「いったいどこから入って来たんだ。ここは僕ん家《ち》だ。僕の部屋」
『ええっ? ここ永《なが》岡《おか》の部屋なの? いやん、ちょっと待ってっ。あたしにだって心の準備がっ』

 異変を感じたのは、家に帰り着いて部屋のドアを開けたときだった。
 艶のあるフローリングには、傾き始めた陽光が描くレースカーテンの美しい波模様。
 いつもの、僕の部屋。
 その光景は、なんら普段と変わらない。
 でも、そのなんの変哲もない日常の風景に感じた、ほんの少しの違和感。
 僕は、もう一度部屋を見回して、そこが間違いなくいつもと同じ僕の部屋だということを確かめたあと、それからゆっくりと足を踏み入れた。
 背後で小さく鳴った、パタンとドアが閉まる音。
 やや蒸し暑い。
 ふわりとカバンをベッドの上に放り投げて、制服シャツの胸元を開く。
 今日はいろいろあった。
 きっとさっきの違和感はその疲れのせいだなとひとりごちながら、僕はゆっくりと椅子に体を沈めて、ベッドの上へと足を投げ出した。
 右手には、ポケットから取り出したスマートフォン。
 じわりとその画面を覗き込んで、気分転換になにか曲でも聴こうとそこに指を走らせる。
 ふと見ると、窓の外では朱色の余韻を空いっぱいに残す夕日が、秋の訪れを感じさせる抜けるような青空をゆっくりと染め始めていた。
 普段なら、一番落ち着ける瞬間。
 それなのに今日の僕は、やはりなぜかなんとも落ち着かずにいる。
 なんだろう。
 なんとなく目の奥がチクチクと痛んで、不快極まりないモヤモヤが胸を掻き乱す。
 ふと、なにか目に入っているのかと思って、僕はスマートフォンを顔の前にかざすと、カメラを自撮りモードに切り替えて画面に自分の顔を映した。
 白いスマートフォンの画面いっぱいに映った僕の左目。
 相変わらずの、悪い目つき。
 この目は、日ごろの無表情さや物言いと相まって、著しく僕の印象を悪くしている。
 左手の人差し指で左目の瞼《まぶた》を上げながら、さらに画面を近づけて覗き込んだ。
 ゴミは入っていない。
 ではこのチクチク感はなんなんだろうと思いながら、ゆっくりとスマートフォンの角度を変えた瞬間――。
 不意に背中にぞわりと走った悪寒。
 なにかが居る。
 画面の端、顔の輪郭の向こうに黒い影がうごめいている。
 ハッとして、思わず目をつむった。
 なんだ? 
 いまこの部屋には僕しか居ないはずだ。
 夕暮れに残る夏の余韻のせいで、まだまだ室温は高い。しかし、その暑さによるものではないと分かる汗が、あっという間にじわりと僕の額を覆った。
 目を開けようか、それとも目をつむったまま部屋から出ようか、そう迷っているうちにいよいよ強くなった背後の気配。
 それから十数秒もしないうちに、鉛の塊のような重みが僕の左肩にのしかかった。
「ううっ!」
『あれっ? ここどこ? あ、誰か居る!』
 突然聞こえた、女の子の声。
 ぞわぞわと足元から這い上る悪寒に畏怖しつつ、僕は部屋から出ようとその重い肩にぎゅっと力を入れてゆっくりと立ち上がった。
 じわりと周りを見回す。
 やはり、ここはいつもの部屋だ。
 僕以外に誰も居ない。
『あーっ! その後ろ姿は永岡ねっ? こらぁ、永《なが》岡《おか》光《こう》平《へい》っ!』
 また聞こえた。
 謎の声が僕の名前を呼んでいる。
『ほら、永岡! ここだよー』
 はっ?
 この声は、もしかして……。
『もう、ここ! 後ろなの! 後ろっ!』
 後ろ? 
 誰も居ないじゃないか。
 そのとき僕は、その声が僕の後ろからではなくて、もっとずっと下のほうから聞こえていることに気づいた。
 右手に握られた、僕のスマートフォン。
 勝手にスピーカーモードになって女の子の声を漏らしている。
 電話はかかってきていない。
 自動応答するような設定もしていない。
 ペチリとおでこを一回叩いて、それから大きく深呼吸をする。
 この不思議な現象をどうにかして理解しようと、僕は自慢の理数脳をぐるぐるとフル回転させつつ、その声が聞こえるスマートフォンを顔の前に持ってきて覗き込んだ。
「ひっ!」
 すると、その自撮りモードのカメラ画面に突然映り込んだのはっ。
『よっ!』
 後ろから僕の左肩に両手を掛けて、その手にあごを乗せてニコニコ笑っている女の子。
 柔らかなフェアリーボブ。
 ぼんやりしててよく見えないが、肩口は制服のブラウスに見える。
「え? 桜《さくら》台《だい》?」
『はいっ。桜《さくら》台《だい》風《ふう》子《こ》ですっ。というか、ねぇ永岡、ここどこ?』
「いったいどこから入って来たんだ。ここは僕ん家《ち》だ。僕の部屋」
『ええっ? ここ永岡の部屋なの? いやん、ちょっと待ってっ。あたしにだって心の準備がっ』
「こら、勝手に人の家にあがり込んでおいてなに訳のわからんこと言ってんだ。人の迷惑をもう少し考え――」
 そう言いながら、僕はさっと左後ろを振り返った。
「――え?」
 誰も居ない。
 さらに周りを見回すが、やはりこの部屋には僕以外誰も居ない。
 再びゾゾッと冷たいものが背中を流れる。
『うわっ。永岡が振り返ると、風景がわぁーって動いてなにも見えなくなっちゃう。どういうこと?』
「なんだ? どういうことだ? だいたい、桜台は病院へ運ばれたはずじゃ……」
『病院? あたしが?』
 スマートフォンの画面に視線を戻すと、彼女がその整った顔の眉根をちょっとだけ寄せて、僕の肩から伸び上がっていた。
「お……、お前、もしかして、死んだのか? これって、幽……」
『あー。そういえば階段から落ちる瞬間は、なんとなく記憶にあるような』
「と……、とにかく、ここは立入禁止だ。帰ってくれ」
『ええ? 帰れって言われても、えっと、その……、帰り方がよく分からないかも』
「なんだって? 自分で来たんだから帰り方も分かるはずだろ」
『えっとー』
 桜台の間抜けな返事。
 そのなんとも要領を得ずに宙を仰いでいる顔は、どう見ても幽霊って感じじゃない。
 そう思った途端、なぜか急に肩の力が抜けた。
 そうか。
 これは夢だな。
 今日はいろいろあって疲れたから、僕は帰宅早々ベッドに倒れ込んで寝てしまったんだ。
 しかしよりによって桜台が夢に出て来るなんて。
 まぁ、桜台風子はいつもこんな調子だ。
 コイツとは高校一年のとき同じクラスで初めて会って、なんの因果か二年生も同じクラスになってしまった。
 第一印象は最悪。
 無神経に誰とでも節操なくフランクに話す、たぶん僕が一番嫌いなタイプの女だ。
 だいたい『風子』って名前はなんだ。
 苗字とあわせて『桜台風子』って繋がると、なんか途中の『台風』が目立って見えてきて『台風女』なんて別名で呼んでみたくなる。まぁ、実際に台風みたいなヤツなんだが。
 それに、あの笑顔も気に入らない。
 いつも誰にでもヘラヘラと笑うヤツで、その八方美人ぶりのせいか、けっこう各方面で人気があるのもいけ好かない。
 実際、四月の新学期早々、コイツはすぐにクラス委員長に選ばれたし。
 まぁ、お調子者がその人気で委員長になるのはよくある話。
 僕には無縁だ。
 無縁だったはずなんだ。
 ところがそのとき、さて副委員長は誰がなるのかなと完全に他人事と決め込んで窓の外を眺めていた僕に、あろうことか桜台はシタリ顔をして痛烈なひと言を投げ掛けたんだ。
『あたしの補佐、副委員長はっ、永岡光平くんを指名っ!』
 油断していた僕は頬杖からガクリとあごを落とし、それから即立ち上がって猛抗議をしたんだけど、桜台はまったく取りつく島なし。
『だって、いつもきちんきちんと細かいから、きっちり補佐してくれそうなんだもん。あたしズボラだし。あはは』
 そんな身勝手な理由で、僕は二年生が終わるまでずっとコイツのいい加減さに振り回される運命になってしまったんだ。
 うう、イヤなことを思い出してしまった。
 ま、そんないい加減な桜台にずっと腹を立ててきた僕だから、いまそのストレスのせいでこんな夢を見ているんだろう。
 今日はいろいろあって疲れたからな。
 桜台が階段から落ちて病院へ運ばれたり、そのせいで職員室へ呼ばれたり。
『あのー、永岡? あ、あたしさぁ』
 あら、まだ夢が続いている。
 またスマートフォンを覗き込むと、桜台にしては珍しく力無さげに僕の肩に手を掛けて、ちょっと上目遣いでなにかを懇願するような瞳をこちらへ向けていた。
「この夢はもうおしまい。聞かないよ」
『あのう』
 ピンポーン。
 彼女がそう言い掛けたとき不意に鳴ったのは、玄関チャイムの無味な電子音。
『あ、お客さん』
「なんか、ずいぶん現実味のある夢だな」
 あまりにも夢らしくない夢に当惑しつつ、僕は制服シャツの胸のポケットにスマートフォンを無造作に押し込んで、すぐに階段を下りてリビングに向かった。
 キッチンカウンター横の壁に取り付けられた、モニター付きインターフォンの受話器を手に取る。
「はい。どちら様でしょうか」
 玄関先を映した小さなモニター画面には、グレーのパンツスーツ姿の若い女性と、紺色背広姿の若い男性が映っていた。
 どちらも初めて見る顔だ。
 すると女性の方がしかめ面《つら》をずいっとカメラに近づけて、不機嫌そうにマイクに話し掛けた。
『二日《ふつか》市《いち》警察署生活安全課少年係の諸《もろ》田《た》と言います。キミ、永岡光平くんっ?』
 警察? なんで警察が来るんだ。
「えっと……、光平は僕ですけど」
『ああ、居てくれてよかった。キミ、今日、学校で桜台風子さんが階段から落ちたとき一緒に居たんだよね? ちょと詳しい話が聞きたいんだけど』
「はぁ」
『ちょっと、出て来てくれない?』
 どういうことだろう。
 確かにあのとき、僕は桜台と話していた。
 でも僕はなにもしていない。
 突然、勝手に桜台が階段を踏み外して転げ落ちて来たんだ。
『ちょっと、聞こえてる? 開けてって言ってるでしょ?』
 もしかして、これは夢じゃないのか?
 玄関扉の向こうでは少年係の美人女性警察官が、言い方は優しいがいかにも不機嫌だといった声をけっこうな勢いであげている。
 この警察官はたぶん、僕が桜台を突き落としたとでも思っているんだろう。
『開けてくれるかしら!』
 僕はしばらくの間、リビングのインターフォンの前に立ち尽くして、あれこれ思案を巡らせていた。
 僕は本当になにもしていない。
 たとえ夢の中だとしても、こんな疑われ方をするのは心外極まりない。
 でもまぁ、そのうち目が覚めるだろうなんて思って、僕はそれからゆっくりと玄関の扉を開けて表へと出たんだ。