「どうしたの、それ」
母のその一言が僕というものに蓋をさせた。
それから六年、僕は今日も世界の全てから自分自身を偽って生きている。
僕はいつの間にかランドセルから学ランへ、今はブレザーを着ている。姿見に映る僕は何とも言えない顔をしている。いつものことだ。
ただし、僕は今日、昨日までの僕とは違うことをする。
「真琴、朝ご飯出来てるよ~」
「今行く!」
廊下から母の声が聞こえる。通学用のリュックサックを持って部屋を出た。リビングに入ると、姉と父がすでに座っていた。
「おはよう」
「おはよ」
適当に挨拶をして席に座る。手を合わせて食べ始めた。今日はベーコンエッグ。週に二回出る定番の朝ご飯メニュー。美味しいので文句は言わない。
「ごちそうさま。いってくる」
「いってらっしゃい」
先に食べ終えた父が立ち上がる。母が座ったまま父に手を振った。
毎日父は七時四十分に家を出る。十分後の電車に乗るらしい。僕はその二本後の八時二分の電車だ。
父と違ってしっかり歯磨きをして出かける準備をする。玄関で靴を履いていると、母が声をかけた。
「今日帰りが十七時くらいになるから、鍵忘れないで持っていってね」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを開けると、すでに夏の香りがした。もう六月になる。高校生になってあっという間の二か月だった。
家から徒歩六分の最寄り駅は学生で溢れていた。同じブレザーを着る学生も数人いた。しかし、知り合いではない。
やってきた電車に乗る。車内はもっと混んでいた。ドア横のポジションを手に入れられず、仕方なく奥へ体を滑らせる。
窓に映る僕はれっきとした男子高校生だ。ブレザーの裾を引っ張ってみる。何も変わらない。当たり前だ。選択したのはこの僕なのだから。
横に社会人の女性が立った。ちらりと視線だけ動かしてすぐに戻した。
オフィスカジュアルの服に、濃いめのメイク。あれくらいしても会社で文句を言われないんだ。
──羨ましい。
なんて思うのも、思うだけ。声には出さない。両手をつり革にかけ、僕は心の中でため息を吐いた。
『間もなく、舞川高校前です』
車内アナウンスが聞こえて体をドアに向ける。ドアが開いたところで、人々が動き出す。その流れに身を任せれば、すぐにホームに降りることが出来た。
「真琴」
後ろを振り返る。同じクラスの鈴木壮介がいた。
「おはよう。今日は遅いね」
「朝練が無かったんだ」
壮介は野球部に入っている。週に三回朝練があるらしい。ちなみに坊主ではない。坊主強制だったら違う部にしたと言っていた。壮介が僕に一歩近づく。
「な、英語の宿題やった? 写させてほしいんだけど」
「いいけど、宿題ちゃんとやらないとまた赤点取るよ」
「またって、まだ一回しか取ってないからセーフセーフ」
僕は壮介の楽観さに息を吐いた。壮介は良くも悪くも常にポジティブだ。一方、僕は周りの目ばかり気にする。
毎日宿題を忘れないのだって、真面目というよりはやらないで何か言われるのが怖いからだ。悪い状況になった時でも自分が言い返せるように、自分が不利なことにならないようにちゃんしているだけ。
「あーよかった。前野先生厳しいじゃん、俺に」
「壮介が不真面目過ぎるだけだから」
「そうかなぁ」
そう言って、壮介は笑った。きっと、この会話も何も気にしていない。羨ましいと思う。
日常の小さいことなんかこうして適当にあしらう方が圧倒的にストレスを溜めずに生きていかれる。それは理解している。しているのと実際やれるかどうかはまた違う。
学校に着き、昇降口で上履きに履き替えていると、壮介の背中が当たった。
「わ、ごめん」
「いいよ」
壮介は思いがけず慌てた顔をしていた。僕が壮介の後ろを覗くと、女子生徒が廊下を歩いていた。
「知ってる子だった?」
うちの高校は八クラスある。まだ入学して二か月では、クラスメートの顔と名前がやっと一致したくらいで、他のクラスは全然だ。
「ああ、まあ。魔女だよ」
壮介の一言で理解した。
魔女とはもちろんあだ名で、同じクラスの朝川奈子のことだ。いつも黒いマスクを付けていて、結んでいない黒髪の長髪も相まって雰囲気が魔女だと誰かが言い出した。目元にあるほくろもミステリアスに拍車をかけているらしい。
良い意味で付けられたものではないのは確かなので、僕はそのあだ名を口に出したことはない。勝手に周りに評価されるのは嬉しいことではないから。
「なんでマスクしてるんだろ。花粉症かな」
「風邪対策かもよ。行こ」
「うん」
魔女と呼ぶ壮介も、実際のところ彼女を嫌っているわけではないことを知っている。ただ、自分とは違う位置にいる人を物珍しく思っているだけだ。
二人で教室に入ると、近くにいたクラスメートに声をかけられた。同じように返して席に着く。朝川さんは僕の斜め前の席だ。
窓が少し開いていて、浅川さんの黒髪がそっと揺れた。綺麗なストレートだと思う。黒いマスクを付けているから髪が重くは見えるけれども、十分魅力的で、彼女の信念を感じた。
朝のHRが終わり、一時間目、二時間目と過ぎていく。間にトイレに行ったら、トイレで男子たちがげらげら笑って会話していた。後ろを素通りしてさっさと用を済ませた。
昼休みになり、前の席に座る青井尚が椅子を僕の机に付け、お弁当箱を置いた。
「やっとお昼なんだけど」
「三時間目終わりにパン食べてたでしょ」
「そうだけど、育ち盛りじゃん、俺」
尚だけじゃなくて、学校にいるほとんどが育ちざかりだと思う。
目の前のお調子者とは中学校から一緒だ。僕より話好きで、僕よりおちゃらけている。所謂いじられキャラの人気者。でも、一番の親友は僕だと言ってくれているので、僕もそう返している。
さっきパンを食べたはずの尚は、僕より大きいお弁当を勢いよく食べ始めた。
「良い食べっぷりだね」
「もっと褒めてもいいんだぞ」
にかっと笑う歯が眩しい。それから尚と中間テストの話をしていたら、あっという間に五時間目となった。
「あ、今日放課後は?」
「用事あるんだ。ごめん」
「そっか。またな」
今日は校内に業者が入るということで部活が無くなった。せっかくの誘いを断ったのは、行くところがあるからだ。生まれて初めて、そして一人で行く。緊張するけど、誰かと行くわけにはいかない。
六時間目が終わり、ようやく放課後が来た。僕は友だちへの挨拶もそこそこに、そそくさと教室を出た。
リュックサックの肩ベルトを強く握りしめて歩く。最寄り駅にはすでに同じ学校の生徒が数人溜まっていた。僕は一番奥に歩いていき、やってきた電車の端の車両に乗った。
最寄り駅では降りず、終点まで行く。乗り換えてもう一駅、ついに目的地にたどり着いた。
駅のトイレで制服を脱ぎ、私服に着替える。本当はあまりトイレで着替えたらいけないだろうけど、空いていたから勘弁してもらおう。手洗い場の鏡で軽くワックスを付けて髪型を変える。前髪を上げて、少しだけ下ろす。ネットで調べてみたけど、おしゃれに見えるかな。
「……誰もいないよね」
分かっているのにきょろきょろしてしまった。リュックの中を漁り、引っ掴んだリップクリームを口に塗る。ほんのり色づくというもので、近くで見てもあまり変わらないように思えた。それでも、僕には怖い一歩だ。
トイレから出られず鏡を睨んでいたら、誰かが入ってきた。慌てて外に出る。そうするともう出口が見えて、いよいよ足が震えてきた。
服も可愛めのTシャツに細身のパンツだから、別に変じゃないはず。それに、この駅ならもっともっと派手な人ばかりだ。
思い切って出口を通り過ぎて駅から出た。今日は快晴、平日だというのに人がいっぱいいる。わ、ゴスロリだ。格好良い。あっちにはパンクスタイルの人。
「あ」
「わっ」
変に思われない程度に周りを観察しながら人の流れに沿って進んでいたら、ふいに僕のリュックサックが引っ張られた。視線を向けるとロリータ服の人の鞄に付いているストラップが絡まっていた。
「ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。ストラップ壊れなかったですか?」
カチャカチャと鳴るストラップを眺めて聞く。ロリータさんは外れたストラップを軽く点検して僕を見て答えた。
「壊れてないです。失礼しました」
ぺこりとお辞儀をするロリータさんに僕は既視感を覚えていた。
はじめましてなはずなのに、はじめましてじゃない感じ。どこで会ったんだろう。黒髪ツインテールに涙ぼくろ……あれ……?
「……朝川さん?」
お辞儀をしていたロリータさんが目を真ん丸にして顔を上げた。
母のその一言が僕というものに蓋をさせた。
それから六年、僕は今日も世界の全てから自分自身を偽って生きている。
僕はいつの間にかランドセルから学ランへ、今はブレザーを着ている。姿見に映る僕は何とも言えない顔をしている。いつものことだ。
ただし、僕は今日、昨日までの僕とは違うことをする。
「真琴、朝ご飯出来てるよ~」
「今行く!」
廊下から母の声が聞こえる。通学用のリュックサックを持って部屋を出た。リビングに入ると、姉と父がすでに座っていた。
「おはよう」
「おはよ」
適当に挨拶をして席に座る。手を合わせて食べ始めた。今日はベーコンエッグ。週に二回出る定番の朝ご飯メニュー。美味しいので文句は言わない。
「ごちそうさま。いってくる」
「いってらっしゃい」
先に食べ終えた父が立ち上がる。母が座ったまま父に手を振った。
毎日父は七時四十分に家を出る。十分後の電車に乗るらしい。僕はその二本後の八時二分の電車だ。
父と違ってしっかり歯磨きをして出かける準備をする。玄関で靴を履いていると、母が声をかけた。
「今日帰りが十七時くらいになるから、鍵忘れないで持っていってね」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアを開けると、すでに夏の香りがした。もう六月になる。高校生になってあっという間の二か月だった。
家から徒歩六分の最寄り駅は学生で溢れていた。同じブレザーを着る学生も数人いた。しかし、知り合いではない。
やってきた電車に乗る。車内はもっと混んでいた。ドア横のポジションを手に入れられず、仕方なく奥へ体を滑らせる。
窓に映る僕はれっきとした男子高校生だ。ブレザーの裾を引っ張ってみる。何も変わらない。当たり前だ。選択したのはこの僕なのだから。
横に社会人の女性が立った。ちらりと視線だけ動かしてすぐに戻した。
オフィスカジュアルの服に、濃いめのメイク。あれくらいしても会社で文句を言われないんだ。
──羨ましい。
なんて思うのも、思うだけ。声には出さない。両手をつり革にかけ、僕は心の中でため息を吐いた。
『間もなく、舞川高校前です』
車内アナウンスが聞こえて体をドアに向ける。ドアが開いたところで、人々が動き出す。その流れに身を任せれば、すぐにホームに降りることが出来た。
「真琴」
後ろを振り返る。同じクラスの鈴木壮介がいた。
「おはよう。今日は遅いね」
「朝練が無かったんだ」
壮介は野球部に入っている。週に三回朝練があるらしい。ちなみに坊主ではない。坊主強制だったら違う部にしたと言っていた。壮介が僕に一歩近づく。
「な、英語の宿題やった? 写させてほしいんだけど」
「いいけど、宿題ちゃんとやらないとまた赤点取るよ」
「またって、まだ一回しか取ってないからセーフセーフ」
僕は壮介の楽観さに息を吐いた。壮介は良くも悪くも常にポジティブだ。一方、僕は周りの目ばかり気にする。
毎日宿題を忘れないのだって、真面目というよりはやらないで何か言われるのが怖いからだ。悪い状況になった時でも自分が言い返せるように、自分が不利なことにならないようにちゃんしているだけ。
「あーよかった。前野先生厳しいじゃん、俺に」
「壮介が不真面目過ぎるだけだから」
「そうかなぁ」
そう言って、壮介は笑った。きっと、この会話も何も気にしていない。羨ましいと思う。
日常の小さいことなんかこうして適当にあしらう方が圧倒的にストレスを溜めずに生きていかれる。それは理解している。しているのと実際やれるかどうかはまた違う。
学校に着き、昇降口で上履きに履き替えていると、壮介の背中が当たった。
「わ、ごめん」
「いいよ」
壮介は思いがけず慌てた顔をしていた。僕が壮介の後ろを覗くと、女子生徒が廊下を歩いていた。
「知ってる子だった?」
うちの高校は八クラスある。まだ入学して二か月では、クラスメートの顔と名前がやっと一致したくらいで、他のクラスは全然だ。
「ああ、まあ。魔女だよ」
壮介の一言で理解した。
魔女とはもちろんあだ名で、同じクラスの朝川奈子のことだ。いつも黒いマスクを付けていて、結んでいない黒髪の長髪も相まって雰囲気が魔女だと誰かが言い出した。目元にあるほくろもミステリアスに拍車をかけているらしい。
良い意味で付けられたものではないのは確かなので、僕はそのあだ名を口に出したことはない。勝手に周りに評価されるのは嬉しいことではないから。
「なんでマスクしてるんだろ。花粉症かな」
「風邪対策かもよ。行こ」
「うん」
魔女と呼ぶ壮介も、実際のところ彼女を嫌っているわけではないことを知っている。ただ、自分とは違う位置にいる人を物珍しく思っているだけだ。
二人で教室に入ると、近くにいたクラスメートに声をかけられた。同じように返して席に着く。朝川さんは僕の斜め前の席だ。
窓が少し開いていて、浅川さんの黒髪がそっと揺れた。綺麗なストレートだと思う。黒いマスクを付けているから髪が重くは見えるけれども、十分魅力的で、彼女の信念を感じた。
朝のHRが終わり、一時間目、二時間目と過ぎていく。間にトイレに行ったら、トイレで男子たちがげらげら笑って会話していた。後ろを素通りしてさっさと用を済ませた。
昼休みになり、前の席に座る青井尚が椅子を僕の机に付け、お弁当箱を置いた。
「やっとお昼なんだけど」
「三時間目終わりにパン食べてたでしょ」
「そうだけど、育ち盛りじゃん、俺」
尚だけじゃなくて、学校にいるほとんどが育ちざかりだと思う。
目の前のお調子者とは中学校から一緒だ。僕より話好きで、僕よりおちゃらけている。所謂いじられキャラの人気者。でも、一番の親友は僕だと言ってくれているので、僕もそう返している。
さっきパンを食べたはずの尚は、僕より大きいお弁当を勢いよく食べ始めた。
「良い食べっぷりだね」
「もっと褒めてもいいんだぞ」
にかっと笑う歯が眩しい。それから尚と中間テストの話をしていたら、あっという間に五時間目となった。
「あ、今日放課後は?」
「用事あるんだ。ごめん」
「そっか。またな」
今日は校内に業者が入るということで部活が無くなった。せっかくの誘いを断ったのは、行くところがあるからだ。生まれて初めて、そして一人で行く。緊張するけど、誰かと行くわけにはいかない。
六時間目が終わり、ようやく放課後が来た。僕は友だちへの挨拶もそこそこに、そそくさと教室を出た。
リュックサックの肩ベルトを強く握りしめて歩く。最寄り駅にはすでに同じ学校の生徒が数人溜まっていた。僕は一番奥に歩いていき、やってきた電車の端の車両に乗った。
最寄り駅では降りず、終点まで行く。乗り換えてもう一駅、ついに目的地にたどり着いた。
駅のトイレで制服を脱ぎ、私服に着替える。本当はあまりトイレで着替えたらいけないだろうけど、空いていたから勘弁してもらおう。手洗い場の鏡で軽くワックスを付けて髪型を変える。前髪を上げて、少しだけ下ろす。ネットで調べてみたけど、おしゃれに見えるかな。
「……誰もいないよね」
分かっているのにきょろきょろしてしまった。リュックの中を漁り、引っ掴んだリップクリームを口に塗る。ほんのり色づくというもので、近くで見てもあまり変わらないように思えた。それでも、僕には怖い一歩だ。
トイレから出られず鏡を睨んでいたら、誰かが入ってきた。慌てて外に出る。そうするともう出口が見えて、いよいよ足が震えてきた。
服も可愛めのTシャツに細身のパンツだから、別に変じゃないはず。それに、この駅ならもっともっと派手な人ばかりだ。
思い切って出口を通り過ぎて駅から出た。今日は快晴、平日だというのに人がいっぱいいる。わ、ゴスロリだ。格好良い。あっちにはパンクスタイルの人。
「あ」
「わっ」
変に思われない程度に周りを観察しながら人の流れに沿って進んでいたら、ふいに僕のリュックサックが引っ張られた。視線を向けるとロリータ服の人の鞄に付いているストラップが絡まっていた。
「ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。ストラップ壊れなかったですか?」
カチャカチャと鳴るストラップを眺めて聞く。ロリータさんは外れたストラップを軽く点検して僕を見て答えた。
「壊れてないです。失礼しました」
ぺこりとお辞儀をするロリータさんに僕は既視感を覚えていた。
はじめましてなはずなのに、はじめましてじゃない感じ。どこで会ったんだろう。黒髪ツインテールに涙ぼくろ……あれ……?
「……朝川さん?」
お辞儀をしていたロリータさんが目を真ん丸にして顔を上げた。