「別れよう」

 半年付き合った祥くんに別れを告げられたのは私の会社近くのカフェ。
 日常に潜むドラマチックな瞬間に、隣のOL二人が耳立てているのを感じる。

「わかった。今までありがとう」

 にこ、と笑顔を作って見せると祥くんは顔をしかめた。最後は笑ってお別れできれば、と思ったけど。どうやら私はまた間違えてしまったみたいだ。

美生(みう)って俺のこと、本当に好きだった?」
「うん」

 すぐに頷くけれど彼の表情は変わらない。慌てて「だから付き合っていたんだよ」と付け加えてみるけどため息をつかれた。

「浮気、怒らないのか」

 祥くんの質問に、なんと答えるべきか。
 
(つまり浮気に怒った方が良かったってわけだ)
(女々しい男だよねぇ、ミウの気が引きたくてやったんじゃない?)
(最低だな。別れて正解だ。この男とはこれ以上関わるな美生)

 私の頭の中で、ふわちゃんとロボロボが悪態をつく。私も二人の意見には概ね賛成だ。

「うん」

 私の短い返事にさらに眉間の皺が深くなり、はあとわかりやすくため息をつく。

「もういいよ。美生にとって俺は必要じゃなかったてことがよくわかった。今までありがとう」

 祥くんは伝票を持つと席を立った。
 ……まだサラダしか食べてないのに。まだ届いていないパスタはどうするんだろうか。そろそろ運ばれてくると思うんだけど。
 目線を感じて見上げると、祥くんが私をじっと見ている。

(おい、あいつ待ってるぞ)
(話は終わったしもう帰ればいいのにねぇ。ミウどうすんの?)
(私、ジェノベーゼ食べたいんだ)
(あ、もしかして。お金、渡すの待ってるんじゃない?)

 ……ああ、そうだ、忘れてた。ふわちゃんの助言に、私は財布から二千円を取り出して祥くんに渡す。

「お会計ありがとう。お釣りはいらないから」
「……じゃなくて。出ないの、店」
「え? うん、料理まだ来てないから」
「はあ……そのマイペースいい加減にしろよ。今そういう空気じゃないだろ」

 祥くんの怒ったときの低い声とピリピリと醸し出す空気が苦手だ。

(一緒に出たあとにまだ感動の別れのシーンするつもりだったんか?)
(祥くんって思い通りにいかないといつもこうやって不機嫌をまき散らすよねぇ)
 
「もう別れたんだから、この人が食べていこうが関係なくないすか?」

 ロボロボの発言かと思いきや、現実の人間が発した言葉だった。
 言葉の主の方を向いてみると――。

「あれ、宮くん」

 祥くんに正論を吐いたのは、同じ部署の後輩の宮くんだった。少し重たい前髪から切れ長の瞳が見える。

「なんだお前。美生の知り合いか?」
「はい。同じ部署です」
「ああそういうこと。お前、次の男がいたのかよ」

 怒気を孕んだ声がその場に低く響く。隣のOLはこっそり聞くだけでなくこちらへの視線を隠さなくなった。

(ミウ、何この展開)
(私にもわかんないよ)
(めんどくさいことになってないか?)
(……うん)

「俺はただの後輩ですよ」

 めんどくさそうに宮くんが言った。宮くんはいつでもめんどくさそうな顔と声をしている。
 それを不快に思ったのか、祥くんは「美生、説明しろ」と言うけれど本当に宮くんとは何もないのだから『同じ部署の後輩』以外に説明のしようがない。

「おい美生」
「たまたまこの場にいただけだよ、本当に。それにもう祥くんには関係ないことだよね」
「な……」
「祥くんと私、別れたし。私パスタ食べたいからまだ帰らない。ただそれだけ。宮くんは関係ない。お元気で」

 混乱のさなかに運ばれてきたジェノベーゼパスタにくるくるとフォークを巻き付ける。

「そういうところが本当に嫌だった」と祥くんは吐いて、去って行った。

(最後までださい男だ)
(さようならぁ)

 ロボロボが塩をまく仕草をして、ふわちゃんがにこやかに手を振る映像が見える。

「これ、俺食べていいっすか」

 宮くんはさっきまで祥くんがいた席に座ったかと思うと、祥くんが頼んでいたクリームパスタを指さした。

「お金払ってるし、いいんじゃない?」
「じゃあいただきます」

 宮くんはけだるげな表情のままクリームパスタを口に運ぶ。隣のOLと一緒に宮くんがパスタを飲み込むのを見守る。
 
「マイペースだね、宮くん」
「丸岡さんも。――でも意外でした。丸岡さんってあんなハッキリ言う人だったんですね」
「ふふ、言わなさそう?」
「はい。困ってそうに見えたので間に入ったんですが必要なかったですね」

 うん、よく言われる。だけど宮くんが間に入ってくれたのも意外だけどね。
 その言葉はパスタと一緒に飲み込んで、私は代わりに笑顔を作った。
 
 **

「ただいま」

 リビングの電気をつけると、チェストの上に座っているふわちゃんとロボロボに声をかけた。
 二人とは二十五年の付き合いだ。
 生まれた時におばあちゃんがプレゼントしてくれた、赤いリボンがついた白いくまがふわちゃん。
 ロボロボは元々のお兄ちゃんのロボットだった。私が生まれた時にお兄ちゃんが自分の宝物を、とプレゼントしてくれてそのまま私のロボロボになった。
 
 物心ついた時からずっとふわちゃんとロボロボと一緒だった。どこにいくにでも連れて行って、いつでも二人と会話していた。
 その癖は二十五歳の今でも続いてしまっていて、頭の中で一人三役してしまう。誰にも言えない私の癖だ。

 私はチェストからカンカンを取り出した。おばあちゃんがカンカンと言うから、私も自然とそう呼んでいる。私は相当おばあちゃんっ子だと思う。
 クマのイラストが描かれた長方形の缶。缶の中身はおばあちゃんがアレンジしたもので、スポンジにベロア生地を巻き付けて缶に敷き詰めてリングケースにしたもの。
 子供の頃に出店で買ってもらった指輪、学生時代に友人と買った安価のペアリング。
 私は小指から祥くんからもらったピンキーリングをそっと外してその中に差し込んだ。

「終わっちゃったなあ……」

 ぽそりと呟く。祥くんが浮気をした時点で終わりだとはわかっていた。浮気を知った日に泣いたし幻滅したから、今日はそれほどのショックはない。だけど本当に終わりを迎えると、そのときとは違う喪失感がある。

(美生、元気出せって。あんな男は別れて正解だから)
(でも寂しいものは寂しいよねぇ)

 祥くんも、その前の彼氏も。「美生は本当に俺のことが好きなのか」と去って行った。
 
 感情をそのまま言葉にするのは苦手だ。尖った感情が、人にどう刺さるか怖い。自分の感情を否定されるのも怖い。
 受け取った出来事を、一旦頭の中でふわちゃんとロボロボに相談してから、表に、言葉に出す。だけどそれは「嘘っぽい」「何を考えているかわからない」になってしまうらしい。

 表面上の付き合いは円滑にいっても、誰かと深い関係になるにあたっては、気持ちをまろやかに出力するのは良いことばかりではないらしい。
 人はみんな本音を知りたがる。どうして本音でぶつかり合わないといけないんだろうか。……私はぶつかってすり減るのが嫌だ。

 私はチェストから他のカンカンも出した。祥くんがホワイトデーにくれたクッキーの缶だ。淡いブルーに白いリボンが描かれたそれに、祥くんとの思い出の品を全部仕舞い込んでいく。ピンキーリングが入っていた小箱、二人で撮った写真、捨てられないタイプの私はクッキーが包装されていたリボンや映画の半券まであった。
 ――これは私の小さな儀式だ。カンカンに詰め込んで、すべて思い出にしていく。そうしないとこの気持ちを消化できない。

「私、ちゃんと好きだったんだよ」
(知ってるよぉ)
(俺らが覚えているから大丈夫だ)

 初めてキスした時の淡い幸せ。旅行先で思い切り笑った。浮気を知ったときの怒り。苦くて涙したあの日。私は感情まで押し込めた小さな缶をぎゅっと抱きしめる。少しだけ涙が出る。大丈夫、この気持ちもすぐに思い出にできる。大丈夫だよ。ばいばい、祥くんを好きだった私。

 ** 

 パソコンの向こうにいる宮くんを覗き見する。
 昨日さっさとパスタを食べ終えた宮くんは自分の分の支払いをして会社に戻っていった。どうやら祥くんのクリームパスタを食べる前に自分のランチも食べ終えていたらしい。
 
(変わってるよねぇ、宮くん)
(あの状況で他人のパスタを食べるやつは絶対やばい)

 ふわちゃんとロボロボが遠慮のない感想を言うが、宮くんと同じく会社でちょっと浮いている私が言えたものではない。
 
 宮くんは不思議なオーラがある人だ。なんだかいつもけだるげで、人とコミュニケーションを取ることがあまりない。
 はっきりしている人で、クッション的な言葉をつけずに厳しい意見を先輩にも言ってしまうから煙たがられるところもある。
 私と宮くんは同じ人事部でデスクは近いけど、担当業務は被らないから業務上で深く話したこともほとんどない。
 
「マルちゃん、彼氏と別れたんだって?」

 突然肩に手を置かれて私は声をあげるのをなんとか堪えた。振り向いてみると岡田さんが白い歯を見せた。

(げ……)
(ひえぇ、出たぁ)

 ふわちゃんとロボロボが悲鳴を上げた通り、私は岡田さんが苦手だ。女性社員に人気で、誰から見てもかっこいい人だとは思うど……。

(セクハラで訴えるか、美生)

 こうしてスキンシップが多いのが本当に苦手だ。いつも肩や頭に無遠慮に触れてくる。イケメン仕草なのかもしれないが、私はパーソナルスペースを広く取りたい。

「今度ワイン会するんだけど、マルちゃんも行かない?」

(無理だよぉ! こんな男と飲みに行ったらベタベタされるだけ!)
(すぐに断れ美生!)

「私あまりお酒得意でないので……」
「その店カクテルも美味しいから大丈夫。アルコール低めにもできるし、ノンアルでも美味しいんだよ」
「……そうなんですね。あー日にちが合えば……あ、すみません。そろそろ面接が入ってて……岡田さんの部署でもお願いしたい面接があるのでまた後でメールしますね」
「詳細、連絡するよ」
 
 曖昧に笑いながらパソコンに目を戻すと、パソコンの向こうの宮くんと目が合った。

 
 **

「ワイン会、丸岡さん来ないでほしいなあ」

 ぎくりと動きが止まる。
 面接の準備をしようと、奥まった会議室までたどりついたところで。開けっ放しの扉から私の話題が聞こえてきてしまった。

「岡田さんのこと狙ってるからってひどい言い方ぁー」
「そういう未希だって苦手でしょ、丸岡さんのこと」
「まあね。何話してもあんまり乗ってこなくてずっとニコニコしてるだけで喋りにくい」
「ラリーが続かないよね、会話の。なんかワンテンポ遅いし。自分のこと話さないし」
「でもああいうのが男は好きなんじゃん? あんたもずっとニコニコお人形さんみたいにしてたら?」
「無理無理。仮面女になれないわ」

 声と名前からして同じ部署の二人で間違いない。。二人が部屋から出てくる気配を感じて、隣の会議室に慌てて入る。
 二人が遠ざかるのを確認してほっとしていると、

「言い返さないんですか」

 誰もいないと思っていた会議室で、後ろからぬっと気配と声がした。

(ひっ!)
(な、なに!)

 本日二回目の悲鳴をふわちゃんとロボロボが上げた。
 薄暗い会議室に浮かんできたのは、宮くんだった。

「……宮くん。びっくりしたよ」
「全然びっくりしているようには見えないですけど」

 心の中では大声をあげたけど、表面までは出てこないだけだ。

「びっくりしたよ」
「なるほど。確かに丸岡さんはワンテンポ遅いですね」
「もう、失礼だなあ」

 あはは、と軽く笑うけど、宮くんは真面目な顔で私を見たままだ。

「昨日みたいにはっきり言えばいいじゃないですか」
「昨日とは違って、今日のは言うことないよ」
「そうですか? 不快に思ったらそれを言えばいいですし」
「……別に不快ではないよ。聞いちゃった私が運が悪いだけ」

 私が口角を上げてみせても、宮くんはニコリともしてくれない。

「お酒に無理やり誘うのも断ればいいんですよ」
「日にちが合わないことにすれば角はたたないよ」
「ふうん。丸岡さんってつまんないんですね」

 がっかりしたという表情を見せる宮くんに、言いようのない気持ちが湧いてくる。
 
(何だこいつ)
(宮くんが言ってることの方が不快だよねぇ)
(うん。でも、何も言い返せない私も悪いんだよ)
(社会生活を送るためには波立てないことも大切だから美生は間違ってねえよ)
(うんうん、衝突してもいいことなんてないよぉ)

 私は笑顔を貼り付けて「平和主義なんだよ」と言うと、

「今色々考えてること、口に出してもいいと思いますけど……損するだけですよ、自分が。ま、俺には関係ないことでしたね」

 机の上に置いてあったノートパソコンを手に取ると宮くんは外に出ていった。

(やな感じぃ)
(なんであんな突っかかるんだ? 今まで何にも言ってきたことないくせにな)
 
「あ、面接の準備しなくちゃ」

 私は張り付いた笑顔のまま言い訳のように独り言をつぶやいてから、隣の会議室に移動した。

 
 **
 
(きまずいな)
(なんか昨日からミウ、宮くん運があるねぇ)
(宮くん運ってなんだよ)

 九時過ぎ。溜まった仕事を片付けていたら帰宅が遅くなってしまった。
 人事部には、私と宮くん。たまたま残業しているのが二人だけなんて。昼に少しだけ言い合ったから地味に気まずい。
 ――きっと宮くんは気にしていないんだろうけど。

 デスクを見るとスマホが震えていることに気づく。お母さんからの電話だ。夜に突然の電話。なんとなく嫌な予感がしてすぐにスマホを取った。

「もしもし……」
「美生、今何してる? 仕事? 急やけど今からこっち帰って来れへん?」

 焦ったお母さんの声が聞こえて心拍数が早くなる。嫌な予感が止まらない。

「どうしたん?」
「おばあちゃんが今夜危ないって言われて、お母さんも今から病院向かうとこやねん」
「えっ。わかった、すぐ行くわ」
「状況わかったらまた連絡するわ」

(どうしよう、おばあちゃんが……)
(美生、大丈夫、落ち着いて。すぐに行こう)
(今日の仕事は別に急いでやらないといけないものじゃないよぉ)

 データを保存して、退勤ボタンを押して、えっとそれから――。

「丸岡さんって関西の人なんですか?」

 何一つ余裕のない私に、緊張感のない声が届いた。

「あ……」

 宮くんの存在を忘れていた。目と目が合うと、宮くんの表情がさっと変わる。

「丸岡さん、何かありました? 顔真っ青ですけど……」
「あ……おばあちゃんの……」

 感情そのままの声が出てしまった。表情を取り繕うこともできない、声だって震えてる。

「丸岡さん、本当に大丈夫ですか」

 宮くんは深刻な表情を伴って私のデスクまでやってきた。

「あ、ごめん。うん、大丈夫。おばあちゃんの調子がよくなくて、今からすぐに関西に帰ろうと思って……」

 私は慌てて笑顔を作って言葉を並べる。

「関西のどこか知らないですけど、新幹線の終電って割と早いですよ」
「え、嘘……」
 
 宮くんは私のパソコンを使ってすぐに最終を調べてくれる。
 ――あと十五分で出発してしまう。会社を出て、最寄り駅から新幹線の駅まで……。

「新幹線は無理ですね。一分待っててください」
「え?」

 そう言うと宮くんは自分のパソコンに戻って何か打ち込んでから、自身のカバンを取った。一分もない。三十秒くらいの出来事だ。

「行きましょう」
「どこに?」
「丸岡さんの地元。俺、車持ってるんで送ります」

 宮くんはデスクに置いてあった私のカバンを持つと、もう片方の手で私の腕を掴んだ。掴まれて、初めて手が震えていることに気づいた。

 **

 まさか宮くんと二人、私の地元に向かうだなんて。想像したこともなかった。
 夜の高速道路に入る、通り過ぎる車のヘッドライドが眩しい。地元は車必須だったけど、上京してからは車にほとんど乗ったことがない。
 
「宮くん、ありがとう。でもすごく大変じゃない? 明日も仕事なのに」
「運転好きなんで、問題ないですよ」

 宮くんの横顔からは何を考えているのか全く読み取れない。わかるのは、宮くんはすごく優しくて面倒見が案外良いということくらいだ。

(でもほんとに車が好きなんだろうねぇ)
(会社の近くに駐車場借りてるって、毎月の固定費結構かかるんじゃないか?)

 さっきまで気が動転して何も考えられなかったのに。ふわちゃんとロボロボが会話できるくらいには余裕ができている。

「何時間くらいかかるの?」
「五時間くらいですかね。まあ空いてるんで。……おばあさん、どうしたんですか」

 遠慮なく、宮くんは訊ねた。

「前から調子は悪くてずっと入院してたんだ。そんなに長くないことはわかってたんだけど……。今夜が危ないって連絡がくると動揺しちゃうね。ごめんね、付き合ってもらって。間に合わないかもしれないのに」
「朝まで待つのしんどいじゃないですか。目的地に進んでると思うと、落ち着きますよ少しは」
「そうだけど……」
「焦ってる本人が運転するのは危ないですけど、俺は関係ないですからね」

 関係ないのに。到着は真夜中になるのに。関係ない人のために、動ける人なのか。

(宮くんってよくわかんない人だねぇ)
(悪い奴ではないことは確かだけど)

 ふわちゃんとロボロボだって困惑している。

 だけど。おばあちゃんに向かって動いていると思うと、やっぱりほっとする。このまま一人で朝を待っていたら、何もできないことに耐えられなかったと思う。

「宮くん、ありがとう」
「あ、眠ってていいですよ。向こうついたら夜中ですし病院行くんでしょう? 仮眠取っておいた方がいいです」
「宮くんだって眠いでしょ」
「俺は運転好きなんで。助手席の人間がどうしてようが別になんでもいいんで」
「わかった」

 とは言っても眠れそうにはない。おばあちゃんのことがずっと胸を焦らせている。
 
 宮くんのことはよくわからない。でも運転が好きなのは本当だと思う。心なしかいつもより目がキラキラしてる。いや、車のヘッドライドのせいかな。

 私は眠れないけど目を瞑っておくことにした。今の私はいつものようにうまく話せる気がしなくて。本音をぼろぼろこぼしてしまいそうな気がしたから。
 窓の外の景色を薄目で見ながら、おばあちゃんの無事を祈って目を瞑った。


 **

 夜中の二時、入院先の病院に到着した。
 宮くんは「仮眠したら帰ります」とすぐに車を発進させてしまった。

(行動が早い人だねぇ)
(東京に戻ったら改めてお礼をしないと)
(美生、とりあえず今はすぐにおばあちゃんのところに行くぞ)

 ロボロボの言葉に私は夜間入り口に走った。
 
 病室にはお母さんだけがいて、私の顔を見るとほっとしたような表情を浮かべる。

「美生! 間にあってよかった」
「みんなは?」
「みんな最期に会えたから一回家帰った。ここに全員おってもな」
「そっかあ……。もうほんまに最期なんや」
「うん。先生はこのまま眠ったまま、逝くやろうって」

 久しぶりのおばあちゃん。骨みたいだ、と思った。昔のふくよかな姿が思い出せないほどに。
 肌もずいぶん黄色くなっていてハリはなく、死期が近いのは何の知識もない私でもわかる。

「耳は最後まで聞こえるらしいから」
「うん」

 骨ばった手に触れてみる。固い。柔らかさがない。
 そのまま手を滑らせて、顔に手を触れてみる。やっぱり固い。
 口をぽかんと開けていて、苦しいのかと思ってしまう。だけどまだ息をしていることにじわりと涙がたまっていく。

「おばあちゃん、ありがとう」
 
 色々話しかけたいことはある。だけどその言葉を呟いたら胸がいっぱいになってしまって。
 こみあげてくるものが全部涙に変わってしまって。喉がぎゅうっと閉まった。苦しい。どうしようもなく。
 
「おばあちゃん、ありがとう」

 ふわちゃんとロボロボに相談しなくても私からは「ありがとう」しか出ないことがわかっていた。伝えられる言葉はそれしかなかった。

「ありがとう」

 私はおばあちゃんの固い腕をさすりながら、そう呟き続けた。


 **

 おばあちゃんは朝の四時頃に亡くなった。
 そのまま会社を数日休んで、おばあちゃんの通夜と告別式と慌ただしく過ぎた。
 
「美生、泣かんかったね」
「可愛がってもらっとったのに冷たい子やわ」

 遠い親戚のそんな声が聞こえたけど、どうだってよかった。
 涙が出ないのは事実で、いまだに現実味がないままだ。亡くなる直前の骨みたいなおばあちゃんと、記憶の中のおばあちゃんはうまく結びつかない。最期に会えたのに、棺の中の姿も見たのに、全くもって実感がない。

 告別式までは悲しみ一色だけど、その後は案外ガヤガヤと過ぎるのが老人の死後だ。
 母たちは一人暮らしをしていたおばあちゃんの家をどうするかとか、現実的なことを話し合っている。
 
「美生、なんかもらう?」

 重要なことはおいおい話すとして今日はひとまず形見分けでもしようかという話になり、叔母が「喪服もらおかな」「私は真珠のネックレスもらうわ」などとやり取りしている。

「このブローチとか、若い子でも使えるんちゃう?」

 おばあちゃんの桐箪笥を覗きながらお母さんがパールのブローチを見せる。誘われるまま、桐箪笥を覗くといくつかの宝飾品が見えた。

「私はいいわ」
「そう?」

 お母さんが次の引き出しを開くと、そこにはいろんな色のカンカンがあった。
 青、ピンク、イエロー……キャラクターがついていたり、花柄だったり。シンプルなものだったり。おばあちゃんのカンカンだ。

「私、これが欲しい」
「え? これ? 中身、薬とかやで。しょうもないもんしかないと思うけど」

 お母さんは茶色に英文の書かれたカンカンを開けてそう言った。たしかに中にはなんの効能があるのかわからない錠剤がいくつも雑多に入っている。

「いいねん。これが一番おばあちゃんの形見って感じする」

 私はカンカンを全部もらった。私が修学旅行で行ったテーマパークの缶もある。
「お土産買ってくるわ、何がいい?」って聞いた私に「お菓子がいいかなあ、なんでもいいけどカンカンのやつにして」と答えたおばあちゃん。
 あれから人にお菓子を送るときはつい缶のものを選んでしまう。
「カンカンはなんにでも使えるからな!」そんな言葉を思い出して。

**

 アパートに帰った私はおばあちゃんのカンカンを開けてみた。

(これ年季入りすぎて汚いな)
(さすがにこれは捨てよっかぁ)

「おばあちゃんも、これは捨てぇ!って言うやろな」

 私は小さく笑って錆びたカンカンを開ける。そこにはいろんな書類が入っていた。町内で配られたであろうプリントとか、病院の領収書とかだ。重要そうなものは一枚もない。

(これは持ってても仕方ないだろ)
(そうだねぇ)

 次のカンカンはピンクの花柄だ。缶の可愛らしい雰囲気に合っていて中身もビーズが入っていた。

(おばあちゃん、こういうの結構好きだったよねぇ)
(美生も一緒に作って、俺とふわちゃんはしばらく手も足もビーズのブレスレットまみれなってたな)

「じゃあ裁縫道具のカンカンもありそう」

 私の読み通り、緑色のクリスマスモチーフのカンカンには裁縫道具が一式入っていた。ミシン用の糸もどっさり。私は裁縫なんて全くできないから必要ないけど、これはなんだか捨てられそうにない。おばあちゃんが作ってくれた手作りの給食ナフキンを思い出してしまうから。
 
 お母さんの言う通りカンカンの中身は全部「しょうもないもん」だ。でも、おばあちゃんを思い出して全部が愛しい。

「次は懐かしいのいきますか」

 私が修学旅行のお土産にしたカンカンを開ける事にした。テーマパークのキャラクターがプリントされた可愛い奴でまあまあ値段がするやつだ。

「あ……」

 出てきたのはおばあちゃんの似顔絵だった。きっとそれは私が書いたものだ。多分幼稚園のイベントで作ったのだろう。おばあちゃんらしき似顔絵と明らかに先生の字で書かれた「いつもありがとう、だいすき」の文字。
 
(これ、美生のカンカンだ)

 入学した時に撮ったクラス写真。お母さんがおばあちゃんの分も注文してたな。
 お年玉でおばあちゃんに買ってあげたマスコット。松ぼっくりで作ったクリスマスツリー。賞を取ったから書初めまである。
 
(ミウ、百点取ったテストまでおばあちゃんにあげてたんだねぇ)
(こっちは落ち葉で作った、なんだろ? ゴミ?)
(多分アートのつもりだよぉ)

「なんや、このカンカン。しょうもないもんしかないやんか……」

 独り言と同時に涙までこぼれる。

 私とおばあちゃんはきっと似てる。私があげたプレゼントの包装紙についてたリボンも、夏休みに一緒に見に行ったアニメ映画の半券も入っている。
 
 こんなガラクタを何年分もため込んで。どれだけ大切に想われていたのか、わかってしまう。
 ――これは私とおばあちゃんの宝箱だ。

 苦しい。涙がせりあがってきて苦しい。
 私は自分のチェストの中から、一番お気に入りの缶を取り出した。くまとロボットが描かれていてふわちゃんとロボロボを想像して、一目惚れして自分に買ったクッキー缶。

 そのカンカンに、おばあちゃんのカンカンの物を少しずつうつしていく。
 私の大切な儀式だ。おばあちゃんとの思い出を全部ここに入れ込んでしまえば……この胸の痛みから解放される。
 
 なのに。全然痛みが消えない。涙がとまらない。
 おばあちゃんとの思い出は大きすぎて、全然すべてを仕舞い込めない。

 おばあちゃんとの思い出はたくさんあったはずなのに。カンカンにしまおうとすると、今は悲しみしか見当たらない。それがまた悲しくて、私はおばあちゃんの思い出が散らばった部屋で、一人うずくまった。

 
 **

 宮くんが退勤するのを見計らって声をかけた。オフィスを出たところで宮くんは立ち止まる。

「宮くん、こないだはありがとう。おかげで最期に会えたよ」
「間に合って良かったです」
「これ交通費とガソリン代。相場を調べてみたんだけど、車のことは詳しくなくて。もし足りなかったら請求して」
「いや、いいですよ。俺も久しぶりに遠くまで運転できて楽しかったですし」

 宮くんは受け取らずにそのまま歩いていこうとするから慌てて追いかける。

「もらって。お願い」

 私は紙袋を宮くんに押し付ける。

「なんですか、これ」

 紙袋の中身を宮くんは確認する。中から出てきたのはクッキー缶だ。

「交通費とは別にお礼」
「じゃあこっちだけ受け取ります」
「いや、むしろお金を受け取ってほしいんだけど……」

 紙袋からお金が入った封筒を取り出して私に差し出してくるので、首を振る。

「あ、じゃあ。今からこれ使ってドライブ行きません?」
「え?」
「丸岡さん、落ち込んでるでしょう。行きましょう」

 宮くんは今夜もマイペースだ。私の返事を聞かずに歩き出す。きっと駐車場に向かうのだ。
 

 **

 やっぱり宮くんは運転中、目がキラキラしていると思う。
 横顔をじっと見ていると「なんですか」とちょっと不機嫌そうに返されるけど。

「俺は落ち込むことがあると運転するんですよ」

 やや間があって宮くんは言った。

(これ、宮くん励ましてくれてるんだよねぇ)

 ふわちゃんの言葉に私とロボロボは同意する。

「私はペーパードライバーだから運転手の気持ちはわからないけど、わかる気する」
「わかってないですよねそれ」
「……私はカンカンに入れるんだ。何か心が波立ったら」
「カンカン……?」
「あ、缶のことね。さっき渡したクッキー缶みたいな」

 宮くんは「ああ」と思い当たった声を出した。

「感情の行き場所がわかんないから缶にしまうんだ。そうすると安心する」
「へえ、独特ですね」

 宮くんに独特と言われると、ちょっと反抗したくなるけれど。
 
「いつもはそれでいいはずだったんだよ。おばあちゃんのことも思い出にできるはずだった。なのにつらい感情が大きすぎて、おっきな缶にいれたのに全然おさまってくれない」

 すんなりとストレートな気持ちが出てしまったけど、宮くんは「独特の感性ですね、本当に」とさらりと言うだけだ。

「励ますとかないのか」
「いや、丸岡さんの感性が難しくて理解しようとしているところです今」

 そう言ったあとに押し黙り、何か考えながら黙々と運転している。
 
「缶につらいこと、仕舞い込む必要あります?」

 たっぷり考えてから宮くんから出てきた言葉は否定だった。
 少しむっとして「やっぱり理解できないよねえ」と言ってしまう。反射的に出た言葉はなんだかふわちゃんみたいに子供っぽくなった。

「あ、すみません。悪い意味じゃないんですよ。缶に思い出や感情を仕舞うのはいいと思うんですよ」
「はあ」
「こないだから思ってるんですけど、丸岡さんって全部飲み込むんだなあって。つらい気持ちまで缶に入れる必要ってあるんですかね」

 宮くんの言葉からは嫌味や含みは感じない。ただ真っすぐに問いかけてくる。

「嫌なこととか、つらいことって別に仕舞い込む必要ないですよ。別に忘れなくてもいいですけど。良いこと、大切にしたいことだけ入れておけばよくないですか」
「それはそうかも。でも私ね、マイナスな感情も全部含めて自分の大切な感情だと思ってる」
「理解できない感性だ」

 今度は理解できないとはっきり言われてもなんだか嫌ではない。否定されたとももう思わなかった。
 車は目的地についたらしい。料金所に入っていく。

「俺は結構王道なんで。嫌なことは海に流すことにしてます」
「じゃあここは海の近くなんだ?」
「そうなりますね」

 暗くてあんまりよくわからないけど、高速を抜けた道はどうやら海岸らしく。宮くんは本気で私を元気づけようとしてくれているらしい。

「悲しい気持ちも入れていいですけど、全部入れるとしんどいと思いますよ」

 宮くんは話を戻した。
 
「そうだね。悲しい気持ちのほとんどは海に流しちゃおうかな」
 
 目を瞑る。押しつぶされそうだった黒い悲しみを、黒い海に溶かしていく。
 今はまだ、あのカンカンに入れられないほどの大きな悲しみを。
 
 でも宮くんの言う通りだ。それを全部押し込めなくてもいい。この悲しみを少しだけ切り取って、あのカンカンに入れよう。
 それ以外は暖かいものでいっぱいにするんだ。おばあちゃんと一緒に過ごした優しい気持ちでいっぱいに。
 
 きっと、私の宝箱は、私の感情そのものなんだ。
 
 私は、人よりも自分自身の感情を大切にしたいのだと思う。感情は私だけが持つ宝物だから。
 だから、ふわちゃんとロボロボを挟んで、ワンテンポ遅れてしか会話ができない。私の感情を守るために。

「ああ、それで丸岡さん、俺にクッキー缶くれたんですね」

 宮くんは思いだしたように言った。

「うん、そうだよ」

 宮くんは私のことを理解できないのに知ろうとしてくれる。それで、理解できなくても否定しない。
 窓の外を見てみる。どこからが道路で、どこからが海かわからない。悲しさを撫でてくれているのはわかる。
 
 今夜はもう、ふわちゃんもロボロボも出てこない。宮くんと私だけの静かな夜が続いていく。