月曜日、僕は入学初日のような気分で登校していた。校門を通ったところで朝川さんの背中を見つける。彼女とは前から昇降口で会うことがあったので、きっと登校時間が似ているんだろう。

「おはよう、朝川さん」
「あ、おはよ」

 若干浮ついた声で話しかけると、そっけない声色が返ってきた。

「どうかした?」
「人がいるところで私と話しかけたら、頼田君も変に思われるよ」
「朝川さんは変じゃないよ」

 僕がそう答えると、朝川さんは目を真ん丸にさせた。そのあと、目を細くさせて言う。

「ありがとう」

 マスクの下もきっと優しい顔をしているのだろう。これを知っている生徒は僕以外にいないかもしれない。

 階段を二人で上っていたら、上から先生が下りてきた。見たことあるけど名前は知らない。

「お早う御座います」
「おはよう」

 挨拶をすると、少し厳しそうな声が返ってきた。先生がちらりと朝川さんを見遣る。朝川さんは挨拶をせず、目も合わせずにすれ違った。

──どうしたんだろう。

「もう行った? 中井先生」
「中井? ああ、うん。もう見えないよ」

 今のが中井先生という名前なのを初めて知った。朝川さんが長い息を吐く。

「どうかした?」
「あれ、お父さん」
「あ、そうなんだ」

 もう小さくなった背中へ振り返る。似てるかな、分からなかった。それにしてもよそよそしい気がする。すぐにその答えが返ってきた。

「元、だけどね」
「そっか」
「うん」

 情けない僕は気の利いた一言も言えなかった。朝川さんが続けた。

「ね、つまんない話、ちょっとだけ聞いてくれる?」
「いいよ」

 朝川さんは前を向いたまま話し始めた。

「私の顔、お母さんに似てるんだって。高校受かったことをお父さんに電話したら、明らかに声が沈んでたの。あ、私の顔見ると思い出すんだって。私の顔見たくないんだろうなって思っちゃって」

「もしかして、マスクしてる理由って」
「うん」

 それで話はおしまいになった。

 マスクをしていたのは自分の都合なのだと軽く考えていた。その奥に何があるかなんて、他人だから踏み込まない方がいいと壁を作っていた。

 いつも自由で、前向きな朝川さんにもこんな悩みがあったなんて。傍にいたのに全然気が付かなかった。

 なんて、勝手に傷付く僕が恥ずかしい。知り合ってまだ何か月も経っていない人間に悩みを早々打ち明けてくれるわけがない。僕が彼女に打ち明け過ぎなだけだ。

 でも、もう知っている。

 こうして朝川さんは壁だけのそこに窓を作ってくれた。これからは僕も友だちとして出来る限り歩み寄りたい。

 朝川さんは、この高校にお父さんがいるって知って受験したんだと思う。きっと、お母さんに付いていった朝川さんは、本当はお父さんのことも好きなんだ。

「僕の独り言、聞いてくれる?」
「いいよ」

「僕は朝川さんが優しいことを知ってる。家族にすら気を遣う優しい子だって。でも、それでずっと隠さなくても、誰も文句は言わないと思う。もし言う人がいたら僕が盾になる。だから、いつか、その気分になったらでいいから、朝川さんの笑顔を学校でも見たいな」

「ふふ、ありがと」

 勝手な僕の希望をつらつら垂れ流してしまった。マスクの下で笑ってくれたから、とりあえずいいか。

 教室が見えて、朝川さんが先に入った。一瞬、後ろを振り向いて言う。

「私、頼田君がいて学校が楽しくなったよ」
「僕も」

 初めて秘密を打ち明けた友だち。二年生になっても、ううん、卒業しても友だちでいられたら素敵だな。

 その日の朝川さんはなんだか面白かった。授業中、初めて手を挙げて発言していたし、前の席の人からプリントを渡された時わりと大きい声でお礼を言っていた。前の人びっくりしてた。僕も驚いた。

「朝川さんって、思ったより怖くないかも」

 十分休み、そんな声が聞こえてきた。朝川さんは席にいない。うん、怖くないよ。心の中で同意してみる。

 その日は熱い中の部活で大汗を掻いて、帰宅したらすぐシャワーを浴びた。これから毎日暑いんだろうな。

 部屋でごろごろしていると、朝川さんからメッセージが届いた。

『頼田君ってすごいね』
「え、何が?」

 急な言葉に困惑する。僕がすごいことなんて、今日までずっとなかった。朝川さんの方がずっとすごいよ。

 思ったまま返せば、すぐに朝川さんから返ってきた。

『頼田君に今日言われたこと、本当に嬉しかったの。そしたら、なんで顔を隠して、優しくない、もう離れた人の顔色ずっと窺ってるんだろうって笑えてきちゃった。ありがとう』

 ああ、先生のことか。ようやく合点がいった。でも、僕はただ思ったことを伝えただけで、前を向いて考えられるようになったのは朝川さん自身の力だ。僕は朝川さんの真似をして、ほんの、ほんの少し背中を押してみただけ。だから、最初から自分自身の力なんだよ。

『お礼に、明日は私が頼田君に元気あげるね』

 そんな言葉で会話が終了した。

 朝川さんが元気をくれるらしい。
 なんだろう、言い方からして物ではなさそう。

「なんでもいいか。朝川さんがくれるんなら、何だって嬉しいし」

 単純な僕は明日を楽しみにして早々寝ることにした。




「あ、待ち合わせすればよかった」

 翌朝、いつもの電車、いつもの時間。僕は高校が見えたところで気が付いた。せっかく元気をもらえるのに、学校で生徒が沢山いたら渡してもらえないかもしれない。

 登校時間は同じくらいだから、教室に行くまでに会えたらいいなぁ。

「頼田くーん」

 そんなことを考えていたら、後ろから朝川さんの声がした。学校で朝川さんが大きな声を出すことはない。もしかして、これが“元気”かな? 振り向いた僕はそれが間違いだということを身をもって理解させられた。

「あ!」

 朝川さんより大声を出してしまった僕が固まる。朝川さんの周りがざわざわし始めた。

「なあ、あれ誰!? 可愛い!」

 うんうん、可愛いよね。朝川さん。僕だけが知っているはずだったのに、何故皆驚いているかと言うと。

 朝川さんが。

 マスクをしていないから!

 口をパクパクさせていたら、僕に追いついた朝川さんが僕に手を振った。

「おーい、びっくりした?」
「う、うん、すごく、今も」
「あはは、大成功。元気になった?」
「うん」

 昨日の夜からいろいろ予想していたけど、どれも違っていた。まさか、僕の一言で入学以来続けていたマスクを外すなんて思ってもみなかった。

「ふふ」
「ありがとう」
「それはこっちの科白だよ。ありがと」
「うん」

 素顔で登校した朝川さんは、朝日にも負けない眩しい笑顔だった。

 その日の朝川さんはなかなかに人気者だった。大っぴらに声をかける人はほとんどいなかったけど、遠巻きに見ているのは本人じゃない僕でも分かった。みんな分かりやすいなぁ。

 ちょっと寂しい気もするけど、それ以上の嬉しさがある。

 部活のある僕と違って朝川さんは早く帰っていった。帰り際、教室で僕にバイバイってするものだから、数人の男子にどういう関係か聞かれた。親友だと答えておいた。合ってる、よね。

「濃い一日だった」

 まるで今日が五十時間あったみたいな充実感。朝川さんはすごい。あの一歩は大きな一歩だ。

 僕も変えられるかな。

 そんなことを考えたら、急に心臓の鼓動が速くなった。

 胸に手を当てる。びっくりするくらい、手のひらに伝わってくる。

「生きてるもんね。生きてるんだから、もっと自由にしてもいいか」

 僕だってこうして人生を歩いている。時には間違うことだってあるけれど、進んでみないと何も分からない。朝川さんは身をもって教えてくれた。それなら僕も。ここからまた始めるんだ、新しい人生を。

「ただいま」
「おかえりー」

 いつもの調子のお母さんの声。僕を育ててくれている、暖かい声。いつだって味方をしてくれていた。もしかしたら、冷たい言葉が返ってくるかもしれない。でも、笑顔で抱きしめてくれるかもしれない。

 上手く行くことばかりじゃないって知っている。少しくらいつまずいたっていいじゃないか。未来は無限にあるんだから。

「お母さん。あのさ、聞いてほしいことがあるんだけど」