いろはが眠りにつき、一週間が経過した。
最初の頃の千早と同じく、ずっと眠り続けている。
「いろはさん……」
自分がしてもらっていたようにと、千早もいろはの右手を握っている。だが、力が回復しているようには到底思えない。
倒れるところまではいっていないものの、力を使いすぎているのかと食事を多めに摂ったりもしている。そのお陰か、千早の力は回復傾向にあった。祖父母は「きっとお目覚めになる」と励ましてくれるものの、こういうときに何もできない自分の力のなさが歯がゆくて仕方がない。
千早は窓の外の景色を見た。日が燦々と差し、鮮やかな緑の葉っぱが気持ちよさそうに揺れている。
ここは千早の部屋ではなく、玉藻の部屋となった元いろはの部屋だ。玉藻に事情を話し、今回はこの部屋でいろはを寝かせていた。代わりに、玉藻には千早の部屋を使ってもらっている。
「千早チャン」
襖を開け、玉藻が顔を覗かせた。ちらりといろはに視線をやり、千早を見る。言葉にはしないものの、彼なりに心配しているのだろう。
「今からおじいちゃんとおばあちゃんと伊織の見舞いに行ってくるわ。何かいるものある?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「ほな、行ってくるから。……無理したらあかんよ」
パタン、と襖を閉めると、ギシギシと廊下を歩く音が聞こえる。
「玉藻さんも、随分とこの生活に馴染みましたよね。今では欠かせない人です」
人ではなく狐でした、と笑うも、返事はない。
ぎゅっといろはの右手を両手で握る。視界が滲み、涙が目尻から溢れた。その涙は頬を伝い、ぽた、ぽたといろはの右手の上に落ちる。
「いろはさんも、欠かせないんです。わたしの日常にはいろはさんがいないと……寂しいんです」
いつものように、話しかけてほしい。いつものように、笑いかけてほしい。
涙は止め処なく溢れ、抑えようとしても声が漏れ出る。いろはの右手を抱え込むように蹲り、千早はとうとう声を出して泣いた。
助けてもらうばかりで、助けられない。与えられるばかりで、与えることができない。
いろはにしてあげられることが、何もない。
無力だとは思っていたが、ここまで無力だとは思わなかった。
そこでふと、あることを思いついた。ゆっくりと身体を起こし、いまだ眠り続けるいろはを見る。
何故、これまで思いつかなかったのか。握っていたいろはの右手を離すと、自分の手で涙を拭う。そして、少し前の方へ行き、身体を伸ばしておそるおそる彼の顔を両手で包んだ。
指輪のように、一方通行でなければ。
「いつも、してくれてましたよね。今度は、わたしから」
普段であれば、恥ずかしいと思うはずなのに。千早は小さく笑みを溢した。
早く目を覚ましてほしい。早く回復してほしい。早く、声を聞かせてほしい。今はそんなことばかり思っている。いろはも、いつもこんな気分だったのだろうか。
千早はいろはの顔に自身の顔を近づけていき、目を瞑って唇を重ねる。いつも、どうやってキスをされていたか。そんなことを考えながら、千早なりにキスを続け、力を流し込む。
息が続かなくなり、一度唇を離す。呼吸を整え、再び唇を重ねた。これを何度も繰り返す。心の中で、いろはの名を呼びながら、何度も、何度も。
少しして、そっと唇を離した。力は流し込めているのだろう、怠さが千早を襲うが、奥歯を噛み締め堪える。小さく息を吐き出すと、いろはと額を合わせるように自身の額を乗せ、目を瞑った。止まっていた涙が溢れ、その滴がいろはの瞼に落ちる。それはまるで、いろはの涙のように伝っていった。
「いろはさん、起きてください。いろはさん」
いろはの名を呼び続ける。その声は次第に震え、名を呼ぶことができなくなった。
千早の嗚咽を我慢した泣き声だけが、静かな部屋に残る。
短い呼吸を繰り返し、涙でいっぱいになった目を開いた。やはり、いろはの瞼は開かれていない。
「いろは、さ……寂しい、よお」
苦しくて堪らない。
いろはがいなくなってしまうのではないかという恐怖。もうずっと、胸が締め付けられている。
以前抱いた、名前がわからない感情。
嬉しいはずなのに、苦しくて。苦しいはずなのに、嬉しくて。
今ならわかる。この感情の名前が。
目に溜まった涙を流すように、瞼を閉じる。
「いろはさんのことが、好き。好きなんです。だから、いなくならないで」
「そうか、私のことを好いてくれているのか」
その声に目を開く。至近距離でアメジストの瞳と目が合い、あれほど流れていたはずの涙がぴたりと止まった。ぱち、ぱちと何回か瞬きをしたあと、今の状況を思い出して慌てて離れる。
瞬きを何回しても、目を擦ってみても。布団に寝転んでいるいろはが、目を開けてこちらを見ている。
「い、いろは、さん?」
「そうだ、私だ。目が赤いぞ、泣いていたのか」
そう言って、いろはは気怠そうに身体を起こす。まだ完全に回復には至っていないのだろう。いつもよりも動きが鈍い。
手伝わなければ。されど、千早はいろはが目を開けた衝撃から抜け出せずにいた。
身体よりも先に感情が走り出し、それを現すかのように涙が一気に流れ出す。いくつもの涙が頬を伝い、落ちていく。数滴ほど落ちたあと、ようやくいろはの元へと身体を動かした。
胸元へ飛び込み、背中へ手を回す。これでは、支えているのではなく抱きしめていることになるのだが、どうしても感情が先走る。
うまく感情がコントロールできていない。場面としても不正解だ。自分でもわかっているはずなのに、今はこうしていろはを抱きしめたかった。
「千早?」
頭上から、いろはが珍しく戸惑っている声が聞こえる。それでも、千早がいろはから離れることはない。強く抱きしめ、胸元に顔を埋める。
言葉にしたいことはたくさんあった。どこまで回復できているのか、欠けてしまった部分は元に戻っているのか、あのとき痛みはあったのか。それなのに、うまく言葉にできない。涙で呼吸が乱れているのもあるが、それ以上にただただいろはのぬくもりを感じていたかった。いなくなってなどいない、傍にいるのだと、実感したかった。
背中に手が置かれ、優しく撫でられる。すん、と鼻を啜ると、いろはが小さく笑みを溢した。
「千早のお陰で目を覚ますことができた。ありがとう」
「……っ、下手で、すみません」
やっと言葉が出たものの、いろはと会話ができたことでまたしても涙で息ができなくなりそうになる。落ち着かなければと、すう、と大きく息を吸って吐き出す。
「い、一応、どんな風にされてたかなって思い出しながらしてみたんですけど、本当によかった」
「ん? 手を繋ぐことに上手い下手があるのか?」
「それはさすがにないと……って、え?」
どうしてだろうか、会話が噛み合わない。顔を上げると、いろはも困惑しているようだった。
「千早が話をしているのは、手を繋ぐことではないのか。他に何かしてくれていたのだな、気が付かなくてすまない。何をしてくれていたのだろうか」
これは意地悪を言っているわけではない。純粋に気にしているようだ。
だからと言って、自分の口から「キスしました」とは言えない。と考えていると、先程まで行っていたことを思い出してしまい、顔に熱が集中する。真っ赤になっているのが自分でもわかるほど熱く、千早は再び顔をいろはの胸元に埋めた。
「そういえば、私のことも好きだと言ってくれていたな。千早、好きとはむごご」
「わああぁぁぁぁああ!」
顔を上げ、ぱん、と音が鳴るほどの勢いでいろはの口を両手で塞ぐ。そのままの勢いでいろはが後ろに倒れてしまい、つられて千早も彼の上に覆い被さる形で倒れてしまった。急いで起き上がろうとするも、背中に手を当てられ起き上がることができない。
何とか離れなければと顔を真っ赤にして藻掻く千早に、いろはは口角を上げにやりと笑う。
「ここまで力が回復しているのも千早のお陰だな? もしや、千早自らキスとやらをしてくれたわけか」
「う、あ、あ……」
「ふむ、ありがたいが、できれば起きている間にしてもらいたかったな。あれは回復のためだが、何せ気持ちが良い。回復など関係なしにしたいものだ」
「ハレンチです! セクハラです! そ、それにですね、あ、ああ、あれは、力の回復のためであって、べっ、別にわたしはそういう気持ちとか、別に」
ではもう一度試そう、と顔を両手で包まれ、強引に顔が引き寄せられた。
いろはの唇が当てられ、舌が入ってくる。自らが入れている側のときは、まったく違う感覚。ぞくぞくとしたものが全身に走り、力の回復をしているはずなのに、身体の力が抜けそうになる。
(気持ちがいいとか。そういうのじゃ、ない。これは、仕方なく。そう、仕方なく)
そうは思いつつも、自分の感情に気が付いてしまったからだろうか。キスをされることに恥じらいはあれど、嬉しいという気持ちが芽生えていた。
最初の頃の千早と同じく、ずっと眠り続けている。
「いろはさん……」
自分がしてもらっていたようにと、千早もいろはの右手を握っている。だが、力が回復しているようには到底思えない。
倒れるところまではいっていないものの、力を使いすぎているのかと食事を多めに摂ったりもしている。そのお陰か、千早の力は回復傾向にあった。祖父母は「きっとお目覚めになる」と励ましてくれるものの、こういうときに何もできない自分の力のなさが歯がゆくて仕方がない。
千早は窓の外の景色を見た。日が燦々と差し、鮮やかな緑の葉っぱが気持ちよさそうに揺れている。
ここは千早の部屋ではなく、玉藻の部屋となった元いろはの部屋だ。玉藻に事情を話し、今回はこの部屋でいろはを寝かせていた。代わりに、玉藻には千早の部屋を使ってもらっている。
「千早チャン」
襖を開け、玉藻が顔を覗かせた。ちらりといろはに視線をやり、千早を見る。言葉にはしないものの、彼なりに心配しているのだろう。
「今からおじいちゃんとおばあちゃんと伊織の見舞いに行ってくるわ。何かいるものある?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「ほな、行ってくるから。……無理したらあかんよ」
パタン、と襖を閉めると、ギシギシと廊下を歩く音が聞こえる。
「玉藻さんも、随分とこの生活に馴染みましたよね。今では欠かせない人です」
人ではなく狐でした、と笑うも、返事はない。
ぎゅっといろはの右手を両手で握る。視界が滲み、涙が目尻から溢れた。その涙は頬を伝い、ぽた、ぽたといろはの右手の上に落ちる。
「いろはさんも、欠かせないんです。わたしの日常にはいろはさんがいないと……寂しいんです」
いつものように、話しかけてほしい。いつものように、笑いかけてほしい。
涙は止め処なく溢れ、抑えようとしても声が漏れ出る。いろはの右手を抱え込むように蹲り、千早はとうとう声を出して泣いた。
助けてもらうばかりで、助けられない。与えられるばかりで、与えることができない。
いろはにしてあげられることが、何もない。
無力だとは思っていたが、ここまで無力だとは思わなかった。
そこでふと、あることを思いついた。ゆっくりと身体を起こし、いまだ眠り続けるいろはを見る。
何故、これまで思いつかなかったのか。握っていたいろはの右手を離すと、自分の手で涙を拭う。そして、少し前の方へ行き、身体を伸ばしておそるおそる彼の顔を両手で包んだ。
指輪のように、一方通行でなければ。
「いつも、してくれてましたよね。今度は、わたしから」
普段であれば、恥ずかしいと思うはずなのに。千早は小さく笑みを溢した。
早く目を覚ましてほしい。早く回復してほしい。早く、声を聞かせてほしい。今はそんなことばかり思っている。いろはも、いつもこんな気分だったのだろうか。
千早はいろはの顔に自身の顔を近づけていき、目を瞑って唇を重ねる。いつも、どうやってキスをされていたか。そんなことを考えながら、千早なりにキスを続け、力を流し込む。
息が続かなくなり、一度唇を離す。呼吸を整え、再び唇を重ねた。これを何度も繰り返す。心の中で、いろはの名を呼びながら、何度も、何度も。
少しして、そっと唇を離した。力は流し込めているのだろう、怠さが千早を襲うが、奥歯を噛み締め堪える。小さく息を吐き出すと、いろはと額を合わせるように自身の額を乗せ、目を瞑った。止まっていた涙が溢れ、その滴がいろはの瞼に落ちる。それはまるで、いろはの涙のように伝っていった。
「いろはさん、起きてください。いろはさん」
いろはの名を呼び続ける。その声は次第に震え、名を呼ぶことができなくなった。
千早の嗚咽を我慢した泣き声だけが、静かな部屋に残る。
短い呼吸を繰り返し、涙でいっぱいになった目を開いた。やはり、いろはの瞼は開かれていない。
「いろは、さ……寂しい、よお」
苦しくて堪らない。
いろはがいなくなってしまうのではないかという恐怖。もうずっと、胸が締め付けられている。
以前抱いた、名前がわからない感情。
嬉しいはずなのに、苦しくて。苦しいはずなのに、嬉しくて。
今ならわかる。この感情の名前が。
目に溜まった涙を流すように、瞼を閉じる。
「いろはさんのことが、好き。好きなんです。だから、いなくならないで」
「そうか、私のことを好いてくれているのか」
その声に目を開く。至近距離でアメジストの瞳と目が合い、あれほど流れていたはずの涙がぴたりと止まった。ぱち、ぱちと何回か瞬きをしたあと、今の状況を思い出して慌てて離れる。
瞬きを何回しても、目を擦ってみても。布団に寝転んでいるいろはが、目を開けてこちらを見ている。
「い、いろは、さん?」
「そうだ、私だ。目が赤いぞ、泣いていたのか」
そう言って、いろはは気怠そうに身体を起こす。まだ完全に回復には至っていないのだろう。いつもよりも動きが鈍い。
手伝わなければ。されど、千早はいろはが目を開けた衝撃から抜け出せずにいた。
身体よりも先に感情が走り出し、それを現すかのように涙が一気に流れ出す。いくつもの涙が頬を伝い、落ちていく。数滴ほど落ちたあと、ようやくいろはの元へと身体を動かした。
胸元へ飛び込み、背中へ手を回す。これでは、支えているのではなく抱きしめていることになるのだが、どうしても感情が先走る。
うまく感情がコントロールできていない。場面としても不正解だ。自分でもわかっているはずなのに、今はこうしていろはを抱きしめたかった。
「千早?」
頭上から、いろはが珍しく戸惑っている声が聞こえる。それでも、千早がいろはから離れることはない。強く抱きしめ、胸元に顔を埋める。
言葉にしたいことはたくさんあった。どこまで回復できているのか、欠けてしまった部分は元に戻っているのか、あのとき痛みはあったのか。それなのに、うまく言葉にできない。涙で呼吸が乱れているのもあるが、それ以上にただただいろはのぬくもりを感じていたかった。いなくなってなどいない、傍にいるのだと、実感したかった。
背中に手が置かれ、優しく撫でられる。すん、と鼻を啜ると、いろはが小さく笑みを溢した。
「千早のお陰で目を覚ますことができた。ありがとう」
「……っ、下手で、すみません」
やっと言葉が出たものの、いろはと会話ができたことでまたしても涙で息ができなくなりそうになる。落ち着かなければと、すう、と大きく息を吸って吐き出す。
「い、一応、どんな風にされてたかなって思い出しながらしてみたんですけど、本当によかった」
「ん? 手を繋ぐことに上手い下手があるのか?」
「それはさすがにないと……って、え?」
どうしてだろうか、会話が噛み合わない。顔を上げると、いろはも困惑しているようだった。
「千早が話をしているのは、手を繋ぐことではないのか。他に何かしてくれていたのだな、気が付かなくてすまない。何をしてくれていたのだろうか」
これは意地悪を言っているわけではない。純粋に気にしているようだ。
だからと言って、自分の口から「キスしました」とは言えない。と考えていると、先程まで行っていたことを思い出してしまい、顔に熱が集中する。真っ赤になっているのが自分でもわかるほど熱く、千早は再び顔をいろはの胸元に埋めた。
「そういえば、私のことも好きだと言ってくれていたな。千早、好きとはむごご」
「わああぁぁぁぁああ!」
顔を上げ、ぱん、と音が鳴るほどの勢いでいろはの口を両手で塞ぐ。そのままの勢いでいろはが後ろに倒れてしまい、つられて千早も彼の上に覆い被さる形で倒れてしまった。急いで起き上がろうとするも、背中に手を当てられ起き上がることができない。
何とか離れなければと顔を真っ赤にして藻掻く千早に、いろはは口角を上げにやりと笑う。
「ここまで力が回復しているのも千早のお陰だな? もしや、千早自らキスとやらをしてくれたわけか」
「う、あ、あ……」
「ふむ、ありがたいが、できれば起きている間にしてもらいたかったな。あれは回復のためだが、何せ気持ちが良い。回復など関係なしにしたいものだ」
「ハレンチです! セクハラです! そ、それにですね、あ、ああ、あれは、力の回復のためであって、べっ、別にわたしはそういう気持ちとか、別に」
ではもう一度試そう、と顔を両手で包まれ、強引に顔が引き寄せられた。
いろはの唇が当てられ、舌が入ってくる。自らが入れている側のときは、まったく違う感覚。ぞくぞくとしたものが全身に走り、力の回復をしているはずなのに、身体の力が抜けそうになる。
(気持ちがいいとか。そういうのじゃ、ない。これは、仕方なく。そう、仕方なく)
そうは思いつつも、自分の感情に気が付いてしまったからだろうか。キスをされることに恥じらいはあれど、嬉しいという気持ちが芽生えていた。