その日は、夏期講習の後に本の整理がある日だったので、僕は授業が終わった後に図書室を訪れていた。
 
 図書室に入ると、いつものように雫が先に来て、作業を始めていた。僕が入ってきたことに気づくと、「テストの点、どうだった?」と問いかけられた。

「いやぁ、六割……くらいかな」
「そう」
 彼女は、作業を続けたまま淡々と返す。
 
 そういえば、雫の名前が無かったな。
 この学校では、上位十名は張り出されることになっている。
 彼女は、本当に頭が良い。いつも五位以内に名を連ねているのだが。

「雫は、どうだったんだ?」
「……今回は、少し勉強不足だった」
 なぜか、彼女は少し言いよどんでから、答えた。
「へぇ、珍しいな」
「廉は、進路はもう決めたの?」
「……考え中かな。とりあえず、目先の目標をクリアしないことには、ね」
「リハビリの調子は?」
「とりあえず、喋れるようになった。あと、補助があれば何とか立ち上がることもできたよ。立ったままの状態を維持するのは、まだ無理だけどな」
「そう」
 相変わらず、表情が読めない。喜んでくれているのだろうか。

「そういえば、僕がリハビリ始めたって舞に教えたの、雫だろ」
「うん」
 雫は、作業の手を止めずに、あっさりと認めた。
「頻繁に連絡取り合ってたりするのか?」
「週に一回くらい」
「どんな話をするんだ?」
「主に廉の話題で盛り上がってる」
「おい」
 僕がそう突っ込むと、一瞬、彼女の口角が少し上がった気がした。
「雫が笑うところ、久々に見た気がするよ」
「……笑ってないけど」
「否定することじゃないだろ」
「笑ってないから」
「はいはい、わかったから怒るなよ」
 僕がそう言うと、雫の表情がいつもの無表情へと戻った。
 
 内心、苦笑する。しかし、前に教室で修一が言っていたことが、少しだけ理解できた気がする。
 
 しかし、舞と一緒にいるときの雫は、どんな感じなのだろう。先ほど盛り上がってると言っていたが、声を上げて笑っている彼女の様子は、正直に言って想像できない。

「そうだ、次の日曜に花火大会に行くことになったんだけど、一緒に行かないか?」
 あわよくば、そんな雫を見てみたいという想いから、それとなく誘ってみる。
「……私も誘うって、それ、舞に言ったの?」
「言ってないけど」
 僕がそう言うと、雫は呆れたような声の調子で言った。
「舞は二人で行きたいと思って誘ったんでしょう」
「いや、そんなことは一言も……」
「察しなよ。デリカシー無いんじゃない?」
 雫にそこまで言われるとは思っていなかったので、僕は少し狼狽えてしまった。
「分かったよ……。じゃあ二人で行ってくるさ」

 その時、ふと、先日の舞の様子を思い出した。
「舞さ……少し様子が変な時ないか?」
 雫は手を止めて、「変?」と怪訝な顔で言った。
「いや、まぁ記憶が完全に戻ってないからかもしれないんだけど。たまにテンションが以上に高かったり、かと思えば言葉遣いが少し硬かったりさ。そんなことなかった?」
 雫は首を振って言った。
「別に、私は変だとは思わなかったけれど」
「そうか。ならいいんだ」

 僕より近い距離にいる雫がそう言うなら、取り越し苦労なのだろう。
 きっと、そうだ。それより、今は、自分のリハビリに専念する時だ。

 僕は、自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を脳裏で繰り返し再生させた。



 次の週末、僕は花火大会の会場へ向かっていた。
 会場周辺は、既に大量の人で埋め尽くされていた。こんな田舎に、これだけたくさんの人がいることに、毎度驚かされる。毎年のことなのだろうが、舞のことがあってから来ていなかったので、この感じも本当に久しぶりだ。

「……ここか」
 舞が事故に遭った場所で、自然と足が止まった。
 また事故に遭ったらと思うと怖くて、彼女を迎えに行くと申し出たのだが、「絶対にちゃんと行くから。信じて待っていて」と押し切られてしまい、結局現地集合になった。

 後で聞いた話だが、舞は横断歩道を渡ろうとしていたらしい。だが、このあたりの地域では、歩行者優先のはずなのに、車がスピードを落とさないで通り過ぎるということが常態化していた。それを知っていた親や学校の先生たちは、『信号機が無い横断歩道を使わないように』と、子供たちに伝えていたはずだった。
 ここも、少し先に行けば、信号機のある横断歩道があるのだ。ただ、祭りの会場へは遠回りになってしまう。
 舞がここを渡った理由は、間違いなく、僕が先に会場に行っていると思ったからだろう。

「……っ……ぐすっ……」
 その時、その時車道を挟んで反対側の歩道で、泣いている子供を見つけた。
 通行人は気づいているだろうに、誰も声をかけない。
 僕はため息をついて、腕時計を見る。あの子供が迷子だとして、かまっていたら確実に遅刻する。
「はぁ」
 間が悪いというかなんというか。
 
 僕は信号を渡って、子供の元へ行き、目線の高さが合うまでしゃがんで声をかけた。
「どうした? お父さんかお母さんは?」
「ママがいなくなったぁ」
 ママからすると、いなくなったのは君の方だと思うよ。
「一緒に探そうか」
 顔を上げて、近くにそれらしき人がいないか見渡す。 
「かなー!」
 その時、少し離れた場所で女の人の声が聴こえた。「君、かなちゃん?」と女の子に聞くと、「うん」と頷いたので、「こっちですー!」と叫んだ。
 僕はほっとした。とりあえず大事に成らなくて済みそうだ。
「この子のお母さんですか」
「ええ! ありがとうございます!」
 女の人は深々とお辞儀をする。
「よかった。一人で泣いていたので、声をかけたんです。……じゃあ、これで」
「お兄ちゃん、ばいばーい」
 女の子は僕に手を振りながら、お母さんに連れられて去っていった。

「やるじゃん」
 びくっとして振り向くと、舞が立っていた。
「びっくりしたな……また見ていたのか」
「ええ」
「声、かけてくれよ」
「すまんすまん」
 彼女は、紺の浴衣を着ていた。素直に、綺麗だと思った。
「浴衣、どう?」
「……おお」
「おおって何よ」
「いや……」
「似合ってる、でいいじゃない。似合ってないって言って、今この場で誰が得するのよ」
「……似合ってます」
 彼女は、やれやれといった風に両手を上げ、「これはモテないわー」と言って、会場に向かって歩き出した。

「まずは場所取りだな。その後で、屋台で食べるものを買おう。何か食べたいものある?」
「んー、食べ物はいいかな」
 僕は、てっきり、以前のように、ここにある屋台の食べ物を全種類制覇する勢いで注文されると思っていただけに、肩透かしを食らったような気分になった。

「お腹すいてないのか?」
「家で食べてきたから。それより、射的とかヨーヨー釣りとかやりたい!」
 子供みたいだなと、僕は少し笑って言った。
「オッケー。じゃあやりに行くか」 
「待った。袖」
「袖?」
「……服の袖。掴んでていい? は、はぐれるといけないでしょ」
 もじもじした様子で言う彼女を見て、僕はつい目を逸らす。
 
 さっきまでのふてぶてしい態度はどこへ行ったのだろうか。
 こんなの反則だ。

「……うん」
 なんだか恥ずかしくて、彼女から目を逸らしたまま返事をした。

 暫くして、左の袖が軽く引っ張られた。
 


 射的もヨーヨーも結果は惨敗だったが、浴衣姿であたふたする彼女が、なんだかいつもより可愛らしく見えて、個人的にはすごく満足だった。
「しかし、結構人多いよな」
「そうね。普段そんなに人口密度が高いとは感じないのに、祭りの日だけはいつも、この町にこんなに人がいたんだなって、驚かされるのよね」
 その後、僕たちはブルーシートを敷いた場所へ戻り、花火が上がるのを待った。

「廉さ」
 不意に、舞は僕に問いかけた。
「なに?」
「さっき、迷子の子どもを見つけてから、声をかけるまでに少し時間あったよね」
「……うん」
 僕は頷く。というか、最初から見てたのかよ。
「どうして、声をかけるのを躊躇していたの?」
 彼女は、真っすぐ僕の目を見つめて言った。僕は、その視線に耐えられず、屋台の方へ視線を戻して、「別に、大した理由は無いよ」と、この話を終わらせた。 
 
 やがて、花火が上がり始めた。
「綺麗ね」
 金色の、しだれ柳の花火が、一斉に上がった。
 僕は舞の顔を見る。
 彼女の目には、光り輝く金色だけが映っていた。




「どう?」
 舞は、くるくると回りながら、僕に問う。
 二人の浴衣姿を、僕は素直に可愛いと思った。でも、それを直接言うのは、どこか恥ずかしかった。
「すげーいいじゃん」
 修一は、満面の笑みで親指を立てている。
「そうでしょ。廉は?」
「……おお」
「おおって何よ。ほら、雫もすごく可愛いでしょ!」
「まあ」
「似合ってるの、似合ってないの」
「……」
「似合ってるでいいじゃない。似合ってないって言って、今この場で誰が得するのよ」
 彼女は腰に手を当て、呆れた顔をして言う。
「……似合ってます」
「よろしい」

 修一は、どんまいと言うように僕の肩をポンとたたき、「何か食べたいものある?」と三人に問いかける。
「焼きそばと、たこ焼き。あとチョコバナナとカステラとフランクフルト、それとりんご飴!」と舞。
「かき氷」と僕。
「オッケー。雫は?」
「……わたあめ」
「相変わらず、バラバラだな。そんで舞は多すぎ」
「なによー!」

 屋台で買ったものを持って、急いで場所取りをした場所に戻り、談笑しながら花火が上がるのを待っていると、やがて、しだれ柳の金色の花火が一斉に上がり始める。
「おおー!」

 三人が花火を見て歓声を上げる中、僕は、目の端で舞の横顔を見る。花火を見つめる彼女のその瞳には、花火の色とりどりな光があるだけで、たぶん僕の姿は映っていない。

 そのことを悲しいと思ったことで、僕は自分の彼女への気持ちを理解した。

 誰かを好きになるということを、その夏、僕は初めて知ったのだ。




「廉」
 舞が呼ぶ声で、僕はまた現実に戻された。
 花火はもう終わっていて、周囲の人たちは撤収の準備をしているようだった。
 僕は、彼女を安心させるように、首を横に振って言った。

「大丈夫。前に、四人で来た時のことを、思い出していただけだよ。最近は、リハビリのおかげか、急に意識が飛ぶことは、ほとんど無くなってきてるんだ。それはそうと、舞は四人で祭りに来た時のこと、覚えてる?」
「実は、今日ここに来て、思い出したの。私と雫の浴衣を見て、修一はすぐにいいじゃんって言ってくれたのに、廉はなんかもじもじして黙ってた」
「悪かったな」
 僕がそう言うと、舞はクスクスと嬉しそうに笑う。

「懐かしいなぁ。食べたいものもみんなバラバラだから、色んな屋台に並ばなくちゃいけないせいで、毎年花火が上がるギリギリになって焦ってた」
「手分けすればいいのに、おしゃべりに夢中で四人固まって移動してたからな。クラスのこととか、野球のこととか、今思えば大した話をしていたわけじゃないのに」
「あの頃は、それが楽しかったんだよ。大事な思い出だよ」
 舞は、空に浮かぶ星々を眺める。

「廉のおかげで、また楽しい記憶を思い出せたね」
「僕は何もしてないよ」
「ここに来たら、事故に遭った日のことも思い出すと思ったんだけど、そっちは思い出せなかったな」
「……思い出さなくていい。きっと、舞自身が拒否してるんだよ」
 彼女はもう、十分すぎるほど辛い思いをしたじゃないか。
 わざわざ苦しむ必要は無い。
 
 よかった。彼女が辛いことを、思い出さなくて。

「今日さ、迷子の子を助けるのを躊躇していた理由。本当は違うんだ」
「……うん」
「待ち合わせ場所から離れて、また、君がいなくなったら、どうしようかと思って……怖かったんだ」
「大丈夫。私は……ちゃんとここにいるから」
 舞はそう言って、にっこりと笑った。