嘘つきわんこは愛が重い


 教室に戻ってきた咲夜は、数人のクラスメイトを連れてきた。
 東星学園には寮がある。主にスポーツ推薦で入学した生徒が入寮するが、遠方から通う生徒も申請すれば寮に入ることが出来る。
 陸や咲夜は野球に集中するため、寮暮らしをしている。
 咲夜はどうやら寮生のクラスメイトに声をかけて連れてきてくれたようだった。
 その中には陸もいて、かなでは驚いて飛び上がった。

「陸くん! あれ? 部活は?」
「今日はノースローの日だから大丈夫」

 聞き慣れない言葉にかなでが首を傾げると、陸は笑いながら説明してくれる。

「俺はピッチャーなんだけど、たまに肩を休める日を作らないと、故障に繋がるから」
「へぇ…………。えっ、でもいいの? せっかく早く上がれたなら、寮でゆっくり休んだ方がいいんじゃ……」
「成海が頑張ってるのに放っておけないでしょ」

 当たり前だと言わんばかりの表情で、そんな風に言われてしまえば、ときめかないはずがない。
 陸くん大好き! とお決まりの言葉を口にすれば、陸もいつも通り「はいはい」と笑って流される。そんな風につれないところも大好きだ。

「かなで、遊んでないで指示!」
「は、はいっ! えっとみんな疲れてるのにごめんね……! 少しだけ手伝ってもらえると嬉しいです!」

 かなでの言葉に、クラスメイトは口々に「クラスの出し物なんだからみんなでやろうよ」と言ってくれる。
 その言葉が優しくて、かなでは泣きそうになってしまった。

 班分けを思い出しながら、それぞれお願い出来そうな仕事を割り振っていく。
 手先の器用な人には生地の裁断や仮縫いを頼み、おしゃれが好きな子にはヘアアレンジの候補を挙げてもらうことにした。
 舞台のセットに使う大道具は、力仕事が得意そうな男子に任せ、放送部の女の子には司会を頼めそうな人をリストアップしてもらう。

 かなではみんなに仕事を割り振りながら、購入リストのチェックをしていく。足りないものを付け足し、なくても大丈夫そうなものは思い切って削除する。
 割り振った仕事が終わるたびにクラスメイトから声がかかり、その出来映えをかなでが確認して、次の作業を頼む。

 そんなことをしているうちに、あっという間に九時半になってしまった。
 さすがに遅くなりすぎたせいか、見回りに来た担任に「もう帰れよー」と注意をされる。

「みんなありがとう……! おかげでかなり作業が進んだよー!」
「じゃあ悪いけど片付けよろしくな。陸、あと頼んだ」
「ん、任された」

 担任の中原に急かされるままに、片付けを始めようとしたのに、咲夜はかなでの腕を引いて教室を出ようとする。

「えっなに、ねぎちゃん」
「かなでは通いだろうが! 送っていくから帰るぞ」
「えー? 大丈夫だよ。一人で帰れるし、ねぎちゃん寮暮らしなんだから、うちの方まで来たらまた戻って来なきゃいけないじゃん」

 かなでと咲夜は幼馴染なので、家も近い。家から学園までは電車と徒歩合わせて四十分くらいになる。
 それを往復すれば、咲夜は一時間二十分も無駄にしてしまうことになるのだ。
 それにかなでの仕事を手伝ってもらったのに、後片付けもせずに帰るのは心苦しい。
 教室の中を見ると、クラスメイトはみんなかなでにこっちは大丈夫だから帰りなと言ってくれる。

「危ないだろ、遅い時間に女が一人で歩き回ってたら」
「大丈夫だってば。私なんかを送っていく時間があるなら、寮でゆっくり休みなよー」

 かなでがあまりに断るものだから苛立ちを覚えたのだろうか。
 咲夜はムッとした顔で、かなでの方を睨み、大きなため息をついた。
 なによう、とかなでは不満を口にするが、咲夜は取り合うことなく教室の方へ向き直り、陸を呼んだ。

「あれ? まだ帰らないの?」
「かなでがごねてる。一人で帰るんだと」
「成海、もう外は暗いし一人だと危ないよ」

 陸が心配の言葉を口にしてくれるだけで、かなでの心はふわふわと浮き足立つ。
 私を送ってまた寮まで戻ってきたらねぎちゃんが休む時間もなくなっちゃうから、と陸に説明する。
 陸は少し考えて、かなでの目をじっと見つめる。

「じゃあ俺が送るか、咲夜に送られるか、二択ならどうする?」
「ず、ずるいよー…………。そんなの、ねぎちゃんに頼むしかないじゃん……」

 陸のそばにいたい。送ってもらえるなんて、かなでからしたらご褒美でしかない。
 でもかなでは、絶対に陸の負担になるようなことを選べない。
 だって、陸のことが大好きなのだ。負担になんてなりたくない。困らせたくない。
 咲夜には悪いが、かなでを送るという面倒なミッションを、陸の代わりに果たしてもらうしかない。

「はあー。ねぎちゃんごめん。じゃあ送ってください」
「最初っから素直にそう言ってればいいんだよ」

 相変わらず不機嫌な顔をした咲夜に再び腕を引かれ、かなでは陸に手を振る。

「陸くん、また明日! 手伝ってくれてありがとね!」
「うん。咲夜がいるから大丈夫だろうけど、気をつけて」

 咲夜もちゃんと帰ってこいよー、と陸が笑いながら声をかけると、なぜか咲夜は頰を真っ赤に染めた。
 戻るに決まってんだろ! と言い返した咲夜の言葉を聞き、陸が教室に戻っていく。
 その表情が少しだけ曇っていたことには、誰も気がつかなかった。

 歩き慣れた通学路も、隣に咲夜がいると少し中学生の頃に戻ったような気持ちになる。
 いつも一緒に帰っていたわけではない。それでもたまたま玄関で顔を合わせれば、自然と一緒に帰る。咲夜とはそんな仲だ。
 咲夜の帰る時間が少しでも早くなるように速足で歩いていると、手首を握った手がぐい、とかなでを引き留めた。

「そんなに速く歩いてたら疲れるだろ。ゆっくりでいいよ」
「だってねぎちゃんが帰る時間、どんどん遅くなっちゃうよ」
「いいよ別に。帰りはどうせ駅から寮まで走るし」

 トレーニングついでな、と付け足された言葉が、優しさだと気が付かないほど、かなでも鈍くはない。
 不器用で優しい幼馴染に、かなではいつも助けられている。
 咲夜の優しさに甘えて、歩みをいつもの速度に落とす。するとようやく機嫌がなおったのか、隣を歩く彼の表情が和らいだ。

「ねぎちゃんは分かりにくいけど、昔から優しいよね」
「…………別に普通だろ」
「あと私に甘いね! 私にばっかり優しくしてると、他の女の子に勘違いされちゃうよ」

 咲夜に好きな人がいるのかは知らない。
 長い付き合いの幼馴染。今さら恋愛の話をするのは気恥ずかしくて、質問したこともない。
 それでも女子の間でひそかに咲夜の人気が高いことを、かなでは知っているのだ。
 からかうつもりで口にした言葉だったが、咲夜は心底呆れたような表情を浮かべていた。

「はーあ…………かなでは本っ当にアホだよな」

 ついさっき口にした、優しいね、という言葉を撤回したくなるくらいには、咲夜は辛辣な言葉を投げかけてくる。
 なによ、とかなでが口をとがらせて反論すると、咲夜は大袈裟にため息をついてみせた。

「別にどこの誰に勘違いされても構わないからかなでに優しくするんだろ」

 勘違いされてもいいということは、咲夜は今好きな人がいないのかもしれない。
 だって、もしも陸に好きな人がいる、と誤解されてしまったら。陸に自分の好意がバレるのは困るけれど、他の誰かを好きだと思われるのは辛い。
 恋を応援されてしまったら、きっとかなでは耐えられずに泣いてしまう。

 しばらく黙っていた咲夜が、ふいに足を止める。どうしたの? とかなでも歩くのをやめて咲夜の顔を覗き込んだ。
 見慣れない真剣な表情の幼馴染に、心臓が少し騒がしくなる。そんなかなでの心情など知りもせず、咲夜低い声で問いかけた。

「……かなではよく陸に好きって言ってるけど、あれって本当に推しに対する気持ちなのかよ」

 どくん、と大きく心臓が音を立てた。
 動揺を悟られないように、口元に笑みを浮かべ、かなではなるべく明るい声で答える。

「当たり前じゃん! 陸くんは私の唯一無二の推しだよっ!」
「…………そうかよ」

 咲夜はいつもの呆れ顔を浮かべ、再び歩き出す。
 その後ろ姿を追うかなでには、聞こえていなかった。
 嘘をつくときの癖は変わらねぇな、と呟いた咲夜の言葉は。

 文化祭が近づくにつれて学内は騒がしくなっていった。
 三年七組のファッションショーの準備は極めて順調だった。衣装や小物作りは予定していたよりも早く出来上がりそうだし、演出やヘアメイクの練習も順調。
 手先の器用な蓮が中心になってヘアメイクを担当してくれている。不器用なかなでは役に立てそうもないので、メイクはヘアアレンジの動画を探したり、練習台になることで貢献している。

 今日は大正ロマンのイメージに合うヘアスタイルを何パターンか試してみている。ふんわりと髪を巻き、少し重めに前髪をセットする。後ろ髪には色鮮やかな大きなリボン。

「いいねー。かなちゃんこの髪型似合うと思うよ」
「本当!? 後で陸くんに見せにいこうかな」

 蓮に褒めてもらって嬉しくなり、かなではいつも通り陸の名前を口にする。そんなかなでに呆れることなく、蓮はしみじみとした口調で言った。

「かなちゃんは本当にりっくんが好きだねぇ」
「当たり前だよー! 陸くんは私の世界一の推しだもん!」
「じゃあそんなかなちゃんにいいことを教えてあげようかな」

 いたずらな笑みを浮かべ、かなでの目をじっと見つめる蓮に、思わずドキッとしてしまう。
 友達とはいえ、蓮のような美形は心臓に悪い。動揺を悟られないように、いいことってなに? と普段通りの口調で訊ねる。
 この間、女子の代わりに陸の採寸をしたときの話だと蓮は言う。 

「かなちゃんに採寸を頼もうとしたら断られたって話をりっくんにしたんだよ。そしたらりっくん、なんて言ったと思う?」

 聞きたいような、聞きたくないような。
 不安混じりの声でかなでが「なんて言ったの?」と訊ねると、蓮は優しい笑顔を浮かべる。

「他の女子より成海に採寸されるのが一番恥ずかしい、ってさ」

 それがどういう意味かは分からない
 かなでと仲がいいからかもしれないし、もっと違う理由かも。
 陸の考えは分からないけれど、確かなことが一つ。
 少なくとも陸にとって、かなでは『女の子』だった。

 そのことが分かっただけで、どうしようもなく嬉しく思えてしまう。
 なんて単純で、分かりやすい性格をしているのだろう。
 こんなに単純なことで喜んでしまうから、陸の犬だなんて言われてしまうのだ。
 でも今は、それでもいいと思った。
 忠犬ハチ公でも、陸のわんこと言われても、喜んで受け入れる。

 だって、陸はかなでのことを、ちゃんと『女の子』だと思ってくれているのだから。
 この情報には、どれだけバカにされても代え難い価値がある。
 陸がほんの少しでもかなでを『女の子』と思っていてくれるなら、それだけでどんなことでも頑張れてしまう。

 赤くなった頰でかなでがへらへらと笑っていると、蓮が「よかったね」と笑いかけてくれる。
 もしかしたら蓮は、かなでの陸に対する気持ちが恋だと気づいているのかもしれない。
 どうやって誤魔化そうかと急いで考えるが、かなでが口を開くよりも先に蓮が囁いた。

「大丈夫。誰にも言わないよ」
「…………え、な、なにを……?」
「何って言っていいの? かなちゃんがりっくんを……」
「わーーー!! 待って待って!」

 思い切り背伸びして、蓮の口を両手で塞ぐ。
 慌てたせいで少し大きな声が出てしまい、クラスメイトからの視線が集まるのを感じた。
 顔が熱い。頰に全身の熱が集まっているみたいだ。
 周りの人に見られているから、赤い頰を隠したい。それなのに、蓮の口から手を離してしまえばさっきの言葉の続きが紡がれてしまいそうで、動くことも出来ない。

 かなでに耳打ちしようと少し屈んだ蓮と、そんな蓮の口を両手で塞ぎ、必死に背伸びするかなで。
 変な姿勢で固まる二人に容赦ない視線が集まるなか、動きを見せたのは予想外の人だった。

 蓮の首ねっこが掴まれるのと、かなでの手が後ろに引かれたのは、ほとんど同時だった。
 子猫のように蓮の首元を掴んでいるのは、咲夜だった。咲夜の方が小柄なので、蓮はなかなか苦しそうな体勢になっている。

「れーんーっ。かなでから離れろ」
「ちょっとー。さっくん、首が痛い! 折れちゃうよ」
「折れろバカ」
「ひっどいなぁ」

 咲夜がぽこんと軽く頭を叩くと、蓮は眉を下げて笑う。
 かなりひどいことを言われているが、さすがに仲がいいだけあって、蓮は怒っていなそうだ。
 何か蓮に悪いことをしてしまったな、とかなでがぼんやり眺めていると、また腕をぐいと引っ張られる。
 自分のせいで蓮が咲夜に絡まれている。そのことにばかり気を取られて、かなでは自身の腕を引かれたことをすっかり失念していた。
 振り向くと、やけに心配そうな顔をした陸がかなでをじっと見つめていた。

「なる、大丈夫?」
「………………ほえ」
「何が起きたの? なんか蓮にキスされそうになってなかった?」

 陸の発言もなかなか衝撃的だったが、それ以前にかなでの頭は全く違う考えに支配されていた。

 今、陸くん、私のこと、なるって呼んだ?
 成海の、なる?
 えっ、あだ名? 急に? なんでそんなご褒美を突然?

 固まるかなでの目の前でひらひらと手を振りながら、「なるー。本当にやばい? 蓮のこと叱っておこうか?」と陸は訊ねてくる。
 その表情は本当にかなでのことを心配するものだったので、何か応えなきゃと思う。
 それなのに、かなでは動くことも、声を出すことすらできなかった。

 陸に掴まれた腕が。
 なる、と呼ばれた耳が。
 見つめられている顔が。
 熱くてたまらない。

 恥ずかしさと嬉しさで目に涙が浮かんでくる。かなでの反応が予想外だったのだろうか。陸はひどく驚き、それから焦ったようにかなでと蓮の距離を取らせようとする。

 一部始終を見ていて、この状況を冷静に理解しているのは蓮だけだった。

「あー…………りっくん。たぶんだけど、色々勘違いしてるよ?」
「え、何が?」
「とりあえずかなちゃんは、推しの過剰摂取で死にそうになってるんだと思うよ」

 蓮の分かりやすい説明によって、ようやく陸にも状況が伝わった。
 えっ俺? と言いながら、陸がぱっと腕を離す。物理的な距離が少しできたことにより、かなでの頭はようやく動き出す。

「…………なる?」

 おそるおそる、かなでの様子を伺う陸。
 まだ熱い頰を両手で覆い隠し、かなではしゃがみ込んだ。

「………………陸くんがかっこよすぎて死んじゃう……」

 やっとの思いで絞り出した言葉に、かなでの友人たちはそれぞれ全く違う反応を示した。
 蓮はこの状況を心底楽しんでいるようで、くすくす笑っている。
 咲夜は「かなでお前いい加減にしろよ」と呆れ返っていて。
 陸は安堵のため息をこぼしていた。

 しばらくしてから落ち着きを取り戻したかなでは、三人にしっかりと謝罪した。
 それから陸が誤解をしていたようなので、蓮とは話をしていただけで、決してキスをされそうになっていたわけではないと伝えた。
 そんな疑いをかけられてしまっては蓮が可哀想だ。しかもよりによって、相手はかなでなのだ。
 蓮の名誉のために話せる限りで事情を説明する。どうしてかなでが蓮の言葉を遮ろうとしたかは、陸本人に説明することができないので、そこだけ伏せて。

「なんだ、びっくりした。蓮までなるのこと好きになったのかと思った……」

 陸が呟いた言葉が引っかかり、かなでは首を傾げる。

「蓮くんまでってどういう意味?」

 その言い方だとまるで、誰かがかなでのことを好きみたいだ。
 でもかなではここ最近、誰かに告白をされた覚えもなければ、好意を向けられている心当たりもない。
 かなで自身が気づかないのに、陸は気づいている、なんてことがあるのだろうか。
 陸の答えを聞くよりも先に、咲夜が声を上げた。

「おい陸……! そんなことより…………なるって呼び方どうしたんだよ」
「そう! そうなの! それでフリーズしちゃったの!!」

 中学生の頃から陸とは付き合いがあるが、これまではずっと苗字で呼ばれていた。
 陸は他の女子のことも基本的に名前ではなく苗字で呼んでいるので、かなでもそれが当たり前だと思っていたのだ。
 さっきまでの話題のことなんてすっかり頭の隅に追いやって、かなではどうして? と陸に問いかける。

「え。なんでって言われても…………」

 陸の言葉が途切れ、かなでは息を飲む。
 薄茶色の瞳がまっすぐにかなでを捉える。
 うるさく騒ぐ心臓の音は無視をして、陸の言葉の続きを待った。

「呼びたかったからだけど。ダメだった?」

 きょとんとした顔で、小首を傾げてそんな言葉を紡ぐ陸。
 大好きな人のあまりにかわいすぎる言動に、かなでは声にならない悲鳴のようなものを喉から絞り出してしまった。

 このかわいすぎる人が、さっきかなでを心配してかっこいい行動をとってくれた人と、本当に同一人物なのだろうか。
 かっこよさとかわいさのギャップがあまりにもすごい。ときめきすぎて心臓が飛び出してしまいそうだ。

「ダメなわけないじゃん…………陸くん好きぃ……」
「また泣きそうになってる。過剰摂取? なるって呼ぶのやめた方がいい?」
「やだ!! 呼んでください!」

 かなでがぎゅっと陸の腕にしがみついて懇願すると、ぱっと振り払われる。
 いつもどれだけくっついても嫌な顔一つしない陸が、かなでを引き剥がしたのは初めてのことだ。
 かなでももちろん驚いたが、それ以上に陸の方がびっくりした顔をしていた。

「あ、ごめん……!」
「ううん、私もくっつきすぎちゃったから」
「いや、そうじゃなくて…………」

 陸が眉をひそめて首を傾げる。
 なんか急に恥ずかしくなって、と呟かれた言葉は、かなでの耳までしっかりと届いていた。

 なると呼びたい、と言ってくれたり。
 いつものようにかなでにくっつかれて、振り払ったり。
 その理由が、突然恥ずかしくなったから、という不思議なものだったり。

 なんだか今日の陸は、いつもと様子が違う。
 これは絶対にかなでの勘違いで、自意識過剰なのだが、分かった上で言葉にするならば、少しだけかなでのことを意識しているような。そんな気がするのだ。

 陸には好きな人がいる。出会った頃から変わらず、陸は一途だ。
 そんなところも好きだと思う。
 だから、勘違いでいいのだ。陸がほんの少しかなでのことを意識してくれているような、そんな幸せな勘違いができたことさえ、嬉しく思える。
 この恋が今後ずっと叶わなくても。
 この恋を陸に伝えることができなくても。
 それでもかなでは、幸せなのだ。

 文化祭当日。
 クラスの出し物は午後の一番最初のステージになるので、それ以外の時間は自由行動が許された。
 陸と咲夜は野球部の出し物であるソース屋さんの店番があるといって、早々に教室を出て行ってしまった。
 仲のいい蓮もいつの間にか姿を消していて、見当たらない。
 クラスメイトのほとんどが部活動や委員会の出し物に駆り出されているようで、部活に未所属のかなでは少しばかり寂しい思いをすることになった。

 せっかくの文化祭。
 思い切り楽しまなければ損だ。
 クラスメイトの関わっている出し物はなるべく回るようにして、それからもちろん陸と、ついでに咲夜にも、会いに行きたい。
 パンフレットを見ながら、行きたいところにオレンジのペンで丸をつけていく。学園内はとても広いので、先に目星をつけておかなければ、回りきれないだろうと思ったのだ。

 文化祭の出し物といっても、種類がたくさんある。
 食べ物の出店、かなでのクラスのファッションショーのようなイベントごと、体験型のゲーム、手作り小物の販売をしているところもあるようだ。
 かなではたくさんの出し物を楽しみながら、クラスメイトに声をかけて回った。

 ファッションショーの時間が近づいてきたので、かなでは最後に野球部の出店へ訪れた。
 手作りの旗には、ソース屋さんと大きな字で書かれている。
 たこ焼き、お好み焼き、焼きそば。ソースを使った食べ物を作って販売しているらしい。
 汗をかきながら真剣な表情で焼きそばを作っている咲夜が視界に入り、かなでは声をかける。

「ねーぎちゃん! お疲れさま!」
「かなで…………。タイミング悪いな……」
「ありゃ。忙しかった?」
「いや、そうじゃなくて…………」

 咲夜が眉を寄せる。喋りながらも手は動かし続けているのは、お店が繁盛しているからだろう。
 パンフレットを見た限り、食べ物の出店は甘いものや軽食が多そうだった。お昼ご飯にするならば、ソース屋さんのメニューはぴったりなのかもしれない。

 でも野球部の出店に人が集まるのは、きっとそれだけが理由ではないだろう。
 文化祭は学外からもたくさんの人がやって来る。
 昨年甲子園で活躍したという野球部を一目見に来ている、という人も少なくなさそうだ。

「そろそろクラスの方の集合時間だろ? 食いたいもんあれば持っていくけど」
「オムそばがいいなぁ。ねぇ、それより陸くんは?」
「…………集合時間にはちゃんと連れていく」

 かなでが聞きたいのは陸の居場所だ。そのことは咲夜もきっと分かっているはずなのに、答えをはぐらかされたようだ。

「なーに。ねぎちゃん、何を隠してるの?」
「別に何も隠してねえよ」
「嘘だぁ。咲夜は分かりやすいんだから隠しても無駄だよ!」

 自覚があるのか、咲夜はほんのりと頰を赤く染めてそっぽ向く。
 作っていた焼きそばをこれでもかというほどパックに詰め込む。そして薄く焼いた玉子をふわりと乗せて、パックを輪ゴムで閉じた。
 それから咲夜は隣の鉄板で今度はお好み焼きを作り出す。
 焼きそば担当なわけじゃないんだな、と眺めていると、咲夜はようやく陸について教えてくれた。
 へこむなよ、とかなでに念押しして、陸は来客対応中だと言う。

「来客? ファンの女の子ってこと?」
「そんなのいちいち対応してたらキリがないだろ。…………幼馴染だっていう女子」

 陸の幼馴染の女の子。
 胸の奥にざらりとした嫌な感覚が生まれる。 
 その感情には気づかなかったふりをして、かなでは笑顔を作った。

「そうなんだ。じゃあ集合時間には二人ともちゃんと来てね!」

 逃げるように立ち去ろうとしたかなでを、咲夜が呼び止める。
 渡されたのは、オムそばとお好み焼きの入ったパックだった。

「片方は蓮に渡してやって。あいつ最近俺のこと避けてるみたいだからさ」
「…………そうなの? 分かった。渡しておく」
 
 受け取ったパックは見た目よりもずっしりとしていて、たくさん詰め込んでくれたのが分かる。
 陸の幼馴染の女の子のことも気になるが、咲夜を避けている、という蓮のことも気になり、かなでは早足で集合場所へ戻った。

 ファッションショーの控え室として押さえた教室は、三年七組の生徒の休憩室にもなっていた。
 椅子に座って外を眺める後ろ姿に、かなでは声をかける。

「蓮くん! やっと会えたー!」
「かなちゃんおはよー。なに、もしかして探してた?」
「蓮くんと一緒に文化祭回ろうと思ったのに、どこにもいないんだもん!」
「あはは。ごめんごめん」

 今日の蓮は、髪を後ろでまとめるだけでなく、低めの位置でシニヨンにしていた。きれいな金色の髪が揺れているのもかっこいいけれど、シニヨンにしているのはまたイメージが違って素敵だ。
 男の人にこんなことを思うのはおかしいかもしれないが、うなじが色っぽいな、とかなでは心の中で呟いた。

「これ、ねぎちゃんから。蓮くんに渡してって」

 お好み焼きのパックを蓮に手渡し、かなでは隣の椅子に腰掛ける。そして自分用にもらったオムそばのパックを開いて、いただきます、と手を合わせた。
 蓮はしばらく手元のパックを眺めていたが、かなでに倣い、同じように食べ始めた。

「…………さっくん、何か言ってた?」
「なんか、蓮くんに避けられてるかも、って気にしてるみたいだったよ」

 言わない方がいいことかもしれないが、大切な友達二人が気まずいままは嫌だ。
 かなでにできることがあるなら、何とかしてあげたい。そう思うのはお節介だろうか。

 陸と咲夜、蓮にかなで。高校に入ってからは、この四人で過ごすことが多い。
 みんな同じように仲はいいと思うし、蓮が馴染んでいないとは思わない。むしろ積極的にみんなに話しかけてくれるし、場を盛り上げてくれる、四人のバランサーのようなポジションだ。
 でも、どこか少しだけ、蓮は壁を作っているような、そんな気がする。

「私でよければいつでも話、聞くからね」

 私じゃ頼りないなら陸くんがおすすめだけど、とかなでが付け足すと、蓮はやわらかく笑みをこぼした。

「かなちゃんは優しいね」
「蓮くんもねぎちゃんも友達だもん」
「…………さっくんも、友達?」

 驚いて隣を見上げる。
 蓮が目を伏せると、長いまつ毛が際立って見えた。
 質問の意図は分からなかったが、答えは決まっている。

「友達だよ。幼馴染って言い換えもできるけど」

 口に出して確認したことはないけれど、咲夜もきっとかなでのことを友達だと思ってくれているはずだ。
 そうでなければさすがに寂しい。長い付き合いなのに、実は友達じゃありませんでした、なんて。そんなのは悲しすぎる。

 どうしてだろう。蓮はどこか辛そうな顔で、笑った。
 痛みを隠しているような。そんな笑顔だった。

「…………蓮くん。ごめんね。私、蓮くんが何に悩んでるのか、分からないんだ」
「ん、俺が言おうとしないからね」
「でもね、私もねぎちゃんも、蓮くんのこと心配してるよ」

 そのお好み焼きも、蓮くんのために咲夜が作ったんだよ、と言うと、蓮は俯いてしまった。
 伝える言葉を間違えてしまっただろうか。
 かなではオムそばを食べながら、蓮の反応を待つ。しばらく黙っていたけれど、お好み焼きを箸で割って、蓮は呟いた。

「…………これは、ひとりごとなんだけどさ」
「ん?」
「俺、好きな人がいるんだよね。絶対に本人には言えない、叶わない恋をしてる」

 かなでは何も言わなかった。
 蓮はひとりごとだと言ったから。かなでが何かを言葉にしたら、蓮が口をつぐんでしまう気がした。

 お好み焼きを一口食べて、美味しい、と呟いた蓮は、どこか泣き出しそうな顔をしていた。

 蓮とかなでが食べ終わる頃には、控え室にクラスメイトが集まり始めていた。
 結局あの後蓮はそれ以上語ろうとはしなかったけれど、かなでは何か役に立てたのだろうか。
 教室に咲夜と陸が入ってきたときに、蓮はいつも通り声をかけていたので、少しでも気持ちの整理ができたならいいな、とかなでは思う。

 ファッションショーの時間が近づいてきたので、控え室は騒がしくなってきた。
 特に蓮は、モデル役とヘアメイクをどちらも担当しているので大忙しだ。少しでも蓮の負担が軽くなるように、かなではヘアメイクの助手として駆け回った。
 そのとき、ふと教室の隅の方がざわついていることに気がついた。
 何かトラブルがあったのかもしれない、とかなでがそこに顔を出すと、数人の女子が集まってひそひそ話をしている。

「どうしたの? 何かあった?」
「かなでちゃん、どうしよう……! 優里香ちゃんが……!」

 女子の中心にいるのは、モデルとしてショーに出る予定だった優里香だ。
 顔色は真っ青で、冷や汗もかいている。
 かなでは慌てて大丈夫? と声をあげるが、周りの女子にしーっと注意されてしまう。
 そして小声で、生理痛だから男子には知られたくないみたい、と状況を説明してもらった。

「優里香ちゃん大丈夫? お薬は?」
「飲んだけど効かなくて……どうしよう……みんな頑張って準備したのに…………」

 優里香がきれいな顔を歪め、泣きそうな表情を浮かべる。
 体調が悪いはずなのに、それよりもショーのことが気になって仕方ないようだ。
 優しくてまじめな子だ。クラスメイトの努力が無駄になってしまうかもしれない、と心配しているのだから。
 もしもファッションショーがうまくいかなかったら、きっと優里香は自分を責めてしまうに違いない。
 どうしよう、と焦る心を隠し、かなでは無理矢理笑顔を作る。

「大丈夫、優里香ちゃん。私が絶対に何とかするよ!」

 本当はそんな自信なんてどこにもない。
 でもかなでは優里香を安心させるために笑った。
 そして周りにいた女の子の一人に、あたたかい飲み物を買ってきてもらうように頼んだ。
 生理痛に冷えは大敵。とにかくまず優里香の体調を回復が第一。そして優里香がショーに出られないとなれば、代役が必要になる。

「優里香ちゃんの代わりに、誰か出られないかな」
「でも衣装は優里香のサイズなんだよね? 優里香は細いし、あのサイズが着られそうな人なんて…………」
「量産型の方は私がやるよ。あっちは既製品だから私でも入ると思うし」
「ありがとう! 芽衣子ちゃん!」

 先に出番のある量産型ファッションの方は、衣装作りを積極的に手伝ってくれていた芽衣子が立候補してくれた。
 問題はドレス。しっかりと採寸をして作っているので、優里香に近い体型の人でないと着られない。
 しかも優里香は細い上に、胸やお尻はほどよく膨らみがある、かなりスタイルがいいタイプだ。
 クラスの女子たちは、ドレスと自分の体型を見比べて、首を横に振る。

 ショーでモデルをやるのなんて恥ずかしくて無理だよ、と言っていた女子さえも、ドレスを鏡の前で合わせてみてくれていた。

 みんなファッションショーを成功させたいと思っているのだ。
 かなでだけ何もしないなんて、そんなのは嫌だ。

「…………かなでちゃん」

 泣き出しそうな優里香の顔を見て、かなでは心を決めた。

「わ、私が、やる…………!」

 勇気を振り絞って口にした言葉に、視線が集まるのを感じた。

 人目がこわい。人前に立つのなんて、こわくてたまらない。
 また誰かに悪口を言われるかもしれない。
 美人な優里香の代わりが、よりによってお前かよ、と思われるかも。
 それでも、みんなで一生懸命準備してきたショーが、できないよりずっといい。

「かっこいいじゃん、かなで」

 もう一人のモデル役をやる菜穂が、かなでの背中を思い切り叩く。
 痛いくらいの勢いだったけれど、悪意ではなく気合いを入れてくれたのだ、と伝わってくる。

「うん。私たちも全力でサポートするよ」

 そう言って、クラスメイトたちは忙しく駆け出した。ヘアメイクを担当している蓮に、変更を伝えに行く者、蓮の手伝いをする者、司会者に原稿の差し替えを頼む者。
 クラスのチームワークを実感し、かなでは震えそうになる身体を何とか押しとどめた。
 みんなが頑張っている。菜穂に気合いも入れてもらった。かなでだけ、逃げるわけにはいかない。
 しっかりと意気込んで、かなでは桜色のドレスに手を伸ばした。

 ドレスは無事に着ることができた。
 しかし悲しいことに、胸元に余裕がある。言い方を変えよう。圧倒的に胸が足りない。

「ど、どうしよう……! 胸元がパカパカ開いちゃうんだけど……!」

 着るのを手伝ってくれたクラスメイトが、かなでの胸元を覗き込む。
 これじゃあ見えちゃうね、と言われ、かなでは焦ってしまう。
 胸に合わせてサイズを後ろで調節しようとすると、ドレスの形が崩れてしまうのだ。

「よし! かなで、胸に詰め物しよう!」
「悲しすぎるんだけど……」

 衣装を作ったときに余った布を縫い合わせ、綿を詰めた即席パッドが作られる。
 それを胸元に仕込めば、胸のサイズが底上げされ、ドレスがようやくきれいな形に見えるようになった。

「よし、かわいい! じゃあかなでもメイクしてもらっておいで!」
「う、うん! ありがとう!」

 ドレス姿でメイク用に仕切られたスペースに入ると、かなでを見て蓮が目を丸くした。

「えっ、代わりの女子ってかなちゃん?」
「う、うん。やばい? 似合わなすぎる?」
「似合うよ、大丈夫」

 座って、と促されるままに椅子に腰かけると、蓮は慣れた手つきでヘアアレンジを始めた。
 かなでは何度も練習に付き合っていたので、髪質やクセは蓮も把握しているだろう。優里香よりもかなでの方が髪は短いが、それでも胸あたりまでは伸ばしているので、アレンジに支障はなさそうだった。
 緊張してそわそわと落ち着かないかなでに、蓮は優しい声で話しかけてくれる。

「大丈夫だよ。舞踏会の方のステージは、男女一緒に登壇するから、りっくんがエスコートしてくれるよ」
「うう…………陸くんに迷惑かけたくない……」
「かなちゃんなら大丈夫」

 ほら、できたよ。と蓮が仕上げてくれたヘアスタイルは、優里香にする予定だったものと違うアレンジだった。
 アレンジを決める段階で何パターンか試していたが、この髪型はなかったはずだ。驚いて蓮を見上げると、照れたように笑った。

「俺、ヘアメイクの仕事がしたいんだよね。だからいろいろ動画とか見て勉強してんの」

 かなちゃんにはこっちの方が似合うと思って。
 蓮はそう言って、かなでの顔のサイドの髪を指先でつまんだ。
 両サイドに少しだけ残された髪は、ふんわりとカールしている。
 鏡で見せてくれた後ろ髪は、緩めの編み込みとねじりが施されているのは分かるが、それ以外はどうなっているのかさっぱり分からなかった。
 リボンに似た形の編み下ろしはそれだけでもとてもかわいいのに、ドレスに合わせて花の髪飾りもついている。

 三つ編みのシニヨンにする予定だった優里香よりも、ふんわりとした印象の仕上がりになっていた。
 元々美人な優里香はシンプルなアレンジで、おとなしめの顔立ちのかなでには、可愛らしい印象のアレンジにしてくれたのかもしれない。

「蓮くん、ヘアメイクのお仕事絶対に向いてるよ……!」

 かなでの言葉に、蓮は嬉しそうな笑みを見せた。
 それからドレスに見劣りしないよう、メイクも施してもらい、かなでは改めて鏡の前に立ってみた。

「違うひとみたい…………」

 髪型でかわいらしさを演出し、メイクは大人っぽく、きれいめに。
 主役の桜色のドレスが引き立つように。

「ね? かなちゃんなら大丈夫って言ったでしょ?」

 かなでにシンデレラの魔法をかけた魔法使いは、いたずらっぽく笑ってみせた。