僕が暮らすこの街は、県庁所在地の政令市から少し南に下ったベッドタウン。
 なだらかな丘陵地にひしめくように一戸建ての住宅が建ち並び、丘の一番上の方は目を見張るほどの大きな高級住宅が厳然と門を構えている。
 その丘陵群の間には巨大な高架の国道がくねるように走っていて、閑静な住宅街と無機質なコンクリート建造物のミスマッチが、なんとも不思議な雰囲気を作り出していた。
 実は僕の家は、その高級住宅街を囲む平凡住宅街の一角にある、『教会』だ。
 父さんはプロテスタント教会の牧師で、毎日あちらこちらに出向いていっては、ありがたい聖書の教えを話して回っている。
 小さいときからこの牧師節をずっと聞かされてきた僕は、驚くなかれ、なんと『完全無神論者』だ。
 神さまや超常現象などは一切信じない。
 とかく超常現象の類《たぐい》などは、なんらかの物理的現象や感覚的誤認によって生じたもので、この世界に科学で証明できないものは絶対に無いと信じている。
 家の横には、緑の屋根の真っ白な教会。
 いや、教会の敷地に家が建っていると言った方がいいか。
 父さんの教会はとっても可愛らしい外観で嫌いじゃないけど、幼少からずっと神さまのお言葉を聞かされ過ぎたせいか、残念ながら僕は牧師の子でありながら神仏を一切信じないという、相当に親不孝な息子になってしまった。
 しかし、学業面や生活面では一度も親不孝をしたことがない。
 学校の成績は一応優秀な部類に入っているし、お金のかかる遊びや夜間帯に及ぶ付き合いなどもしたことがない。
 というか、付き合うような友だちがぜんぜん居ないだけなんだけど。
 そんな僕が警察署へ連れて行かれて、しかも傷害罪の容疑を掛けられたことは、たぶん生まれて今までで一番の由々しき事態だ。
 身柄を請けに警察署へ来てくれた父さん母さんがベンチに座っている姿を見たとき、これは親不孝だと思われても仕方ないと反省した。
 風子が階段から落ちて、僕の後ろに『うしろの風子』が現れた一昨日《おととい》、僕は警察署に連れて行かれて、当たりは柔らかいが中身は実に欺《ぎ》瞞《まん》に満ちた取調べを受けた。



 夕暮れの取調室。
 両側に壁が迫る小さなその部屋は、刑事ドラマなんかで見るのとはちょっと違った。
 パイプ椅子に腰掛けると、僕を迎えに来た女性の私服警察官が机越しのもうひとつの椅子にドサリと陣取った。
 鋭い眼光。
「キミ、桜台さんと仲が悪かったらしいわね」
「え?」
「学校でいろいろキミのことを聞いたわ」
「はぁ」
 確かに風子とはよく揉めた。
 揉めたというよりは、彼女のわがままというか、その放漫ぶりに逐一苦言を呈して、ちゃんとクラス委員長としての仕事を誤り無くできるようにしていただけだ。
 まぁ、風子からすれば気分のいいことではなかっただろうけど。
「なに? その目は。なんで黙っているの? 桜台さん、意識不明なのよっ?」
「意識不明っ?」
『なんですとーっ?』
 思わず声を漏らした僕に続いて、胸のポケットから当の本人の声が割れんばかりに鳴り響く。
『いいい、意識不明ってどういうことよ! いま意識あるし!』
 その声を聞いた諸田さんがさらに眉根を寄せて、ぐっと僕に顔を近づけた。
「ちょっと、その電話切りなさい。この会話を誰かに聞かせてるのね? ほんと、聞いたとおりの子だわ」
 なんだ? 聞いたとおりって。
 誰に聞いたか知らないが、よほど僕はしたたかで狡猾な人間だと思われているらしい。
 まぁ、めったに笑うこともないし、親しく人と談笑することもないからそう思われても当然だ。
 勝手にそう思っていればいい。
「この電話の相手、その意識不明っていう桜台風子なんですけど。代わりますか?」
「は? なにバカなこと言ってるの? あとからそのスマホの中も確認させてもらうわ。とにかく電話を切りなさい」
「はぁ」
 すごい形相の諸田さんから睨みつけられながら、僕はポケットのスマートフォンを取り出して画面のロックを外した。
 自撮りモードカメラの画面が開くと、僕の左肩の後ろでいまにも泣き出しそうな顔をした風子が、僕の肩にしがみついて唇を震わせている。
「なんかよく分かんないけど、意識不明だってさ」
 僕はそう言ってスマートフォンをマナーモードにすると、またポケットに戻して諸田さんのほうへ目を向けた。
 それと同時に、彼女の向こうからずいぶん穏やかな低い声が響いた。
「おー、キミが永岡くんか。突然来てもらって悪かったね。私は少年係長の下《した》見《み》といいます」
 出された警察手帳には『警部補 下《した》見《み》慎《しん》二《じ》』の文字。
 ちょっと恰幅がよくて、柔らかなボタンダウンの綿シャツと茶色のスラックスが独特のベテランさを醸し出している。すごく優しそう。
「さっきちょっとだけ聞いたけど、永岡くんは本当に桜台さんと揉めたりしていないんだね?」
「はい」
「ふうん、そうか。それじゃ、今日のこと、もうちょっと前の段階から詳しく話してくれないかな」
 何度話しても変わらない。
 事の経緯はこうだ。

 六時限目のロングホームルーム。
 少し早いけど、僕は敢えて二か月後にある文化祭のクラス参加をどうするかの話合いをするよう風子に言った。
 九月になって、まだ二学期早々の実力考査が終わったばかりだったけど、このズボラな風子のことだ。早めになにをするかを決めないと、おそらく準備が間に合わない。
『はーい、ちょっとみんなこっち向いてぇ。今日はね、まだちょっと早いんだけど、十月終わりの文化祭のクラス参加をどうするか、少し話し合っとこうと思ってね?』
 教室の教壇に立った風子がそう言うと、みんなが一斉に前列の脇で窓に背中を預けて立っている僕の方を見た。
 みんな、は? みたいな表情。
 どうせお前が言ったんだろって、そんな視線がバンバン飛んでくる。
 僕は風子の横まで行って、ちょっと補足するといった体《てい》で口を開いた。
『まだ早すぎるように感じるかもしれませんが、たぶんこの委員長がリーダーではギリギリまでなにも決まらなくて、決まったら決まったで時間がないのにけっこう難しいことやろうってなるのが目に見えてます』
 僕の言葉を聞いて、みんなが急にザワザワとし始めた。
 でも僕はそんなことお構いなしに続ける。
『みんなの負担を減らすためでもあります。もう開催の日程まで分かっている行事ですから、早め早めになんでも決めておきたいんです』
 すると教室の後ろの方から、数人の女子がそれぞれに口を尖らせながら意見した。
『それは分かるけどさぁ、そんな言い方なくない? 風子がかわいそうじゃん』
『そうよ。あんた副委員長なんだから、ぜんぶ風子に任せたらいいのよ』
『風子ちゃん、もうちょっと怒りなよ。こんな言われ方してんのにー』
 またやってしまったなと思いながらも僕は少々ふて腐れた顔になって、脇のほうに掃けてさっきと同じように腕組みで窓に背中を預けた。
 壇上の風子は眉毛をハの字にして苦笑いしながら、両手を広げてみんなにちょっと待ってといった感じのジェスチャーをしている。
『あのねー? あたし、演劇とかやりたいんだけど。あたし、中学のとき文芸部でさー。いまでもお話書いたりしてるんだよね。よかったらあたしのお話、みんなで劇にして欲しいなーなんて』
 またアホらしいことを言っているなと、僕はちょっと身を乗り出して風子に言葉を投げた。
『まず、クラス参加自体をやるかやらないかの決を採るべきだろ? それにこれはクラス全体の意思決定会議だ。自分の趣味をみんなに押し付けるな』
『あうー、そうだよねー』
 そう言って僕がまた背中を窓に預けると、さっきの女子集団が突然立ち上がった。
『あんた! もうちょっと言い方ないのっ?』
『風子ちゃんがかわいそう!』
『いいじゃん、演劇っ! 風子ちゃんのお話、みんなで劇にすれば!』
 ずいぶんとコイツは人気があるんだななんて思いながら、僕は腹立たしさすら感じずにげんなりと溜息をついてこれに応えた。
『なら、キミらみんな桜台に協力するんだな? 他のヤツの意見は聞かないのか? 予算はどうするんだ? 衣装は? セットは? 現実問題ともちゃんと向き合って決めろよな』
 いまから準備を始めれば、たぶん充分に間に合わせることができると思う。
 でも、衣装やセットを製作する金銭的な問題や、練習する場所や時間の確保の問題なんかは簡単にはクリアできない。
 ある程度いろいろなものを見越して、計画段階から綿密にやらないと思ったとおりの仕上がりにならないのは分かりきっている。
 それに、誰もが知っている既存の台本を使うのならまだしも、風子が自分で書いたオリジナルの作品をやるとなればその作品の質も分からないし、作品のイメージを一《いち》からクラスのみんなに浸透させなければならないから、既存作品よりはるかに時間がかかるはずだ。
 結局、そのホームルームは僕がみんなに罵倒されて荒れまくり、なんの決定もすることができなかった。
 そして、まだ文化祭はずいぶん先のことだから、またゆっくり話せばいいという手打ちになって、険悪な雰囲気で放課後を迎えたんだ。
『永岡ーっ』
 教室の鍵を返しに職員室へ向かっている僕の後ろから、聞きなれた甲高い声が響く。
 振り返ると、風子が肩に掛けたカバンをパタパタと揺らしながら、僕を追い掛けて走ってきていた。部活を早退してきたのか、カバンと一緒に何か楽器ケースらしきものを抱えている。
 外はもうずいぶんと陽が落ちて、校舎の中はどこも不気味な薄暗さに包まれていた。
 僕は二階から一階に下りる階段の途中で立ち止まり、階段の一番上で息を切らしている風子を見上げる。
『なんだ。桜台か。部活、もう終わったのか?』
『永岡、今日はごめん』
『なんで謝るんだよ。結局、僕の物言いが悪いってみんなから罵倒されただけだし』
『でも、その』
『ま、みんな桜台の味方らしいから、みんなの力を借りて好きにやればいいじゃないか。僕はいまから先生に副委員長を辞めさせてくれって言いに行く』
『え? ちょっと待って。永岡はあたしが指名して』
『いや、なにも桜台を恨んだりはしないよ。ただ、指名のときに言ってくれたような補佐役はもう僕には無理だと思ってな。他に適任が居るだろ。悪いけど、いまからそいつを指名しなおしてくれ』
『そ、そんな人居ないよぅ。永岡、あ、あのね? あたし』
『いいか? 桜台。演劇をやろうが映画を作ろうが勝手だけど、リーダーはその結果について全責任を負うんだからな? ちゃんと負えるか? 塾に行っているヤツだっているし、親がそんなのに金なんて出さんって言うヤツだっている』
 すると風子は階段の一番上に立ち尽くしたまま、両手で制服のスカートをきゅーっと握った。
 いつもは見せない、すごく切なそうな顔。
『僕は桜台がその責任のことなんてなんにも考えてないように思えたから、あんなふうに言っただけだ。悪かったな』
 僕はもうこれ以上、この桜台風子に振り回されるのはごめんだ。
 そう言って僕がくるりと背を向けて再び階段を下り始めたとき、突然後ろで衣《きぬ》擦《ず》れの音がした。
『きゃっ!』
 一瞬の出来事だった。
 階段を下りる僕の左側の視界に、まるでスローモーションのように風子の姿が飛び込んだ。
 バランスを崩して、プールに飛び込むように両手を前に突き出して、僕の横を通り過ぎて行く。
 僕は思わず手を伸ばして、その右手首を掴んだ。
 でも、僕の手はしっかりと彼女の手首を掴むことができずに、すぐにその手は離れていく。
 一瞬だけ僕が手首を掴んだせいで、彼女の体は左斜め前に向かって捩《ねじ》れ、それからゆっくり回転して顔がこちらを向いた。
 放心した彼女の見開いた瞳がすっと僕を見る。
 次に静寂を破ったのは、ドスっという鈍い衝撃音。
 回転して背中から後ろに落ちる体勢になった彼女は、激しく階段の途中の段に打ち付けられると、あとは一階の床面まで一気に転げ落ちた。
『桜台!』
 思わず叫ぶ。
 すぐに階段を下りて彼女のそばに駆け寄ると、彼女は焦点の合わない目を開いたまま、うーっと唸っていた。
 僕はすぐにポケットからスマートフォンを取り出すと急いで一一九番通報をして、それから大声で助けを呼んだんだ。

「はぁ……、それが一部始終?」
 下見さんという係長は、大きな溜息をついた。
「はい」
「ふぅん、そうか。誰か他にその状況を見た人は居ないの?」
「二階の廊下は僕からは見えなかったので分かりません。でも少なくとも僕から見える範囲には、僕と桜台以外の姿はありませんでした」
「そうか。じゃあ、最後にキミのDNAを採らせてくれないかな」
「DNA?」
 下見さんは、手元の数枚のメモを重ねてトントンと揃えると、それからスッと顔を上げて僕に満面の笑みを投げた。
「うん。DNA」
「僕はなにもしてませんが?」
「そんなに睨みつけないでくれよ。キミを疑っているわけじゃないんだ。間違いなくキミじゃないってことを確かめるためさ。今日はDNA採ったらもう帰っていいから」
「別に睨んでなんかいません。生まれつきです」
 DNA採取が終わって生活安全課の前の廊下に出ると、その薄暗い中に置かれたベンチには、僕の父さんと母さんが重苦しい表情でうな垂れて座っていた。
「ごめん、心配掛けて」
 父さんと母さんがゆっくりと顔を上げて僕に向けた瞳は、なんとも表現し難いうつろな色。
 父さんは無言で立ち上がると、僕の肩にそっと手を置いた。
 それから母さんも立ち上がり、小さく肩を震わせてゆっくりと息を吐いたあと「帰りましょう」と小さくひと言だけ言った。
 下りた一階のロビーに他の来訪者の姿はなくて、カウンターの内側で数人の制服を着た当直の警察官が、電話を受けたり無線で指令をしたりしてるだけだった。
 彼らから向けられたのは、犯罪者を見るような冷ややかな目。
 自動ドアが少しガタガタと音を立てて開く。
 なんともやりきれない気分だ。
 警察署の正面玄関を出るともう外は真っ暗で、息を吐きながら空を見上げると、漆黒の夜空を背景に青白い冷淡な光を放つ無数の星たちが、なにを語り掛けるでも無く冷たく僕を見下ろしていた。



『その顔、よく覚えておくわ』
 病院で風子のお母さんに投げつけられた言葉。
 僕の父さん母さんが逆の立場になったら、どう言うだろう。あんなふうに感情をむき出しにするだろうか。
 しかし考えてみれば、そうさせたのは『娘が階段から落ちて意識不明になっている』という事実と、『誰かに突き落とされたかもしれない』という疑い。
 そして僕はその疑われている当事者だ。
 あの風子の天真爛漫さを見れば、普段はすごく優しいお母さんなんだろうと思う。
 そのうち『病院の風子』が目を覚ましてすべてを語ってくれれば、事実は即座に明るみの下《もと》となるのだろうが、それまでは僕はずっと親不孝のままだ。
 それにしても謎なのは『うしろの風子』だ。
 ハルダはいまも、この謎を解こうといろいろ調べてくれている。
「うしろの風子……か」
 不意に出たその独り言を飲み込みながら、僕は部屋の灯りを消してベッドにもぐり込んだんだ。