荻野家の裏庭には深い竹林がある。裏口の木戸をくぐって林に入ると、獣道のような細い道がいくつかついている。林の中をずっと進むと寺の裏手に出るそうはずだが、ほとんど人が入ることのない林の中で迷わずたどり着けるかどうかははなはだ疑問だ。

 律が幼い頃に亡くなった父は、竹林には勝手に入ってはならないと繰り返し家人に言い聞かせていたらしい。
 特に林の奥の、小さな竹垣に囲まれた一角は。

「卵があるから」

 亡父はそう言って微笑んでいたと言う。それを真に受けたわけでもないが、荻野家の人々はその囲いには決して近寄ろうとしなかった。
 不思議な事に、本来こまめな手入れが必要なはずの竹垣は、誰も立ち入るどころか近くに寄る事すらないのに、朽ちることなく、常に真新しい状態を保っている。

 初秋とはいえまだ蒸し暑さの残る寝苦しい夜、律はふとあるものの気配を感じて目を覚ました。

尾崎(おさき)……いったいどうしたんだ?」

 いつの間にか枕元に細身の青年が佇んでいる。

「うん、ちょっと困ったことになったね」

 困ったように小首を傾げる仕草にしたがって、柔らかそうな茶色の髪がふわり、と揺れる。
 しかし、オレンジ色の瞳は楽し気で、本気で困っている様子には見えない。

「いったい何があったんだ?」

 寝入りばなを起こされた不機嫌を隠そうともせずに律が言うと、尾崎と呼ばれた青年は柔らかな声音で異変を告げた。

「囲いの中に人が入った。卵が割れてなければよいんだけれど」

「囲いって……土鬼の巣のことか? 卵が割れたらヤバいじゃないか」

 他の家人には明かしていないが、竹垣の中には亡父が封じた土鬼、大地の精ともいうべきあやかしが棲んでいる。

「仕方がない、今から行くか」

「いやもう遅い。既に立ち入られて、立ち去った後だ」

「なるほど、後はなるようにしかならないのか」

 嘆息すると、律は軽くのびをした。

「だったら、今は何もできないだろ。後の事は問題が起きてから考えれば良い。俺は寝る」

 そうして律は尾崎の返事も待たずにふたたび夢の世界へと旅立っていったのだった。

 これが、静かだった律の世界が終わりを告げた瞬間だったと気付くのは、もっとずっとのちの日の話である。