「桜台さんを突き落としたのはっ、御笠さんよっ!」
 なんだって?
 雅が風子を突き落としたっていうのか?
 甲高い金属音は、まだずっと鳴り響いている。
 その響きが降り注ぐ中を、諸田さんが這いながら雅に近づく。
「御笠さんっ! やめなさいっ!」
「邪魔をしないでっ! いまこの術をやめるわけにはいかないのよっ!」
「あなた、桜台さんを完全に葬ってしまいたいんでしょうっ?」
「とにかくわたくしから離れなさいっ!」
「きゃっ!」
 雅が振った腕の先で諸田さんがひっくり返った。
 雅が……、風子を葬りたい?
 どういうことだ?
 雅はいったい、なにをしようとしているんだ。 
 半身を起こした諸田さんが再び這い始めたのを横目に、雅が小さく舌打ちしながら両手で不思議な形を作った。
 声にならない声の呪文。
「さぁ、桜台風子……、そこから出てくるのよ」
 突然、背中が熱を持った。
 ひりひりとした感覚。
 それが波紋のように広がり始めると、金属音を背景に耳元でかすかな囁きが聞こえた。
『こう……へい……』
 風子?
 風子の声がする。
 イヤホンはすぐそこに転がっている。
 耳の奥に染み渡った、イヤホン越しじゃない風子の囁き。
 ふと見ると、地面に描かれた円のすぐ外を、枯葉にまみれながら諸田さんがさらに這い進んでいる。
「光平くん……、よく聞いて……」
 絞り出すような諸田さんの声。
「桜台さんの……制服から検出されていた……DNAのうちのひとつが……、御笠さんのものと……一致したわ……」
 雅は頬を濡らしながら、さらに呪文を続けている。
「間違い……ないわ……。雅さんを撫でる振りをして……私が採取した彼女の髪……、そのDNAが一致したの……」
 ハッとした雅。
 その口元がわなわなと震えた。
「諸田巡査部長! わたくしは逃げも隠れもしないわっ! この術が完成するまで大人しくしていなさいっ!」
「ダメよっ! あなた、光平くんのこと……とっても大事に思ってるんでしょう……? 光平くんを困らせる桜台さんが……許せなかったんでしょう?」
 雅の頬を、さらに大粒の雫が伝う。 
 その瞬間、空から降っていた甲高い金属音が飽和して、周囲の空気が一気に張りつめた。
「光平くん……、御笠さんは……、この除霊術を使って……桜台さんを本当に天国へ送ろうとしているわ……。それは絶対にやめさせないと……」
 最後の力を振り絞った諸田さん。
 その手が、呪文に集中している雅の足を掴む。
「きゃっ、なにをするのっ!」
「お願い……、桜台さんが死んでしまったら……、あなたは一生……、謝れなくなってしまう……、私は……あなたを救いたい……、あなたを救いたいのっ……」
「放しなさいっ!」
「お願いっ! 桜台さんを行かせないでっ!」
「ああっ!」
 倒れた雅。
 枯葉が舞う。
 ドサリと音がして、真っ白な衣が土にまみれた。
 そうか……。
 これも……、僕のせいだ。
 僕がもっと早く、目に見えない大切なものに気が付けていたら、雅はそんなことしなかっただろう。
「なんてことするのっ? いま術をやめたら桜台風子が道を見失ってしまうのよっ?」
 雅の叫び。
 それと同時に、あれほど耳をつんざくほどに響いていた甲高い金属音が、なぜか突然消えた。
 そこは、まったくの無音。
 森の木々も、台座の上のかがり火も、まるで写真のように動かない。
 そのときだ。
 突然、背中が軽くなった。
 さっきまで熱いほどに感じていた背中の熱が一気に冷めて、まるで氷を背負っているかのような冷感が襲う。
 寒い。
 声も出ない。
 見ると、雅が諸田さんに向かってなにか怒鳴っている。
 声は聞こえない。
 それを聞いた諸田さんが、なぜか口を押えて目を泳がせている。
 不安を覚えるほどの静けさ。
 ゆっくりと体を起こす。
 もう、押さえつけられるような重さは感じていない。
 膝立ちになり、空を見上げた。
 そこは、満天の星空。
 森の木々によって切り取られた群青色の夜空が、その真ん中に煌びやかなひと筋の帯を湛えている。
 天の川?
 いや、もっとハッキリしている。
 そうか……。
 あれが……、『魂の通り道』だ。
 そのとき、突然、雅の声が聞こえた。
「桜台風子っ! 見上げてはダメっ! あなたが行くべき道はそっちではないわっ!」 
 雅の叫び。
 我に返った。
 そのとき、背中に感じたのは、とても優しい、とても暖かな感覚。
 風子だ。
 風子が居る。
 雅が僕の後ろへ驚愕の眼差しを投げて、何度も大声で叫んでいる。
「桜台風子っ! わたくしはっ……、わたくしはっ……」
 泣き崩れた雅。
 枯葉だらけになった真っ白な衣を震わせて、雅が地面に這いつくばって泣いている。
「こうちゃんっ……、ごめんなさいっ……、もう、わたくしの力では……、どうすることも……」
 どうしてだろう。
 その雅に、なぜか風子が『大丈夫だよ』と言っている気がした。
 ふと、顔の両側に感じた、見えない手。
 たぶん、風子の手だ。
 僕を抱きしめている。
 その手を掴まえようとそっと手を掛けたけど、やはりそれはすっと空《くう》を切った。 
 ゆっくりと僕から離れ始めた風子の両手。
 風子が浮き上がっている。 
 柔らかな、風子の香り。
 そうか。
 行ってしまうのか。
 悟りにも似た……、なんともいえない諦め。
 僕はどうすることもできなくて、ただただ夜空を見上げた。
 父さんなら、きっとこう言うだろう。
『これは、神さまの思し召しだ』
 そうだな……、神さまが決めたことなら……、仕方がない。
 でも……。
 でも……、やっぱり。
 でも……、やっぱり……僕はイヤだ。
 僕は、もう一度、風子の顔が見たい。
 画面越しなんかじゃなくて、真っ直ぐにその愛らしい顔が見たいんだ。
 そして力いっぱい抱きしめて、この気持ちを真っ直ぐに伝えて、誰よりもその笑顔が大好きだって、大きな声で叫びたいんだ。
 もっとたくさん、風子の笑顔を見ていたい。
 もっとたくさん、風子の声を聞いていたい。
 来年の夏祭り、一緒に行こうって約束したじゃないか。
 こんな僕と、手を繋ぎたいって言ってくれたじゃないか。
 どこにも行って欲しくない。
 どこにも行って欲しくないんだっ!
『……兄さん?』
 心の叫びが飽和したとき、どこかから響いた優しい声。
 ハッと足元を見た。
 転がったイヤホンのすぐそば。
 真っ白な光の点が、なぜかそこで輝いている。
 思わず、再び空へ目をやった。
 一条の、光りの筋。
 その清らかな細い光が、真っ直ぐに僕の足元へと射している。
 愛?
『兄さん? ちゃんと、風子さんの名前を呼んであげて?』
 愛の声だ。
 天をたなびく『魂の通り道』の中から、真っ直ぐに射す光の筋がその声を運んでいる。 
 風子の……、名前を呼べばいいのか?
 ふと見ると、小さな雅が泥だらけの白い衣を引きずりながら、目を大きくして空を見上げていた。
「愛……? 愛なの? あなた、どうしてそこに居るの?」
『雅さん、兄さんの後ろに居た風子さんを、除霊で病院の風子さんのところへ帰そうとしたのね?』
「でも……、私の力では……、ああ……、わたくし、どうしたらいいの……」
『あの「うしろの風子」さんは……生霊じゃないの。あの風子さんは……、神さまがくださった、想いの形』
「想いの……形?」
『そう。「魂の通り道」へ迷い込みそうになった風子さんを神さまが見つけられて、そしてその「想い」に添ってあげようとお思いになられて……、それで風子さんを兄さんのところへ導かれたの』
「ではっ……、わたくしはどうすれば……」  
『たぶん、雅さんの術だけでは元に戻せない……。兄さんの気持ち、みんなの気持ち、そして……雅さんの気持ちがひとつになれば……、きっと神さまが祝福をくださるわ』
「わたくしの気持ち……? わたくしっ……、桜台風子が許せなかった。こうちゃんが困っている姿を……、もうこれ以上見たくなかった」
『でも、風子さんがそんな女の子じゃないって……、目に見えるものだけではすべては分からないって……、雅さんもそう思ったから――』
「わたくしは……、わたくしは……」
『――雅さんもそう思ったから、風子さんを元に戻したいって思ったんでしょう?』
 泣き崩れた雅。
 さらに大粒の雫が、その瞳からとめどなく溢れた。
『雅さんがとっても大切に思ってくれている兄さんは……、風子さんが居なくなってしまったら、また笑顔のない兄さんに戻ってしまうわ……。だから……、ね? 雅さん……』
 愛の問い掛け。
 震える雅の両手が地につき、それからゆっくりとその顔が上がった。
 そして、天を仰いで動いたのは、小さな唇。
 しかし、その声は僕には届かない。
 永遠にも感じられた、一瞬の間。
 雅がさらに泣き崩れると、すぐにその答えは届いた。
 愛の声が響く。
『よかった。神さまはもう、雅さんをお許しになっているわ。そして、風子さんに道を示されている。風子さんが祝福とともに新たな目覚めを迎えられるように』
 次の瞬間、地に射していた光の筋がはじけ飛んだ。
「うわっ!」
 思わずつむった目。
 真っ白な光が世界を包み込む。
 なにも見えない。
 しばらくして、まるで母さんのように僕の両頬に優しく触れたのは、温かな手の感触。
『兄さん? 神さまが道をお示しになったわ。あとは、兄さんが風子さんの名前を呼んであげるだけ』
「愛は……、愛は一緒に戻れないのか?」
『うん。でも、ここへ来られてよかった。兄さんと風子さんが心配だって申し上げたら……、神さまがここへ来ることを許してくださったの』
「そうか……。そうなんだね……。ごめんね、愛。ありがとう」
『兄さん……、でもまだ、風子さんは帰り道を見つけられないでいるみたい。だから……、兄さんがちゃんと呼んであげて?』
「呼ぶって……、どうしたら」
 ふと、周りを見回した。
 すべてが真っ白だ。
 雅も、諸田さんも、ハルダの姿もない。
 森や神社の風景もまったく見えなくて、そこにはただただ純白の平原が広がっていた。
『兄さん、見える?』
 そう言われて、凝らした瞳。
 平原のずっとはるか向こう。
 声も届かないくらい、ずっとずっと向こう。
 そこに、ひとりの女の子の後ろ姿が見えた。
 制服を着ている。
 あれは……、風子だ。
 なにか不安そうに、周りを一生懸命に見回している。
『ねぇ……、兄さん? 風子さんのこと……好き?』
 突然問われた、その問い。
 愛の優しい声が、ゆらりと響き渡った。
 風子のこと、好きかって?
 そんなの、決まってる。
 誰に問われても、どんなことがあっても、その答えは絶対に変わらない。
「うん……。好きだ」
 一点の曇りもない、真っ直ぐな気持ち。
『よかった。最後にその言葉が聞けて。兄さん、それじゃあ、その気持ちをいっぱいに込めて、しっかりと風子さんの名前を呼んであげて。目を閉じて、そう、風子さんのことを一心に想って』
 感じた、愛の柔らかな笑顔。
 ふわりと頬を撫でた、優しい風。
 風子、僕はここだ。
 風子のずっと……後ろ。
 でも、たぶん風子は僕を見つけられない。
 風子はいつだって、前だけを見ているから。
 だからきっと、『魂の通り道』でも前だけを見て、そのまま真っ直ぐに天国へ行ってしまう。
 もう、霞みかけている風子の後ろ姿。
 風子、僕はここだよ?。
 大きく息を吸う。
 届け。
 風子が行ってしまわないように。
 この気持ちが、ちゃんと伝わるように。
 そして僕は……、目を閉じて、一心にその名を呼んだ。
「風子――」
 ハッとした。
 体がふわりとして、温かなゆらぎに包まれる。
 ずっと向こうで、風子が振り返ったような気がした。
 ただただ真っ白な世界。
 最後に届いたのは、愛の、柔らかな、声ではない声。
『兄さん、風子さんのこと、大事にしてあげてね』
 その声は、大聖堂の中のように広がって消えた。
 そして僕は、ついに自分がそこに居るという感覚すらなくなって、いつの間にか遠くへと意識を手放していた。



 遠くで車のクラクションの音がした。
 どれくらいこうしていたんだろう。
 ゆっくりと目を開けると、そこにあったのは僕を囲んで見下ろしている境内の森の木々たち。
 やわらかな土と枯葉の匂いに気が付いて、僕はゆっくりと首をもたげた。
 逆光になった神社の本殿。
 その向こうに、真っ白な作業灯の下を行き来する人たちの姿が見えた。
 もう、祭りの片付けが始まっている。
 振り返ると、さっきまで煌々と光を放っていた台座の上のかがり火が、もうあといくばくかという小さなゆらぎになっていた。
 もしかして……、夢だったのか?
 雅が除霊の儀式をして……、それを諸田さんが止めに入って……。
 なぜか、体のあちこちが痛い。
 頭がぼーっとしている。
 その頭を小さく振ってじわりと立ち上がると、それから僕はゆっくりと周りを見回した。
 地面に描かれていた円と星は、足でならしたようにまだらに消えかかっている。
 その円のすぐ外で倒れている雅。
 白い衣は土だらけだ。
 その手前には、絡み合いつつ枯れ葉に埋もれて気を失っている、諸田さんとハルダ。
 ふと思い出して空を見上げたが、あの幻想的な輝きを湛えた光の帯はもう見えなくなっていた。
 あれは、本当に『魂の通り道』だったんだろうか。
 そうして美しい星たちが瞬く夜空にみとれていると、突然、視界の端でなにかが光った。
 草むらの中に、ぼんやりと浮かび上がったその光。
 僕はその柔らかな光に引き寄せられて、ゆっくりとそれに近づいた。
 これは……、スマートフォンだ。
 僕とお揃いの、ずっと『うしろの風子』の笑顔を映し出してくれていた、風子のスマートフォン。
 土だらけになって、ひどく汚れている。
 ハッとした。
 僕はすぐにそのスマートフォンを拾い上げて、画面に指を走らせた。
 起動したカメラが、自撮りモードで僕の後ろを映し出す。
 思わず声が出る。
「風子?」
 返事はない。
 角度を変えても、向いている方向を変えても、そこに映し出されているのは、ただただ暗い漆黒の背景。
 居ない。
 どこにも、『うしろの風子』が居ない。
 どういうことだろう。
 もしかして、風子はもう『魂の通り道』へと行ってしまったんだろうか。
 そうだ。
 『うしろの風子』が居なくなってしまったのなら、『病院の風子』はどうなったんだ。
 愛は?
 愛も、もう行ってしまったのか?
 すぐに病院へ行かなくちゃ。
 そう突然に我に返って、僕は諸田さんとハルダのところへ戻った。
 ふたりの体を揺する。
「すみませんっ! 諸田さんっ、ハルダっ、起きてっ!」
「え? あ? 私どうして……。うわっ、ハルダくんっ、なに抱きついてるのよっ!」
「ううう、どうなったのだ……。頭が痛い。すごくいい夢を見ておったのに」
「ちょっとっ、離れなさいっ!」
「おお、諸田女史ではありませんか。ハルダは温かい肉まんをふたつ、いままさに食べようと」
 よかった。
 ふたりは無事だ。
 雅は?
 すぐに目をやる。
 すると、僕がふたりを起こす声で目が覚めたのか、雅はちょうど体を起こしているところだった。
「雅? 大丈夫か?」
 ハッと顔を上げた雅。
 僕の問いに応えようと一度は口を開きかけたが、雅はすぐにその口を一文字に結んだ。
 わなわなと震える唇。
 僕は努めて柔和な声を投げた。
「雅、僕のこと、大事に思ってくれていたんだな。ありがとう。話はあとで聞くよ。とりあえず、僕はすぐ病院へ行く」
「こうちゃん……、わたくし……、わたくし……」
「一緒に、病院へ行くか? 風子に謝りたいだろ?」
 小さな雅。
 その瞳からポロポロと雫が落ちると、雅は声を出さずにうんうんと何度も頷いて、それから僕の袖をぎゅっと握った。
 すぐに諸田さんへと瞳を向ける。
「諸田さん、車を出してもらえますか? 『うしろの風子』を探します」



 軽薄な緑色の壁。
 がらんとした救急外来。
 ちょうど救急車が入ってドタバタしている処置室横の時間外通用口が、僕らをすんなりと受け入れてくれた。
 エレベーターに乗って、風子の病室へと急ぐ。
 ここへ来るのは三度目だ。
 一度目は風子のお母さんに辛い言葉を投げられ、二度目はお父さんが風子の本当の気持ちを僕に教えてくれた。
 三度目のいま、静まり返った病棟の奥で、その白い灯りは緑の壁に冷たい光の筋を落としていた。
 扉の横には、『桜台風子』のネームプレート。
 光が漏れる隙間からそっと中を覗くと、『病院の風子』が横たわるベッドの前に、ふたつの背中が見えた。
 風子のお父さんと……、お母さんだ。
 僕の後ろには諸田さんとハルダ、そのさらに後ろでは雅がじっと肩をすくめている。
「すみません……」
 心を決めて、僕はそう言いながら扉をノックした。
 ハッとして振り向きながら立ち上がったのは、風子のお父さん。
 お母さんはうな垂れたまま肩をいからせている。
「ああ……、永岡くん。あ、みなさんも。キミに何度か電話したんだが、繋がらなくて」
「すみません。ずっと取り込んでて……。あの……、風子は……」
「ここのところなにもなく安定していたのに、なぜか今日の夜になって突然容態が悪化してね。それをキミに知らせようと電話したんだ」
 背後で雅がハッと顔を両手で覆ったのが分かった。
 お父さんは笑みとも落胆ともとれない、複雑な眼差し。
「呼吸がとても弱くなっていてね。もしかすると、明日の朝は迎えられないかもしれないと……、ドクターが――」
 その言葉が終わらないうちに、突然、お父さんの後ろで怒号がした。
「あなたたち……、なにしに来たのっ? なにっ? その泥だらけの格好はっ!」
 ハッとしたお父さん。
 その手がやや強めに、立ち上がったお母さんの肩にかかった。
「母さん、落ち着きなさい」
「永岡光平くん……、私はあなたのことを許さないわ。風子には会わせない。帰ってっ!」
 ギリギリと音を立てたお母さんの奥歯。
 溜息をついたお父さんが、お母さんをさらに諫める。
「ちょっと待ちなさい。せっかく来てくれたのに、なんてことを言うんだい? すまないね。風子がこうなってから、妻はずっとこんなふうになってしまって」
 大粒の雫が、お母さんの頬を伝っている。
 しかし……、大丈夫だ。
 風子は、まだ生きている。
「もう、これが最後かもしれない。永岡くん、入って風子の顔を見てやってくれないか? みなさんも、どうぞ」
 ドサリと音を立てて、お母さんが病室の角の椅子に腰を下ろした。
 深々と頭を下げて入る病室。
 僕に続いて、諸田さん、ハルダも足を踏み入れた。
 次の瞬間、急に雅が部屋へ駆け入る。
 思わず立ち止まると、雅は僕を追い越してベッドの前に崩れ落ちて、両手をついておでこを床につけた。
 雅の丸まった背中。
 小さな肩が少し揺れたかと思うと、詰まりそうな嗚咽がその丸まった背中をさらに震わせた。
 掛ける言葉がない。
 僕はその雅の横におもむろに立って、それからそっと『病院の風子』の顔を覗き込んだ。
 かわいい寝顔。
 まるでなにか楽しい夢でも見ているかのように、柔らかな笑みを湛えている。
 ここへ戻って来られなかったってことは、きっと、僕の想いが足りなかったんだろう。
 名前を呼んだ僕の声が、風子のところまで届かなかったのかもしれない。
 僕は大きく息を吸うと、すぼめた肩から真っ直ぐに腕を下ろして、ただただ風子の愛らしい寝顔を見つめた。
 握った拳が無意識に震える。
 結局、僕はなんにも風子のためにしてあげられなかった。
 いま、この『病院の風子』の命が消えようとしているということは、辛うじて繋がっている魂と肉体との『縁』が、いままさに切れようとしているってことだ。
 その『縁』が完全に切れてしまえば、風子はそのまま神さまのところへ召されるだろう。
 もしかしたら風子は、『魂の通り道』で立ち止まって最後の『縁』の糸を繋ぎ止めつつ、僕らが会いに来るのを待っていたのかもしれない。
 風子のかわいい寝顔。
 そっと頬に手を添える。
「風子……、ごめん。助けてあげられなかった……」
 無意識の、その言葉。
 そして、どうしようもない無力感が両肩を下げさせると、風子の頬に添えた僕の手の甲に小さな雫が音もなく落ちた。
 そのときだ。
 ハッと顔を上げた雅。
 そして大きく開いた瞳でじっと周りを見回すと、雅はそれからもう一度僕へと目を向けた。
「雅……、どうした?」
「こうちゃん……、居る……、居るわ」
「居る? なにが……、えっ? ほんとかっ?」
 どこだ?
 どこに居る?
 振り返り、足元を見て、天井を見上げて、それから再び風子の寝顔へ目をやった。
「風子?」
 思わず囁いた、彼女の名前。
 そのとき、ほんの少し動いた、酸素マスクの中の愛らしい唇。
 間違いない。
 風子が居る。
 すぐそこ、『病院の風子』の後ろに、『うしろの風子』が居る。
「雅、僕にも分かったよ」
「こうちゃん……、お願い」
「うん」
 思わず笑みが出た。
 じわりと振り返り、諸田さんとハルダにその笑みを送る。
 一瞬ポカンとしたふたり。
 それからハッとして、目を見合わせたふたりは満面の笑みになった。
 それを見てゆっくりと立ち上がった雅も、涙を拭きながら下がってふたりに並んだ。
 お父さんは目を丸くしている。
「どう……したんだね?」
「そろそろ……、風子を起こしていいですか?」
「え? 起こす?」
 そうお父さんに言って、僕は小さく咳払いをしながら風子の寝顔を覗き込んだ。
 そっとおでこに手を乗せて、前髪を後ろへ流す。
 「風子? いつまで寝てるんだ?」
 つんつんとおでこをつつきながら作った、すこし意地悪な顔。
 すぐに背後でガタンと椅子が鳴る。
「あなたっ! いったいどういうつもりっ?」
 立ち上がったお母さん。
「ちょっと……待ちなさい」
 そう言ってお母さんを座らせたお父さんに、僕は再び真っ直ぐな視線を向けた。
 ハッとしたお父さん。
 そして僕は少しだけお父さんに微笑んで、さらにぐいっと風子の顔を覗き込んだ。
「おい、風子。来年の夏祭り、一緒に行くんだろ?」
 すーっと響いた、酸素マスクの中の息の音。
「かわいい浴衣姿、見せてくれるんだよな?」
 ピクリと動いた、瞼と眉。
 僕はそっと風子の手を取って、ほんの少し力を込めた。
 目をつむる。
 思い描いたのは、風子のとびっきりの笑顔。
 主《しゅ》よ、心から、心から、お願いいたします。
 もう一度、風子に会わせてください。
 もう一度、僕に風子を大切にできる機会をお与えください。
 もう見えるものだけにとらわれません。
 罪深き僕に、どうか祝福をお与えください。
 心からの懺悔。
 神さまに届いていることを祈って、それから僕はそっと目を開けた。
 そして誰よりも風子を想って、誰よりも愛しさを込めて、閉じられた風子の瞳に向かってその言葉を囁いたんだ。
「そうか、分かった。そんなに目を覚まさないんなら、もう手なんて繋いでやらないからな?」
 その瞬間。
 ふわりと浮き上がった、風子の胸。
 そして、ゆっくりと唇が動き、それからうっすらと風子の瞼が開いた。
「なん……ですとぉ……」
 聞こえた、風子の声。
 弱弱しいけど、間違いなくスマートフォンを通していない、風子の愛らしい声だ。
 お父さんが、横から覗き込んで声を上げた。
「奇跡だ……。母さんっ、風子が目を覚ましたっ!」
「ええっ?」
 見ると、さっきはドンと立ち上がったお母さんが、今度は立ち上がれずにあたふたしている。
 その横には、諸田さんとハルダの泣きべそ笑顔。
 手前では、雅が腰を抜かして床に座り込んでいた。
 ぎゅっと握り返された手。
 じわりと瞳を戻して、もう一度、そっと風子を覗き込んだ。
「おはよう? 風子」
「こう……へい、あたし、……嬉しい」
「喋らなくていいよ? 元気になったら、またいっぱい声を聞かせて」
 うんうんと頷く風子。
 そして僕がもっと顔を寄せると、風子の両手がゆっくりと僕の顔を抱き寄せた。
「嬉しい、嬉しいよぉ。光平の顔、ちゃんと……見れた」
「うん。僕も嬉しい。風子の顔、ちゃんと見れた」
「もう、光平の後ろに居るのはイヤ。顔が見られないのは絶対にイヤ」
 すっと風子に抱き寄せられて、その温かい頬が僕の頬に触れた。
「光平、……大好き」
「うん。僕も」
 どれくらいそうしていただろう。
 さっきまで軽薄に思えていた薄緑色の壁が、ずいぶん温かみのある色に見えた。
 もう、目に見えるものだけしか信じないなんて言わない。
 そう思いながら僕は、この頬に伝わる風子の温もりに再び会えたことを、神さまに一生ぶん感謝したんだ。



「お父さんにね? 一昨日、光平があたしを起こすときに言った『手を繋いでやらない』ってどういう意味? って聞かれたー」
「え? なんて答えたんだ?」
「ご想像にお任せしますって」
「なんだよそれ。それって一番まずい答え方じゃないか?」
「えへへー」
 今日は月曜日。
 ベッドの上の風子は、もういますぐにでも退院していいんじゃないかって思うほどの元気さ。
 風子の目覚めから一夜明けた昨日、日曜だというのに僕は早朝からまたこの病室へとやって来て、それから夜になるまでずっと風子のそばに居た。
 吉報を聞いて、次々と駆け付けたクラスメイトたち。
 『うわぁ、あんたたち、本当に付き合ってたんだね』
 いったい何人からそう言われただろうか。
 話によれば、お医者さまがすごくビックリしていたそうだ。
 結局、医学的には意識が戻らなかった原因は分からないまま。
 お医者さまいわく、『みなさんの想いが神さまに通じたんでしょう』とのこと。
 いや、実はそれが正解なんですが。
「でもね? お父さん、笑ってたよ? 仲がいいんだねーって」
「なんか気まずいなー。あ、そうだ。風子にすごいお知らせがあるんだ。聞いて驚け」
「おおーう、なんでも来いっ」
「なんと……、愛も復活した」
「なっ、なんですとー?」
 昨日の夜、ずっと昏睡状態だった愛が、突然、目を覚ましたそうだ。
 水が欲しいってナースコールをして、看護師さんを驚かせたって。
 そして、今朝の検査ではさらにお医者さまもビックリする事態に。
『内臓の機能がほぼ正常になっています。理由は……、分かりません』
 どうやら、神さまは風子だけじゃなくて、愛にも祝福をくれたらしい。
「やったっ! あたしのお願い、神さまに通じたんだっ!」
「風子のお願い?」
「そうよー? 愛ちゃんの復活はあたしに感謝してねー」
「え? なんでさ」
「だってね? あたし、道を探しながらずっと神さまにお願いしてたんだー。神さまのとこへはあたしが行くから、愛ちゃんはみんなのとこへ帰してあげてって」
 それはいかにも風子らしい。
 もしかしたら、風子のあまりにも強い想いに神さまが根負けして、心変わりしてくれたのかもしれないな。
「明日、退院したあとお家に来てくれるよね? 光平」
「うーん、でも……、風子のお母さんがなぁ……」
「お母さん、光平に謝りたいって言ってたよ? ちゃんと光平のこと理解してなかったって」
 嬉しそうに笑う風子。
 その笑顔を見て、ちゃんと顔を見ることができて、ちゃんと声を聞くことができるってこんなにも幸せなことだったのかって、改めて思った。
 外はもう秋。
 風子のあどけない笑顔が、この寂しさいっぱいの秋を彩り豊かにして、僕の心をとっても温かくしてくれている。
 さて、風子は明日、もう退院できるらしい。
 学校はもう少ししてからだろうけど、早く風子と教室で笑い合いたいなーなんて、僕はちょっと僕らしくないことを考えながら、病室の窓から見える秋空をゆったりと眺めていた。