掛けに応じません。場所は――」
 すごく冷静。
 さすが警察官だ。
 あたしが階段から落ちたときも、光平がこうやって電話してくれたのかな。
 救急車はすぐに来た。
 運ばれる光平。
 光平に付き添って一緒に救急車に乗り込んだのは、諸田という女性刑事だった。



「光平はまだ目を覚まさないかい?」
「まだみたいね」
 光平のお父さんとお母さんの声。
 ぼんやりと天井のLEDの真っ白な光が見えると、その手前に心配そうにこちらを覗き込むお母さんと、その後ろに立っているお父さんの元気がない顔が見えた。
 愛ちゃんの姿はない。
 ここは……、病室?
 光平の顔は相変わらず見えないけど、頭には包帯とネット、首にはコルセットが着けられていた。
 しんとした病室に、かすかに聞こえる光平の息。
 トントン。
 そのとき、不意に病室のドアがノックされた。
 ベッドの横の時計を見ると、もう午後九時を回っている。
「すみません。諸田です。戻ってきました」
「え? 諸田さんですか。まだなにかあるのでしょうか」
 お父さんが、そう返事をしながら病室のドアを開けた。
 その向こうには、背中を丸めて肩を落としている諸田巡査部長さん。
 お母さんが立ち上がる。
「すみませんが、もう帰ってください。納得はしていませんけど、さっきの係長さんの説明で、とにかく警察に責任はない、光平が勝手に階段から落ちたんだという現場調査の結果は分かりましたから」
「いえ……、本当のことをお話しするために、私だけ戻って来たんです。本当に申し訳ありません」
 顔を見合わせたお父さんとお母さん。
 ひと呼吸あって、お父さんがゆっくりと手を出して、諸田さんを招き入れた。
「そうですか……。では、お掛けになってください。母さんも座りなさい」
 お母さんが口をへの字にして腰を下ろすと、お父さんと諸田さんも音を立てないようにそっと椅子に座った。
「上司の下見がご両親に説明したこと……、そして現場で見分を行った刑事課員に話した当時の状況は、どれも下見自身の保身を見越したものです。本当は下見に……、いえ、下見と私に責任があると、私は思っています」
「そんなことを私たちにお話しになっていいのですか? あなたも立場がおありでしょう?」
「はい。だからこそ、私は責任を感じているんです。光平くんは、もう完全に桜台さん転落事件の犯人だと決めつけられています。そんなことがあっていいはずありません」
 え?
 あの光平をいじめてた女刑事が、なんかすごくちゃんとしたことを言っている。
 どうしたんだろう。
「私は、光平くんは被疑者ではないと思います。根拠はありません。でも、絶対に違うと思うんです」
「それは……、ありがとうございます。ただ、息子はなにをするにも誤解を招きやすい性質ですので、仕方ありません」
「その誤解を解くことこそ、私たちの仕事のはずなんです。恥ずかしながら……、実は私も最初は光平くんを見誤りました」
「……見誤った?」
「はい。でも、彼の人となりを追い掛けていくうちに、彼が本当は風評とはぜんぜん違う人物だということを理解しました」
 少しだけ目を大きくしたお父さんが、座っている椅子を軽く引いて小さく咳払いをした。
「そうですか」
「おそらくこの捜査は、このまま行けば証拠不充分のまま終わると思います。なんの処分も措置もないまま、光平くんは放免されます」
 諸田さんがゆっくりと立ち上がって、ベッドの横から光平の顔を覗き込んだ。
「でも……、でも、それだけではダメなんです」
 お母さんも目を大きくして諸田さんを見上げている。
「それだけでは……、彼が『無実である』とハッキリと答えが出ないことになります。そして、それがその後の光平くんをずっと苦しめることになると思うんです」
 諸田さんの瞳が潤んでいる。
 ちょっと嬉しい。
 そう、光平はなかなか理解されない。
 一年生のときもそうだった。
 物理の先生から頼まれて、光平がまだ課題を提出していない生徒に「早く出してってさ」って連絡したことがあった。
 光平は物理の成績がすごくいいから先生からとっても気に入られていたのは確かだけど、先生はたまたま話す機会があったから光平に頼んだだけなのに。
 でも、その生徒から「点数稼ぎか」なんて文句を言われて、それを言いふらされて。
 結局、『ゴマ磨り永岡』なんて言葉が独り歩きして、ずいぶん陰口を叩かれてた。
「諸田さん……、息子のことをそんなふうに思ってくださってありがとうございます。しかし、それも神が与えたもうた試練でしょう」
「光平くんの無実は、私が絶対に証明します。下見とのやり取りで光平くんが階段から落ちた件については、もう少し時間を下さい。いま抗議の声を上げても、犯人扱いされている子の親からの申立てですから、真摯に取り合われない可能性があります」
 そう言って、諸田さんが顔を上げた、そのとき。
 タタタタタタ……。
 病室の外で聞こえた、けたたましい駆け足の音。
 三人が、「ん?」と顔を上げて扉のほうへ目をやった。
 次の瞬間……。
 ドドン!
「こうちゃんっ!」
 突然、乱暴に開かれたドア。
 そして、そのドアの向こうに姿を現したのは、息を切らし、肩を揺らすちっちゃな女の子……、いや……、巫《み》女《こ》?
「やぁ、これは、雅さん。わざわざ来てくれたのかい?」
「お、おじさまっ。愛から連絡をもらいましたわっ。こうちゃんが大ケガしたって本当ですのっ?」
 こ……、こうちゃんっ?
「いや、そんなに大ケガではないんだ。ちょっと大げさに血が出ただけで――」
「こうちゃんっ!」
 ベッドへ駆け寄る巫女。
 光平に覆いかぶさって、ぎゅっと肩を抱き寄せる。
 なっ、なに?
 ちょっとっ、気安く光平に触らないでっ!
 それに……、なんなの? その格好。
 真っ白な小袖に、真っ赤な袴。
 明らかに神社の巫女さんの格好だけど、なぜか足元だけは通学用のローファー。
 もしかして、コスプレ?
 小学生みたいにちっちゃいけど、腰まである長い髪がとってもキレイ。  
 諸田さんがちょっと腰を引いている。
「うわ……、御笠さん……。来たのね」
「はぁ? どうしてあなたがここに居るのかしらっ? 諸田巡査部長!」
 なぜか諸田さんと知り合いの様子。
 いったいどういうこと?
「えっと……、光平くんが階段から落ちたとき、私も一緒に居たの」
「なんですってっ? あなたがついていながら、どうしてこんなことになったのかしらっ?」
「ごめんなさい……」
「こうちゃんっ! いつまで寝ているのっ? 雅が見舞いに来てあげたのよっ。起きなさいっ!」
 光平の耳元で怒鳴る巫女コスプレ。
 もうっ!
 そんな大きな声出さないでっ!
 光平はケガしてるんだからっ、もっと静かに優しく――。
「こうちゃん! 起きるのよっ!」
「うっ……」
 じわっと聞こえた、光平の唸り声。
 ハッとお父さんとお母さんが立ち上がった。
 諸田さんが瞳を大きくして、一歩踏み出す。
 数秒の無言。
 それから、光平を覗き込んでいたみんなの顔が、少しずつ……、ゆっくりと……、笑顔になった。「あ……、みんなどうしたの?」
「こうちゃんっ!」
 光平に抱きつく巫女コスプレ。
 こらっ! もうっ、離れてっ!
 でもっ、光平が目を覚ましたんだっ。
 嬉しいっ! 
 あたしも光平の顔が見たいっ!
「うわっ、雅か」
「うわっ、ですって? 人の顔を見るなり失礼極まりないわね。わたくしは心配して来てあげたのよっ?」
「わかったわかった! わかったから離れてくれ、雅。頭が痛いっ」
 すかさず諸田さんが巫女コスプレの小袖の襟を掴んで光平から引き離す。
「ちょっと代わりなさいっ! こっ、光平くん……、ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
「え? 諸田さん……、ずっと居てくれたんですか。ありがとうございます。父さん、母さんも、ごめん。心配掛けて。雅もありがとう」
「こうちゃんっ! この役立たず警察官はわたくしが戒めを与えるわっ! 低級な動物霊を取り憑かせて帰りに車を故障させて、それから――」
「え? 待て、雅、諸田さんは僕を庇ってくれたんだ。戒めとかやめてくれ」
「はぁぁぁ? この女がですってっ?」
 なんかすごく騒がしい子だけど……、光平の幼馴染みなんだって。
 御笠雅ちゃんっていう、高校のすぐ近くの丘の上にある神社の娘さんらしい。
 だから巫女装束なんだね。
 しばらくして、やっと落ち着いた雅ちゃん。
 それから、ちょこんと椅子に腰掛けた雅ちゃんに、諸田さんが今回の経緯をひとつひとつ丁寧に話し始めた。
 ずっと大人しく話に聞き入っていた雅ちゃん。
 ひととおり諸田さんの話が終わると、突然、雅ちゃんはガバッと椅子から立ち上がった。
 立ち上がってもちっちゃい。
「こうちゃんっ! わたくしっ、こうちゃんのボディーガードをするわっ!」
「うわっ、大きな声だすな。頭に響くから」
「とにかく、またいつ下見警部補にやられるか分からないのだからっ!」
「はいはい、ありがとありがと」
「きぃーーーっ、どうしてこうちゃんはいつもそうなのかしらっ! とにかく、あした退院したらすぐボディーガード開始よっ!」
 ふんっ! と鼻を鳴らした雅ちゃん。
 それからふわっと長い黒髪を後ろへ払うと、雅ちゃんはちょっとだけニヤリと笑って「とりあえず今日は帰るわっ!」と背を向けた。
 ぽかんとする諸田さん。
 光平のお父さんとお母さんは慣れているのか、眉をハの字にして笑っている。
「では、ごきげんよう」
 最後にそう言い残して、雅ちゃんはタタタと病室から駆け出て行った。
 なんか、すっごくうるさい子だけど……、でも、光平のこと、とっても大切に思ってくれているみたい。
「光平くん……、彼女、捜査が始まってすぐ、自分から名乗りを挙げて聞き取り調査に協力してくれたの。光平くんはとっても優しい男の子だから疑わないでくれって」
「へぇ、そうですか。雅が……」
「うん。あっ、もうこんな時間? ごめんなさい。無理させて。もう休まなきゃね。元気になったらもっといろいろお話を聞かせてね。お父さま、お母さま、この度は本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げた諸田さん。
 光平のお父さんお母さんと最後にいくつかの言葉を交わしたあと、諸田さんはすごく安心した様子で病室から出て行った。
 光平が無事でよかった。
 でも……、でももう、あたしの声は聞いてもらえない。
 すごく、ものすごく不安。
 それからしばらくして、お父さんとお母さんも帰って光平が病室にひとりになっても、あたしは声を掛けることもできないで、ただただその寂しげな背中をじっと眺めているしかなかった。



「ほほう、雅さんというのか」
「そうよ? あなた、二年生になってからずいぶんこうちゃんと親しくしているようね」
「こうちゃんだと? バーチャル風子が聞いたら卒倒しそうな距離感であるな」
「さっきからあなたの言っていることは意味不明なことばかりね。あまり近寄らないで欲しいものだわ。えっと……、あなた、ハラダと言ったかしら?」
 三人が一緒に歩く、学校からの帰り道。
 まだ休んだほうがいいってお母さんは言っていたけど、授業を受けているほうがいろいろ気が紛れるって言って、光平は今日から通学を再開した。
 見上げると、空はちょっと重たい感じの朱色。
 森の向こうには、あたしの心をそのまま絵に描いたような夕暮れがしょんぼりと沈もうとしていた。
 なんか……、あたしだけ仲間はずれっぽくて悲しい。
「なにおう? 私はハラダではないっ! ハルダであるっ!」
「はぁ……、その返し、もう三回目ね。次に同じことを言ったらその喉元を掻き切るわ。覚悟しなさい?」
「おおう、なんと恐ろしいムスメだ。永岡よ。コヤツが幼馴染みというのは本当か?」
「本当だ。しかもコイツは全国的に名の通った霊能少女だ。あちこちから霊視や除霊の相談にお客さんが来るみたいだし……、気を付けないと冗談じゃなく本当にやられるぞ? まぁ、僕はあんまり信じてないけど」
「なんと! 神《しん》道《とう》のくせに霊媒術も扱うハイブリッド霊能者だというのか? こんなにちっちゃいのに」
 見下ろすハルダ。
 見上げる雅。
「あなたはただ大きいだけね。さて、こうちゃん? とにかく今日はわたくしの神社へ来るのよ? いいかしら」
「分かったよ。雅は言い出したら聞かないからな。ハルダも一緒でいいんだろう?」
「仕方ないわね。ボディーガードの足しにしてあげるわ。ハラダ」
「足しだとぉ? 私はハラダではな……、いえ、なんでもありません」
「ふたりとも、気が合いそうでよかったな」
 昨日、光平の壊れたスマートフォンは修理に出された。
 でも、ちゃんと直るにはずいぶん時間がかかるらしい。
 代わりに青い代替機を貸してもらったけど、何度試してもやっぱりあたしの声は届かないし、自撮りにしてもあたしの顔は見てもらえなかった。
 この雅ちゃんのお家は、高校のすぐ南にある由緒正しい神社。
 小高い丘の上の森の中にあって、そこへ登って行くように南から長い石畳の参道が続いている。
 実はあたしも、初詣なんかで何度もここへ来たことがある。
 夏祭りのときは、この参道にたくさんの夜店が並ぶ。
 とってもキレイで幻想的。
 でも、この神社の夏祭りは他の町のお祭りとはちょっと違う。
 ちゃんとした名前は忘れちゃったけど、みんなは『夏忘れ祭』なんて呼んでるみたい。
 もうずいぶん秋が深まるこの時期に、まるで夏の余韻をこれでぜんぶ忘れようって感じで開催される。
 だから、夏祭りなのに浴衣だけでは肌寒くてやって来られないっていう、ちょっと変わったお祭りなの。
 てくてくと参道を上って行く雅ちゃん。
 その後ろを自転車を押してついて行く光平とハルダ。
 大きな楼門に突き当たってやっと参道が終わると、その先に森が囲む広い境内があって、奥のほうにとっても立派な拝殿がゆったりと構えていた。
「ところで、ハルダ……といったかしら。あなた、寺の息子だそうね? ちゃんと仏道に心を尽くしているのかしら」
「なにおう? 失礼な。いまだ経《きょう》は読まんが、ちゃーんと寺の手伝いはしておるぞ?」
 それを聞いて、自転車のスタンドを立てた光平がちょっと笑いながら雅ちゃんへ振り返った。
「雅、ハルダはちゃんとお寺の手伝いをやってるらしいぞ? ハルダの寺には幼稚園があって、ハルダはいつもその……うっ? んんっ!」
「永岡よ。黙るがよい。それは著しく小生のイメージダウンにつながる」
 ハルダが後ろから光平の口を押さえると、雅ちゃんがふんと鼻を鳴らした。
「あら、その様子だと、さしずめ、その大きな図体でエプロンでもしてキャッキャと園児と戯れているのを『寺の手伝い』などと言っているのでしょうね」
「ぷはっ、すごいな、雅。エプロンをしているというところまで大正解だ」
「あまりにもキモイわ」
 ぐぬぬと口を曲げたハルダ。
 うーん、あたしはとってもエライって思うんだけどなぁ。
「あまり口外するでない。硬派で通しておるのに」
「いいじゃないか、ギャップ萌えで」
「誰がエプロンハルダに萌えるというのだ」
「諸田部長」
「リアルすぎる」
 そう言ってハルダがグッと首をすくませたところで、三人はちょうど境内の真ん中にたどりついた。
「さぁ、こうちゃん! ハルダ! そこの手水舎《ちょうずや》で清まっていらっしゃい? これから結成式をするわ」
「え? 雅、なんだ? 結成式って」
「雅どの、なにを企んでおるのだ?」
「よく考えてごらんなさい? 神社の娘、キリスト教会の息子、寺の愚息……、この三人が一同に会した意味を」
「なぜに小生だけ愚息なのだ」
 たしかに……、そう言われればそうだ。
 三人とも、みんな宗教家の子息で、しかも同級生。
 これって、けっこうな偶然かも。
「こうちゃんの無実は、物理科学だけでは証明できないわっ!」
 バサリと音を立てて、雅ちゃんがサブバッグから取り出した祓《はらえ》串《ぐし》を振り上げた。
 長い黒髪がふわりと風に舞う。
「今日からわたくしたちはっ、『SSS(エスエスエス)』っ!」
 なに?
 えすえすえすって。
 それから、雅ちゃんはさらに高く祓串を上げながら、もう片方の手でポケットから扇子を取り出すと、それをバサリと開いて口の前に当てた。
 ごにょごにょと聞こえる、呪文みたいな言葉。
 なんだかよく分からない。
 でももし、あたしが階段から落ちた原因が、雅ちゃんが言うように科学では分からないなにか不思議な力によるものだったとしたら……。
 ぽかんとしている光平とハルダ。
 なんか大変そうだけど、これはこれでちょっと面白そう。
 あーあ、すぐそこにみんなが居るのにあたしだけ入れないなんて、ちょっと寂しい……。
 夕暮れの境内。
 もう少ししたら、ここで『夏忘れ祭』が行われる。
 あの幻想的な夜店の群れを、あたしは今年も見られるんだろうか。