翌日。昨日と打って変わって、朝の空にはうっすらと雲がかかる。
 侍従の関韋を従えて外廷に足を運んだ伯蓮は、宰相の胡豪子(こごうし)の執務室に来ていた。
 宰相とは、皇帝陛下を補佐して政治を行う、国の中では皇帝の次に偉い官職。
 先帝と現帝、二代にわたって仕えた由緒正しい胡一族の人間だ。
 しかし近年は、随分と金の回りが良いようで。
 豪子の執務室には、異国製の壺や観葉植物が多く飾られている。また、官吏たちに羽振が良いという噂も絶えない。
 昨年よりも肥えた体と、帯まで伸びた顎髭が位の高さを主張する。
 齢五十を迎えた豪子を、伯蓮は今一番の要注意人物と認識していた。

「皇太子様。お忙しい中わざわざ訪ねてきてくださりありがとうございます」

 伯蓮が椅子に腰掛けると、続いて豪子が正面に座って丁重に頭を下げた。
 従者を通して催促してきたくせに、豪子は白々しく微笑む。
 ここまできてしまうと、侍従の関韋を傍に置いていても逃げ場はない。
 豪子が、次期皇帝と噂される伯蓮を招いた理由。
 それはもちろん、娘の尚華との初夜を急遽見送ったことへの弁解を聞くため。
 加えて、妨害した下女を蒼山宮の侍女に抜擢したことを問うため。
 そして最も恐ろしいのは、本人の胸奥に隠されたもっともっと先の未来に待ち構える、個人的な野心のためでもあった。

「伯蓮様。娘は酷く傷ついておられました。二度も初夜が見送りになって」
「すまなかった。また日を改めて……」
「伯蓮様に日取り決めを任せていたら、いつまで経ってもお子はできませぬぞ」
「それはどういう……」

 机を挟んで、睨み合う二人に不穏な空気が流れる。
 ただ、伯蓮には豪子の思惑がわかっていた。
 今の皇帝陛下は体調が優れず、政にも関心がなくて臣下に任せてばかり。さらには陛下と宰相の間で、勝手に話を進めて決定したのが、伯蓮と尚華の政略結婚。
 やがて伯蓮はこの国の皇帝となり、尚華は皇后となるだろう。
 もしも二人の間に子どもが生まれて、それが男子であったなら……。
 子は将来、胡家の血を引く皇帝として玉座につく可能性がある。
 その礎として、伯蓮は利用されているに過ぎない。
 胡豪子の胸に秘めた野心と策略を先読みして、伯蓮は全ての言葉を疑っていた。

「私にも“好み”はある。だから子は難しいかと」
「ははは! この王都柊安で一番美しいといわれる尚華でも足らぬとは。伯蓮様も現帝に同じく、おなごの好みが難しいお人ですな」

 豪子は高らかに声をあげていたが、その目は笑っていなかった。
 そのわけを伯蓮は知っている。
 実父でもある現帝が即位する前、豪子は今回と同じように胡一族の年頃の娘を妃に推薦し、現帝はそれを受け入れた。
 ただ、現帝と胡一族の妃の間に子はできなかった。
 豪子の目論みは果たせずに終わり、諦めたかに思えていたが。
 今度はその息子である伯蓮に、自身の娘、尚華を妃としてあてがった。
 豪子はまだ諦めていない――そう感じた伯蓮は、今最も警戒すべき男と対峙している。

「ところでそんな“好み”に厳しい伯蓮様の心を射止めた下女を、一目見てみたいものですな」
「……誤解をしているようだが、そういうことではない」
「おや、そうでしょうか?」

 詮索するような疑いの目を向けられて、伯蓮も眉根を寄せた。
 ここでしっかりと宣言しなければ、朱璃に迷惑がかかってしまうかもしれない。
 豪子が本気を出せば、あの手この手で朱璃に近づこうとする。それを一番に恐れた伯蓮は、気丈な態度で説明した。

「仮にあの下女が私の心を射止めたのなら、侍女ではなく妃として後宮入りさせるはず」
「……それもそうですね」
「ちょうど宮の侍女が里帰りを希望していたから、代わりとなる人物を探していただけだ」
「そうでしたか……。よく、わかりました」

 話を聞いた豪子の口の動きが、ようやく鈍る。
 これで変な疑いはかけられなくて済みそうだと安堵する伯蓮だが、少しだけ胸の奥に負荷がかかったように感じた。
 たとえば、致し方なく嘘をついた時の心痛のようなもの。
 伯蓮自身も、なぜそう感じてしまったのかわからなかった。

「伯蓮様、そろそろ……」
「ああ、わかった」

 侍従の関韋が退室を促し、伯蓮は席を立つ。
 とりあえず豪子への説明責任は果たしたと判断して、今日一番の苦痛な業務を終えようとしていた。
 そんな伯蓮の背中に、豪子は頭を下げて最後の言葉を伝える。

「皇太子様。尚華のこと、何卒よろしくお願いいたします」

 それに対して、明確な返答が今はできない伯蓮は、静かに退室して扉を閉めた。


 *


 外廷と内廷を結ぶ大門を目指して、ゆっくり歩いている伯蓮と関韋。
 その後ろには、外で待機していた従者らが黙って後をついてくる。

「関韋、親とは子の幸せを願うものだろう?」
「そうですね、大体の親は……」
「豪子は自分の娘の幸せを考えていないのか?」

 己の野心と策略のために、娘が慕ってもいない男のもとに嫁がせるという考えが、伯蓮には理解できない。
 しかし、そうやってこの国が大きく繁栄し四百年も続いている事実。
 先の皇帝も皇后も、皇太子も妃も、そうやって政略的な婚姻を繰り返し結んできたというのなら――。

「私もそれに従わなくてはいけない宿命なのか……」

 自分の人生を悲観したような伯蓮の表情は、隣の関韋を戸惑わせてしまった。
 ただ、その関韋が一つだけわかっていることを伯蓮に伝える。

「ですが、おそらく尚華妃は伯蓮様をお慕いしていると思います」
「……なに?」
「初めは父親の豪子の指示で後宮入りしたのかもしれませんが、今は……」
「っ……それは、困ったな」

 驚いたように目を丸くした伯蓮が、困惑しながら腕を組む。
 今までは豪子の手先として尚華と向き合い、なるべく接触しない方が互いのためと思っていた。
 しかし、関韋の言っていることが本当ならば、伯蓮の今までの行動は尚華の心を深く傷つける。
 かといって、政略的な婚姻関係である以上、優しくするのも誤解を生みそうで伯蓮は頭を悩ませた。

「尚華妃の気持ちには、どんなに時をかけようと応えられない……」
「気持ちに応えずとも、婚姻した以上はいずれ初夜を迎え子を成せねば。それが皇太子としての責務です」

 関韋が淡々と正論を述べると、揺れる伯蓮の心に捩じ込むよう突き刺さってきた。
 代々、国を治めてきた鄧一族の血筋を繋ぐためにも、子孫繁栄は怠ってはいけない。
 しかし、それを望んでいない伯蓮にとってはただの迷惑なしきたり。

「ならば私は皇太子を……皇位継承権を手放したいな」
「っ……伯蓮様!」
「ふ、冗談だ。そんなことできるはずがないとわかっている」

 関韋の慌てた顔を見て、少し気が晴れた伯蓮が一笑して先を歩く。
 ただ、許されるなら――。
 すでに舗装された、石ころ一つない道を安全に歩く人生より。
 誰も歩いたことのない、道なき道を抗いながら懸命に歩く人生が良い。
 伯蓮はそんなふうに強く思っていた。


  ***


 伯蓮が流の絵を描いてくれた日から、一週間が経つ。
 朱璃は大事な絵を片手に持ち、皇子が住む東側の区域全体を散策していた。
 朝餉を終えた従者や侍女たちが仕事場に戻っていく中、みんなには視えないあやかしを探す。
 すると、建物裏の茂みに隠れていた一匹のあやかしを見つけて、そっと駆け寄った。

「ねえ君。こんな姿の空色のあやかし、見かけたことない?」

 朱璃が声をかけたのは、ヤモリの姿に蜻蛉のような羽が生えたあやかしだった。
 どうやら話せない子のようだったが、キューという鳴き声とともに首を横に振ってくれた。
 「知らない」と答えてくれたあやかしに礼を言って、次のあやかしを探そうとした時。
 以前、蒼山宮で出会った三々が朱璃の肩に乗ってきや。

「おいお前、そんな地道なことやってても見つからねーぞ?」
「三々! でも聞き込みして何か手掛かりを見つけないと……」

 流の目撃情報を得るためには、たくさんのあやかしに声をかける必要があった。
 しかしこの区域だけでも数々の建造物と、庭や池があちこちにあるから、あやかしを見つけるのも一苦労。
 それに行方不明の流がこの区域から出てしまっていたら、捜索範囲を広げなくてはいけない。
 やることが山積みの朱璃が、頭を抱えて唸る。
 すると見かねた三々が、ある提案を持ちかけてきた。

「仕方ねぇな! 明日、内廷と外廷を結ぶ大門が閉まる鐘が鳴る頃に、あの池の涼亭に来い」

 言いながら、ここから見える池に向けて三々が片翼を伸ばした。

「この俺が、上空から見つけたあやかしに片っ端から声かけて集合をかける」
「それって……」

 鳩の姿をした三々が、あやかし探しに協力してくれることになった。
 視力抜群の三々であれば、東の区域だけでなく後宮や官庁街に棲みつくあやかしたちも、すぐに見つけられるだろう。
 できるだけたくさんのあやかしに集合をかけて、効率良く聞き込みできるよう作戦を立ててくれた。
 頼もしい協力者の登場に、朱璃は万歳して喜びを爆発させる。

「ええー! ありがとう! それならみんなにまとめて聞き込みできるね」
「全く、これだから新人は……」

 蒼山宮の侍女として日の浅い朱璃を、三々は新人として扱った。
 後宮に二年いたとはいえ、東の区域が初の朱璃にとっては不慣れも多い。
 それを心配して、力を貸してくれるという三々に感謝した。

「そうだ。もし時間があったら貂々にも声かけてほしいな」
「あ? 誰だ?」
「華応宮の中庭の木で、いつも寝ているあやかしがいるの」

 後宮を離れてから、頻繁に会えなくなってしまった貂々。
 だから、あやかし集合にぜひ貂々も来て欲しいと願った朱璃が、だめ元で三々にお願いしてみた。