華菜(かな)、ちょっと来て貰える」

 それは高校受験も終わり、のんびりとベッドで横になってだらだらと漫画を読んでいるタイミングでの事だった。
 ちょうどお話が盛り上がってきた所だったから面倒だなと思ったのを覚えてる。何で今?と、部屋のドアを開けてこちらを見つめるお母さんに不満気に目をやると、そこにあったのはお母さんの固い表情。

「大事な話があるの」

 よく観るドラマの様なありきたりな出だしだ。でもまさか自分の身にそんな事が起こるなんて思いもしなくて、よくわからない嫌な予感と共に読んでいた漫画を閉じてリビングへと向かう。
 家族みんなで何度もご飯を食べてきたダイニングテーブルには先にお父さんの姿があった。その真剣な瞳が私に向けられた所でようやく気が付いた。いつもついているはずのテレビのスイッチが切られている事に。
 しんと冷め切ったリビングの温度と、突き刺さる静寂に息が詰まる。すっと息を吸ったお母さんの呼吸音がやけに響いた、その時だった。

「お父さんとお母さん、離婚する事になったの」
「……え?」 

 お母さんの言葉が何も知らない私へそっと向けられる。それは丁寧で、どこかよそよそしい声色をしていた。

「お父さんと、お母さんが?」
「そう」
「なんで?」
「…………」

 辛そうな、気まずそうな表情で口を閉じるお母さんに代わってお父さんが答える。

「お互いに言えないでいた我慢と不満の答えが今出たってだけだよ」
「我慢って? 不満って?」
「…………」
「なんで? 家族なのに、そんなの仕方ないじゃん。そういうのはちゃんと話し合って、」
「その結果がこれなんだよ」
「で、でもっ、」
「もう華菜も理解出来る年齢だろ?」

 諭す様に私に話すお父さんの隣でお母さんが静かに泣いていた。なんで? 泣くほど辛くて寂しいなら離婚なんてしなければいいのに。

「だからこれから華菜はお父さんと暮らす事になるから、そのつもりでな」
「えっ……お母さんは?」
「お母さんはお前を養える経済力が無いだろう」
「でもそれはお父さんが養育費?みたいなのを渡す、みたいなさ」
「お父さんは養育費を渡したとしてもお母さんの生活費まで出すつもりは無いよ」
「でもお母さん、お父さんから貰えればさっ、」
「…………」
「お母さん?」
「……ごめんなさい」

 ぽたぽたと、テーブルクロスの上に水滴が痕をつける。お母さんの涙だ。

「ごめんなさい。私には育てられる自信が無い」
「!」
「お父さんと暮らした方がこれから先のあなたの未来の選択肢が増える。幸せになれるの」
「でもっ、」
「でもじゃないの。これがあなたの未来の為の、現実の話なの」

 ……そう、現実の話。テレビの中のドラマの話ではなく、本の中の物語でもなく、これは私にとっての今起こっている現実の話だった。

「……わ、かった」

 泣きながらそんな事を言われてしまったらもう、こう答えるしかない。
 この日までの間に私の未来の話し合いはとうに済んでいて、私はその報告を受けた、ただそれだけの事だったのだから。

 そうして私は父子家庭の子供になったのだ。
 両親が離婚している家庭なんて今時何も珍しくないし、私自身の人生という観点から見れば住んでる家も生活水準も何も変わっていないのだから、この出来事は何の影響も与えていないと言えるはず。
 でも、どうしても思ってしまう。
 何で私だけ?と。
 これがあなたの未来の為だと言ったお母さんの表情が、言葉が、頭から離れない。
 でも、そうだとしても、私はお母さんと離れたくなかった。私の為を思うならずっと一緒に居て欲しかった。シングルマザーの家庭だってあるはずなのに、それでも、私の人生にその選択肢は始めから用意されてなどいなかった。
 それは私がお母さんから拒絶された紛れもない証拠の他にないと思った。
 ……私はきっと、お母さんに捨てられたんだ。
 そんな思いが、心から消えない。

 ——春になると、私は高校生になった。晴れ晴れとした新しいクラスメイト達の笑顔の中、私はどうしても心から何の滞りもない笑顔を見せる事が出来ないでいる。

「お父さんの相手すんのダルいんだよなー」
「わかる! 朝駅まで一緒に行こうって言ってくるの完全シカトしてる!」
「それお父さん可哀想すぎるから明日は一緒に行ってやんなよ」
「じゃあそっちもお父さんに返事送ってやんなよ!」
「分かったよ……えっと次なんだっけ」
「数学?」
「そうだ。この問題の答えはなんですか……っと」
「それはお父さん返事しちゃダメなやつ!」

 二人が楽しそうに話す中で、私も合わせてにこにこ笑顔を作っていた。いいなぁと思った。私はお父さんにそんな風に気楽なやりとりが出来ないから。
 元々仕事の事しか頭にない様な人だったのに、私を引き取る事になってからは気を遣っているのが見え見えの態度で接してくる様になったから、なんだかとても気まずいのだ。私が家に居ると気を遣わせちゃうのかもと思うと、家の居心地も悪い。だから、早く自立して出ていかなきゃと思う。

「えー、じゃあ良いよ。華菜は宿題やってきたよね?」
「うん。写して良いよ」
「わー! いつもありがとう〜!」
「華菜! 甘やかしちゃダメだよ!」
「でもこの後提出しなきゃだし……」
「華菜がやってきてるの知ってて言ってるんだよこの人は! 華菜の真面目さにつけ込んでるんだよ!」
「持つべきものは真面目な友達」
「ほらー!」

「も〜」と、怒る声を聞こえない振りしてもくもくと私の宿題を写す、という彼女達とのこのやり取りは毎日のお決まりの様なもので、それにいつも通りあははと笑顔を返しながら心の中で小さく溜息をついた。私はいつも、ここで私の中に小さな虚しさが生まれる瞬間に立ち会っている。
 私は別に真面目だから宿題をやってきている訳じゃない。ただそれが私の人生に必要な事だとお母さんが言っていたから、その為に私はお父さんと住んで学校に通っているのだから、だからきちんと日々のやるべき事をこなして自分の未来に備えないといけないと思っているだけだ。
 だけど、みんなは違うらしい。みんなは毎日のやるべき事に必死にならなくても良いという判断らしい。私と違って学校生活に対しての真剣さみたいなものがない。それはきっと自分の人生を生きている覚悟みたいなものがないからだと思う。
 きっと誰かがなんとかしてくれると思ってる。ずっと誰かに守ってもらえると思ってるんだ。まるであの日のベッドでだらだらと漫画を読んでいた私の様に。
 自分の人生の責任をとれるようにならないと。いつ後悔する事になるかもわからないのだから。今はもうあの頃の何も分かってない私と違うのだと自覚すると、その分だけクラスメイト達と同じ気持ちで笑い合う事が出来なくなっていった。
 みんなと私は違う。今ここで私はずっと一人ぼっちだった。誰も私の考え方を分かってくれる人なんていないのだから、私はただひたすらに一人でこの道を進んでいくしかない。

 ——ガラッ

 教室のドアが開いた音がして、ふと視線が音の方へと移る。すると入ってきたのは綺麗な金色に染まった長い髪に、膝丈よりも随分と短いスカートを履いている、完全に校則を無視した服装のクラスメイトらしき人の姿。

「……綿貫(わたぬき)さんだ」
「綿貫さん? あの、ずっと休みだった人?」
「そう。華菜は外部受験組だから知らないか。私達と一緒で内部進学組なんだよ。昔は違ったんだけど、三年生あたりからグレ始めたんだよね」
「高校進学すると思わなかったよね。それなのに始まって早々ずっと休んでたし」

 ひそひそと二人が教えてくれてもう一度彼女の方へ目をやると、一番後ろの窓側の席に座った彼女は無造作にスクールバッグを机の上に置くと窓の外を眺めていた。
 後にやって来た担任の先生がホームルームを終えると彼女を何処かへ連れて行ったのを見て、「そりゃああの格好じゃ生徒指導室行きでしょ」と、友達が言っていた。先程からの冷ややかな物言いに彼女達も綿貫さんの事を良く思ってないのが伝わって来て、その考え方は私にもわかるなと思った。
 ルールを破る事で反抗するのはとても子どもじみていると思う。気に入らない事があるなら反抗する以外の手段を取る事だって出来るはずだし、自分の気持ちでどうこうなる事ではないって何でわからないんだろう。周りからの反感を買ったら自分だって損するはずなのに。
 きっと好きにはなれないだろうな。それが初対面の綿貫さんに対して私が抱いた印象だった。