それが始まったのは、高校二年生になったばかりの頃だった。
 五月のある日、僕はこの教室の透明人間になった。

 新学期から少し経ち、新しいクラスに慣れ始めていた頃だった。
 よく一緒にいたのは、新田という白くまみたいな大きくてのほほんとしたやつだった。僕ものんびりしているほうだから、波長があったのだろう。
 新田は見た目通りよく食べた。ご飯多めの弁当に加えて、購買で買ったパンを二つも食べる。僕はその食べっぷりに感心しながら、そりゃでかくなるよなあ、と納得した。

 放課後は五月の半ばにある球技大会に向けて、バレーボールの練習に励んでいた。
 球技は得意ではないけれど、足を引っ張らない程度には頑張ろうと思っていた。

 そんな平穏な学校生活が、ある日、ほんの些細なことをきっかけに、一変したのだった。


 物理の授業で、大島が自由落下の法則について説明をしていたときだった。
 黒板に書かれた法則の間違いに気づいて、僕は、あ、と思った。
 それほど難しくもない、単純な書き間違いだった。
 たぶんほかにも気づいている生徒はいたと思う。物理が苦手な僕ですら気づいたくらいだから。

 大島は気づかないまま説明を続け、さらにその法則を使った問題を横に書いた。

『この問題の答えを―ー』

 大島が言いかけたとき、僕は我慢できなくなって、つい手を上げてしまった。

『お、笹ヶ瀬。自分から手を挙げるなんてやる気あるな』
『いえ、そうじゃなくて、その公式、間違ってます』
 そう言うと、おそらく気づいていたのだろう誰かが、ぷっと吹き出した。
 ダサ、と小さくつぶやく声も聞こえた。誰が言ったのかはわからなかった。
 大島は笑った誰かじゃなく、僕だけをじっと見ていた。  目を大きく見開いて、こめかみに血管が浮かんでいた。

 その様子に、くすくす笑いが大きくなった。
 バン、と大島が教壇に手をついて、ぴたりと笑い声が止まった。
『俺は答えを聞いたんだ。余計なことは言わなくていい』
 そう言って黒板を向いて、素早く間違いを直した。


 それで終わるはずだった。
 授業中の、ささいな出来事。
 出来事にすらならないような、とるに足らないことのはずだった。


 でも、それで終わりには、ならなかった。