高梁さんがあまりにも普通だから、忘れかけていた。
 ほんの少しの間だけでも現実を忘れていたかった。
 僕と一緒にいるところを見られたら、あとで高梁さんが何を言われるのかは想像できたのに。

 楽しかった気分が一気に萎む。
 現実に引き戻される。
 これはデートなんかじゃない。
 学校帰りにちょっと寄り道しただけ。
 ただソフトクリームを食べながら歩いているだけの、ただの散歩だ。

 そのまま無言で歩き続け、橋を通り越して、人気の少ない場所まで来たとき、高梁さんが足を止めた。

「ねえ。笹ヶ瀬くんはこのままでいいの?」

 高梁さんが唐突に言った。大きな目で、心の奥を覗くように、僕の顔をじっと見つめる。

「大島のこと。むかつかないの? 私はむかつくよ」

「僕は……」

 むかつくとかむかつかないとか、そんな感情はいつからか自分の外へ追いやっていた。
 考えるだけ無駄だから。
 たとえそんな感情を抱いたとして、この状況は変わらない。
 あと一ヶ月で夏休みだ。
 一ヶ月半学校から離れて、また秋になって、同じような日々を繰り返しながら春まで過ごせば、クラスが変わる。
それまで淡々と過ごしていればいい。
 そう思っていた。
 べつに困ってはいない。
 僕が黙っていればすむことなのだから。

「私、笹ヶ瀬くんのことバカだと思ってたよ」

高梁さんが言った。

バカだと思われていたのか。ちょっとショックだ。

「間違いなんて、そんなのほっとけばいいのにって。でも、違う。バカなのはいまの状況と、あのクズ教師だよ」
「……ありがとう」
 僕は言った。素直な言葉だった。クラスにたった一人でも、そんな風に言ってくれる人がいてよかった。

「でも、そう言ってもらえただけで充分」

「充分じゃないよ」
 高梁さんが声を強めて言った。

「全然、ちっとも充分じゃない。笹ヶ瀬くんが気にしなくても私が嫌なんだよ」

 僕はぽかんと高梁さんを見た。

 ついこの間まで、何にも興味がなさそうな人だと思っていた。
こんな風に怒る人だったのか。
自分のためじゃなくて、人のために、怒れる人だったんだ。

「決めた。夏休み前に、なんとかする」
「なんとかって……」
「それをいまから考えるの。そのための糖分でしょ」
「……なんで」
 僕はつぶやく。
「なんで、そこまでしてくれるの」
 ただクラスが同じで、席が隣というだけで。
 誰かを巻き込むつもりはなかった。
 これは僕の問題だから。
 僕が何も言わなければいいだけ。
 そう思っていたのに。

「言ったでしょ。私が嫌なの。こんな状況がいつまでも続くのが許せないの」
 高梁さんは言った。
「ほかになんか理由がいる?」
「……いりません」
「じゃ、決まりだね。一緒に戦おう」

 はい、と高梁さんが小指を差し出した。
 何かと思って、指切りだと気づく。

 指切りなんてしたのは小学校のとき以来だった。
 少し気恥ずかしさを感じながら、高梁さんの細い小指に自分の指を絡めた。
 それは、握手よりも小さな、秘密の約束みたいに思えた。