「景、今日塾?」
「おん、だよ。あー、まじだりぃ。響がそんなこと訊かなきゃ今こんな気持ちにならなかったのに」イチで言えばヒャクで返ってくる。それが景。
「ごめんって。それでさ、景に伝えたいことあって」
「何」景がジロリとおれに視線をやる。おれは若干の緊張をもちつつ、勇気を出して口を開いた。
「今日から、景が通ってる南進衛星(なんしんえいせい)塾に体験入塾することになった」
「は」景の顔が変に歪む。まあ、そういう反応が普通だよな。予想通りのリアクションに、おれは冷静に頷いた。景は目をまん丸くさせておれを見ている。相変わらず、景をからかうのは面白い。けど、今回は本当のことだ。おれは嘘をついてない。
「響、それ、本気で言ってる?嘘じゃねえの?」
「本気。嘘じゃない。まじで今日から通う」
「……ガチか」景は呆然とした表情で言った。
「何だよ、おれが来るってのに、喜ばねえの?」聞くと、景の耳がピクリと動いた。本人はきっとそれに気づいていない。無意識での、神経の動きだから。
「いや、まあ、嬉しいけどさ……。なんで急に通うことになったの?」景は不思議そうに訊いてきた。
「いや、母さんがいい加減塾に通えってうるさくて。早めに黙らせるために、体験入塾即申し込んだ」
言うと、白々しい目線に見つめられた。おれから体を離して、引いている風を出している。
「何だよ」
「いやー、別にい」
「……ふーん。ならいいけど」おれは何も話すことがなくなって、手持無沙汰で空を見上げた。二人河川敷の傾斜の草原に腰を下ろして、それぞれが見たい場所を好きなように見ている。そのままおれは背中をごろんと地面につけた。視界に空の澄んだ青が広がる。どこまでも透き通っていそうな空に手を伸ばすも、それに触れれたことは一度もない。現実では、そんなの無理だ。おれの隣で静かに腰を下ろして、どこか遠くをぼんやりと眺めているその横顔をこっそりと盗み見る。……ほんと、いつ見ても綺麗な顔。俺がこんなことを思っているなんて、景はきっと想像してさえいないだろうな。
「なあ、景。今日も景のダチ、お昼一緒に食べたそうにしてたよ。良かったの?」
「……良かったって、何が?」景が不機嫌な声で言った。おれが景の友達、東雲の話をすると、大抵こんな風に怒るんだ。訳が分からなくて困っている。
「だって、景あれから一度も東雲と……」
「別に響とは関係ないことじゃん。それなのに、なんでそういちいちと首突っ込んでくるわけ?」景に強く睨まれた。こんなことは久しぶりで、そのせいか体が慣れていなくて拒否反応を起こしてしまう。そんな風に、おれに冷たく当たらないで、と。おれたちは、ダチ、なんだよな……?それなのに、関係ないってどういうことだよ。むしゃくしゃは募るばかりで、収まることを知らない。景のこととなると、おれはいつも余裕をなくす。情けないことだ。だってそれって、景に相当執着してしまっているってことだから。
「いいっつってんだろ。いい加減しつこい」黙れ、と目でやられる。それが結構えげつなくて、ダメージを食らう。
「……ごめん」
おれは景と過ごすうちにちゃんと「ごめん」と言えるようになっていた。前までのおれなら、己のプライドがそれを許さなかっただろうに。人との関わりの中で起こる変化は、いつ見ても不思議なものばかりだ。時には人を成長させ、ある時には人を奈落の底まで落とす。自分を成長させてくれるのか、己の品位を下げられるのか。そのどちらにせよ、別に関わった相手のせいじゃない。ただ、自分が自分を制御すればいいだけ。言ってみると簡単なことに思えるけれど、おれはイマイチよく理解してはいない。……これからも、東雲と仲良くしないで欲しい。内に隠した黒すぎる感情を、おれはどう扱えばいいのか。
「……なあ、景。景はさ、おれがどれだけ醜い奴でも、仲良くしてくれる?」
「あ?んだそれ」
「だから、おれが心の中でどんなにズルいこと考えてても、側にいてくれるかってこと」景は一瞬口を閉じた。おれが一体何を言っているのか、その真意を探っているのだろう。
「──まあ、そうするつもりだけど」景は少し恥ずかしそうに、唇を尖らせて言った。頬はほんのりピンクに染まっている。本当に照れているみたいだ。
「………、まじ?」景の返事を完全に理解するまでに、結構な時間がかかった。景はすぐに頷く。おれは目を見開いた。
「俺を引き止める祐里の手を離して、響の元に行くと決めた時、そこで運命が決まった」
「運命?」不思議に思ってそう訊き返す。
「響の側にいる運命」
思わず景の方を見ると、景は後ろに手をついて空を見上げていた。その横顔からは、全ての感情を読み取ることなんてできない。深く深呼吸した景は、おれと同じように河川敷に寝転がった。
「……なあ、景。それって、友達として?それとも、いつでも捨てられる責任感から?」おれは真剣に訊いた。景の横顔を見つめながら。景はいつまで経ってもおれと目を合わそうとしなかった。そこから、景の頑なな気持ちが伝わってくる。
「うーん、難しい質問だなあ……」難しいのか。咄嗟にそう思ってしまった。そして、ハッと我に返る。……だめだ、自分本位で考えちゃいけない。これがおれの良くないところだ。本当に、たまに自分が嫌で嫌でどうしようもない時がある。
「……」
「でも、少なくとも責任感からとかではない。それは確実に断言できる」その口調は、確かに景の言っていることを強く支えているように頼もしかった。おれは思わずほっと小さく溜息を吐いて安堵した。自分でも、いちいち景の言動に振り回されるのは情けないと分かっているけれど。どうしても、強がれない。景が近くにいるだけで、おれの張りつめた緊張の糸はすぐに解けて、海のように広く深い安心感に呑み込まれていく。景はそんなこと知らないだろう。だって、酷く鈍感な人だから。
「そ」
「ふはっ……!『そ』って。冷たいかよ」景がくくく、と肩を震わせておかしそうに笑う。普段はクラスのムードメーカー的立ち位置にいる彼は、よくふざけるしよく笑う。それなのに、その笑い方が上品だからうるさいと思わない。それよりも、もっと聞いていたいと思えるから不思議だ。
「景ってさ……笑い方、なんていうか女子、みたいだよな」あ。言い方違ったかも。言ってしまった瞬間、そう思った。おれは青ざめる。景の方を見れない。
「……それって褒めてる?」
「褒めてる褒めてる‼ごめん、言い方が悪かった。上品でいいなってことを伝えたかったんだ」おれは景からの静かな問いに全力で頷いた。景は依然として何の反応も示さない。やっぱり怒ってるんだ。景の変わらぬ気持ちを察して、一人落ち込んでいると。
「響って、ほんと俺の心かき乱してくる」景が口を開いた時、ちょうど夕方の強風が西から吹いてきたからよく聞き取れなかった。もう一回言ってと言うと、景はうんざりした顔をした。え、二度話すのってそんなに面倒なことなのか?おれは疑問に思った。景がなぜ不機嫌なのか、その理由が分からなくて、おれはキョトンとした表情を浮かべていた。
「はあ~……」
「……?」
「もう一度、よく聞けよ」
「おけ」
景のまっすぐな視線がおれを射貫く。
「──響は、俺のことどう思ってる?」確かにそう聴こえた。おれの都合の良いアレなんかじゃない。
「……おれは、景のこと、」
おれは起き上がった。これは寝転がってするような話じゃないと思ったから。景も俺に続いて起き上がる。
「……大事に、思っテルヨ」
「はは、片言だなあ」
「わ、悪かったな……ただ、恥ずかしいんだよ」
「そ」
「冷たっ」
「まあな」景は楽しそうに笑っていた。その表情は確かに元気そうなのに、少し影が差して見えるのはおれの錯覚か。
「景、大丈夫?」そう言って、おれは景の顔を覗き込んだ。景はとてもびっくりした様子で目を見開いて、おれと距離を取ろうとする。
「……っ、だ、大丈夫って何が」
「いや、何ていうかさ。ただ、景の様子が変だったから」景が唇を強く噛んだ。そんなに噛んだら痛いし、血が出てしまうかもしれないのに。それをやめさせるために、おれは景の唇に手を伸ばした。そしてそのまま、真っ赤に充血している唇に触れる。ふっくらと柔らかいそれは、とても綺麗だ。これ以上傷つけちゃいけない。
「……っ響、おま、何すんだ」
「景、唇噛むのやめろ」言うと、顔を赤くした景が震えながら、唇を噛む力を弱めた。その隙に、おれは今まで景の前歯で強く噛まれていた部分を確認する。
「よし、血は出てないな。ほんと、これからはこういう自分を傷つける行為やめろよな」そんな偉そうなことを言っているけれど、本当は。ただ、自分の大切な景のどこかが少しでも傷ついてしまうのを見ていられなかったから、なんて言ったら景はどう思うんだろう。キモがられるかな、引かれるかな。鬱陶しいと感じるかもしれない。……はたまた、嫌われてしまうかもしれない。
「……うん、ごめん。わかった」景は落ち込んだように眉を下げて言った。景の大きな双眸から、一粒の涙が零れ落ちる。それを見た瞬間、おれの中で大切な何かが壊れた。今まで気づいていないようで、本当は察さぬよう努めていた細い糸のようなそれを、おれは遂に切ってしまったんだ。だけど、今更引き下がることなんてできない。頭の中にもう一人の自分を飼いながら、おれは強く目を瞑った。きっと、大きな決意をするためにそうした。心臓が痛い。叫びだしてしまいそうになるくらい、胸が張り裂けそうになる。これまで、ごめんな────景。おれ、本当はずっと嘘ついてた。
「景。俺、男が好きみたい」
ずっと様子のおかしい景を疑って、信じようとしなかった。だけど、一番の裏切り者は、臆病者は、他でもないこのおれだ。

夜。たった一人で、誰もいない歩道橋を渡る。おれの隣に景の姿はない。いつもはある、あいつの存在がない。それだけでおれは、どうしようもなく気分が落ち込む。景にどう思われただろう。景の驚いた表情、ぽっかりと空いてしまった心の穴。今夜の塾で、おれたちは双方口を開くことはなかった。そんなおれたちの空気を読み取ってか、男性講師の内海先生は終始肩を縮ませて気まずそうにしていた。すっげえ申し訳ないことした。大人げなかった。そう思うのに、やっぱり行動には移せなかった。景がいるから、入塾しようと思ったのに。これじゃあ、何の意味もない。ただの痛いヤツだ。
「はあ……。参ったな」
誰もいない歩道橋に背中を預け、遥か向こうで賑やかめいた都会を眺める。そうしていると、不思議と感情の波が落ち着いてくる。だけど、完全に消えることはない。これまで抱いてきた秘密をよくやく口に出せた時、景は苦しそうだった。おれは楽になったけど、景は辛そうにしていた。おれはそれに絶望した。だって、景もおれと同じだと思っていたから。景もゲイなのかもしれない、とどこかで仲間意識のようなものを感じていた。……だけどそれは、阿呆なおれの頭が作り出した願望の中の我儘だ。冷たい夜の中断で、だけどおれたちは、確かな繋がりの中で今日も必死に生きようと息をしている。
「………景」
どんなに拒絶されたって、おれはまだお前を諦められない。だって景は、おれを終わらない苦しみの中から連れ出してくれた奴なんだ。あの日のことを忘れられるはずないだろ。心臓がバクバクとうるさくて、口から飛び出てしまうんじゃないかと本気で思った。
「ほんと、どうすりゃよかったんだよ……っ」
恋愛なんてしたことがない。そんなのは自分とは無関係だと、生まれてこの方、ずっとそう思ってきた。なぜか女子を好きになれなかった。顔の整った子と話をしていても、何の感情も湧かない。普通はどうなのだろうと気になって、小学三年生の頃に一度だけ同級生に訊いたことがあった。
「え?帆村(ほのむら)さんと話したらどんな気持ちになるかって?そりゃ、すげえ嬉しいだろ。あんな美少女、俺一度も見たことねえよ!」そう興奮した様子で語っていた。おれはますます訳が分からなくなった。おれも普通になりたいのに、それができない。皆と同じ色にはどうしたって染まれない。おれは、己の性的指向が定まっていない人間だった。それからしばらく経ってのことだった。図工の時間、おれが塗った絵を担任に取り上げられた。
「ちょっと緒方くん!これは一体何⁉」地面が真っ赤じゃないの‼と目を血走らせて言ってきた。突然のことに、小四のおれはただただ目を見開くしかなかった。
「ぁ、せんせ……どこかおかしいですか?」恐る恐る訊ねた。見上げた先には、先生の困り果てた顔が。それを見て、思わず頬が引きつった。ピクピクッと、わずかに動く。
「……はあ、緒方くん。先生ね、ずっとあなたのことが気がかりだったの。これが良い機会なのかもしれないわ。一度、お母様も交えて三者面談をしましょう」先生は迷いない瞳で告げた。その頃、おれはこの戸川先生のことが苦手だった。美人だし、声は大きいし、何より芯のある強い女性だから。おれは小さく頷いて、情けなく項垂れるしかなかった。大人の強い引力に導かれ、必死に付いて行こうと努めていた。だけど、いつもどこか苦しくて、心は閉鎖していくばかり。どこにいても、何をしていても、おれはきっともう、一生幸せにはなれない。……そう、幼い時から思ってきた。
──だけど。おれはそんな未来を変えたい。今は黒く重く、暗いまま塗りつぶされているキャンバスであっても、それはきっと自分の行動次第で何色にだって変えられる。人が改心するように、時の流れとともに心の安寧も、これまでの自分の弱さとの収束も、きっといい方向へ傾いていくことだろう。
「     」おれは声がした方を振り向いた。そこには、おれが今いちばん会いたくて、だけど会いたくなかった人がいた。
「はは、遅えよ。ばーか」乾いた笑いが口から漏れ出る。だけど、心はあり得ないくらいに満たされている。この感情を、一体どんな言葉で表せばいいのか。そんなのはもう、分かり切っていることだ。こいつが今ここにいる。大量の汗を流しながら、夏の夜の少し冷たい風を切って、俺の元までやって来てくれた。
結果よりも、その過程が大切だ。教師は大抵の者が皆口を揃えてそう言う。だけどおれは、少し違った。どんなに情けなくて恥ずかしいプロセスであっても、おれたちはいつだって切れない糸で繋がっている。そういうものを『運命の赤い糸』と言うのだそう。あいにく、おれは緑と赤の見分けがつかない、『先天性色覚異常者』なのだが。だけど、そんなことどうだっていいと思えるくらい、おれは今ではもうそれを気にしていない。おれは普通じゃないから、他とは違うから、当然幸せじゃないんだ、そうはなれないんだ。そんな馬鹿げた考えを百八十度変えてくれたのは、おれの人生でただ一人、景だけだ。景は、おれにとってかけがえのない存在だ。ありがとう、景。こんなにも根暗だったおれに、自信を分けてくれて。こんなにも弱くて、何もなかったおれに、勇気と希望と、誰かを愛しいと思う気持ちをくれて。君が隣にいてくれたから。君の存在はおれの中でもう歯止めが利かないくらいには大きくなっていて、そんな輝きを持つものが、おれが明日を迎えるたった一つの理由になった。ねえ、景。おれに、生きる意味を教えてくれてありがとう──。来てほしくないと強く願った朝が、今では景とともにある明日になった。おれは今、怖いくらいに眩しい幸せの淵にいます。───君は今、幸せですか。