大好きな人の口から出てきたのは、あっけない『さよなら』だった。

「好きな人がいるんだ。(せつ)()じゃない、他の女の子」

 気配なく突然現れた終了宣言によって指先から力が抜けていって、あと少し気が抜けていたらお弁当箱を入れたミニバッグを落としていたかもしれない。

 言いたいことも聞きたいこともたくさんあった。まず浮かんだのが『私じゃだめなの?』、次に浮かんだのが『他の子って誰』という疑問。

 でも口にすることはできなかった。
 彼のことが好きという気持ちが消えていないから。わがままに振る舞うことも感情に素直になることも許されず、いい子のふりをしてしまう。
 立ち尽くすだけ。好きな彼の前だからいい子でいたくて、何も言えない。

「雪花とは友達に戻りたいんだ。付き合う前の状態に」

 彼はというと罪悪感よりも清々しさが勝ったような顔をしていた。

「付き合う前はいい友達だったじゃん。雪花のこと応援するから、雪花も俺のことを応援してくれ」

 どれも快速電車のように右耳から左耳へと通り抜けていく。
 好きとか付き合いたいとかそういう幸せな言葉ならば通り過ぎず、止まってくれるのに。

「言いたいことはこれだけだったからさ。今日で別れるってことで。ごめんね」

 最後は短い謝罪だった。一方的に別れを告げ、私の言葉を待たずに去っていく。
 私が好きだったのは優しい彼だったのに、ここに優しさはない。遠ざかる背は振り返ることさえしてくれなかった。

 彼が去って、その足音も聞こえなくなってから、私の時間が動きだす。
 潤んでいた視界から絞り出されたように涙が落ちて、校舎裏のアスファルトは染みだらけになった。
 今日は晴れているのに、私の周りだけ雨が降っているみたいに。ここだけ天気雨。

 その場所から一歩も動かずに泣いていたのは、彼が戻ってきて『あれは嘘だよ』と声をかけてくれるかもしれないと期待していたから。戻ってきてくれると願って、まだ動けない。

 そんな私に聞こえてきたのは彼の足音ではなく、話し声だった。

「それって、どういうこと?」
「だから終わりにしようって」

 近くで女の子と男の子が深刻な話をしているらしい。終わりって単語から別れ話だと思った。
 女の子の声は震えていたけれど、男の子は食い下がる彼女に呆れた様子だった。

 それからは「もうやめてくれ」「最初から好きじゃなかった」なんて冷めた声で男の子が語る。聞いているだけで私まで苦しくなってしまう言葉たち。

 それに比べれば私はまだ優しい別れ方をしたのかもしれない。女の子に同情してしまって、現場を覗いてみたくなった。

 足音を消して壁に張り付き、そっと覗きこむ。その瞬間――パン、と甲高い破裂音が響いた。

 覗きを叱るようなタイミングで発せられた音に、びくりと体が震えた。

 でもその音は、私ではなく男の子に向けられたもの。
 女の子の目は真っ赤なのに眼光鋭く、怒りをむき出しにしている。空中でぴたりと止まった右手の様子から、男の子の頬を平手打ちにしたんだとわかった。
 それから女の子は、とどめを刺すように「最低!」と罵った。

 平手打ちも罵声も、私が取れなかった行動をしているようで目が離せなかった。こういう別れ方も存在して、こんな感情の爆発もある。何も言えずいい子のままで終わりを告げた私とは真逆。

 女の子はいよいよ泣き出してしまったけれど湿度は感じない。怒って泣いて、なのに爽やかな涙。

 女の子は「あなたなんて大嫌い」と叫んで背を向けた。数歩ゆったりと進み、それから勢いをつけて走り去る。
 風に揺れる長い髪、遠ざかる背にリズムよくフェードアウトしていく靴音。どれも鮮やかだった。

 それに夢中ですっかり忘れていた。近くで聞こえる靴音、振り返った男子制服。気づいた時には遅く、彼は私に言った。

「君も別れ話してたでしょ?」

 発せられた声は軽い。別れ話も平手打ちもなかったかのように、けろりと晴れた声。

 ネクタイの色から判断するに男子生徒は三年生。私のひとつ年上。

 そんな彼の姿を見て、真っ先に浮かんだのは『不良』の二文字だった。
 数名高校の生徒にしては珍しい金茶色の明るい髪。制服は着崩している。ネクタイを緩めてまでシャツのボタンを開けたのは、首筋に光るシルバーのネックレスを見せるためだろう。
 腕にはウッドビーズのブレスレット、耳にはシルバーのピアスがいくつも並んでいる。校則違反の塊だ。
 垂れた瞳に整った顔つきは大人びた印象を与えて、いわゆるキケンな雰囲気がする。ちょっと悪い子に憧れる女子に、好まれそうなタイプ。

 その不良っぽい男子は、男にしては長めの前髪をかきあげて言った。

「さっき聞こえてきたんだよねぇ。同じタイミングで別れ話かよ、って思ってた」
「す、すみません……」

 平手打ちされた彼の顔をまじまじと見るのはいけない気がして俯く。相手が先輩であることや不良っぽい外見は威圧感があって怖い。

 怯える私を無視して、男子生徒は校舎の壁に背を預けて座りこんだ。それから、「ねえ」と声をかけて手招きをする。

「こっちおいで。そこで突っ立って泣かれたら、君のところだけ雨が降っているみたいでなんかヤダ」

 危険な香りを纏っている人なのに、『雨』という言葉が胸を打った。
 だって私も、彼から別れを告げられて泣いていた時、ここだけ雨が降っているようだと思ったから。

 それに。不良そうな見た目のくせに優しい声で言ったから。手招きをする仕草も、彼と別れたばかりで傷ついている私の心に響く。

 私は彼の隣に座って、膝を抱えた。

「我慢せず、泣いていいよ。俺は泣かないけど」

 それはぐずぐずになっていた涙腺を本格的に破壊した。
 反論も平手打ちもできずに抑えるだけだった感情は涙となって表に溢れ、名前も知らない人が隣にいることも気にせず、わんわんと声をあげて泣いた。

 その間、男子生徒は何も言わなかった。事情を聞くこともなぐさめの言葉もなく、それは少しだけ心地いい時間。


 昼休み終了のチャイムが鳴っているのに、男子生徒は慌て教室に戻る様子なく座り込んだままだった。私の視線に気づいたらしい彼が口を開く。

「俺はサボり。元彼女に会うの面倒だから昼寝する。ここがお気に入りの場所だから」

 両手をあげて大きく伸びをしてから、座りなおして壁に深くもたれかかる。その動作は眠る前の猫を彷彿として、このまま彼が寝入ってしまうのだと思った。

「君もいていいよ、その顔で教室戻れないでしょ」

 これだけ泣いていたのだから私の目は真っ赤に腫れているのかもしれない。まぶたがじわじわと熱い。この様子なら友達も心配するだろうし、疲れた体で授業を受けるのは億劫かも。
 それなら授業を休んで、ここでもう少し休みたかった。

 授業サボりを決意して座ったままでいると、男子生徒はこちらをじっと覗きこんだ。

「俺が眠くなるまで何か話してよ。誰かと喋っていたら失恋の辛さが薄まるかもよ」
「何か話って言われても……」

 気の利いた話は何も浮かばない。失恋したばかりの傷心女子に眠くなる話をしろと要求するのが間違っている気がする。

 そもそも彼だって別れ話をしていたわけで、彼だって失恋したはずだ。なのにどうして悠々としているのだろう。
 平手打ち元彼女のことなんてすっかり忘れたような振る舞いが鼻について、ついいじわるなことを訊いていた。

「どうして別れたんですか?」
「それじゃ俺の話じゃん。まあいいけど――必要ないと思ったからだよ」

 踏み込んだ質問に怒るかと思いきや、あっさりと返ってきて。しかし訊いたことを後悔してしまうほど、彼が語るものは私の胸にざくりと刺さった。

「面倒になってきたから、お別れしておこうかなって。あの子と別れても、彼女は二人いるから困らないし」
「二人ってことは、同時に三人の方と付き合っていたんですか!?」
「うん。そんなに驚くことじゃないでしょ」

 三人の女の子と同時に付き合う。つまりは浮気。それを平然と言ってのける姿は、男子生徒に対する印象をがらりと変えた。
 ぞっとする。罪悪感なんて微塵もない顔をして、明日の天気について語るように「一人も三人も一緒でしょ」と追い打ちをかけてくるから余計に。

 その姿は私の彼氏を思い出した。私と付き合っていたのに、他の人を好きになる。彼氏の姿とかぶってしまったからか、別れ話の時には言えなかった罵声がこぼれた。

「……最低」
「あはは、言うねぇ」
「恋人がいるのに他の人と付き合うなんてだめです」
「恋愛に『一途じゃなきゃダメ』ってルールはないんだよ。自由だから」
「人の気持ちを弄んで、傷つけるのはダメです。彼女さんだって泣いていたじゃないですか」

 すると男子生徒は伏せていた瞳を開いて、じっと私を見つめた。薄っぺらい微笑みを張り付けて、言う。
 
「君だってそういうフラれ方をしたくせに。雪・花・ち・ゃ・ん」
「なっ……! どうしてそれを」
「聞こえちゃったから。二年生の参河(さんが)雪花(せつか)ちゃんでしょ?」

 考えてみれば、私が彼らの会話を聞いてしまったように、彼らだって私の会話が聞いている。好きな人ができたからと捨てられたその理由をこの人も知っている。
 恥ずかしさがこみ上げて顔がかっと熱くなった。

「一途になったところで意味がないんだよ。人間は天気と一緒でころころ変わるんだから、本気になったって無駄だよ」

 そこで会話は途切れた。

 こっそり様子を窺えば、平手打ちをされた頬が不自然に赤い。いい音を響かせていたけれどその平手打ちも男子生徒の心に傷を作ることはできなかったのだろう。
 走り去っていった女子生徒が可哀想で、胸がきゅっと苦しくなる。

 空を仰ぐ。悔しいほどに晴れた空で、じめじめとしているのは私だけ。大事に温めてきた恋は失われて、直後に最低男によって傷ついて、なんて最悪な日だろう。

***

 こうして昨日、失恋した。大好きな彼氏が《《元》》彼氏になった。

 あんな一方的な別れを告げられても、一晩たった程度じゃ気持ちが落ち着くことはないのだと知った。まだ彼のことが好きで、忘れることなんて絶対にできない。
 他に好きな人を作ってしまった彼への苛立ちはあまりなくて、苛立ちの矛先は別に向いていた。それはあの浮気性の男子生徒。
 同時進行でたくさんの人と付き合っていたなんて最低だ。あんな人、平手打ちされて当然。

 なんとか学校へは行ったものの、授業も頭に入らず、寝不足で具合が悪い。こんな状態で体育の授業なんて受けられない。私は保健室で休むことになった。

「失礼します」

 保健室の扉を開けて、挨拶してもしんと静か。先生の姿は見当たらない。
 テーブルに『席を外しています』と書置きが残っていたので、今頃は職員室にいるのかもしれない。

 先生不在時に保健室を使う時は、利用リストに名前を書く。リストを手に取ると、先客がいるみたいで、『三年 三崎(みさき)』と書いてあった。三台あるベッドのうち一つにカーテンがかかっていたので、先客はそこで眠っているのかもしれない。

 気遣って物音を立てないよう、そろそろと移動する。もうすぐベッドに着くといったところで、隣のカーテンが開かれた。

「あ」

 先客と目が合うなり、声をあげていた。
 だってそれは、まだ記憶に新しい、嫌な人物だったから。

「昨日、失恋した子だ」

 会いたくなかった最低な人、再び。
 この学校にはたくさんの生徒がいるのに、よりによってこの人と保健室で二人きりとは。

「君もサボりにきたの?」
「違います。体調不良です」
「なーるほど。顔色悪いもんねぇ」

 彼は呑気な顔をしてひらひらと手を振っていた。その腕にやっぱりアクセサリーがついている。

 彼を無視して空きベッドに入り、カーテンを荒っぽく閉める。これ以上会話する気はないという無言の宣言。

 ベッドに潜りこんだけれど、隣のベッドにいる存在がなかなか頭から離れてくれない。リストにあった名前の三崎とは彼のこと。学年は一つ上なので三崎先輩だ。

 三崎先輩が最低な人だから苛立ってしまうけれど、どうしても気になることがある。
 カーテンを閉める直前に見えた彼の腕。違和感があった。

 数名高校では過度なアクセサリーは校則違反。目立たないワンポイントのピアスとか制服のリボンにピアスをつけるのは許されたりとか、そこらへんは取り締まる先生によって様々。でも基本的にはだめ。

 校則違反のアクセサリーを三崎先輩はたくさん身に着けていた。ネックレスもピアスも。アクセサリーはどれも色がシルバーで、重厚感のある男物だった。
 だけど手首だけウッドビーズのブレスレットだった。ウッドビーズは地味なアースカラーで、そこにトランペットのチャームがぶらさがっている。
 派手な髪色や着崩した制服にアクセサリー、不良といった印象の三崎先輩がどうしてトランペットを。どう組み合わせても合わない。手首だけ別人を見てしまったような気分。

 深く考えたってわからない、本人に直接聞くのも嫌だった。話しかけたくない。この疑問は頭の片隅に放り投げるしかなかった。

 ブレスレットの違和感を忘れると、その代わりに浮かんでくるのが元彼のことだった。気を抜けばすぐにやってくる失恋の痛み。告白した日やデートした時の楽しい思い出が蘇って苦しい。彼氏じゃなくて元彼氏なんだって実感するとただ悲しくて。
 また泣いてしまいそうになって、制服の袖を目に押し付けて涙を堪えた。

「ねえ」

 カーテンの向こうから三崎先輩の声がした。

「眠くなるまで何か話してよ、暇なんだ」
「……」
「あ、具合が悪いんだっけ? そうだろうね、泣きすぎて眠れなかったんじゃない?」
「……」
「俺さ、失恋したことないんだよねぇ。ねえ、いま何を考えてるの?」

 頑なに無視を決め込んでいたものの、カーテン越しに飛んでくる無神経な質問は放っておけなかった。

 昨日の別れ話を覗いていた私に対し、失恋を知らないなんてよく言ったものだ。
 昨日立ち去った女子生徒のことを思い浮かべ、失恋の痛みを少しでも知ってほしくて私は口を開く。

「いま考えていたのは、元彼と付き合った時のことです」
「付き合えて嬉しかった?」
「幸せでした。これが夢じゃないことを確かめたくて、何度もスマホのメッセージを見たり、電話をかけようとしたり……」

 口にすれば鮮明に蘇る高揚感。付き合った日は特に一日中顔が緩んでいた。これから先どんな楽しいことが起きるのか、その隣に彼がいることを想像して胸が弾む。
 デートが決まれば、数日前から肌の手入れをしたり服を決めたりと準備していた。その時は緊張していたけれど、今思えば準備している頃から楽しかった。

 思い出すのは簡単なのに、もう過去のこと。
 一人になってしまった。彼がメッセージを送ったり電話をかけたり、彼の隣で幸せをかみしめるのは、もう私じゃない。別の人になってしまう。

 その話をしても、三崎先輩は「へえ」とそっけない態度だった。
 チャラチャラと弾むような軽い音が聞こえる。頭に浮かんだのはあのウッドビーズのブレスレットだった。私の話なんて興味ないとばかりにカーテンの向こうでブレスレットをいじっているのかもしれない。

 その音はしばらく経って止んだ。三崎先輩が喋る。

「そのうち忘れるよ。楽しかったことも悲しいことも薄れてくるから」
「嫌な言い方しますね」
「俺、先輩だからね。君より恋愛経験だって多いし?」
「遊んでいるだけじゃないですか。そんなのカウントに入りません」
「それでも恋愛でしょ」

 飄々とした物言いの三崎先輩と異なり、私の苛立ちは増していた。
 だってひどい。忘れるとか薄れるとか、失恋したばかりの人間に言う言葉じゃない。

 三崎先輩は失恋したことがないって言っていたけど、それは本当の恋をしてないからだと思う。
 本当に相手のことが好きだったら。他の人なんて見えなくなる。突然別れを告げられて、傷つかずにいられない。

 先輩の物言いに苛立ち、私は強く言い返した。

「本気で好きになったことがないくせに」

 私の言葉は、保健室の空気を止めた。

 言ってはいけない言葉だったと気づいたのは私の鼓膜が静寂に慣れた頃で、その間三崎先輩は何も言わず、動かず、ブレスレットの音だって聞こえなかった。

 三崎先輩は平手打ちされても特に傷ついた様子なく、からりと晴れた空のようだったのに。カーテンの向こう、今の三崎先輩は晴れた空なんかじゃないという予感があった。平手打ちよりも今の言葉の方が、彼の心に刺さってしまった気がする。

 私、言い過ぎたかもしれない。
 謝ろうと起き上がったけれど、それを止めたのは、しとしと降る小雨のような三崎先輩の声だった。

「君は元彼と、どれくらい付き合ったの?」
「は? 何ですかその質問」
「答えられない?」
「……二ヶ月ぐらいです」

 質問の意図がわからぬまま答えると、カーテンの向こうからくすくすと笑う声が聞こえた。

「ははっ、その程度でよかったね」
「よかった、ってどういうことですか」
「長く一緒にいればいるほど、離れた時の喪失感が強くなるから。深入りする前でよかったね」

 小雨のようだと思ったそれは一転して、暴風雨へと変わる。
 嵐。私の心を抉る雨風。
 失恋の辛さも三崎先輩への苛立ちも積もり積もって大きな渦となる。ぐるぐると渦巻くそれから放たれた言葉に傷つけられ、謝ろうなんて気持ちは消えていた。あるのは怒りだけ。歯を噛み締め、手を強く握りしめる。

「二ヶ月の恋愛ごっこ。大丈夫、君の失恋はかすり傷だからすぐ次に進める――なんて、俺は失恋なんてわからない男だけど」

 この失恋が馬鹿にされている。こんな人、嫌い。

 感情の爆発を引き留めていた糸がぷちんと切れた。
 相手が不良みたいな生徒だとか先輩だとか、そういった恐怖は麻痺していた。
 こんな最低男、平手打ちを一発おみまいしてやらないと気が済まない。昨日は元彼に何も言えなかったのに、今日は違った。

 嵐。この暴風雨の中心にいるだろう三崎先輩へ。
 ベッドの間を仕切るカーテンを荒々しく開いた。そしてベッドで寝転がっているだろう三崎先輩に平手打ちだの罵声だの、とにかく昨日の女子生徒と同じことをしようと思ったのに――

「……え?」

 手を振り上げることさえできなかった。

 カーテンに遮られていたから、わからなかった。
 三崎先輩は後悔を詰め込んだような苦しい顔をして、天井に向けて伸ばした手をじっと見つめていた。
 泣いていないのに、三崎先輩の周りだけ雨が降っているようで、胸中に浮かんだ言葉は『寂しい』だった。

 嵐だと思ってた。心を傷つける刃みたいな風が吹いていると思ってた。でも違う。
 三崎先輩の方が、傷ついた顔をしている。

「お、まさか殴りこみにきた? 見た目より度胸あるじゃん」

 私に気づくと、三崎先輩は表情を緩めて、へらへらとした笑顔をこちらに向けた。
 雲の切れ間から太陽が覗くような一瞬で、私が垣間見た寂しさは消えてしまった。残っているのは昨日出会った時と同じ、軽い口調の三崎先輩だけ。

 どうして。あんな表情していたのだろう。
 その疑問はすぐに答えに辿り着き、唇からこぼれていた。

「三崎先輩は、失恋したことがあるんですか?」

 何度も『失恋したことはない』と言っていたけれど、嘘だと思った。

 私の問いかけに、三崎先輩の眉がぴくりと動いた。

「ないよ。俺は一途じゃない野郎だから」
「嘘ついてます、よね?」
「さあ。どうだろ」

 私に向けた返事のくせに、それは三崎先輩自身に言い聞かせているように感じた。

 三崎先輩は大きく息を吸いこんで腕を伸ばす。その動作に合わせてブレスレットが揺れた。
 カーテンを開けた時に彼は寂しそうに手を見つめていたけれど、それは手ではなくこのブレスレットを見ていたのかもしれない。彼が身に着けるアクセサリーで唯一、シンプルで素朴なブレスレット。トランペットのチャームはかすかに揺れていた。

「こういう話だと眠れないからさ、楽しい話をしようよ」

 彼はベッドに寝転んで言った。ブレスレットのついた手は掛け布団の中に隠している。

 私も自分のベッドに戻った。
 カーテンを閉める気にはなれず、布団に潜り込んでから三崎先輩の方をちらりと見る。視線が合うなり三崎先輩はにやりと笑って言った。

「次に付き合うとしたら、どんな男がいい?」
「別れたばかりの人にそういうことを聞くのはどうかと思います」
「いいじゃん。失恋が薄まるよー」
「じゃあ……一途な人で」

 不思議なことに、三崎先輩への嫌悪は薄れていた。嵐のように渦巻いた苛立ちも通り過ぎて、今は穏やか。

「君の一途な男ランキングでいえば、俺みたいな野郎はどうなの?」
「圏外です」
「あはは。はっきり言うねぇ。サイコーだ」
「先輩は?」
「女の子だったら誰でもウェルカム」
「うわ、最低。さすが圏外の人ですね」

 三崎先輩はけたけたと笑っていて、それにつられて私の気持ちも緩んでいく。

 失恋の傷が癒えたわけではない。でも昨日からずっと抱えていた負の感情がここでは薄まっている。三崎先輩の言う『誰かと喋れば失恋の辛さが薄まる』は正しいのかもしれないと思った。

***

 涙腺が崩壊することはないけれど、まぶたや目の周りはひりひりと痛い。お天気で例えるなら、空はどんよりと曇っているけれど雨は降っていないような状態と似ていた。
 このまま時間が経てば、綺麗に笑えるようになるのかもしれない。

 今日こそはちゃんと昼食を取ろうと、廊下へ出る。
 購買に行こうかななんて考えていたのに、私の足は動かなくなった。
 だって視界に、彼の姿があったから。

 彼が、いる。
 人通り多くざわついた廊下。たくさんの人がいても好きな人をを見つけ出す癖はまだ抜けていないから。好きだった背格好や髪形。歩き方まではっきりと覚えている。
 だって昨日別れたばかり、まだ好きに決まっている。期待して追いかけそうになってしまう。

 声をかけようとした時、その隣で長い髪が揺れた。

「……あ、」

 長い髪の毛を辿って愕然とした。元彼の隣にいるのは女子生徒。確か彼と同じクラスで仲がいいって話してた子。

 ここにいるのが元彼一人だったら、こんなに辛くならなかった。元に戻ろうと言われる期待をして声をかけていたけれど。

 そこで彼が私に気づいた。少し遅れて女子生徒も振り返り、私と元彼を交互に眺めて言う。

「参河さんだ。そういえば二人って付き合っていたんじゃ――」
 「別れたんだ! 元彼女だから!」

 彼は女子生徒の言葉を遮って、別れたことを主張していた。

 慌てた様子から、私は悟ってしまった。
 彼の想い人は誰なのか。私と付き合っていたくせに好きになってしまった女の子が誰なのか。

 女子生徒へ向けるまなざしは温かく、以前の私が受けていたものと同じ。
 付き合っていたからわかる、好きな人に対する態度。それは私ではなく、隣にいる別の女の子に注がれていた。

 『別れたくなかった』『私はまだあなたが好き』
 様々な言葉が瞬時に浮かぶ。この場で彼に言えたら、失恋の痛みだって和らぐのかもしれない。昨日のように平手打ちをしてみればもっと軽くなるのだろうか。

 でも。

「そう……だよ……」

 泣くな、泣くな、泣くな。と強く念じる。決壊寸前の涙腺を奮い立たせて、涙なんて一粒も見せないようにして。

 彼に新しい好きな人がいるのなら応援してあげたいなんて、この期に及んでもいい子でいたくなる。
 私の中にまだ好意が残っているから、彼のことが好きだから、思っていること言いたいことを素直に言えない。

「別れたから。私たちもう関係ないの」

 その一言は、本当は胸が張り裂けそうなほどつらい。
 元彼も女子生徒も、誰も気づかない痛み。



 ついに目端から涙が零れ落ちたのは元彼たちの姿が遠くに離れてからだった。
 元彼の前で泣かなかっただけ自分を褒めてあげたい。制服の袖を目に押し付けて涙を隠していると、頭に温かなものが触れた。

「つらいね」

 大きなてのひら。なぜか三崎先輩の声がした。

「君はがんばっていたよ」

 その手は離れていって、私が顔をあげると廊下を歩いていく三崎先輩の背が見えた。きっと購買に向かうため階段を降りてきたんだろう。すれ違うほんの一瞬の出来事だった。

 でもその一瞬が私の涙が止めた。失恋の痛みを三崎先輩のてのひらが吸い取っていった。
 『つらいね』って言葉が、誰かにこの痛みをわかってもらえたことが、うれしかった。

「雪花待って。お昼ご飯一緒に食べよう」

 ぼんやりとしていた私を現実に呼び戻したのは、友達の(はち)()ちゃんだった。
 私のことを追いかけてきたらしい蜂須ちゃんは隣に並んで、それから私の視線を追う。そこには三崎先輩の後ろ姿があった。

「……え。あれって三年の三崎先輩? うわ、久々に見た。ってか、なにあの髪色! あんな人じゃなかったのに」
「知り合いなの?」
「だってあの人、元吹奏楽部だよ」
「え? 三崎先輩が吹奏楽部!?」

 驚くしかない。だって、吹奏楽部顧問の先生は厳しいと聞いているのであの髪色は許されないし、不真面目そうな三崎先輩がみんなと一緒に演奏している姿も想像できない。
 でも吹奏楽部の蜂須ちゃんが言うのだから嘘じゃないはず。昨日だって『テストの点数とれなきゃ部活続けられない』なんて騒ぎながら部活に行っていたから。

「あの人、私と同じペッターだったの。すっごく上手で、演奏会ではソロだって任されてたんだよ」
「トランペット……三崎先輩が……」
「その頃は髪も黒かったし真面目な人だと思ったけど――やっぱりアレが原因なのかな」

 髪が黒いとか吹奏楽部とか、予想外のワードが並ぶ中、特に気になったのは最後に語られたもので。アレって何のことだろう。
 頭の奥で揺れるブレスレット、トランペットのチャーム。三崎先輩が隠しているものがここにある気がした。
 ずるいかもしれないけれど、知りたい。

「三崎先輩に……何があったの?」
「一つ年上の先輩と付き合っていたんだけど、別れちゃったの。彼女の方が他校の不良生徒に惚れちゃったって噂だよ」
「……え? 失恋したことないって、言ってたのに」
「三崎先輩、ショックだったんじゃないかな。別れた後は部活もやめて、学校も休みがちって聞いたけど……まさかあんな派手になってるとは」

 きっと三崎先輩は――本気で好きだった人と別れたのだ。

 私が三崎先輩に言った『本気で好きになったことがない』を思い出して、後悔した。私はひどいことを言ってしまった。

「……私、謝らなきゃ」
「え? 何の話?」

 謝らなきゃ。謝らなきゃだめなんだ。
 寂しそうな三崎先輩の顔が浮かんだ。まるで彼のところだけ雨が降っているかのようだった、あの時の。
 失恋したことがないんじゃない。傷ついたままなんだ。

 三崎先輩は止まない雨の中で、迷子になっているのかもしれない。

***

 放課後になってすぐ、私は三年生の教室に向かった。保健室のリストで見たクラスを覗いたけれどあの目立つ容姿の三崎先輩はいない。
 もう帰っちゃったのかもしれない。戻ろうとすると、ちょうど三年生が出てくるところだった。肩がぶつかってバランスを崩し、私は扉にもたれかかる。

「悪い。大丈夫か?」
「あ……すみません」

 そのクラスでもやけに目立つ、大柄の男子生徒だった。見上げると坊主頭で、先入観から野球部にいそうだと思った。名札には『九重』と書いてある。

「誰か探してるのか?」
「三崎先輩です。帰っちゃいました?」
「……いや、あいつなら昼休み後から見ていない。サボりだろ」
「どこにいるんだろう……」

 思えば三崎先輩との遭遇はすべて偶然。連絡先だってわからない。真面目に学校に来ている人なら会えるかもしれないけど、あのサボり癖だから怪しい。

 私は九重先輩にお礼を告げて校舎を探すことにした。
 一通り校舎を回って探し、それでもだめなら明日にしよう。


 広い校舎を端から端まで。屋上も覗いてみた。それでも見つからない。
 とぼとぼ廊下を歩いていると、部活動の練習が始まっているらしく金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部が使用する音楽室はもっと遠くにあるけど、放課後になって校舎が静かになっているから、ここまで聞こえてくる。

 夕暮れの廊下に響く、音。
 最後に音楽室の方へと向かってみようかと一歩踏み出そうとし、思い出す。

 三崎先輩と一緒に授業を休んだ場所――校舎裏のあの場所は音楽室の真下。そして『お気に入りの場所』と言っていた。

 気づいた瞬間、走り出す。
 夕暮れの廊下、生徒玄関。私を急かす吹奏楽部の奏でる曲。
 様々な金管楽器が弾むように楽しそうに歌っていて、それに背を押されるようにして飛び出す。


 息切らしてようやく辿り着いた校舎裏。音楽室の真下にあたるこの場所はどこよりもはっきりと吹奏楽部の曲が聞こえていた。
 そこで壁に背を預けて座り込む人物に、私は声をかけた。

「三崎先輩」

 伏せていた瞼がゆっくりと持ち上がる。

「……また会ったね。今日はよく君に会う」

 へらりと笑っているけれど。知ってしまった私にはもう悲しい笑顔にしか見えなくて。一人冷たい雨の中にいるだろう彼に向けて、頭を下げる。

「『本気で好きになったことがない』なんて言って、すみませんでした」

 すると三崎先輩はほろ苦く笑った。

「もしかして……俺のこと、聞いちゃった?」
「……はい」

 勝手に聞いたことを怒らず、三崎先輩は「そっか」とあっさり返すのみ。
 平静を装ってはいるけれど、ウッドビーズのブレスレットを撫でていて、その手つきは似合わないほどに優しい。

「誰かと喋っていると失恋の辛さが薄まるそうですよ。私が聞きますから、いくらでも話してください」

 そう言って隣に座る。三崎先輩は「どこかで聞いたことのある台詞だ」と笑った後、深く息を吸いこんで、それからゆるゆると喋りだした。その横顔は切なく、視線は空のずっと遠くの方へと向けられていた。

「中学生の時に吹奏楽部に入っていたんだ。そこで出会った一つ年上の先輩に憧れて、ずっと好きだった。先輩と同じ高校に入るために猛勉強するぐらいに」
「それで数名高校に入ったんですね」
「吹奏楽部に入って仲良くなって――告白してオッケーもらえた時は、嬉しかったよ。プレゼントでもらったブレスレットだってまだ捨てられない」

 ぽつぽつと落ちる言葉は、雨のように。
 泣いていないのに三崎先輩の周りだけ雨が降っている。苦しさが混じってじめじめとした、失恋の雨だ。

「……どうして、別れちゃったんですか?」
「他の男を好きになった、だってさ。どこかで聞いたことあるでしょ? 笑っちゃうよね」

 三崎先輩が自嘲ぎみに言ったそれは、昨日私が告げられたものと似ていて、息を呑んだ。

 知ってしまえば、頭に駆け巡る今日までのこと。うわべの彼だけを見て最低だと罵ってしまったことが恥ずかしくなる。

「私、三崎先輩のことを誤解していました」
「うん?」
「遊ぶ目的で色んな人と付き合っているんだと思っていたけれど、本当は違う。本気で好きになって裏切られるのが怖いから軽くしか付き合えない。色んな子と同時に付き合っていたのも本気にならないため……だったのかなって」
「さあ、どうだろう。どんな理由があったとしても俺は軟派で最低な男だと思うよ」

 その失恋の傷がどれだけ深いものか、それは彼の腕に残っているブレスレットが示している。
 他の人と付き合ってもなお捨てられず身に着けていたそれは、彼の周りは雨が降り続いているのだと示しているようで。どんな人と付き合っても心は晴れず、雨があがることはなかったのだろう。
 私には想像もつかない深い苦しみが、彼の腕に佇んでいた。

 三崎先輩もブレスレットを見つめていた。トランペットのチャームを指でつつく。

「――でも反省した。似た理由で別れた君を見ていたら、自分がばからしくなってきちゃって」
「私、ですか?」
「失恋にまっすぐ向き合って、辛いのを押し殺して元彼くんを応援している。そんな君が強いなって思ったんだ。俺はそういうの全部背を向けて、逃げ出しちゃったからさ」

 短く息を吸いこむと「もう、いいかな」と呟き、三崎先輩の指がブレスレットをつまんだ。

 パチンと乾いた音が響く。そのブレスレットにどんな意味があるのか知ってしまった私には、あっけなく外れてしまうことに驚いていた。

「外しちゃうんですか?」
「ずっと時間が止まっていて、別れようって言われたのが昨日のことみたいだった。でもそれじゃだめなんだ。俺も前向かなきゃ、明日に進まなきゃ」

 清々しさと懐かしさを混ぜ、そこに一滴の悲哀を落としたような瞳がブレスレットを見つめていた。なかなか視線を剥がせない様子からおそらく未練は残っている。でも、再び身に着けることはないのだろう。

「はー。手首が軽くなった。今度は本気で好きになれるような子を探すよ」
「そういう目標いいですね。私は、今度は思ったことを素直に言い合えるような人を探します」
「いいねいいね。お互い前向いていこう――って遊びで付き合った子たちと関係清算しなきゃだけど」
「また平手打ちされますね」
「それは困る。いい男が台無しになっちゃうよ」

 すっかりいつもの様子に戻って茶化しているけれど、その顔つきは失恋と向き合う決意があって、初めて会った時の三崎先輩とは少し違う。

 私だって失恋したばかりで人の心配なんてする余裕はない、はずなのに。三崎先輩の変化が嬉しくて、応援したいと思ってしまった。私がしてもらったように、涙を止めることができるのなら。立ち上がって、三崎先輩の頭を撫でた。

「平手打ちされたらまた話を聞きますよ。がんばれ、先輩」

 金茶色に染められた髪の毛は触れてみると、ブリーチで脱色したせいかサラサラしているとは言い難く、傷ついた髪は私の手に合わせて揺れる。励ましているのは私なのに、手のひらに伝わるぬくもりが心地いい。

 そんな中、三崎先輩は何かに気づいたように目を丸くして、私を見上げていた。

「――っ、雪花、ちゃん?」

 先輩があまりにも呆けた顔をしていて、私がしたことは先輩にとって良くないことだったのではないかと我に返った。
 髪に触れる、人に触れるというわけであって。なんて思い切ったことをしてしまったのかと恥ずかしくなる。

「失恋が薄まるかなと思ったんですけど……だめでした? ほ、ほらさっき廊下で頭撫でてもらいましたし!」

 慌ててごまかすと三崎先輩はクスクスと笑い出した。

「いや、大丈夫――薄まりますねぇ。誰が思いついたんだ、これ」
「先輩ですよ」
「なるほど。俺、天才だ」

 その言い方が妙におかしくて、つい吹き出してしまう。私が笑うと、三崎先輩もつられて笑った。

 私たちは似た失恋の傷を抱えていて、まだ立ち直れそうになくて。
 でも薄まっている。私は泣かない。三崎先輩の手首にブレスレットはない。

 並んで二人座りながら、聞こえてくるのは吹奏楽部が奏でる音色。原曲は流行りの邦楽で別離を歌った悲しいラブソングだったはずが、様々な楽器が音を重ね合えば、どういうわけか悲哀は薄れる。むしろ清々しいのだ。メロディラインを歌うトランペットの音が甲高く駆け抜けていく。走って走って、原曲が歌った悲しいものの先にあるものに辿り着こうとしている。

「ねえ。俺が一途になるって言ったら、どう?」

 からかうような質問に、返す言葉は決まっていた。

「圏内に昇格ですね」

 オレンジ色の夕暮れに、薄まっていく。
 私たちの周りに降る失恋の雨は、止む日がくる。
 そして雨があがった時、私たちは――。