次の日、黒田君は色覚異常があり赤色が見づらいことを公表した。私の絵を見て、つまらない意地を張るのは辞めようと思ったらしい。哀れみも優しさも全部受け入れる。その勇気を持つことができたと言っていた。
私の絵はコンクールで入賞した。優秀賞とかそういう特別な名前はつかない、そこそこ優れていることを示すだけの賞。
それでも今回は嬉しかった。今までの本能や衝動に任せて好き勝手に描いていた絵と違って、どうやったらよりよく見えるのか、この線で、この色の濃さで、私が表現したい風景は表すことができるのか、結構考えて描いた作品だったのもあるし、何より黒田君に向けて描いた作品が他の人にも評価されたということが嬉しかった。
三月の半ば、卒業式を明日に控えたこの日も一年生の私にとっては普通の日であり、通常通りに部活を終えて美術室の鍵を返しに職員室を訪れた。
部活が終わる午後五時半はすでに先生たちは退勤時刻となっているらしく、顧問の侑里ちゃん先生は残っていたりいなかったりする。そういう時は教頭先生か用務員さんに鍵を渡すことになっているのだが、今日はまだ残っているようだ。職員室の自分の席でしっかりとした装丁の厚めの本のようなものを見ている。
「先生、部活終わったので鍵を返しに来ました」
「あ、一色さん、ご苦労様。ありがとね」
「それって、卒業アルバムですか?」
「うん。今の三年生が二年生の時に授業を持ってたから、見ておきたくて。三年生の先生に借りたの」
「へぇ」
懐かしそうに私が知らない人たちの写真を眺める侑里ちゃん先生の脇に立って、私もアルバムを覗いた。
「知らない人ばっかりだから面白くないですね」
「まあそうだよねぇ。でも三年生になってこれを受け取って、いつか見返した時には懐かしくて泣きそうになるもんだよ」
「そういうものかな。でも私友達少ないですし」
「少ないなら少ないでその人が写っている写真が貴重な宝物になるんだよ。それに最近はお友達増えたでしょう?」
「まあ、少しは。自分では変わったつもりはないんですけど、黒田君としゃべってたら『一色さんって何か話しやすくなったよね』って言われるようになって、自然に」
「よかったねぇ」
「……はい。ふふ」
「あ、そうだ。さっき知らない人ばっかりって言ったけどそんなことないんだよぉ。ほらここ見て」
侑里ちゃん先生はアルバムの中ほどにあるページを開き、一枚の写真を指差した。それは部活動紹介のページで、部員が一年生の私一人しかいない美術部もしっかりと載っている。
「そういえば文化祭の時に撮ってましたね」
私の花火の絵が描かれたキャンバスを真ん中にして、両端で私と顧問の侑里ちゃん先生が立っているツーショット写真。笑顔でピースをしている写真も撮ったはずだが、真顔で棒立ちの方の写真が採用されたようだ。そもそも全部の部活が真顔だった。
「来年、というかもう一ヶ月後か。部員、増えるといいねぇ」
「はい」
「期待してるよ、部長さん」
「任せてください。五十人くらいの大所帯にして先生の仕事を増やしてあげますから」
「えー? ほどほどでお願いしますぅ。あと二人くらいでいいよぉ」
「冗談ですよ」
子供っぽく懇願してくる侑里ちゃん先生をあしらいながら、私は美術部の写真の隣の写真に目をやった。
顧問である年配のおばあちゃん先生と、女子五人、男子一人の書道部の写真だ。女子の制服はセーラー服のリボンの色で学年が判別できるようになっていて、三年生が四人と一年生が一人。やっぱりみんな真顔なので黒田君も安心。もしかして黒田君の笑顔がぎこちなくて書道部の写真を真顔のものを採用せざるをえなかったから、全部の部活が真顔写真になったのではないか。
「ふふ」
「ん? どうしたの? 何か面白い写真でもあったぁ?」
黒田君のせいで私たちのピース写真がなしになったと考えたら急に面白くなってしまって笑いがこみあげてしまった。
「いえ、もっと色んな絵を描きたいなって思って。遠くにいる人にも見てもらえるようにコンクールで賞も取りたいし、好きなものを好きなようにも描きたいです」
「どっちもできるよ、一色さんなら」
侑里ちゃん先生の言葉には笑顔で答え、私は職員室を出た。
名残惜しさからまだ学校に残っている三年生の話し声が昇降口へと続く廊下まで聞こえてくる。いつもは用がない者は早く帰れと言う先生たちも、この日ばかりは何も言わない。それどころか生徒と一緒になって泣きそうになりながら話をしている先生もいる。目の前に陣取って絵に描きたいと思ったがさすがに悪趣味なので目に焼き付けて記憶を頼りに描くとしよう。
自分のことではないのに、少しだけ寂しさを感じながら昇降口に差し掛かると、自分のクラスの下駄箱のところに黒くて大きな背中を見つけた。
「書道部も今までやってたの?」
「うん。ていうか俺一人だから部って言っていいのか疑問だけど」
大きな背中は声だけで私であることを判断して、私に背を向けたまま、外靴を履きながら答えた。少し前まではもう少し紳士的だったのに、随分と私の扱いが雑になったものだ。
靴を履き終えたでかい図体を押しのけて私も自分の下駄箱から外靴を取り、上靴と履き替えた。「おい」という抗議の声が聞こえた気がしたが、無視して校門へ向かって歩き出す。大きな体が追いかけてくる。その気配に話しかけた。
「大丈夫だよ。美術部だって一年間私一人だったし」
「そのことなんだけど、聞いた?」
「何? 特に何も聞いてないけど」
「四月に書道部と美術部の部員がどちらか一方でも三人に満たなかったら統合されて芸術部になるって話」
「は? 何それ、誰が言ってたの?」
「書道部の顧問の白石先生。まあ、そうなったとしても活動内容は変わらないみたいだし、その方が合理的ではあるよね」
「侑里ちゃん先生は……そういえば二人くらいは部員欲しいって言ってた。やだよー、黒田君の部下になんかなりたくなーい」
「部下ってなんだよ」
「だって部が統合されたら部長は一人でしょ? そしたら侑里ちゃん先生も白石先生も絶対に黒田君の方を部長に指名すると思う。黒田君の方がしっかりしてるもん」
「まあ、それは確かにそうだろうね」
「ひどい! そこは否定するところでしょ?」
「俺はそんな気の利いたことを言える人間じゃないよ」
「それもそうだった」
「いや、否定してよ」
校門を出ると私たちは全く別の方向に帰ることになる。だからこうして帰るタイミングが同じになっても、一緒に歩くのは昇降口から校門までの短い間だけだ。いつもくだらない話をして、たまに勉強のことや進路のことなどの真面目な話をする。ほんの一分かそこらの時間だけ、私は世界中の誰よりも黒田君と仲良しになる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日で綺麗な先輩たちとお別れになるからって泣き過ぎちゃだめだよ?」
「なんだそれ。というか書道部の先輩たちのこと知ってるの?」
「うん。さっき侑里ちゃん先生と卒業アルバムの写真を見たんだ。女の子、五人ともすごく可愛かった」
「……伝えておくよ。会ったこともない人がそんなこと言ってたって聞いたら喜ぶと思う」
「うん。あ、女子が言ってたって伝えた方がいいと思うよ。男子より女子に可愛いって言われた方が嬉しいと思う」
「りょーかい」
「それじゃあ、また明日ね」
大きな背中が見えなくなってから私は黒田君とは反対方向に歩き出す。
ほんの少し抱いていた寂しさはいつの間にか消えていた。
私は絵を描くのが好き。私の中にあるたくさんの色を表現するのが好き。
黒は苦手だったけれど、最近は好きになった。
カラフルな世界も白黒の世界も、私はどちらの世界も大好きだ。
私は今日も明日も今までと変わらず一人で絵を描き続ける。変わったことと言えば、この絵を見た人はどう思うか、そんなことを少しだけ考えるようになったことだ。
私の絵はコンクールで入賞した。優秀賞とかそういう特別な名前はつかない、そこそこ優れていることを示すだけの賞。
それでも今回は嬉しかった。今までの本能や衝動に任せて好き勝手に描いていた絵と違って、どうやったらよりよく見えるのか、この線で、この色の濃さで、私が表現したい風景は表すことができるのか、結構考えて描いた作品だったのもあるし、何より黒田君に向けて描いた作品が他の人にも評価されたということが嬉しかった。
三月の半ば、卒業式を明日に控えたこの日も一年生の私にとっては普通の日であり、通常通りに部活を終えて美術室の鍵を返しに職員室を訪れた。
部活が終わる午後五時半はすでに先生たちは退勤時刻となっているらしく、顧問の侑里ちゃん先生は残っていたりいなかったりする。そういう時は教頭先生か用務員さんに鍵を渡すことになっているのだが、今日はまだ残っているようだ。職員室の自分の席でしっかりとした装丁の厚めの本のようなものを見ている。
「先生、部活終わったので鍵を返しに来ました」
「あ、一色さん、ご苦労様。ありがとね」
「それって、卒業アルバムですか?」
「うん。今の三年生が二年生の時に授業を持ってたから、見ておきたくて。三年生の先生に借りたの」
「へぇ」
懐かしそうに私が知らない人たちの写真を眺める侑里ちゃん先生の脇に立って、私もアルバムを覗いた。
「知らない人ばっかりだから面白くないですね」
「まあそうだよねぇ。でも三年生になってこれを受け取って、いつか見返した時には懐かしくて泣きそうになるもんだよ」
「そういうものかな。でも私友達少ないですし」
「少ないなら少ないでその人が写っている写真が貴重な宝物になるんだよ。それに最近はお友達増えたでしょう?」
「まあ、少しは。自分では変わったつもりはないんですけど、黒田君としゃべってたら『一色さんって何か話しやすくなったよね』って言われるようになって、自然に」
「よかったねぇ」
「……はい。ふふ」
「あ、そうだ。さっき知らない人ばっかりって言ったけどそんなことないんだよぉ。ほらここ見て」
侑里ちゃん先生はアルバムの中ほどにあるページを開き、一枚の写真を指差した。それは部活動紹介のページで、部員が一年生の私一人しかいない美術部もしっかりと載っている。
「そういえば文化祭の時に撮ってましたね」
私の花火の絵が描かれたキャンバスを真ん中にして、両端で私と顧問の侑里ちゃん先生が立っているツーショット写真。笑顔でピースをしている写真も撮ったはずだが、真顔で棒立ちの方の写真が採用されたようだ。そもそも全部の部活が真顔だった。
「来年、というかもう一ヶ月後か。部員、増えるといいねぇ」
「はい」
「期待してるよ、部長さん」
「任せてください。五十人くらいの大所帯にして先生の仕事を増やしてあげますから」
「えー? ほどほどでお願いしますぅ。あと二人くらいでいいよぉ」
「冗談ですよ」
子供っぽく懇願してくる侑里ちゃん先生をあしらいながら、私は美術部の写真の隣の写真に目をやった。
顧問である年配のおばあちゃん先生と、女子五人、男子一人の書道部の写真だ。女子の制服はセーラー服のリボンの色で学年が判別できるようになっていて、三年生が四人と一年生が一人。やっぱりみんな真顔なので黒田君も安心。もしかして黒田君の笑顔がぎこちなくて書道部の写真を真顔のものを採用せざるをえなかったから、全部の部活が真顔写真になったのではないか。
「ふふ」
「ん? どうしたの? 何か面白い写真でもあったぁ?」
黒田君のせいで私たちのピース写真がなしになったと考えたら急に面白くなってしまって笑いがこみあげてしまった。
「いえ、もっと色んな絵を描きたいなって思って。遠くにいる人にも見てもらえるようにコンクールで賞も取りたいし、好きなものを好きなようにも描きたいです」
「どっちもできるよ、一色さんなら」
侑里ちゃん先生の言葉には笑顔で答え、私は職員室を出た。
名残惜しさからまだ学校に残っている三年生の話し声が昇降口へと続く廊下まで聞こえてくる。いつもは用がない者は早く帰れと言う先生たちも、この日ばかりは何も言わない。それどころか生徒と一緒になって泣きそうになりながら話をしている先生もいる。目の前に陣取って絵に描きたいと思ったがさすがに悪趣味なので目に焼き付けて記憶を頼りに描くとしよう。
自分のことではないのに、少しだけ寂しさを感じながら昇降口に差し掛かると、自分のクラスの下駄箱のところに黒くて大きな背中を見つけた。
「書道部も今までやってたの?」
「うん。ていうか俺一人だから部って言っていいのか疑問だけど」
大きな背中は声だけで私であることを判断して、私に背を向けたまま、外靴を履きながら答えた。少し前まではもう少し紳士的だったのに、随分と私の扱いが雑になったものだ。
靴を履き終えたでかい図体を押しのけて私も自分の下駄箱から外靴を取り、上靴と履き替えた。「おい」という抗議の声が聞こえた気がしたが、無視して校門へ向かって歩き出す。大きな体が追いかけてくる。その気配に話しかけた。
「大丈夫だよ。美術部だって一年間私一人だったし」
「そのことなんだけど、聞いた?」
「何? 特に何も聞いてないけど」
「四月に書道部と美術部の部員がどちらか一方でも三人に満たなかったら統合されて芸術部になるって話」
「は? 何それ、誰が言ってたの?」
「書道部の顧問の白石先生。まあ、そうなったとしても活動内容は変わらないみたいだし、その方が合理的ではあるよね」
「侑里ちゃん先生は……そういえば二人くらいは部員欲しいって言ってた。やだよー、黒田君の部下になんかなりたくなーい」
「部下ってなんだよ」
「だって部が統合されたら部長は一人でしょ? そしたら侑里ちゃん先生も白石先生も絶対に黒田君の方を部長に指名すると思う。黒田君の方がしっかりしてるもん」
「まあ、それは確かにそうだろうね」
「ひどい! そこは否定するところでしょ?」
「俺はそんな気の利いたことを言える人間じゃないよ」
「それもそうだった」
「いや、否定してよ」
校門を出ると私たちは全く別の方向に帰ることになる。だからこうして帰るタイミングが同じになっても、一緒に歩くのは昇降口から校門までの短い間だけだ。いつもくだらない話をして、たまに勉強のことや進路のことなどの真面目な話をする。ほんの一分かそこらの時間だけ、私は世界中の誰よりも黒田君と仲良しになる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日で綺麗な先輩たちとお別れになるからって泣き過ぎちゃだめだよ?」
「なんだそれ。というか書道部の先輩たちのこと知ってるの?」
「うん。さっき侑里ちゃん先生と卒業アルバムの写真を見たんだ。女の子、五人ともすごく可愛かった」
「……伝えておくよ。会ったこともない人がそんなこと言ってたって聞いたら喜ぶと思う」
「うん。あ、女子が言ってたって伝えた方がいいと思うよ。男子より女子に可愛いって言われた方が嬉しいと思う」
「りょーかい」
「それじゃあ、また明日ね」
大きな背中が見えなくなってから私は黒田君とは反対方向に歩き出す。
ほんの少し抱いていた寂しさはいつの間にか消えていた。
私は絵を描くのが好き。私の中にあるたくさんの色を表現するのが好き。
黒は苦手だったけれど、最近は好きになった。
カラフルな世界も白黒の世界も、私はどちらの世界も大好きだ。
私は今日も明日も今までと変わらず一人で絵を描き続ける。変わったことと言えば、この絵を見た人はどう思うか、そんなことを少しだけ考えるようになったことだ。