ずっと、他からどう思われるかばかり考えてた。俺の今までの人生では、それが当たり前だったから。普通なんて一マイクロたりとも存在しないこの世界で、常に普通でい続けようとした。それが、他とは違う『欠陥』と言う名の様々なマイノリティを抱えて生まれてきた者たちのエゴだとさえ思っていた。だけど、そんな考えが変わったのは、今でも目を瞑れば鮮明に蘇ってくるあの日の記憶。
「響、落ち着いたか」
「……ああ。っ気遣い感謝する」響は乱れた息を落ち着けようと、必死で肩を上下させた。
「響、悩みを吐き出してくれて、サンキュな。勇気いるよな、ほんと、怖いよな。だけど俺に話してくれた」
俺はまだ、お前に言えていないことがある。それはたった一つだけなのに、それがあまりに重くて、大きくて、これからも一人で背負い続けるのは難しい。そう思っている。……だから、君にずっと、打ち明けたかった。
「……っ、響」
市営プールには、今は俺と響の二人しかいない。響の手首を掴むと、すぐに俺の方を向いてくれる。口うるさい俺を、優しく広い心で一蹴してくれるのは響しかいない。君といる時しか、俺は幸せを感じられない。響がいつか、俺の手を離して、どこかに行ってしまったら──。他人になってしまったら。俺はきっと一生立ち直れないだろう。響、俺、お前に言わなきゃいけないことがある。ずっとそれを打ち明けるのが怖くて、それを伝えてしまったら、君が俺から離れて行ってしまうんじゃないかと、ずっとそう思って行動に移せていなかった。だけど、本当は分かりきっていたはすだ。響は絶対に、そんな冷酷な奴じゃないって。俺のありのままの醜い姿を知っても、響は何も思わないって。
「景……?」
俺の目を覗き込む響の双眸が、僅かに揺れ動く。俺が今から言わんとしていることを分かっているような目だ。
「……っ」
俺は話せなかった。また、口を開けなかった。目から涙がこぼれ落ちる。体全身が震えている。その震えの中で、必死に声を押し殺して、こんなにも弱くて何もない自分に嫌気が差した。
「話さなくていい」そう言って、響は俺を強く抱きしめた。触れた全てのところから、響が伝えたいこと全部、ダイレクトに伝わってくる。響はもう気づいている。俺はゲイで、女子じゃなくて男子を好きになってしまう。
「景、大丈夫だ。おれも同じだから」
その言葉に、どれだけ救われたか。似通った者同士でしか分かり合えないものが溢れるこのご時世、俺はようやく同士を見つけられた。ずっと、自分は独りなんだと思っていた。苦しくて、切なくて、自然と涙が零れ落ちる。響は泣くのを堪えているように見えた。強く強く抱きしめ合う。背中に爪痕が残るくらい、強引に。
だけど今は、その痛みが安心材料だった。
「……響も、ゲイ、なんだよね」
「一概には言えねえけど、自分はこれまで、バイセクシュアルの人間だったんだって気づいた。それで今は、ゲイなのかも」
バイセクシュアル──それは、性的指向が定まっていない人のことを指す名称だ。そっか、と俺は頷いた。
「俺も、ゲイだよ。今まで隠してて、ごめん。もう隠し事はしない」秘密を作ることがここまで苦しいなんて知らなかった。俺達は強く、指切りげんまんをした。それから、強く抱きしめ合ったままプールに勢いよく潜り込んだ。始めたのは俺だった。響も最初こそ驚いた表情をしていたけれど、水の中で楽しそうに笑っていた。暫く潜り込んでいたけれど、息が苦しくなって、同時に浮かび上がった。
「響……っ、俺、も、息できねえ」精一杯伝えた。息を整えながら、俺たちは目配せした。目が合って、何だか少し気恥ずかしくて、すぐに同時に吹き出した。
「ふはっ」
「あははっ……!」お腹を抱えて笑い合う。
「─響、俺、なんか超しあわせだ」弾ける笑顔と共に、背中に羽根が生えたように軽く、そう言えた。響の顔が赤で染まって、甘く綻ぶ。
「おれもだよ、景」今なら言える気がした。響はゆっくりと流れる川のごとく、柔和な笑みを浮かべて、海のように深く広い余裕と優しさを横たわらせて、そこにいる。俺の、目の前に。手が届く距離にいることが、こんなにも愛おしい。今すぐにこの手で触れたくて、どうしようもなかった。
「響。俺、これからも響と一緒にいたい。響がいないと駄目になっちまった」
こんなカッコ悪いこと、言うはずじゃなかった。だけど、どうしても伝えたくなったんだ。俺達の関係に、名前なんてつけられない。俺と響は、両片想いだとか、恋人だとかの代名詞で括り付けられる関係じゃない。もっと深くて、遠いところに俺達はいる。駄菓子が恋しくなったら、またあのおばあちゃんのお店に行こう。互いに手を強く握ったまま、新しい場所に行こう。だって、君と見る景色は、信じられないくらい、美しいのだから。俺が響を愛しいと思う気持ちが、優しさと美しさを連れて来る。綺麗という名のベールに包まれて、俺たちは静かに眠っている。ずっとそのままでいたい。君の隣で、安心して眠りたい。
「なあ、景。おれ達、ずっと一緒にいような」
「ああ。俺だってそうしたい。響と一緒に、新しい朝を迎えたいよ」これは、切ないくらいに温かい、俺達二人だけの物語。ねえ、響───。君は今、幸せですか。俺は今、幸せの淵にいます。俺と同じ気持ちなんだと、本気でそう盲信してもいいですか。まだまだ解決しないといけないことは山ほどある。俺達はまだ、己の弱さと本当の意味で向き合えていない。
「景はおれの一部だ。もう、景なしじゃ生きられない」照れたように笑う響と、透き通るほどに冷たいプールの中でまた抱き合った。
「永松景です。趣味は駄菓子を食べること、特技は駄菓子全制覇!」
キラキラと瞳を輝かして、景は張り切ってそう言った。僕は信じられないくらいに笑った。面白かったから。だから僕は、すぐに景に話しかけた。凄く整った容姿をした景の隣に並ぶのは不釣り合いすぎたけど、僕はどうしても彼の側にいたかった。我儘だったって、迷惑だったって、ちゃんと分かってたよ。景が本当に仲良くしたいのは、緒方くんなんだもんね。そんなの、いつも君の横顔を見ていた僕だからすぐに分かった。
君の視線の先には、いつも一人で不機嫌そうにしてる緒方くんがいる。なんで彼がそんなに想われるんだ、と嫉妬した。自分には何もないから。綺麗な人は、自分よりも綺麗な人を求める。だから緒方くんは、それにピッタリ当てはまってた人なんだろうな。だって、悔しいけど、彼も凄く綺麗な男の子だったから。
「祐里、今日残る?」
「うん、景は?」こんな会話も、後何回交わせるのだろう。景と目を合わせられる資格は、果たしていつまでが期限なのだろう。ずっとそんなことばかり考えては、自分で心を握り潰して、息もできない毎日が続いた。僕は馬鹿なやつだ。どうしたって他人にどう思われているのかを最優先に考えて、身動きを取れないままでいる。
「俺も当然残る。模試近えし」
「へえ。景は凄いなあー、今日も模試の勉強か」
「そんなん言ったら、祐里は土日も塾に行ってるじゃねえか。一日中勉強して、げっそりした状態で家に帰って、妹の世話をする。……それだけでほんと、十分すぎるくらい凄えことやってるよ、祐里は」景は真面目な話をする時、決まってこの目をする。真剣で、まっすぐで、熱のこもった瞳。僕はそれに見つめられるだけで、どうしようもなく感情が高ぶる。この感情を何と呼ぶのかはまだ分からない。……だけど、近い将来、僕はその感情の名を知ることになるだろう。それは僕にとって、とんでもなく怖いことだったりする。
「景、今日のお昼は……」
「ごめん、祐里。今日は一緒には食べられない」緒方くんとの一件が過ぎた後から、景は僕によそよそしくなった。それはもう一ヶ月と続いていて、さすがの僕ももうすぐで精神の限界が近かった。
「そ、そっか。なら、あした……明日はどう?」だけど簡単には引き下がらない僕を見て、景が眉を八の字に曲げる。困らせてるって分かってるけど、それでもやめられない理由ってのがある。僕が景を諦められない理由。それは、ゲイだから。僕は昔から男の子しか好きになれなかった。僕みたいなやつが好意を向けたって、きっとキモがられて、避けられて終わりだろう。
「明日なら大丈夫。その時は一緒に食べよう」
「うん、……ありがと」それしか言えなかった。それ以外の言葉なんて思い浮かばなかった。きっとそれだけ僕たちの関係も浅いままに儚く散ってしまうことだろう。そんなの嫌なのに、僕には行動する権利も義務も資格もない。
それを言ったら何もできやしないじゃないかと言われたらそこまでなのだけど、だからこそ僕はこれ以上先には進めないんだ。君はここまでだ、と駅員さんのような存在に境界線を引かれてしまう。それが凄く、僕の心に悲壮感を連れてくる。僕はこれまでもそんな人生ばかりを歩んできた。
よし、行こう。靴紐をきつく結んで、俺は顔を上げて前を見た。しなければいけないことがある。今までそれに目を背けてばかりいたけれど、もういい加減行動しないと。俺の内面が廃れていくばかりだ。
「響、行ってくる」
まだ俺の家の寝室のベッドの上で気持ちよさそうな眠りについている響にそう心の中で声をかけて、俺は家を出た。施錠をした後に向かう先は、他でもない祐里の家。インターホンを押して、祐里が出てくるのを待つ。あいつはすぐに出てきてくれる。当たり前のように、俺は楽観的に考えてしまっていた。人の心は時間の流れと共に自然と移ろいで行くものなのに、俺はきっと大丈夫だろうと、祐里なら許してくれるだろうと、同じ明日は必ずそこに在ると、馬鹿みたいにそう思っていた。そんなご都合主義では生きられない世の中だと知っていたはずなのに。何分待っても、何時間待っても、祐里がその家から姿を現すことはなかった。そこは真っ暗で、負の感情がゆったりと黒い靄のようなものを携えて横たわっていた。
「……祐里」俺は、段々と大きく広がっていく焦りと動揺の中で、確かな後悔と気だるさを心の一番奥深くに引き入れた。
最近景の様子がおかしい。それは時々なんてレベルじゃない。四六時中、おれが話しかけてもおれと一緒に昼飯を食べていても一緒に帰路についていても、どこか上の空なのだ。別に、おれ達は付き合ってるとかそういうんじゃないから、おれは何も言えないんだけど……。
これ以上景とどう距離を縮めたらいいか分からない。おれは今、悩んでいる。こんな悩みは今まで他人と交わってこなかったおれにとって初めてで、がんじがらめ状態から抜け出せない。閉塞感に陥ってしまっているような感じもしないから、何か悩みがあるのかとかそういうことを容易に訊けないのが苦しい。
「景」
「何?」
「今日の夜さ、映画見ない?」季節は移ろいで行く。早すぎる時の流れと同じくらいに、残酷に。
「いいよ。何見る?」
「『ひだまりが聴こえる』……っていう映画」
「へえ、どんなやつ?」景の曇りなきまっすぐな目がおれを見つめている。おれはやや緊張した面持ちで端的に告げた。
「杉原航平ってヤツが、中学生の頃に発症した突発性難聴が原因で、人との関わりを避けるようになって……。だけどそんな航平は、底抜けに明るい佐川太一って奴に出会うんだ。その出会いが、航平を変えていく、そんな映画」
おれは昔からこの映画が好きだった。お母さんは知らない。だって、BL映画を見ていると知られたら、変な目で見られるかもしれないから。『お前、男なのに?』って視線をどうしても向けられたくなかったんだ。生まれた時から色盲だったおれは、当然他と自分を比べては嫌悪感に陥って、劣等感に膝をついて、前を向けずにいた。そんな中、小学五年生の時に出会ったのが『ひだまりが聴こえる』だった。
「聴こえないのはお前のせいじゃないだろ!」
この太一の強くてまっすぐな言葉が、おれを心から救ってくれた。おれは航平と自分を重ねることで、「自分は独りじゃない」と何度も何度も自分に言い聞かせていた。それで言えば、この映画はおれの唯一の『居場所』だった。イタいヤツだと思われるかもしれないが、あの頃は本気でそう思っていた。
「……そっか、それ、すげえ面白そう。絶対に見よう」
景は確かにそう言ってくれた。おれの目を見て、一言一句はっきりと。──だけど。景はその夜、家にいなかった。抜け殻のようにからっぽで真っ暗な部屋の中で、体を限界にまで縮こまらせて、目を強く瞑り、時間が流れていくのをただひたすらと待っていた。
朝が来ない。そう思い始めて、もう一週間が経とうとしている。僕の世界だけいつもまっくらで、とてつもない不安に駆られることが最近は多くなった。もう高校も夏休みに入って、皆がキャッキャと楽しそうに騒いでいるそこに、僕だけがいない。誰も、僕に元気がないことに気づかない。そのことに安心して、気づかれないことに胸が苦しくなって、星さえも瞬かない日々になっていた。
「……はあ」ため息をこぼすのはこれでもう何度目か。最初の方こそため息防止として数えていたものの、途中から数えなくなっていた。今日もインターホンが鳴り響く。朝から夜まで、一時間置きにずっと。
──ピーンポーン……。ほら、また鳴った。僕は本のページをまた一つ捲る。ただ無心に、綺麗な文体を読み進める。読みさし読みさししながら、倦怠感と共にある言い知れない幸福に浸っている。好きな男にこうして毎日家に来られて、ずっと玄関の扉の前で待機されて、ゆったりとしながら過ごす日々が僕の心を満たしてくれる。スマホのコール音が部屋に充満する。プルルルル、プルルルル、と鳴り続ける。普段だったら鬱陶しいその音が、今は泣きたいくらいに切ない。出ようかと一瞬迷う。だけどその一歩を踏み出せない。
「祐里~!ご飯よ、いい加減降りてきなさーい!」
母さんもきっと分かってる。僕が景のことを好きで、その景と今仲違いしていることも。母さんもいい迷惑だろうに、こうして何も知らない風を出してくれているんだ。
「はーい……」
一階に降りてリビングに入ると、そこには父さんと母さん、そして今年で五歳になる妹の芽衣がいた。皆の視線が僕に突き刺さる。父さんは感情の読めない目をして、何か言いたげな感じで視線を送って来る。母さんは困り眉で食卓に夕飯を並べている最中だった。芽衣は何も知らないまま、ただ楽しそうにおままごとに興じていた。芽衣の純粋無垢な幼さに、今はなぜだか心が救われる。母さんと父さんと目を合わせるのは気まずくて、やりきれない想いが溢れて取り返しがつかなくなりそうだったからすぐに下を向いた。
「祐里、これ、よろしくね」
四人分の透明なガラスのコップとともに麦茶が静かに置かれていた。肩をトントンと優しく叩かれて、僕は反射的に頷いた。
「うん」
とぽとぽとグラスに注いでいく。透明なガラスコップが、瞬時に鮮やかなこげ茶色に染まる。リビングダイニングのオレンジ色の照明に照らされて、その光を透かすそれが目に映えて美しい。
「それじゃあ、いっただきまーす!」芽衣の掛け声を合図に、一斉に手を合わせて食に箸を付けた。満腹になり、眠たくなってきた。僕の隣の席では芽衣がうとうとし始めている。それを見た母さんが慌てて芽衣の口に夕飯を含ませ、歯磨きをしてあげていた。そんな慌ただしい姿を横目に、僕はただぐったりとしていた。目にはクマが浮かんでいて、顔色が物凄く悪いだろう。父さんがさっきからチラチラと落ち着かない視線を送って来る。
「……なに」
「……っ!いや、別に~?」父さんは冷や汗を流す。その目は泳ぎまくっている。肝心な時にこうして取り乱してしまう所が父さんの短所だったりする。
「そんな頑張って否定しなくていいよ。父さん、僕に何か訊きたいことがあるんでしょ。なら遠慮せずに訊きなよ」
「っう、えっと、そのだなあ」
「……、祐里、最近友達とどうなんだ?」
そう決心したように訊いてきた。若干緊張した様子で訊いてくるものだから、僕にもその緊張が伝染してしまう。心臓が圧迫されていくのが分かった。
「……別に、変わんないよ」
そう、変わっていない。僕と景の関係は、あの春の日から何一つ変わっちゃいない。景にとって僕はどんな人間なのだろうか。そう心の中で問いかけたのは今でもう何度目か。
「嘘つけ。だったら、祐里が今元気じゃないのはおかしい」父さんはちゃんと僕を分かった上でそう発言している。だから僕も変に癇癪を起こして返事をすることができない。
「なんで、」
「なんでって……そんなの簡単なことだろう。学年一位の成績を誇るお前が何を言う」
父さんが心外だという表情をして訴えかけてくる。僕は何を言えばいいか迷った。だけど、何を言うべきか明確に分かっている気もした。息を深く吸って、体中の汚物を吐き出すかの如く息を吐く。大きく深呼吸をすることで、こんなにも視界が広くなる。見える幅が圧倒的なまでに違うんだ。
「父さん、僕、これからどうするべきかな。景のこと、大事にしたい。その気持ちは今も変わらずにここにある。……けど、僕にとっての景が唯一無二な存在なのに対して、景にとっての僕は別にいつでも切れる存在なんだ。それが、信じられないくらい苦しい」
父さんになら何だって話せる気がした。今なら、母さんにも打ち明けられるかもしれない。父さんはただ静かに、真剣に、僕の話に耳を傾けてくれていた。普段はジムに通って体を鍛え、凄く体格の良い厳格な父親のように見える父さんだけど、本当はそれだけじゃないんだ。父さんが誰よりもかっこいい理由は、息子の悩みを聞いて、ちゃんと相談に乗ってくれる人。ここにあると思うんだ。
「祐里。今はどんなに世界が暗く落ちて見えようとも、いつか浮上して、また陽の目を見る時は必ず来る」
父さんもそうだったから、と僕の手を強く握りしめて言った。僕は泣きたくなるのを必死に堪える。
「父さん……っ僕にできるかな」主語なんてなかった。だけど父さんは僕の意志を全て読み取って、どこまでも真摯な瞳で強く、強く頷いた。
───ねえ、景。今までごめん。僕、こんなにも弱い自分が情けなくて仕方ないよ。大切な人から逃げたって、何にもならないのに。……そろそろ、ちゃんと現実と向き合わなきゃね。きっと大丈夫。だって景は、わざわざ人を傷つけるようなことは言わない人だから。ようやく冷たく暗い夜に、金色に輝き、繊細に瞬く星が見えてきた。
「響、落ち着いたか」
「……ああ。っ気遣い感謝する」響は乱れた息を落ち着けようと、必死で肩を上下させた。
「響、悩みを吐き出してくれて、サンキュな。勇気いるよな、ほんと、怖いよな。だけど俺に話してくれた」
俺はまだ、お前に言えていないことがある。それはたった一つだけなのに、それがあまりに重くて、大きくて、これからも一人で背負い続けるのは難しい。そう思っている。……だから、君にずっと、打ち明けたかった。
「……っ、響」
市営プールには、今は俺と響の二人しかいない。響の手首を掴むと、すぐに俺の方を向いてくれる。口うるさい俺を、優しく広い心で一蹴してくれるのは響しかいない。君といる時しか、俺は幸せを感じられない。響がいつか、俺の手を離して、どこかに行ってしまったら──。他人になってしまったら。俺はきっと一生立ち直れないだろう。響、俺、お前に言わなきゃいけないことがある。ずっとそれを打ち明けるのが怖くて、それを伝えてしまったら、君が俺から離れて行ってしまうんじゃないかと、ずっとそう思って行動に移せていなかった。だけど、本当は分かりきっていたはすだ。響は絶対に、そんな冷酷な奴じゃないって。俺のありのままの醜い姿を知っても、響は何も思わないって。
「景……?」
俺の目を覗き込む響の双眸が、僅かに揺れ動く。俺が今から言わんとしていることを分かっているような目だ。
「……っ」
俺は話せなかった。また、口を開けなかった。目から涙がこぼれ落ちる。体全身が震えている。その震えの中で、必死に声を押し殺して、こんなにも弱くて何もない自分に嫌気が差した。
「話さなくていい」そう言って、響は俺を強く抱きしめた。触れた全てのところから、響が伝えたいこと全部、ダイレクトに伝わってくる。響はもう気づいている。俺はゲイで、女子じゃなくて男子を好きになってしまう。
「景、大丈夫だ。おれも同じだから」
その言葉に、どれだけ救われたか。似通った者同士でしか分かり合えないものが溢れるこのご時世、俺はようやく同士を見つけられた。ずっと、自分は独りなんだと思っていた。苦しくて、切なくて、自然と涙が零れ落ちる。響は泣くのを堪えているように見えた。強く強く抱きしめ合う。背中に爪痕が残るくらい、強引に。
だけど今は、その痛みが安心材料だった。
「……響も、ゲイ、なんだよね」
「一概には言えねえけど、自分はこれまで、バイセクシュアルの人間だったんだって気づいた。それで今は、ゲイなのかも」
バイセクシュアル──それは、性的指向が定まっていない人のことを指す名称だ。そっか、と俺は頷いた。
「俺も、ゲイだよ。今まで隠してて、ごめん。もう隠し事はしない」秘密を作ることがここまで苦しいなんて知らなかった。俺達は強く、指切りげんまんをした。それから、強く抱きしめ合ったままプールに勢いよく潜り込んだ。始めたのは俺だった。響も最初こそ驚いた表情をしていたけれど、水の中で楽しそうに笑っていた。暫く潜り込んでいたけれど、息が苦しくなって、同時に浮かび上がった。
「響……っ、俺、も、息できねえ」精一杯伝えた。息を整えながら、俺たちは目配せした。目が合って、何だか少し気恥ずかしくて、すぐに同時に吹き出した。
「ふはっ」
「あははっ……!」お腹を抱えて笑い合う。
「─響、俺、なんか超しあわせだ」弾ける笑顔と共に、背中に羽根が生えたように軽く、そう言えた。響の顔が赤で染まって、甘く綻ぶ。
「おれもだよ、景」今なら言える気がした。響はゆっくりと流れる川のごとく、柔和な笑みを浮かべて、海のように深く広い余裕と優しさを横たわらせて、そこにいる。俺の、目の前に。手が届く距離にいることが、こんなにも愛おしい。今すぐにこの手で触れたくて、どうしようもなかった。
「響。俺、これからも響と一緒にいたい。響がいないと駄目になっちまった」
こんなカッコ悪いこと、言うはずじゃなかった。だけど、どうしても伝えたくなったんだ。俺達の関係に、名前なんてつけられない。俺と響は、両片想いだとか、恋人だとかの代名詞で括り付けられる関係じゃない。もっと深くて、遠いところに俺達はいる。駄菓子が恋しくなったら、またあのおばあちゃんのお店に行こう。互いに手を強く握ったまま、新しい場所に行こう。だって、君と見る景色は、信じられないくらい、美しいのだから。俺が響を愛しいと思う気持ちが、優しさと美しさを連れて来る。綺麗という名のベールに包まれて、俺たちは静かに眠っている。ずっとそのままでいたい。君の隣で、安心して眠りたい。
「なあ、景。おれ達、ずっと一緒にいような」
「ああ。俺だってそうしたい。響と一緒に、新しい朝を迎えたいよ」これは、切ないくらいに温かい、俺達二人だけの物語。ねえ、響───。君は今、幸せですか。俺は今、幸せの淵にいます。俺と同じ気持ちなんだと、本気でそう盲信してもいいですか。まだまだ解決しないといけないことは山ほどある。俺達はまだ、己の弱さと本当の意味で向き合えていない。
「景はおれの一部だ。もう、景なしじゃ生きられない」照れたように笑う響と、透き通るほどに冷たいプールの中でまた抱き合った。
「永松景です。趣味は駄菓子を食べること、特技は駄菓子全制覇!」
キラキラと瞳を輝かして、景は張り切ってそう言った。僕は信じられないくらいに笑った。面白かったから。だから僕は、すぐに景に話しかけた。凄く整った容姿をした景の隣に並ぶのは不釣り合いすぎたけど、僕はどうしても彼の側にいたかった。我儘だったって、迷惑だったって、ちゃんと分かってたよ。景が本当に仲良くしたいのは、緒方くんなんだもんね。そんなの、いつも君の横顔を見ていた僕だからすぐに分かった。
君の視線の先には、いつも一人で不機嫌そうにしてる緒方くんがいる。なんで彼がそんなに想われるんだ、と嫉妬した。自分には何もないから。綺麗な人は、自分よりも綺麗な人を求める。だから緒方くんは、それにピッタリ当てはまってた人なんだろうな。だって、悔しいけど、彼も凄く綺麗な男の子だったから。
「祐里、今日残る?」
「うん、景は?」こんな会話も、後何回交わせるのだろう。景と目を合わせられる資格は、果たしていつまでが期限なのだろう。ずっとそんなことばかり考えては、自分で心を握り潰して、息もできない毎日が続いた。僕は馬鹿なやつだ。どうしたって他人にどう思われているのかを最優先に考えて、身動きを取れないままでいる。
「俺も当然残る。模試近えし」
「へえ。景は凄いなあー、今日も模試の勉強か」
「そんなん言ったら、祐里は土日も塾に行ってるじゃねえか。一日中勉強して、げっそりした状態で家に帰って、妹の世話をする。……それだけでほんと、十分すぎるくらい凄えことやってるよ、祐里は」景は真面目な話をする時、決まってこの目をする。真剣で、まっすぐで、熱のこもった瞳。僕はそれに見つめられるだけで、どうしようもなく感情が高ぶる。この感情を何と呼ぶのかはまだ分からない。……だけど、近い将来、僕はその感情の名を知ることになるだろう。それは僕にとって、とんでもなく怖いことだったりする。
「景、今日のお昼は……」
「ごめん、祐里。今日は一緒には食べられない」緒方くんとの一件が過ぎた後から、景は僕によそよそしくなった。それはもう一ヶ月と続いていて、さすがの僕ももうすぐで精神の限界が近かった。
「そ、そっか。なら、あした……明日はどう?」だけど簡単には引き下がらない僕を見て、景が眉を八の字に曲げる。困らせてるって分かってるけど、それでもやめられない理由ってのがある。僕が景を諦められない理由。それは、ゲイだから。僕は昔から男の子しか好きになれなかった。僕みたいなやつが好意を向けたって、きっとキモがられて、避けられて終わりだろう。
「明日なら大丈夫。その時は一緒に食べよう」
「うん、……ありがと」それしか言えなかった。それ以外の言葉なんて思い浮かばなかった。きっとそれだけ僕たちの関係も浅いままに儚く散ってしまうことだろう。そんなの嫌なのに、僕には行動する権利も義務も資格もない。
それを言ったら何もできやしないじゃないかと言われたらそこまでなのだけど、だからこそ僕はこれ以上先には進めないんだ。君はここまでだ、と駅員さんのような存在に境界線を引かれてしまう。それが凄く、僕の心に悲壮感を連れてくる。僕はこれまでもそんな人生ばかりを歩んできた。
よし、行こう。靴紐をきつく結んで、俺は顔を上げて前を見た。しなければいけないことがある。今までそれに目を背けてばかりいたけれど、もういい加減行動しないと。俺の内面が廃れていくばかりだ。
「響、行ってくる」
まだ俺の家の寝室のベッドの上で気持ちよさそうな眠りについている響にそう心の中で声をかけて、俺は家を出た。施錠をした後に向かう先は、他でもない祐里の家。インターホンを押して、祐里が出てくるのを待つ。あいつはすぐに出てきてくれる。当たり前のように、俺は楽観的に考えてしまっていた。人の心は時間の流れと共に自然と移ろいで行くものなのに、俺はきっと大丈夫だろうと、祐里なら許してくれるだろうと、同じ明日は必ずそこに在ると、馬鹿みたいにそう思っていた。そんなご都合主義では生きられない世の中だと知っていたはずなのに。何分待っても、何時間待っても、祐里がその家から姿を現すことはなかった。そこは真っ暗で、負の感情がゆったりと黒い靄のようなものを携えて横たわっていた。
「……祐里」俺は、段々と大きく広がっていく焦りと動揺の中で、確かな後悔と気だるさを心の一番奥深くに引き入れた。
最近景の様子がおかしい。それは時々なんてレベルじゃない。四六時中、おれが話しかけてもおれと一緒に昼飯を食べていても一緒に帰路についていても、どこか上の空なのだ。別に、おれ達は付き合ってるとかそういうんじゃないから、おれは何も言えないんだけど……。
これ以上景とどう距離を縮めたらいいか分からない。おれは今、悩んでいる。こんな悩みは今まで他人と交わってこなかったおれにとって初めてで、がんじがらめ状態から抜け出せない。閉塞感に陥ってしまっているような感じもしないから、何か悩みがあるのかとかそういうことを容易に訊けないのが苦しい。
「景」
「何?」
「今日の夜さ、映画見ない?」季節は移ろいで行く。早すぎる時の流れと同じくらいに、残酷に。
「いいよ。何見る?」
「『ひだまりが聴こえる』……っていう映画」
「へえ、どんなやつ?」景の曇りなきまっすぐな目がおれを見つめている。おれはやや緊張した面持ちで端的に告げた。
「杉原航平ってヤツが、中学生の頃に発症した突発性難聴が原因で、人との関わりを避けるようになって……。だけどそんな航平は、底抜けに明るい佐川太一って奴に出会うんだ。その出会いが、航平を変えていく、そんな映画」
おれは昔からこの映画が好きだった。お母さんは知らない。だって、BL映画を見ていると知られたら、変な目で見られるかもしれないから。『お前、男なのに?』って視線をどうしても向けられたくなかったんだ。生まれた時から色盲だったおれは、当然他と自分を比べては嫌悪感に陥って、劣等感に膝をついて、前を向けずにいた。そんな中、小学五年生の時に出会ったのが『ひだまりが聴こえる』だった。
「聴こえないのはお前のせいじゃないだろ!」
この太一の強くてまっすぐな言葉が、おれを心から救ってくれた。おれは航平と自分を重ねることで、「自分は独りじゃない」と何度も何度も自分に言い聞かせていた。それで言えば、この映画はおれの唯一の『居場所』だった。イタいヤツだと思われるかもしれないが、あの頃は本気でそう思っていた。
「……そっか、それ、すげえ面白そう。絶対に見よう」
景は確かにそう言ってくれた。おれの目を見て、一言一句はっきりと。──だけど。景はその夜、家にいなかった。抜け殻のようにからっぽで真っ暗な部屋の中で、体を限界にまで縮こまらせて、目を強く瞑り、時間が流れていくのをただひたすらと待っていた。
朝が来ない。そう思い始めて、もう一週間が経とうとしている。僕の世界だけいつもまっくらで、とてつもない不安に駆られることが最近は多くなった。もう高校も夏休みに入って、皆がキャッキャと楽しそうに騒いでいるそこに、僕だけがいない。誰も、僕に元気がないことに気づかない。そのことに安心して、気づかれないことに胸が苦しくなって、星さえも瞬かない日々になっていた。
「……はあ」ため息をこぼすのはこれでもう何度目か。最初の方こそため息防止として数えていたものの、途中から数えなくなっていた。今日もインターホンが鳴り響く。朝から夜まで、一時間置きにずっと。
──ピーンポーン……。ほら、また鳴った。僕は本のページをまた一つ捲る。ただ無心に、綺麗な文体を読み進める。読みさし読みさししながら、倦怠感と共にある言い知れない幸福に浸っている。好きな男にこうして毎日家に来られて、ずっと玄関の扉の前で待機されて、ゆったりとしながら過ごす日々が僕の心を満たしてくれる。スマホのコール音が部屋に充満する。プルルルル、プルルルル、と鳴り続ける。普段だったら鬱陶しいその音が、今は泣きたいくらいに切ない。出ようかと一瞬迷う。だけどその一歩を踏み出せない。
「祐里~!ご飯よ、いい加減降りてきなさーい!」
母さんもきっと分かってる。僕が景のことを好きで、その景と今仲違いしていることも。母さんもいい迷惑だろうに、こうして何も知らない風を出してくれているんだ。
「はーい……」
一階に降りてリビングに入ると、そこには父さんと母さん、そして今年で五歳になる妹の芽衣がいた。皆の視線が僕に突き刺さる。父さんは感情の読めない目をして、何か言いたげな感じで視線を送って来る。母さんは困り眉で食卓に夕飯を並べている最中だった。芽衣は何も知らないまま、ただ楽しそうにおままごとに興じていた。芽衣の純粋無垢な幼さに、今はなぜだか心が救われる。母さんと父さんと目を合わせるのは気まずくて、やりきれない想いが溢れて取り返しがつかなくなりそうだったからすぐに下を向いた。
「祐里、これ、よろしくね」
四人分の透明なガラスのコップとともに麦茶が静かに置かれていた。肩をトントンと優しく叩かれて、僕は反射的に頷いた。
「うん」
とぽとぽとグラスに注いでいく。透明なガラスコップが、瞬時に鮮やかなこげ茶色に染まる。リビングダイニングのオレンジ色の照明に照らされて、その光を透かすそれが目に映えて美しい。
「それじゃあ、いっただきまーす!」芽衣の掛け声を合図に、一斉に手を合わせて食に箸を付けた。満腹になり、眠たくなってきた。僕の隣の席では芽衣がうとうとし始めている。それを見た母さんが慌てて芽衣の口に夕飯を含ませ、歯磨きをしてあげていた。そんな慌ただしい姿を横目に、僕はただぐったりとしていた。目にはクマが浮かんでいて、顔色が物凄く悪いだろう。父さんがさっきからチラチラと落ち着かない視線を送って来る。
「……なに」
「……っ!いや、別に~?」父さんは冷や汗を流す。その目は泳ぎまくっている。肝心な時にこうして取り乱してしまう所が父さんの短所だったりする。
「そんな頑張って否定しなくていいよ。父さん、僕に何か訊きたいことがあるんでしょ。なら遠慮せずに訊きなよ」
「っう、えっと、そのだなあ」
「……、祐里、最近友達とどうなんだ?」
そう決心したように訊いてきた。若干緊張した様子で訊いてくるものだから、僕にもその緊張が伝染してしまう。心臓が圧迫されていくのが分かった。
「……別に、変わんないよ」
そう、変わっていない。僕と景の関係は、あの春の日から何一つ変わっちゃいない。景にとって僕はどんな人間なのだろうか。そう心の中で問いかけたのは今でもう何度目か。
「嘘つけ。だったら、祐里が今元気じゃないのはおかしい」父さんはちゃんと僕を分かった上でそう発言している。だから僕も変に癇癪を起こして返事をすることができない。
「なんで、」
「なんでって……そんなの簡単なことだろう。学年一位の成績を誇るお前が何を言う」
父さんが心外だという表情をして訴えかけてくる。僕は何を言えばいいか迷った。だけど、何を言うべきか明確に分かっている気もした。息を深く吸って、体中の汚物を吐き出すかの如く息を吐く。大きく深呼吸をすることで、こんなにも視界が広くなる。見える幅が圧倒的なまでに違うんだ。
「父さん、僕、これからどうするべきかな。景のこと、大事にしたい。その気持ちは今も変わらずにここにある。……けど、僕にとっての景が唯一無二な存在なのに対して、景にとっての僕は別にいつでも切れる存在なんだ。それが、信じられないくらい苦しい」
父さんになら何だって話せる気がした。今なら、母さんにも打ち明けられるかもしれない。父さんはただ静かに、真剣に、僕の話に耳を傾けてくれていた。普段はジムに通って体を鍛え、凄く体格の良い厳格な父親のように見える父さんだけど、本当はそれだけじゃないんだ。父さんが誰よりもかっこいい理由は、息子の悩みを聞いて、ちゃんと相談に乗ってくれる人。ここにあると思うんだ。
「祐里。今はどんなに世界が暗く落ちて見えようとも、いつか浮上して、また陽の目を見る時は必ず来る」
父さんもそうだったから、と僕の手を強く握りしめて言った。僕は泣きたくなるのを必死に堪える。
「父さん……っ僕にできるかな」主語なんてなかった。だけど父さんは僕の意志を全て読み取って、どこまでも真摯な瞳で強く、強く頷いた。
───ねえ、景。今までごめん。僕、こんなにも弱い自分が情けなくて仕方ないよ。大切な人から逃げたって、何にもならないのに。……そろそろ、ちゃんと現実と向き合わなきゃね。きっと大丈夫。だって景は、わざわざ人を傷つけるようなことは言わない人だから。ようやく冷たく暗い夜に、金色に輝き、繊細に瞬く星が見えてきた。