腕や手首を掴まれたことはある。
 でももしかしたら、手を握られたのは初めてかもしれない。

 ドキドキと心臓の音がうるさい。
 かなでは陸に手を引かれるまま、校舎の中を歩いていった。
 文化祭に使われていない教室はたくさんある。よりひと気の少ない方へ向かっているようで、喧騒が遠くなっていくのを感じた。

 普段からほとんど使われていない、三階の一番端の教室に陸は足を踏み入れた。
 かなでも陸に続いて教室に入ると、さっきまで黙っていた陸がはああ、とため息をこぼした。

「えっ、陸くん?」
「本っ当にさぁ、なるは危機管理能力がなさすぎて心配になる」

 手を繋いでいるのとは反対の手で、陸がかなでの額を指で弾く。いたい! と声を上げると、陸は眉をひそめてかなでに苦言を呈する。

「まず、こんなひと気のないところで、男と二人きりにならない」
「ええ……陸くんが連れてきたのに……!」
「だから着いてきちゃダメなんだって」
「着いていくよぉ。だって陸くんだもん」

 かなでだって、知らない男の人に着いていくつもりはない。
 誰よりも大好きで、誰よりも信頼している陸だから、どこまででも着いていくのだ。
 まっすぐに見つめ返すと、陸は困ったように眉を寄せた。

「なるは俺のこと、推しだって言うけど、俺だって男だよ」

 その言葉に、かなでは泣きたくなった。

 陸が男の人だってことは、分かってる。
 そんなこと、誰よりもかなでが知っている。

 毎日のように伝えている「大好き」という気持ち。
 本当は恋心なのに、『推し』だと偽り続けているその嘘が、かなでを苦しめる。
 だって陸はずっと、かなでの嘘を信じてくれているのだ。
 好きな人のそばにいたいから。
 大好きを伝えたいから。
 そんな身勝手な理由で嘘を押し通しているのに、陸はかなでのことを純粋に心配してくれている。
 その事実が、苦しくてたまらなかった。

「………………知ってるよ、陸くんが男の人だって」

 ひどくかすれた、情けない声が出た。
 かなでは笑顔を作り、言葉を続ける。

「陸くんは私の大事な友達で、生きる原動力で、大好きで、大切な、推しなの。だから男の人だけど、陸くんだけは、特別」

 特別なんだよ、と繰り返した声は、震えていた。
 かなでは今、上手に嘘をつけているだろうか。
 きっとこの嘘は、バレてしまえば陸を傷つける。
 信じてくれたのに裏切って、卑怯な手を使ってそばにいようとしたことを、軽蔑されるかもしれない。

 でもそれ以上に、優しい陸は傷ついてしまう。
 かなでの好意に気づかずに、自分の恋愛の話をしてしまったことも。好意を受け取れないのに突き放さなかったことも。
 きっと陸は自分を責めてしまう。
 そのことが簡単に想像できるから、絶対にこの嘘はバレてはいけない。

 陸は眩しそうに目を細め、そっか、と小さく呟いた。
 痛いくらい静かな沈黙が、二人を包んだ。