それは、梅雨空の下、学校近くのバス停でのことだった。
なにかに目を奪われるってこういうことなんだと、私はその日初めての感覚を味わった。
高い位置でひとつに結ばれた髪は毛先だけくるんとしていて、艶やか。傾いた顔に落ちる影は肌の滑らかさを際立たせている。
長いまつ毛は優しく伏せられ、じっと動かないその姿は、まるで美術館に飾られている、そういう絵画のようだ。
――きれい。
雨で白く霞む世界の中で、彼女の姿だけがなぜかくっきりと色彩鮮やかに映った。
蛙の鳴き声と雨音が支配する中、不意に車が道路に落ちた雨水を豪快に弾きながら通り過ぎていく。それが数回続いたとき、彼女がふっと目を開けた。
長いまつ毛を何度か揺らして、ふとバス停の前に立っていた私を見上げる。
「座る?」
バス停のうしろ側、小さな池に落ちる雨音に遠慮するようにひそやかな声。しかしながら、その声はななぜかはっきりと私の耳に届いた。
「……ありがとう、ございます」
一方私は、今にも雨音にかき消されてしまいそうな声で、そう答えた。
これが、私と椿先輩の出会いだった。
***
きらいなものをあげたらキリがない。
早起きも、学校も、集団行動も、クラスメイトの大きな声も、男も女もみんなきらい。
だけどなによりきらいなのは、ひとの視線だった。
私は、だれかと目が合うことがなによりきらい。
私はだれにも見られたくないのに、みんな私を見る。私を見ては、ひそひそと囁く。
『葉桜さんってさぁ……』
なにを言っているのかは、聴こえない。けれど、聴かなくても分かる。
『母親に似て』
『男狂い』
『やっぱりね』
愛人の子というステータスがあるおかげで、私はこの歳までずっと、後ろ指をさされ続けて生きてきた。
『泣くんじゃない』
いじめられるたびにべそをかく私を、母は慰めることもせずに叱った。
『泣いたら相手の思うつぼなのよ。言い返しなさい。相手が泣くまで』
そんなこと、できなかった。だって、みんなが言うことは事実だから。
やっぱり泣いて帰ってくる私を、母は呆れた顔でただ見ていた。庇ってはくれなかった。
私がいじめられるのは、ほかでもない母のせいなのに。
しかしそんな母も、結局世間の目に負けた。
母が妻子持ちの私の父と別れて実家のある栃木に逃げ帰ったのは、私が小学校四年生のときだった。
私が住むのは狭い田舎街だ。引っ越してきて間もなく、母の噂は広まった。
転校初日、私はクラスメイトとなった男子たちに、開口一番に言われた。
『イケナイことしてできた子どもがきたー!』
その日から、当たり前のように男子にはからかわれ、女子には仲間はずれにされる日々が始まった。
といっても、母に似てそれなりの容姿であったためか、ひどいいじめはなかった。
ひどくなる前に、先生が守ってくれる。ただ、守ってくれるのは、いつも男の先生だった。それが余計、火に油を注ぐかたちになった。
しかしそうなると、今度は保護者たちから『母親に似て娘まで男を惑わすのね』なんて言われた。
散々言われ続けたせいか、私は次第になにも感じなくなっていった。
クラスメイトからの暴言も、陰口も、先生からのありがた迷惑な励ましも、なにも感じない。
精神を病んで母が自殺したときですら、涙ひとつ出なかった。
そのときはさすがにじぶんでもどうかしているかもしれないと思ったが、出ないものは仕方がない。それに、感情に流されないのは、日常生活を送る上では案外楽だった。
高校生になってとなり街の高校に入学すると、さすがに私の内情を知るひとはいなくなって、私へのからかいや噂話はなくなった。
代わりに聞くようになったのが、『スキー部事故』と『雪女センパイ』とかいう単語。
なんでも、私が入学する直前の冬、スキー部の合宿で事故があったらしい。
全国ネットのニュースでも大々的に取り上げられたらしいが、私は受験勉強でそれどころではなかったのでよく知らなかった。
噂によると、スキー場での練習中、部員と引率の教師二名が雪崩に巻き込まれ、死亡したという凄惨な事故だった。スキー部員十二人中、生き残った生徒はたったのひとり。
それが『雪女センパイ』らしい。
『雪女センパイって、魔女みたいだよね』
『部員荒らしだったっぽいよ』
『スキー部の事故って、雪女センパイの魔力だったりしてね』
――くだらない。
だれもかれも、よくもまぁ噂の種を拾ってくるものだと思う。
***
高校に入学して二ヶ月。今のところ、学校には平和に通えている。
「おはよー。ねぇ、昨日のドラマ見た?」
「見たみた! めっちゃ面白かったー」
「ねぇ、今度のビビデビのライブ、一緒に行かない?」
「えっ! 行こいこ! じゃあ私申し込んどくよ!」
「マジ? ありがとー! じゃあ次のライブは私の名義で申し込も」
「オッケー!」
あちこちから、華やかな声が聞こえてくる。
――ビビデビって聞いたことある。
たしか、ビビットデビルっていうアイドルグループだ。
今私たちの世代にいちばん人気のアイドルだった気がする。
――アイドルかぁ。
毎日クラスメイトたちの会話を聞いていて思う。
みんなには、当たり前に好きなものがある。
アイドルとかアニメのキャラとか、コスメブランドとか。
放課後は毎日友だちと買い食いをして帰って、休日はアイドルのライブに行ったり、買い物に遠出したりする。
どうして私は、ああいう『ふつう』になれなかったんだろう。
コスメを見ても心は踊らない。化粧なんてしたら、また男を誘ってるとか言われるに決まってる。
男を見ても、気持ち悪いとしか思わない。男なんてみんなバカだ。
友だちなんて、信じられない。どうせ影で悪口を言っているに決まってる。
……あぁ、私は。どこで間違ってしまったのだろう。
私は、どうすればああなれるのだろう。
……きっとなれない。
ああなるにはきっと、生まれるところからやり直さなればならない。
不倫でできた子じゃなくて、母親が自殺した可哀想な子でもなくて、『ただの』私にならなければ、無理だ。
私は、ふつうじゃないから。
クラスメイトたちは、入学当初こそ声をかけてきたものの、私が群れる気がないのを悟るとすぐに関わろうとしてこなくなった。
私の存在はその程度なのだ。
無理に仲良くしなくていい。仲良くなくてもいい存在。
新しい学び舎で私は、愛人の子というステータスから、陰キャというステータスに格上げされている。
格上げというのはつまり、陰キャのほうがマシだから。
だって、ただの陰キャならみんな、私を見ないから。私に興味を持たないから。
こそこそと噂話を囁かれるより、ずっといい。
だから、いい。
これ以上私は、なにも望まない。
好きなものなんていらない。友だちもいらない。家族も……なにも。
教室の喧騒を遮断するように、私は窓の外へ目を向ける。
窓は締め切られているけれど、雨に打たれる校庭を眺めていると、こちら側まで雨の匂いが漂ってくるような気がする。
「おはようございまーす。はい、みんな席についてー。ホームルーム始めるよー」
ドアが開く音とともに、担任が挨拶をしながら教室に入ってくる。
賑やかだった声は途端に静まり、椅子を引く音と雨音だけになった。
出席を取り終わると、来月の頭に催される球技大会の種目決めに移った。
それぞれ、近くの席の子とこそこそと出場種目をどれにするかという相談の声が聞こえてくる。
――球技大会か……。
学校イベントは基本強制参加。
長い前髪のせいで、私はあまり視力が良くない。球技は全般苦手だ。
女子の種目は、バレー、バスケ、バドミントン、テニス、卓球。この中なら、一番マシなのは個人競技の卓球だろうか。幸い、まだ枠は埋まっていないようだ。
よし、私は卓球にしよう。
そう決めた矢先のことだった。
「ねぇ、葉桜さん。球技大会の種目なんだけど……」
声をかけられ、顔を上げる。
「私、余ってて。よかったら一緒にバドミントンやらない?」
私に話しかけてきたのは、前の席の牧さんだった。
牧結子さん。
いつもにこにこしていて、クラスの中心的存在の子。いわゆる陽キャ。優しくて、可愛くて、男女ともに好かれてる。
でも、その笑顔はどこか胡散臭かった。作っている笑顔のような気がしてならなかったのだ。中学のとき、だいたいみんなにいい顔をする子が影でいちばん私のことを散々に言っていた。
彼女がそうと言うわけではないが、そうでないとも言えない。だからあまり、かかわりたくない。
けれど、断ったらそれはそれでクラス中からブーイングを浴びることになりそうで、私は頷くしかなかった。
「……はい」
「やった! じゃあよろしくね!」
俯いたまま短く頷くと、牧さんは嬉しそうに前を向き、手を挙げた。
「はーい、牧と葉桜はバドミントンやりまーす」
牧さんの高い声は、私の耳につんと響いた。
***
翌日から、球技大会の練習が始まった。
牧さんとバドミントンに出場することになった私は放課後、毎日練習に駆り出されていた。
運動はもともときらいではないけれど、リレーと違ってバドミントンなどの球技は苦手だ。
前髪が長い私の視界は、あまりいいものじゃない。
バドミントンの小さくすばしっこく移動する羽根を目で追いかけるのは難しかった。
練習中、私と牧さんは「すみません」と「ドンマイ!」を繰り返した。
二週間目の放課後練習が終わったあと、牧さんが「葉桜さん」と声をかけてきた。
「今日、一緒に帰ってもいい?」
「あ……ハイ」
断れず、頷く。
帰り道、牧さんは相変わらずにこにこ笑顔で私に話しかけてくる。
「ねぇ、葉桜さんって、家どっちのほう?」
「今やってるドラマ、見てる?」
「葉桜さんってきれいな髪してるよね。トリートメントはなに使ってるの?」
次から次へと、忙しなく質問が飛んでくる。
せっせとその質問に答えながら、私は必死に足を前に踏み出す。
彼女はとなりでがちがちに緊張して、萎縮している私を見てどう思っているのだろう。私の顔が引きつっていることに気付いてないなんてことはあるまい。
彼女の視線と質問を交わしつつ、やっと校門の前まで出る。
絶望する。
まだ、ここ。
彼女との分かれ道まで、まだ先は長い。
「ねえねえ葉桜さん!」
牧さんが相変わらずの笑顔で私に絡んでくる。
牧さんのその笑顔が、私はやっぱり苦手だと思った。
それから、さらに一週間。
相変わらずワンテンポ遅れて羽根に反応する私に、とうとう業を煮やしたらしい牧さんが言った。
「ねぇ、ずっと思ってたんだけどさ。葉桜さん、その前髪邪魔じゃない? 私ピン持ってるから貸そうか?」
やっぱり、言うと思った。
途中でいやになるなら、最初から偽善者になんかならなければいいのに。
言いたい気持ちをぐっとこらえて、私は片手で前髪を押さえ「大丈夫」と返す。
球技大会ごときのために前髪をいじるなんて、有り得ない。
「えーでもさぁ、視界不良そうだよ? 危ないし、きっと上げたほうが羽根もよく見えると思うよ! それに、葉桜さんの瞳ってすっごく……」
「大丈夫」
言われなくたって、そんなこと分かってる。分かっててもできないし、したくないのだ。
「……大丈夫。ミスばかりでごめん。練習、頑張るから」
「あーうん、そっか……」
「…………」
私と牧さんの間に沈黙が横たわる。
「……そろそろ終わろっか」
牧さんが体育館の時計を見て言った。私は頷き、片付けを始める。お互い言葉はなく、黙々と作業をした。
その帰り道、私たちは肩を並べて帰りながらも、なかなか会話は弾まない。そもそも弾んだことなどないが。
微妙に気まずい空気が居心地悪く、私は気を紛らわすように空を見上げた。
私たちがいる渡り廊下からは、灰色の曇り空が見える。
ふと、視界の端に校舎が目に入った。窓ガラスには、空が反射して映っていた。そのうちひとつだけ、開け放たれた窓がある。
窓には人影があった。バス停であったことがある、あのひとだ。
窓の縁にもたれかかるようにして、どこか遠くを眺めている。
バス停で出会ったあの日から、私の目はよく彼女を映すようになっていた。
名前も、先輩なのか同級生なのかも知らない彼女。
梅雨の季節なのに、その場所だけ色彩鮮やかに見える不思議。
放課後。昇降口を出て、校門前で立ち止まって、学校のほうを振り返る。
いつも彼女は決まった空き教室の窓際にいる。なにをするわけでもなく、ただぼんやりとどこか遠くを眺めている。
――なにを、見てるんだろう。
「あ、ねぇねぇ葉桜さん」
ぼんやりしていたら、牧さんに声をかけられた。
「あ、なに?」
顔を上げると、うっかり牧さんと目が合い、慌てて目を逸らした。再び歩き出す。
牧さんは動揺する私にかまわず話しかけてくる。
「葉桜さんは、ビビデビって知ってる?」
「ビビデビ……あぁ。あのアイドルの」
「そうそうっ! 私ね、ビビデビの大ファンなんだっ! センターの西野くん、かっこよくない?」
「あ……うん。そうだね」
「だよねっ!」
とりあえず同調してみるけれど、私はビビデビについて名前を知っているくらいで、メンバーなんてひとりも知らない。
これ以上ツッコまれたら、ボロが出る。どうかこれ以上話を広げないでと祈りながら歩く。
「…………あー……なんかごめん。もしかして、そんなに好きじゃなかった……かな?」
少し声が遠くで聞こえて振り向くと、少し離れたところに牧さんが立っていた。
「……あ……いや、あの……そういうわけじゃなくて」
焦るあまり、早歩きで牧さんを置いてけぼりにしてしまっていたようだ。
牧さんは困ったような、ぎこちない笑みを浮かべて、頬をかいた。
「あの……ごめんね。私ばっかりしゃべっちゃって。その……葉桜さん、なにが好きなのか分かんなくて……好きでもない話ばかりでつまんなかったよね、ごめんね」
ハッとした。
「あ、あの……」
――そうじゃない。そうじゃないのに。
言葉が浮かばない。
「あ、じゃあ私、こっちだから。また明日ね!」
牧さんは、逃げるように私と反対方向の道を駆けていってしまった。
「あ……うん、また……」
牧さんの背中がずいぶん遠くなってから、私はようやく口を開く。
――傷付けてしまっただろうか。そんなつもりはなかったのに。
私はただ、人気者の彼女となにを話せばいいのか分からなくて、ただこれ以上きらわれたくなかっただけなのに。
ひとと接するのって、難しい。
気落ちしたまま、とぼとぼとバス停まで歩いた。
胃の辺りがむかむかとする。
別れ際の牧さんの顔が頭から離れない。
牧さんはきっと、前髪の件で気まずくなってしまったから、気を遣ってくれていたのだ。それを私は、さらに気まずい状況にしてしまった。
――どうしたら良かったんだろう、私は。
ため息を漏らしつつ、バス停に着く。
ベンチに座りぐーっと足を伸ばしていると、だれかがとなりに座った。
「やあ」
その声にハッとする。
「あ……」
そこにいたのは、絵画から抜け出てきたような美しいあのひとだった。
どうも、と小さく頭を下げる。
ぽつぽつ、とトタンの屋根を叩く音がする。灰色の空からは、同じ色の水玉が降ってくる。
「そういえばあんた、友だちいたんだね」
「友だち……?」
「背が高くて、きれいな子。さっき一緒に話してたでしょ」
牧さんのことだろう。
「……べつに、友だちじゃないです。あのひとは、球技大会で同じチームなだけのクラスメイトで……」
「そうなの? あの子はすごく仲良くなりたそうにしてたけどね」
――牧さんが?
「……そんなわけないです。彼女はただ、私がひとりだったから声をかけてくれただけで。どうせ本当の私を知ったら、離れていくだろうし」
「そー? まぁ、べつに、どーでもいいけどさ」
どーでもいい。……なら、わざわざ言わなくたってよかったのに。
彼女はつまらなそうにバス停の屋根の先を見ていた。
期待はしない。
それでいつも裏切られてきたのだから。
その横顔にほんの少しムッとしながら、私はじぶんの足元に視線を落とした。
相変わらず、不思議なひとだと思った。
***
いやなことが起こる日は、いつだって雨の日だった。
転校して、クラスメイトにいやな言葉を突きつけられたのも、母が自殺したのも、梅雨真っ只中の六月だった。
雨を見ると、いろんなものを思い出す。
灰色の世界と壁一枚挟んだ教室を照らすしらじらとした蛍光灯とか。
蛍光灯に照らされて、空気中で白く光る埃とか。
それから、雨音をかき消すクラスメイトたちの嬌声とか。
私の噂をする、囁き声とか。
じぶんの家に虫のように群がるパトカーの赤色とか。
袋に詰められて運ばれていく変わり果てた母の姿とか。
雨の中、泣き崩れる祖母の姿とか。
六月はきらいだ。
六月は雨が多いから。
私の苦しさは、いつも雨とともにある。
私を雨から守ってくれる傘は、ない。
生まれたときから、私はずぶ濡れのまま。今も。
「葉桜さん、ちょっと前髪長いですね」
全校総会後の制服指導で、学年主任の標的となってしまった。
学年主任は五十代の女性教師だ。厳しいことで有名だった。
「前髪は、眉毛の上の長さになるように。明日までに切ってきなさい。いいですね?」
「…………」
わざわざほかの生徒たちにも聞こえるような、大きな声で言われてしまう。奥歯にぎゅっと力がこもった。
「返事は」
「……はい」
小さく返事をすると、「声が小さい!」とさらに大きな声で怒鳴られた。
みんなの視線を痛いほどに感じる。
一年生だけでなく、上級生や先生たちの視線もあった。
背中が、冷水を落とされたように総毛立つ。
見えない圧を感じて、私は顔をあげられなくなる。
――あぁ、もうやだ。
見ないで。
私は見世物じゃない。
今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるけれど、そんなことをしたらもっと目立ってしまう。私は動きそうになる足をぐっと抑え、「はい」ともう一度返事をする。
返事をしながら心の中で、ぜったい、死んでも切ってやらない。そう思った。
口の中は、からっからになっていた。
***
その日の帰り道は、どしゃぶりだった。
空は灰色どころか墨色に近いくらいの色で、大粒の雨がアスファルトや畑に強く打ち付けている。
傘を伝って落ちる粒が、私の足元を容赦なく濡らした。
まるで、私の心を表すような空模様だった。
赤い傘の取っ手を強く握って、バス停へ向かう。だれもいないバス停のベンチに座って傘を閉じると、足元に小さな水たまりができた。
『切ってきなさい』
『返事は!』
蘇るあの声。
雨音のせいだろうか。妙な気分になってくる。
私は、特に女にきらわれる。
その生い立ちと、この見た目と、性格のせいで。
努力で私に直せるところなんて、ひとつもない。
私は、どうしたらいい?
もし……もしも今、この場で私が自殺をしたとしたら、あの学年主任は少しは考えをあらためるだろうか。
私がなぜ前髪を伸ばしていたのか、少しは考えようとするだろうか。
じぶんの発言で私がどれほど傷ついたのか。
じぶんの発言のせいで死を選んだかもしれないと、罪悪感を抱くだろうか。
……私は、前髪を伸ばすことさえ許されないのだろうか。
ひとの視線が怖い。そう言ったら、あの学年主任はなんと言うのだろう。
私を取り巻くいろいろなものへの不満と、じぶんへの苛立ちが、荒々しく胸の中で渦を巻いていた。
「……死ぬ勇気なんてないのに、バカみたい」
ぽつりとひとりごちていると、水が弾ける音がした。
顔を上げると、透明なビニール傘をさした女生徒がいた。あのひとだ。
「となり、いい?」
「あ……はい。すみません。どうぞ」
私は慌てて謝りながら、身体を端に避ける。その拍子に、ベンチに立てかけていた傘が倒れてしまった。いけない。
私が拾うより先に、赤い傘にすっと白い手が伸びた。
「はい」
女生徒が、拾った傘を差し出してくる。
「……すみません」
謝って、私は傘をその手からそっと受け取る。
と、そのとき。
「それ、やめなよ」
はっきりとした声がした。
「え?」
顔を上げると、女生徒と目が合った。女生徒はどこか睨むような強い眼差しを私に向けていて、私は戸惑い、怖くなって目を逸らす。
けれど、逸らしてからも、彼女の言葉が気になって仕方ない。
――やめるって、なにを?
しかしそうは聞けずに、私は女生徒をちらりと見る。彼女はもう私のことなんて見えないかのように目を閉じていた。
雨足が強くなったような気がした。
――ブォォォ。
化け物のような音を出して、バスがやってきた。
プシュッと空気の抜けるような音とともに、乗り口が開く。
乗り込もうと立ち上がるが、となりで一緒にバスを待っていた彼女は目を閉じたまま、起きない。
乗らないのだろうか。でも、バスは一時間に一本。これを逃したら、また一時間、この場所で待つことになる。
「あの……」
小さく声をかけるが、女生徒は起きない。肩を叩こうかとも思ったが、それはなんとなく申し訳ない気がした。
そうこうするうち、バスがクラクションを鳴らす。
バスの乗り口を見ると、その先の運転席にいる運転手と目が合った。
乗るならさっさとしろ。
運転手の目が言っている。
――どうしよう。
なにも言えず、そのまま突っ立っていることしかできない私の前で、バスの扉が閉まる。
結局、私まで乗り過ごしてしまった。
バスのおしりを眺めながら、ため息をついてバス停のベンチを振り返ったときだった。
女生徒が目を開けてじっと私を見ていた。
「わっ」
思わず驚きの声が漏れ、慌てて両手で口元を押さえる。
――え、なにどういうこと? もしかしてこのひと、ずっと起きてた?
女生徒はバスが来ていたことに気づいていて、さらに私が声をかけたことにも気づいていたのかもしれない。
――じゃあ、わざと乗らなかったってこと? なんで?
長いまつ毛を何度か揺らして、女生徒がふとバス停の前に立っていた私を見上げる。
「座る?」
あの日と同じ、雨音に遠慮するようにひそやかな声だった。
「……ありがとう、ございます」
私は戸惑いつつも、再びとなりに腰を下ろした。
次のバスが来るまで、あと一時間。
どうやって時間を潰そうか考えていると、声をかけられた。
「ねぇ、あんた」
びくりとする。
「なんで乗らなかったの、バス」
乗らなかったわけじゃない。乗れなかったのだ。だれかさんのせいで。
言いたかったけれど、結局私の口はなにも言葉を紡がない。
「よかったらだけど」
女生徒が無視する私にかまわず続ける。
「あんた、あたしと同盟組まない?」
「――へ?」
――どうめい? ドウメイ? あ、もしかして、同盟?
私は、聞き間違いかと耳を疑った。
「あの……どういうことですか?」
おそるおそる訊ねると、彼女は言った。
「ひとりぼっちの似た者同士、あ、雨宿り同盟とかど? なんかよく会うじゃん、特に雨の日にさ」
「……?」
意味が分からない。命名のセンスも、似た者同士、というのも。
「え、なに。まさかあんた、あたしのこと知らない?」
こくりと頷くと、彼女はさらに驚いた顔をした。
当たり前だ。知るわけがない。
「あたし、雪女よ」
「……は……?」
「スキー部の雪女。噂くらい知ってるでしょ」
スキー部。雪女。その言葉でピンときた。
彼女は、『雪女センパイ』だ。彼女は、昨年起こってしまった悲劇の事故の生き残りなのだ。
このひとが。
「……もしかして、昨年事故があったスキー部の……元部員、ですか?」
その表現が正しかったのかどうかは分からない。ただ、それ以外の言葉が頭に浮かばなかった。
「そ。全校生徒に知られてると思ってたのに、そんな反応なのね」
『全校生徒に知られてる』
さっぱりとした口調で、女生徒は言う。
「……すみません」
知らなかったことを謝ると、女生徒がくすっと笑った。
「それ、クセ?」
「え?」
「なんでもかんでも謝るの。じぶんを下げすぎるのは、よくない。傘渡したときもそうだけど。ああいうときは、『すみません』じゃなくて『ありがとう』って言うもんでしょ」
言われて初めて、じぶんが謝ってばかりだったことを自覚する。
「あ……そ、そうですよね。すみませ……えっと、ありがとうございました」
またすみませんと言いそうになって、やはりそれがじぶんのクセになっているのだと理解する。
「あんた、名前は?」
「え?」
「名前。あたしは椿みぞれ」
みぞれ。
きれいな名前。だけど、その名前は冬や雪を連想させる。だから『雪女センパイ』なのかと納得した。
「……私は、葉桜しずくです」
名乗り返すと、椿先輩は静かに微笑んだ。
「しずく。あたし、いつもここでだれかを待ってたんだ」
「待ってた?」
「あたし、ぼっちだから」
「ぼっち……」
「仲が良かった子たちはみんな部活にいたからね」
みんな、部活にいた。
それは、つまり。みんなあの事故で亡くなってしまったということだ。
このひとも、ひとり。
私と同じで、孤独なひと。
「ほかに、いないんですか」
「いないよ。分かるでしょ」と、椿先輩は肩をすくめる。
「周りはあたしをどう扱っていいのか分かんないんだよ。遠巻きにこそこそ噂するだけで、ぜったい直接話しかけてはこない。こうやってバス停で居眠りしてても、みんなあたしを避けて通り過ぎていくか、無視してバスに乗り込んでいく」
彼女は、学校で噂になっている『雪女センパイ』。
彼女が言う光景は、容易に想像がついた。
みんなどう接していいのか分からなくて、彼女から距離をとる。いろいろと、考え過ぎてしまうのだろう。
「嬉しかったよ、あんたが声かけてくれて」
向けられた笑みに、私はわずかに動揺する。
「……バスは行っちゃいましたけどね」
私も椿先輩も、結局バスには乗れていない。声をかけた意味はなかった。
「そんなの関係ないよ。あんたはあたしを無視しなかった。それが嬉しかったって言ってんの、あたしは」
「…………」
ストレートな言葉に私は戸惑い、言葉につまる。
椿先輩は、ずっと寝ているふりをして待っていたのだ。
声をかけてくれるひとを。じぶんを気にかけてくれるひとを。
最初、雨の中このバス停で椿先輩を見かけたとき。私は、彼女に声をかけずにバスに乗ってしまった。
そのとき彼女は、どんな気持ちだったのだろう。
「……次のバスが来るまで、あと一時間もありますね」
「十二分」
「え?」
十二分、とはなんだろう。私は首を傾げた。
「向かいのバス停に、反対方向のバスが来る。ねぇ、今から一緒に駆け落ちしない?」
「……えっ?」
――か、駆け落ちっ!?
突拍子もない提案に、私は目を丸くした。
「行く宛てもなく、ただふらふらってバスに乗って、終点まで行くの。明日のことも、じぶんのことも、なにもかもぜんぶ、忘れて」
「……忘れられませんよ、そんな簡単に」
そんなことで忘れられるなら、とっくにやっている。とっくにどこかへ旅に出ている。
「そんなことないよ。あんたは、難しく考え過ぎだよ」
「…………」
「あたしさ、あの事故でみんなが死んで、スキー部が廃部になったとき、思ったんだ。あたしもほんとは死んでるのかもって。あたしは既にみんなと一緒に死んでいて、ただそれに気付いてないだけなのかもって。みんなと同じように死んだから悲しくないし、涙も出ない。クラスメイトたちには見えてないから無視されてるのかもなってさ」
「……涙、出なかったんですか」
私の問いに、椿先輩は乾いた笑みを浮かべて頷く。
「出なかった。ヤバいよね。だから雪女なんて言われるんだよ」
椿先輩はそう言って、自嘲気味に笑った。
「……私もです。……私も、母が自殺したとき、泣けなかった」
「そっか。……なんで自殺したの? お母さん」
「……知りません」
男にふられたことがショックだったのか、それとも子育てに絶望したのか。はたまた、世間の目に耐えられなくなったのか。
どうでもいい。考えたくもない。勝手に私を産んで、死んだやつなんか。
母がいなければ、母が私を産まなければ、私はこんなに生きづらい今を送らなくて済んだ。だから私は、ぜったいにあのひとを許さない。
私は立ち上がり、空に向かって赤い傘を広げる。
「……すみません。私、歩いて帰ります」
「あそ。じゃあね」
椿先輩は、私を引き止めるでもなく、あっさりと手を振った。
家についたのは、それから二時間後のことだった。
「ただいま」
言いながら引き戸を開けて中に入ると、祖母は、玄関先にある電話を使ってだれかと話をしているようだった。すぐに通話は終わり、祖母は受話器を置く。そしてちらりと私を見て、目を見張った。
「おかえりなさい……って、あなたびちょ濡れじゃない」
「……学校から歩いてきたから」
びちょ濡れになった私を見て、祖母は一瞬顔をしかめてから、洗面所へタオルを取りに行った。
「ほら、早く拭きなさい」
差し出されたタオルを受け取って、黙ったまま濡れた制服や身体を拭いた。
「……しずくちゃん、」
祖母が私の名前を呼ぶ。
「なに」
「もうすぐお母さんの命日でしょう。だから、今年は一緒に……」
お墓参りに行きましょう。そう言われる前に、私は祖母の声を遮った。
「行かない」
「しずくちゃん」
「行きたいなら、ひとりで勝手に行けばいいでしょ。私を巻き込まないでよ」
「巻き込むってあなたね……じぶんの母親の命日でしょう」
「はぁ?」
苛立ちで、声が震えそうになる。
「母親? 子どもを置いて自殺したあのひとが? 子どもがその生い立ちのせいでいじめられてるのに、じぶんだけさっさと死んだあのひとが?」
「それは……たしかに、あなたも辛い思いをしたかもしれないけれど……あの子だって辛かったのよ」
あなたも辛い思いをしたかもしれないけれど?
「……なにそれ。私より、あのひとのほうが辛かったって言いたいの? だから、自殺を許せって? ふざけないでよっ……! だったら産まなきゃ良かったじゃない! 勝手に産んで、勝手に死んで、残されたこっちはずっと後ろ指を指されて生きてきたんだよ! あのひとのせいで私は、ふつうにすらなれないの! 私のほうがずっとずっと辛いんだよ!!」
「それは……ごめんなさい、しずくちゃん……」
祖母が言葉につまるのを見て、どうしようもない苛立ちが込み上げてくる。
「……っ、もういい。お風呂入ってくる」
それだけ言って、私は脱衣所に逃げ込む。荒々しく扉を閉めると同時に涙が出そうになって、私は奥歯を強く噛み締める。
――バカじゃない。祖母に言ったって、なんにもならないのに。
洗面台に手をついて、心を落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。
私はいったい、どうしてここにいるんだろう。
祖母は昔の母の話ばかり。
あの子は昔は素直で優しくて、とってもいい子だった。いい子だったから、あんな男に騙されたの。すべてあの男が悪い。
いつも、そう言う。
でも、私がお腹に宿ったとき、産むという選択をしたのは母だ。
私を産めば、あの男がじぶんを見るとでも思ったのだろうか。そんなわけないのに。
母は素直だったんじゃない。ただ無知で、おろかだったのだ。
***
球技大会の放課後練習が終わり、渡り廊下に出ると、ひとつだけ空き教室の窓が開いている。そこにはやはり、椿先輩の姿が見えた。
彼女が『雪女センパイ』だと知って、分かったことがある。
椿先輩がいつもいるあの空き教室。
あそこは、スキー部の部室だったのだ。
彼女はいつもあの場所で、たったひとり、亡くなった部員たちを想っているのだろう。
事故から一年が経った今も、あの部室で。
「――ちょっと、あなた!」
渡り廊下を見上げていたときだった。
運悪く、以前の全校総会で指導を受けた学年主任に遭遇した。
長い前髪の隙間から目が合って、まずい、と思ったときにはもう遅かった。
「あなた! 検査で前髪切りなさいと指導したわよね? なんで変わってないの?」
いらいらした口調で、学年主任は私に詰め寄る。
「あ……あの」
まずい。
私はどうしようと内心焦る。焦れば焦るほど、頭が真っ白になってなにも思いつかない。
こんなところで、こんなにたくさんのひとがいる前で注意されたら注目されてしまう。
だれにも見られたくないのに。だれの視界にも入りたくないのに……。
なんでこのタイミングで見つかってしまったんだろう。今すぐどこかに逃げ出したい衝動に駆られる。
「ちょっと聞いてるの?」
「……す、すみません」
言いながら、ふと椿先輩の言葉が脳裏を掠めた。
『それ、クセ?』
また、謝ってしまった。
……そうだ。これは、私のクセだ。
だって、私は存在自体がだれかを苦しめるものだから。そう言われ続けて育ったから。
手をギュッと握り込む。
いつもこうだ。私は。
大人の言いなりになって、振り回されて。
そんなじぶんがいやで、変わりたいのに変われない。こうしていつも、俯いたまま時が過ぎるのを待つだけで。
「眉毛の上まで、前髪を切りなさいと言ったでしょう。なんでそれができないの?」
ねっとりとしたいやな視線を感じる。
「すみません……」
「謝ってもだめ。親がいないことも、いじめられてきたことも理由にはなりませんからね」
――……なにそれ。なんで今、そんな話を持ち出すの?
「あなたのお母さんの話は聞いてるけど、親が親なら子どもも子どもね。言っておくけど、私は今までの教師のように甘くはしませんからね」
怒りか虚しさか、全身がぶるぶると震え出す。
そんな私の様子を見ても、学年主任は私を親の仇のような鋭い眼差しを向けて、責め続ける。わざとみんなに聞こえるように、大きな声で。
「泣いたって無駄よ。校則なんだから、特別扱いはしませんからね。明日切って来なかったら……」
べつに、特別扱いしてほしいわけじゃない。そんなこと望んでない。
なんで分かってくれないんだろう。
周りはいつも、いつまでそうすねているのとでも言うような目で私を見る。
事実は変わらないんだから、どうしようもないことなんだから、いい加減大人になれとでもいうような。
なんで?
なんで、私がそっち側に変わらなきゃいけないの。
私が悪いの?
前髪が長いことの、なにがいけないの?
頭がくらくらする。
いよいようずくまりかけたそのとき。
「先生っ!」
だれかがやってきた。
わずかに顔を上げると、牧さんがいた。牧さんはいつもより少し早口で、私の代わりに弁明する。
「あ、あの! 分かってます、大丈夫です! 葉桜さん、美容室行くって言ってたんですけど、たまたま昨日美容室に行けなくなっちゃっただけなんです。ね? 葉桜さん」
牧さんの手が私の腕に絡みつく。まるで、私たちは分かり合ってますとでもいうような距離に、強い違和感を感じる。
――離して。どうせ、私のことなんてバカにしてるくせに。
「そうなの?」
学年主任がじろりと私を見る。私は頷くことも否定することもできないまま、目を逸らした。
沈黙が落ちた。
「あ、そうだ! 前髪、ピンで止めよう? あの、先生、それでいいですよね?」
「まあ、止めるなら……」
「ほら。葉桜さん、私のピン貸すから。それで……」
牧さんが私の目にかかる前髪をそっと上げようとする。私は咄嗟に、その手をバッと振り払った。
「やめてっ!」
「きゃっ」
牧さんが小さく声を上げる。
「ちょっと、葉桜さん!」
学年主任が牧さんに駆け寄る。
「だ、大丈夫です」
沈黙が落ち、ふたりの視線が私に向く。
「こっちは大丈夫じゃない」
「葉桜さん?」
「もうやめてよ……いい加減にしてよ。あんたらが心の中で笑ってること、こっちだって察してるんだよ。だからなにも見たくなくて、前髪伸ばしてるんだよ! ぜんぶ……ぜんぶ、あんたらのせいなんだよ!」
ひといきに吐き出したせいで、呼吸がどうしようもなく早く、苦しくなっていく。
「葉桜さん……ごめん、私なにか気に触るようなことしたかな?」
牧さんが気遣うような声をかけてくる。胸の中に、じんわりとした罪悪感が広がっていく。
風船が膨らみ過ぎて、ぱんっと弾けたようだった。
「……あ、ご、ごめん。ごめん、なさい」
我に返って、いつものじぶんに戻る。
――どうしよう。私、今とんでもないことを言ってしまった。それに、牧さんの手を払い除けてしまったし……。
彼女は、きっと今気分を害している。これまで以上に、私をきらいになったかもしれない。
――どうしよう、まだ球技大会の本番が控えているのに。どうせなら、球技大会が終わってからならよかったのに。
「ごめんなさい……でも、私、前髪をいじるのだけはいやです」
「だから、それは校則違反だって言ってるでしょう! ひとりだけ特別扱いなんてできないの。何回言えば分かるの」
わがままなのは分かっている。でも、それでもいやだ。
私にとって前髪は、なくてはならないものだ。これがなかったら、きっと外に出る勇気すらなくなってしまう。
でも、それを分かってくれるひとは、いない。やっぱり、本音を言ったって無駄だったんだ。私には、本音を言う資格すら、ない――……。
そのときだった。
「あのぉ、すみません」
すぐ横で声がして、ハッと肩が揺れた。
振り返るとそこに、椿先輩がいた。その顔を見た瞬間、どうしてか、涙が出そうになるくらい心がホッとした。
「ちょっと聞きますけど、先生って苦手なものないんですか?」
びっくりするくらい、のんびりとした声だった。学年主任が眉を寄せる。
「ちょっと、あなたいきなり来てなにを……」
「あたしは、雪山がちょっと苦手です。前に雪崩に巻き込まれて死にかけたことがあったから。ってまぁ、先生ならそれくらい知ってますよねぇ。先生、昨年もいましたもんね」
学年主任の喉が鳴る。が、椿先輩は気にしない。
「……あのねぇ先生。あたし、みんなに雪女って言われてるんですよ。……先生も知ってますよね? 全学年で言われてますしね。でも、なーんにも言ってくれないですよね。あたしがみんなから噂されて、孤立してても、教師らしいこと、なんにもしてくれない」
後半、彼女の声から温度が消える。
「それは……今の話とはなんの関係もないでしょう」
学年主任がわずかに狼狽える。
「ありますよ」
椿先輩は畳み掛けるように声を張った。
「先生は都合がいいんです。生徒を守りもしない教師の言うことを、だれが聞くんです? 生憎、あたしたちだってバカじゃない。言葉の中に含まれた嫌味も悪意も、こっちはちゃんと気付いてますからね」
「わ、私はそんなこと……」
「はっきり言わなきゃ分かりませんか。さっき、わざとこの子を蔑むような発言をしたでしょ。この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて、わざと、言いましたよね。ひとの髪型指摘する前に、今、じぶんの顔見てみたらどうですか? ふつーにドブスですよ」
「なっ……」
発言を指摘された学年主任は、とうとう耳まで赤くして言葉を失くしている。それでも椿先輩はかまわず続けた。
「やめろって言われてやめないのは、それなりに理由があるからです。この子はべつに特別扱いしてって言ってるわけじゃない。人間扱いしてって言ってるんですよ。……あ、それに、理由も聞かずに頭ごなしに注意するのは指導じゃなくて、ハラスメントなんじゃないですか?」
言いながら、椿先輩がちらりと私を見た。
学年主任へ向ける厳しい眼差しと違ってどこまでも優しい眼差しに、涙が出そうになった。一度ふぅっと息を吐いて、学年主任を見る。
学年主任の青筋が入った顔面を見てハッとする。
――ヤバい。
「せ……先輩、あの、もういいです。もういいですから」
「はぁ? よくないよ。あんたもいやなことはちゃんといやって言いなよ。大人だから言ってることがぜんぶ正しいなんてことはぜったいにないんだから。ずっと思ってたんだよ。あたしたちが事故に巻き込まれたときも、雪崩に巻き込まれたコーチ以外全員旅館で飲んだくれてたんだよ。ずっと、ふざけんなって思ってた。言ってやりたかった。だって、あいつらにはもう口はないから。あたしが……」
さらに挑発するような発言をする椿先輩に、私はさらに青ざめる。
「……あ、あの、とりあえず行きましょう!」
私は椿先輩の手をグッと掴んで、逃げるように渡り廊下を歩き出す。
牧さんの横をすり抜ける直前、彼女と目が合う。
牧さんはなにか言おうとしたのか口を開いたが、私はかまわず椿先輩の手を引いてそのまま通り過ぎた。
背後から学年主任の我に返った「待ちなさい!」という叫びが聞こえたが、椿先輩の手を掴んでしまった私は、今さら立ち止まれるはずもなかった。
***
雨の中、傘も差さずに私は走っていた。
しばらく走って、走って、いつものバス停まで来たところで足を止める。
ハッハッと、薄く開いた唇の隙間から息が漏れる。
「ちょっともう、なに? めっちゃ走るじゃん」
「わっ! あ、あっ……すみません!」
手を離して我に返る。今日は我に返ってばっかりだ。いや、我を忘れてばかりなのか。
「だからそれ。もう! すぐ謝らなくていいってば」
指摘され、口を噤む。
椿先輩はつくづく私の悪いクセに敏感だ。
「もう、びしょびしょ」
「傘、置いてきちゃったから……」
紺色の制服は、雨のせいでさらに濃く染まっている。
タオルで水滴を拭いながら、スマホ画面を開いて時間を確認した。
時刻は午後五時五十三分。
五時のバスは行ってしまったばかり。次のバスが来るまで、あと五十二分もある。ここへ来てようやく、バスが一時間に一本しかなかったことを思い出す。
――どうしよう。
バスが来るまでまだ時間はたっぷり過ぎるほどある。
バス停の前で立ち尽くしていると、椿先輩に袖を引かれた。
「ほら、座ろ」
「あ……はい」
その手に従い、ベンチに座る。
「……あの、椿先輩。すみません。巻き込んでしまって」
謝るなら今しかないと、私は椿先輩に頭を下げた。
「べつに、あんたが巻き込んだわけじゃないでしょ。あたしが勝手にやったことだから」
そういえば、あのとき椿先輩は空き教室にいた。もしかして、私が学年主任に怒られていることに気付いてきてくれたのだろうか。わざわざ?
「……あの、椿先輩……あのとき、空き教室にいましたよね」
「あーまぁね」
椿先輩はほんの少し気まずそうに目を泳がせて、笑った。
「どうして、来てくれたんですか」
私の問いに、椿先輩は黙り込む。しばらく沈黙してから、不意にぽそりと言った。
「あんたがいなくなっちゃいそうで怖かった」
どきりとした。
「ってのは、冗談。……ま、強いて言うなら、手が届くからだよ」
「手?」
顔を上げて、椿先輩を見る。
今、手と言ったのだろうか。雨音でよく聞こえなかった。
「……あいつらのことは助けられなかったけど、あんた……しずくには、あたしの手がまだ届くから」
その苦しげな顔を見て、彼女がどうしていつもあの空き教室にいるのかが、唐突に理解できた。
椿先輩はずっと、亡くなった仲間たちを助けられなかったことを後悔していたのだ。椿先輩はまだ、事故の日から立ち止まったままでいるのだ……。
心臓を掴まれたように苦しくなる。
「……ありがとうございました。私……椿先輩のおかげで、」
私の声を、椿先輩が優しく遮る。
「いいよ。わざわざいやなこと思い出そうとしなくて」
ふっと、不甲斐ない声が漏れそうになってぐっとこらえて頷く。
「……はい」
俯くと、長い前髪が私の視界を暗くした。
やっぱり、この感じは落ち着く。
椿先輩のおかげで助かった。とても。
でも、彼女を救ってくれるひとは、どこにいるんだろう。
――……私に、なにかできないかな。
ぎゅっとじぶんの手首を握る。
『手が届くから』
椿先輩の言葉が頭の中で響いた。
手がある。私にも。椿先輩と同じ、手が。
坂の向こうから、バスのエンジン音がする。バスのライトが、濡れた車道を明るく照らした。じゃっとアスファルトに溜まった水が弾かれる音がする。
それを見て、私は立ち上がった。
「椿先輩、」
椿先輩が顔を上げて私を見る。私は彼女の透けるように白い顔を見下ろして、言った。
「駆け落ち……しませんか」
「…………は?」
ぽかんとする椿先輩の腕を掴んで、私は再び向こう側のバス停まで走り出す。
「ちょっ……なに、いきなり!」
「前、言ってくれたじゃないですか。駆け落ちしないかって」
「う、うん……それは言ったけど」
向かいのバス停につき、足を止めて椿先輩を振り返る。椿先輩は、ぱちぱちと長いまつ毛を揺らして瞬きをしていた。
「しましょう、駆け落ち!」
「……マジで?」
「マジです」
真顔の椿先輩に、私も真顔で返す。すると、椿先輩ぷはっと空気を吐くように笑った。
「いいね! 行くか!」
そのひとことを合図に、私たちは反対方向のバスに乗り込んだ。
バスに乗り込んでからは、会話はなかった。
私はただ、じっとじぶんの足元に広がっていく水溜まりを見下ろしていた。
バスはトンネルを抜け、山道をくだって、どんどん知らない街に入っていく。
バスに揺られて二時間。空は既に真っ暗で、バスに乗る前よりも雨足は弱くなっていた。
車窓の向こうには、初めての街。初めてひとりで、こんな遠くまできた。いや、ひとりではないか。
だいきらいなあの街を、私はずっと飛び出したかった。それなのに、いざ離れてみたら怖くて仕方がない。
――弱いなぁ、私は。
怯える私の手を、今度は椿先輩がぎゅっとして歩き出した。
「海行こっか」
「海?」
椿先輩を見る。
「好きなんですか?」
「べつに。ただ、無言でも波の音があるから気まずくないじゃん? あたしら、べつに友だちでもなんでもないし」
そう言われて思い出す。
そういえば私たちは、友だちではない。歳も違うし、出会ってまだ間もなくて、お互いのことをほとんどなにも知らない。
ただ、同盟を組んでいる。
拠りどころがなくて、心にとてつもなく大きな穴を抱えていて、いつも不安で死にそうな私たち。
『この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて……』
ふと、椿先輩が学年主任に言った言葉を思い出す。
「……そういえば椿先輩、私のこと知ってたんですね」
「ごめんね、黙ってて」
申し訳なさそうに、椿先輩が微笑む。
「いえ。ちょっと驚いただけです。高校では、まだ噂になってないと思ってたから」
噂はウイルスよりも簡単に広まる。そのことを私はだれより知っていたはずなのに。
私は今、平穏に過ごせている。
そう思い込むことで、どうにかしてじぶんの心を守りたかったのかもしれない。
「大丈夫。なってないよ」
顔を上げる。
「え、じゃあどうして……」
「あたしとあんた、実は中学一緒だったんだよ」
「えっ!?」
驚く私を見て、椿先輩が笑う。
「やっぱり、知らなかったか。オネーサン、ふつうに考えてよ。同じバス使ってる時点で近所でしょ」
「たしかに……」
「といってもね、なんとなく聞いたことあるくらいだったけど。あんたが噂の子だっていうのは知らなかったよ。さっきの学年主任の話でピンときただけ」
「……そうですか」
「……もしかして、お母さんが自殺したのも、その噂の内容が関係してる?」
黙り込んだまま頷く。
「母は、強いひとでした。周りの視線も気にしないようなひとで、私が母のせいでいじめられても鼻で笑ってるような、とにかく世間とは乖離したひとで。……でも、最終的には負けました。心を病んで死を選んだ」
「……そう」
椿先輩は静かに相槌を打つ。もしかしたらだけど、と、椿先輩が静かな声で語り出す。
「お母さんは、強がってたのかもね」
「……強がってた?」
――強かったんじゃなくて?
「娘がじぶんのせいでいじめられてる。それを気にしない母親なんていないよ。でもさ、それを悔いたら、娘の存在自体を否定することになっちゃうから、謝れなかったんじゃないかな。……だから、なんでもないような顔をしていたのかもしれない」
「……そう……なのかな」
……もしかしたら。椿先輩の言うように、母は私のために、ずっと……。
そう考えそうになって、目を伏せた。
今となっては、母が私のことをどう思っていたのかなんて分からない。この先も、一生、知ることはないのだ。
椿先輩が空を仰ぐ。
「遺された私たちは、前を向くしかない。どんなに悔やんだって、過去は変えられないから」
過去は変えられない。死んだひとは戻ってこない。
「たまったもんじゃないけどね」
そう、たまったもんじゃない。だから、私たちは駆け落ちしてきたのだ。あの地獄から。
決意の滲んだその横顔をじっと見つめ、それから私は車窓へ目を向けた。
タイミングよく、トンネルから抜ける。
開けた視界の先にあるのは、きらきらとわずかな光を反射してきらめく大海原だった。
「うわ、海だ……」
思わず呟く。
本当に来てしまった。
海なんて、どれくらいぶりだろう。
最後に行ったのは、小学生のときだろうか。
記憶は曖昧だが、おそらくあのひとと行ったのが、最後だった。
バスが終点につき、そこからふたりで傘も差さずに海岸まで歩いた。
塩辛い風の匂いと、湿り気を帯びて皮膚に張りつく空気が気持ち悪い。
コンクリートの階段を降りて砂浜へ足を踏み出すと、体重の重さでローファーがぐっと砂の中に沈んだ。
砂が靴下にくっつき、いやな感触を伝えてくる。
小ぶりではあるものの、空から落ちる雨粒が私たちを濡らしていく。
それでもかまわず、私たちは海へ向かって歩いた。
椿先輩が、さざなみに足を浸した。
足首まで海水の中に消えると、椿先輩はいよいよひとではないなにか特別なものになってしまったような気がして少し焦る。
「あーっ! 気持ちいい!」
椿先輩が、雨を落とす灰色の空へ向かって叫んだ。
「あーっ!!」
天を仰いだ椿先輩の顔に、雨粒が容赦なく降りかかる。雨粒は彼女の顔へ落ちて、そのまま首筋を流れていく。
この世のものではないように思えるほど、その光景は美しい。
不意に、椿先輩が私を見た。
「あんたも叫びなよ。気持ちいいよ」
言われて、私は空を見上げる。
曇天だ。ときどき雨粒が目に入って、少し痛い。怖くて目を開けていられなくなりそうだ。
「私は……」
ぐっと言葉を飲み込みかけて、首を振る。
「私はなにも悪くない! なんで私がバカにされなきゃなんないのっ! なんで私が、気を遣われなきゃいけないのっ! 私は私! 親がどういうやつかなんて、私にはなんの関係もないっつーのっ!!」
声がひっくり返るのも気にせず、思いっきり叫んだ。
じぶんでもびっくりするくらい大きな声が出た。
くつくつと笑い声が聞こえて、私はとなりを見る。椿先輩が肩を揺らして笑っていた。
「いいじゃんっ! あたしも負けてらんないな!」
そう言って、今度は椿先輩が空気をすうっと吸い込んだ。
「だれが雪女だ! だれが魔女だ! あたしは椿みぞれだーっ!」
椿先輩の叫びの合間に、私も叫ぶ。
「あーっ!!」
椿先輩はちらりと私を見て、嬉しそうに目を細めた。
「つうか、生きててなにが悪い! あたしだって被害者だ! 雪崩は、あたしのせいじゃねーっつーのーっ!」
「見んなバカーっ!!」
私たちは叫んで、はっと息を吐いた。
それから息が乱れるお互いの顔を見合わせて、私たちは思いきり笑った。
「あーっ! すっきりしたっ!」
椿先輩が砂の上に寝転がりながら言う。そのとなりに座り込み、私もしみじみと海を眺めた。
白く泡立つ波をぼんやりと眺めながら、椿先輩へそっと声をかける。
「……あの、ずっと聞きたかったことがあるんですけど」
「なに」
「椿先輩はいつも、あの教室からなにを見てるんですか」
元スキー部の部室だったあの空き教室で、たったひとりで。
「……さぁね」
「さぁねって……」
「でも、あんたと一緒だよ、たぶん」
「私と?」
私は首を傾げ、椿先輩を見下ろす。
「もういないって分かってるのに、どうしても足が向いちゃうんだよ。あそこに行けば、あいつらにまた会えるような気がしちゃってさ」
「……スキー部のひとたち、仲良かったんですね」
「まあね。いやなことだっていっぱいあった部活だったけどさ、なんだかんだやっぱり楽しかった思い出がいちばん頭に浮かんでくるんだよ。ムカつくくらいに」
見なくても分かった。となりで、椿先輩は泣いていた。
「……っ……あたしさ、スキー部の中でだれより不真面目だったんだよ。だから、あの雪崩が起きたときも、私ひとりサボってて。おかげでひとりだけ助かっちゃった……一生懸命だったみんなが死んで、不真面目なあたしだけが。裁判がね……もうすぐ終わるの。終わっちゃう。判決なんか出たところであたしの日常が戻ってくるわけでもないし、あいつらが帰ってくるわけじゃないけどさ……なんか、なにかが終わるってやっぱり怖いよ。決着が着くのは、安心する感じもあるけど、そのひとのすべてが終わっちゃう気がするから。そのあと、あたしはどうしたらいいんだろう。なにに怒って生きてけばいいんだろ……」
椿先輩は泣きながら、静かに叫んでいた。
「……ごめん。ごめん……あたしだけ助かってごめん、みんな、助けられなくてごめん……ごめんね……」
みんなに、生きててほしかった。死なないでほしかった。ひとりにしないでほしかった。
――ひとりに……。
悲痛な声が、空に吸い込まれるようにして消えていく。
彼女はきっと、ずっとこの感情を飲み込んでいたんだろう。
ずっと、こうやって叫びたかったのだろう。
だって、私もそうだから。
「お母さん……」
唇がぶるぶると痙攣する。
「お母さんっ……お母さんお母さん、お母さん……」
何度も何度も『お母さん』を呼びながら、泣いた。
「なんで私を置いていっちゃったの……私にはお母さんしかいなかったのに。死ぬなら、私も連れて行ってくれたってよかったのに……私はいらなかったの? 私は……お母さんにとってなんだったの……?」
血縁とは、まるで呪いのようだ。
切り離したくても、ぜったいに切り離せないもの。
お母さんへの感情は、いろんなものがぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、ひとことでは言い表せない。
大好きだし、同じくらい、いや、それ以上にだいきらい。でも、ふとしたときに寂しくなって、どうしようもなく求めたくなる。
私たちは幼い子どものように泣きじゃくって、心の中に溜まり続けた思いを吐き出し続けた。
***
浜辺から上がる頃には、すっかり夜の気配が濃くなっていた。
駅までの道をふたり並んで歩きながら、椿先輩がふと呟いた。
「ねぇ、帰りさ、駅のコンビニでなにか買ってかない?」
椿先輩の何気ない言葉に、ふと現実が戻ってくる。
「……帰る……?」
そうか。帰るのか。
椿先輩が私を見る。
「帰りたくない?」
「……いや、そういうわけじゃないですけど。ただ、帰りのこととか考えてなかったから」
なにしろ、私たちがしたのは駆け落ちだし。
――そっか。私たち、帰るんだ。
友達がいないあの学校に。待っているひとがいないあの家に。
「あたしもそう。でも、あんたのおかげで帰る気になれたよ」
「私……ですか?」
「そ」
私の心を察したように、椿先輩が私の手を包み込んで言った。
「大丈夫だよ。あたしがいる」
椿先輩はすっと目を細めて、優しく微笑みかけてくる。長い前髪のせいで、よく見えないのがもどかしい。
「あたしにも、しずくがいる。いてくれる?」
視界が潤んでいく。
「私で、いいんですか」
込み上げてくる思いをこらえるように唇を噛み締めて、椿先輩を見上げる。椿先輩は滲んだ世界でにっと笑った。
「当たり前!」
「……私、なにもできないのに」
椿先輩が笑う。
「んなことないよ。あたしを救ってくれたのは、あんただよ。あんたはあたしの特別。あんたは、あたしの基地」
「基地?」
「そう。言うなれば……秘密基地、みたいなものかな」
「秘密基地……」
「あたしさぁ、大人になったら、もっと強く、もっと優しく、もっと傷つかなくなるんだと思ってた。でも違うよね。大人になるまでに、みんな基地を作るんだよ。基地の中でだけ、弱音とか、不安とかを吐くんだ。それで、その基地を出たらみんな大人のフリをする。そうやって、みんな生きてるんだと思う」
「大人の、ふり……」
「そうだよ。だから、あたしたち〝基地〟になろう? それで笑うんだ。そんな苦しい顔してないで、笑おう!」
「…………」
感情が、ぐちゃぐちゃになって胸に落ちる。私を必要としてくれていることが、嬉しくてたまらない。
「……はい」
頷いて、椿先輩の手を握り返したとき、ポケットのスマホが振動した。
もう片方の手で、スマホを確認する。メッセージアプリの通知だった。
「……牧さんだ」
「あぁ、牧さんって、あのとき庇ってくれてた子?」
「……はい」
あのとき、とは、私が学年主任に注意を受けていたときのことだ。
メッセージを開くと、牧さんからの長々とした文章が目に入った。
『さっきはごめんね。葉桜さんの話、盗み聞きしちゃったみたいになって……でも、あの先生の言いかたはないと思って、つい我慢できなかったの。でも結果、葉桜さんを傷付けるかたちになっちゃって、本当にごめんなさい』
椿先輩はスマホの文面を見て、優しい声で言った。
「ほら、やっぱりいい子じゃん」
「……でも、こんなの、本心じゃなくたっていくらでも言える。牧さんはクラスでも人気者だし、どうせ私が馴染んでないから、一応声かけておこうとか思ってるだけです。放っておいてくれたらいいのに、なんで私なんかにかまうのか……」
呟く私に、椿先輩はそんなの簡単だよ、と言う。
「彼女はただ、しずくと仲良くなりたいだけじゃないかな」
「……まさか」
そんなの有り得ない。私なんかと友だちになりたい子がいるなんて、ぜったいにない。
「……うん。しずくはこれまでたくさん裏切られてきたんだもんね。そう思っちゃうのは分かるよ。でも、今度は違うかもしれないよ?」
「今度は……?」
「あたし、なんとなく分かるよ。彼女がしずくと仲良くなりたい理由」
「え……どうして?」
「だって」
不意に椿先輩が私の顔に手を伸ばす。
椿先輩の細くて長い指先が、私の前髪を優しく、でも大胆にかきあげた。
視界がパッと明るくなって、目の前に椿先輩の顔がある。
緊張で顔が強ばる私を見て、椿先輩が大丈夫、というように微笑む。
「ほら。しずくって、こんなにきれいな目してるから」
「え……」
クリアな視界で椿先輩と目が合う。
「初めてしずくを見たとき、思った。あんたの目、もっと近くで見てみたいなって。あんたの視界に映ってみたいなって」
そうは言うが、椿先輩のほうこそ、びっくりするくらい過不足のない容姿をしている。
艶やかな白い肌に、たまごのような滑らかな輪郭。赤い唇に、ほんのり薄紅に染まった頬。高い位置でひとつに結ばれた髪は漆黒で、なにより美しい瞳を髪と同じ色のまつ毛が縁どっている。
――やっぱり、きれい。
だれかを見てきれいだと思ったのは、母以来初めてのことだった。
「あたし、ひとの目がだいっきらいだった。ぎょろぎょろ動くから気持ち悪くて。でも、あんたの目だけは違ったの。感動したんだ。黒目がおっきくて、白目は透き通っていて。こんなにきれいな、澄んだ瞳の子がいるんだって」
それを言うなら、私だってそうだ。
「私こそ、椿先輩を見たとき、絵画みたいって思いましたよ。まるで絵の中から飛び出してきたような、そんな感じがして……」
椿先輩がふっと笑う。
「あたし、あんたとは友だちにはなりたくない」
「え」
「恋人でも、友だちでも家族でもない、たったひとりの特別がいいんだ」
なるほど。
「だから、同盟って言ったんですか」
「そ。だって、同盟ってなんか特別っぽくて、カッコいいでしょ!」
そうやって笑う椿先輩はいつもより子供っぽかった。
「だから」
一転、しんとした声に、私は口を閉じる。
「もし裏切られたら、あたしがそいつをぶん殴ってやる」
「椿先輩が?」
「おう」
「……それは心強いかもですね」
そう言ったとき、再びスマホが振動した。
『私、入学したときからずっと葉桜さんと仲良くなりたかったの。それでタイミングはかってたんだけど、なかなか声かけられなくて。球技大会でチャンスだって思って、突っ走っちゃったんだ。でも、今はちょっと反省してる。もし、葉桜さんが私のこときらいだったら、すごくしつこくしちゃったよね。ごめんね』
まっすぐな文面に、胸が無性に苦しくなった。
牧さんは私と正反対のひとだ。
いつもにこにこしていて、みんなから愛されているクラスの中心的存在。
私のことなんて、ぜったい心の中でバカにしてると思っていた。となりで萎縮する私を見て、影で笑ってるんだと、不潔な人間と思っているのだと、勝手に思い込んでいた。
――でも……。
学年主任に責められていたとき、牧さんは真っ先に私を庇ってくれた。
私にビビデビの話をしてくれたときも、牧さんはただ、私にじぶんの好きなものを知ってほしかっただけなのかもしれない。
ただ、『好き』を共有したいと思ってくれていたのかもしれない。
「……信じてみても、いいのかな」
ぽそりとした呟きは、あっという間に波の音にかき消されていく。だけど、となりに佇む椿先輩だけは聞いてくれていた。
「お母さんがきらいで、クラスメイトがきらいで、先生も、じぶんもだいっきらい。でも本当はさ、好きになりたいんだよね」
ずっと隠していた本音を言い当てられて、びっくりする。
「……なんで、分かるんですか」
だれにも言ったことないのに。ずっとだれにも分かってもらえなかったのに、どうして椿先輩は。
「分かるよ。だってあんたは、あたしだもん」
ほろっと、なにかが頬に落ちた。雨かと思ったら違くて、それは涙だった。
「あたしも、みんながだいっきらいで、大好きだから。強がっても、ひとりはやっぱり寂しいから」
椿先輩の指の腹が、私の目からこぼれた涙をそっと拭う。
「それ、似合うじゃん」
それ、とはなんだと思って、そういえば視界が明るいことを思い出す。
前髪が横に流れていたままだった。
じっと椿先輩を見る。それから、周囲を見回した。
――遮るものがない世界って、こんなにも鮮やかだったんだ……。
目に映す価値なんてないと思っていた世界は、あまりに美しく私の目に映っていた。
――すごく、きれい。
すべてが、額縁の中の一枚の絵のように見える。
そっと、前髪を押さえてみる。
「……ピン、借りればよかったかな」
「明日、借りたらいいんじゃない」
「……明日」
――明日か。そうか。
私には、明日があるんだ。椿先輩にも。
「顔を上げると、いろんな色があるよ」
「え……」
「下を向いてると、見えるのってアスファルトとか石とか土とか、暗くてつまらない色ばっかり。……だから、顔を上げるの。顔を上げればきっと、いろんな色があるから」
――そっか。
世界はきっと、あの頃からなにも変わっていなかったのだ。
変わったのは私。
あの頃の私はだれも信用できなくて、だれかと目が合うのが恐ろしくて、俯いてばかりいた。
少し顔を上げれば、こんなにきれいな世界が広がっているのに。そのことに気付く余裕もなかった。
「……あの、椿先輩」
「ん?」
「さっきの、本当ですか」
「さっきの?」
椿先輩が首を傾げる。
「もし私が裏切られたら、ぶん殴るって話」
じっと見つめると、椿先輩はまっすぐに見つめ返してくれた。
「うん、ほんと。手が壊れるまで殴ってやる」
なんて、大真面目な顔をして言うものだから、私はつい吹き出して笑う。
「……ふっ……怖いですね」
ふふっと声を漏らして笑うと、つられたように椿先輩も笑った。
「しずくはそうやって笑うんだね」
「え?」
「あたし、ずっと見たかったんだよ。しずくのその顔。思ったとおり、めっちゃ可愛い」
と言って、再び笑った。
「……そっちこそ」
人前で笑ったのなんて、いつぶりだろう。少し照れくさいけれど、案外いやじゃない。
「ねぇ、椿先輩」
「なぁに」
私たちは、友だちではない。恋人でも、家族でもない。
「また、駆け落ちしましょうね」
ただ同じバス停を使っていて、とある雨の日にたまたま出会って、不思議な共通点で結ばれた私たち。
「うん」
私たちは、同盟関係を結んでいる。
お互い心の窓をちょっとだけ開ける関係。弱さを見せられる関係。
奇妙で、だけど唯一無二の特別な……。
言うなれば、そう。
お互いがお互いの傘のような、冷たい雨からじぶんだけを守ってくれる、そんな存在。
「さて。帰るか」
椿先輩が私に手を差し伸べてくる。
「はい」
私はその手を取って、立ち上がった。
家に帰ったら、以前、祖母にひどいことを言ってしまったことを謝ろう。
母にもちゃんとお線香をあげて、近況報告をしよう。
それから、明日になったら牧さんにちゃんと今日の謝罪をして、精一杯バドミントンの練習をしよう。
そしてもし、もしもまだ勇気が残っていたら、牧さんのことを、優子ちゃん、って呼んでみたい。
バス停までの道を歩きながら、そんなことを思った。
状況が変わったわけではない。
大切なひとが戻ってきたわけでもない。
ただ、今日この広い大海原で叫んで、私と椿先輩の中のなにかが変わった。
ほんの、少しだけ。
見上げた先の空には、もったりとした雲が横たわっている。けれど、よく見ればそこにはわずかな晴れ間があって、星がちらちらと瞬いていた。