パキン、と音を立てて、天羽々斬が折れた音がした──気がして、千早は慌てて飛び起きた。
空調は効いているはずだが、汗を大量にかいており、顎からぽたりと布団に落ちる。
話の前後は覚えていない。ただ、天羽々斬の刀身が折れた。それだけはしっかりと覚えている。
「どうした?」
いろはが目を開け、こちらを見ていた。千早は身体を寄せるとおそるおそるいろはの頬に触れ、その流れで手や身体に触れる。いきなり何をするのかと訝しまれているが、気にせず触りまくる。どこか怪我をしている様子はない。はあ、と大きく息を吐き出し、手で汗を拭った。
あれはただの夢。そうはわかっていても、生々しく、恐ろしいものだった。こうしていろはに何かないかと確認してしまうほどに。
今思い出しても寒気がする。身体を抱きしめると、いろはも身体を起こし、千早を抱きしめてきた。
「あ、あの」
「何か怖い夢でも見たのかと」
「それは……そう、なんですけど」
言えない。天羽々斬の刀身が折れた夢を見たなどと。あまりにも内容が不吉すぎる。
大丈夫です、と千早は作り笑顔を浮かべ、布団へと潜り込む。布団に残るぬくもりが汗で冷えた身体をあたためる。
千早が何かを隠していることに気付きつつも、いろははそれを口にすることなく再び寝転んだ。いつか話してくれるだろうと信じているからだ。千早もそれをわかっていつつ、ごめんなさいと心の中で謝る。
これは絶対に話せない。話したことでもしも現実になってしまったら。
そのとき、いろははどうなってしまうのか。
(いろはさんがいなくなるなんて、考えられない)
ぶるりと身体を震わせ、千早は目を瞑った。
* * *
目を瞑ったものの、結局眠ることができなかった。目の下に隈を作ってしまい、祖父母から心配される始末。怖い夢を見た、とは言ったものの、その内容までは話さなかった。
ただ、仏壇の両親にはこう願った。何もありませんように、と。
支度を終え、いってきます、と告げて家を出る。正直、あのような夢の後にいろはと離れるのは不安が残る。しかし、学校を休むには理由がいるため、仕方なく行くことにしたのだ。
いつもの通り道を歩いていると、横を歩行者や自転車が通り過ぎていく。胸元で光る指輪を握り締め、再び「何もありませんように」と願うが──ぽん、と左肩を叩かれた。声かけもなく叩かれたことに違和感があったのもそうだが、異様な殺気を感じ、誰が後ろに立っているのかすぐにわかった。
どうして、このような朝方から。それも、今日に限って。
目を瞑り、唇を噛み締めて鼻から息を吐き出す。そして、即座に覚悟を決めて千早は後ろを振り向いた。
「なんですか、伊吹さん」
「まずはおはようございますだろ?」
人を馬鹿にするような笑みを浮かべ、伊吹は千早の頬に触れようとする。その手を振り払い、距離を取った。だが、その距離はすぐに詰められてしまい、いろはの名を呼ぼうとした口を塞がれてしまう。
がぶりと噛み付こうとするが、そこで鬼と化してしまった伊吹の血を含んでしまったらどうなるのか。自分までもが鬼になるわけにはいかないと噛むことを諦める。その代わりに口を塞ぐ手を何とか離そうとするが、もとより力ではやはり敵わない。
「ん、んぐ!」
「静かにしろよ。いいものを見せてやるから」
どうせ千早にとっては悪いものなのだろう。いつもそうだ、そうやって千早に嫌がらせをしてきた。行きたくないと首を横に振ろうとするが、口を塞ぐ手が力強く、何もすることができない。踏ん張ろうとしても、ずる、ずると伊吹によって引き摺られていく。
通行人は千早と伊吹を見るものの、瞳の色で朝日奈家と一七夜月家の者だとわかれば嫌厭してすぐに視線を逸らしてしまう。これでは何も期待できない。
そのまま引き摺られ、山を登っていく。どこだと辺りを見渡せば、そこはあの祠があった山だった。
一体、ここに何があるというのか。壊れた祠しかないはずだが、と伊吹を見ると、彼も見られていることに気が付き千早を一瞥する。
その目にぞわりとした。
まるで、これから起こることを想像して胸を躍らせているような、無邪気な目。気味が悪く、気持ちが悪い。
壊れてしまった祠まで来ると、ようやく千早の口元から手が離された。ぷは、と息を吸い、急いで伊吹と距離を取る。今度は、距離を詰められることはなかった。
「別に、この祠に何かあるってわけじゃない。ただ、いいものをいただいたからさ。ここがちょうどいいと思って」
「いいものを、いただいた? 誰にですか?」
「はあ? 誰? わかるだろ、んなこと。八岐大蛇様だよ」
あの八岐大蛇に敬称を付けて呼ぶのか。そう思ったとき、びゅ、と風を切るような音ともに首筋に冷たい何かが当てられた。
伊吹が持っているのは、青銅色の剣。では、千早の首筋に当てられているのは──。
「大丈夫、今は殺さない。まずはこれを見てほしくてさ」
「……伊織ちゃんのことは、心配じゃないんですか」
「心配に決まってるだろ? ああ、めちゃくちゃ心配だよ。大丈夫かなあ、俺の可愛い鬼は」
ふざけているのか、と睨み付けると、伊吹は大きな声で笑い始め、そっと青銅色の剣を下ろした。
「ほら、呼べよ。いろはだっけ? 天羽々斬をよ。あいつにも見せてやりたいんだよ、この剣を」
これは誘いだ。
そうわかっていても、剣を持つ相手に何も持たない者ができることはない。ぎゅっと指輪を握り、考える。
呼びたくない。ここに、いろはは来てはいけない気がする。しかし、今は殺さないと言う言葉は、信用できない。このままでは何もできずに殺されてしまうだろう。
ぐっと奥歯を噛み締めたあと、千早は静かに口を開いた。
「……天羽々斬」
白い光と共に、いろはが姿を現す。千早を見たあと、すぐに伊吹の存在に気が付き、庇うようにして前に立った。
「よう、いろは。これ見ろよ」
「それは?」
「いいだろ? ほら、味わえ!」
「天羽々斬!」
いろはに青銅色の剣で斬りかかる伊吹に、千早は彼の名を呼び刀剣を手にした。振り下ろされる刀身を受け止めるものの、いつもと違う感覚に目を丸くした。その様子を見た伊吹が、ぷは、と噴き出すように笑い声を上げる。
ギリギリ、と金属が擦れる音が聞こえる中、伊吹だけが笑っていた。千早は何がおかしいのかまったくわからないが、天羽々斬が息を呑んだ音が聞こえた。
≪……っ、千早! 離れろ!≫
よくわからないまま伊吹を弾き、距離を取る。伊吹はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべたままだ。
「あの、何が……」
≪まさか、あのような剣があるとは……≫
「え、何……あ、あれ?」
「やあっと気が付いたか。どうだ、草薙剣の威力は」
草薙剣。あの青銅色の剣の名前だろうか。
それよりも、天羽々斬の刀身が、欠けている。
今日見た夢を思い出す。天羽々斬が、折れた夢を。
「な、いいものだろ? さあ、殺し合おうぜ」
空調は効いているはずだが、汗を大量にかいており、顎からぽたりと布団に落ちる。
話の前後は覚えていない。ただ、天羽々斬の刀身が折れた。それだけはしっかりと覚えている。
「どうした?」
いろはが目を開け、こちらを見ていた。千早は身体を寄せるとおそるおそるいろはの頬に触れ、その流れで手や身体に触れる。いきなり何をするのかと訝しまれているが、気にせず触りまくる。どこか怪我をしている様子はない。はあ、と大きく息を吐き出し、手で汗を拭った。
あれはただの夢。そうはわかっていても、生々しく、恐ろしいものだった。こうしていろはに何かないかと確認してしまうほどに。
今思い出しても寒気がする。身体を抱きしめると、いろはも身体を起こし、千早を抱きしめてきた。
「あ、あの」
「何か怖い夢でも見たのかと」
「それは……そう、なんですけど」
言えない。天羽々斬の刀身が折れた夢を見たなどと。あまりにも内容が不吉すぎる。
大丈夫です、と千早は作り笑顔を浮かべ、布団へと潜り込む。布団に残るぬくもりが汗で冷えた身体をあたためる。
千早が何かを隠していることに気付きつつも、いろははそれを口にすることなく再び寝転んだ。いつか話してくれるだろうと信じているからだ。千早もそれをわかっていつつ、ごめんなさいと心の中で謝る。
これは絶対に話せない。話したことでもしも現実になってしまったら。
そのとき、いろははどうなってしまうのか。
(いろはさんがいなくなるなんて、考えられない)
ぶるりと身体を震わせ、千早は目を瞑った。
* * *
目を瞑ったものの、結局眠ることができなかった。目の下に隈を作ってしまい、祖父母から心配される始末。怖い夢を見た、とは言ったものの、その内容までは話さなかった。
ただ、仏壇の両親にはこう願った。何もありませんように、と。
支度を終え、いってきます、と告げて家を出る。正直、あのような夢の後にいろはと離れるのは不安が残る。しかし、学校を休むには理由がいるため、仕方なく行くことにしたのだ。
いつもの通り道を歩いていると、横を歩行者や自転車が通り過ぎていく。胸元で光る指輪を握り締め、再び「何もありませんように」と願うが──ぽん、と左肩を叩かれた。声かけもなく叩かれたことに違和感があったのもそうだが、異様な殺気を感じ、誰が後ろに立っているのかすぐにわかった。
どうして、このような朝方から。それも、今日に限って。
目を瞑り、唇を噛み締めて鼻から息を吐き出す。そして、即座に覚悟を決めて千早は後ろを振り向いた。
「なんですか、伊吹さん」
「まずはおはようございますだろ?」
人を馬鹿にするような笑みを浮かべ、伊吹は千早の頬に触れようとする。その手を振り払い、距離を取った。だが、その距離はすぐに詰められてしまい、いろはの名を呼ぼうとした口を塞がれてしまう。
がぶりと噛み付こうとするが、そこで鬼と化してしまった伊吹の血を含んでしまったらどうなるのか。自分までもが鬼になるわけにはいかないと噛むことを諦める。その代わりに口を塞ぐ手を何とか離そうとするが、もとより力ではやはり敵わない。
「ん、んぐ!」
「静かにしろよ。いいものを見せてやるから」
どうせ千早にとっては悪いものなのだろう。いつもそうだ、そうやって千早に嫌がらせをしてきた。行きたくないと首を横に振ろうとするが、口を塞ぐ手が力強く、何もすることができない。踏ん張ろうとしても、ずる、ずると伊吹によって引き摺られていく。
通行人は千早と伊吹を見るものの、瞳の色で朝日奈家と一七夜月家の者だとわかれば嫌厭してすぐに視線を逸らしてしまう。これでは何も期待できない。
そのまま引き摺られ、山を登っていく。どこだと辺りを見渡せば、そこはあの祠があった山だった。
一体、ここに何があるというのか。壊れた祠しかないはずだが、と伊吹を見ると、彼も見られていることに気が付き千早を一瞥する。
その目にぞわりとした。
まるで、これから起こることを想像して胸を躍らせているような、無邪気な目。気味が悪く、気持ちが悪い。
壊れてしまった祠まで来ると、ようやく千早の口元から手が離された。ぷは、と息を吸い、急いで伊吹と距離を取る。今度は、距離を詰められることはなかった。
「別に、この祠に何かあるってわけじゃない。ただ、いいものをいただいたからさ。ここがちょうどいいと思って」
「いいものを、いただいた? 誰にですか?」
「はあ? 誰? わかるだろ、んなこと。八岐大蛇様だよ」
あの八岐大蛇に敬称を付けて呼ぶのか。そう思ったとき、びゅ、と風を切るような音ともに首筋に冷たい何かが当てられた。
伊吹が持っているのは、青銅色の剣。では、千早の首筋に当てられているのは──。
「大丈夫、今は殺さない。まずはこれを見てほしくてさ」
「……伊織ちゃんのことは、心配じゃないんですか」
「心配に決まってるだろ? ああ、めちゃくちゃ心配だよ。大丈夫かなあ、俺の可愛い鬼は」
ふざけているのか、と睨み付けると、伊吹は大きな声で笑い始め、そっと青銅色の剣を下ろした。
「ほら、呼べよ。いろはだっけ? 天羽々斬をよ。あいつにも見せてやりたいんだよ、この剣を」
これは誘いだ。
そうわかっていても、剣を持つ相手に何も持たない者ができることはない。ぎゅっと指輪を握り、考える。
呼びたくない。ここに、いろはは来てはいけない気がする。しかし、今は殺さないと言う言葉は、信用できない。このままでは何もできずに殺されてしまうだろう。
ぐっと奥歯を噛み締めたあと、千早は静かに口を開いた。
「……天羽々斬」
白い光と共に、いろはが姿を現す。千早を見たあと、すぐに伊吹の存在に気が付き、庇うようにして前に立った。
「よう、いろは。これ見ろよ」
「それは?」
「いいだろ? ほら、味わえ!」
「天羽々斬!」
いろはに青銅色の剣で斬りかかる伊吹に、千早は彼の名を呼び刀剣を手にした。振り下ろされる刀身を受け止めるものの、いつもと違う感覚に目を丸くした。その様子を見た伊吹が、ぷは、と噴き出すように笑い声を上げる。
ギリギリ、と金属が擦れる音が聞こえる中、伊吹だけが笑っていた。千早は何がおかしいのかまったくわからないが、天羽々斬が息を呑んだ音が聞こえた。
≪……っ、千早! 離れろ!≫
よくわからないまま伊吹を弾き、距離を取る。伊吹はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべたままだ。
「あの、何が……」
≪まさか、あのような剣があるとは……≫
「え、何……あ、あれ?」
「やあっと気が付いたか。どうだ、草薙剣の威力は」
草薙剣。あの青銅色の剣の名前だろうか。
それよりも、天羽々斬の刀身が、欠けている。
今日見た夢を思い出す。天羽々斬が、折れた夢を。
「な、いいものだろ? さあ、殺し合おうぜ」