舞と記憶巡りに行った数日後、再び定期健診を受けるために、僕は病院に訪れていた。
 一通り検査が終わった後、僕は先生に尋ねた。

「人間の身体に戻らずに、離人症を防ぐ方法って、無いんですか」
 先生は、顎に手を当てて「んー」と唸った後、続けて言った。
「離人症がどうして引き起こされるのか、その理由は明らかになっていない。事実、人形なんて使ったことないのに離人症になる人はいるし、ずっと人形を使う人の中にも、離人症を引き起こさない人もいる。ただ、症状が出る人は、精神的な理由で人形を使っている人に多い」
「精神的な理由……」
「私は、自分自身を拒絶することが、離人症を引き起こす原因なのではないかと考えている。だから、自分を受け入れることができて、人形と自分自身とを区別することができれば、人形のままでも離人症は発症しないのではないかと思うんだよ。もっとも、精神的な理由で、自分を拒絶し人形を使っている人にとっては、それはとても難しいことだと思うけどね」

「僕のような使い方は、間違っているってことですか」
「人が人形を使う理由は、様々なものがある。でも、どんな理由であれ、皆人形と自分の在り方に、少なからず苦しむ。人形をどういうものとして捉えるか、正解があるわけでは無いからね。まあ、一つ例をあげるなら、道具として割り切ることが、正しい使い方に近いと言えるかもしれない。老人が、ただ荷物を運ぶ時だけ、人形を使うように。それだって、その老人が人形をどう捉えているか、本当のところは分からない。人形が、若い時の自分を思い出すきっかけとなり、もうあの頃のように動くことはできないのだと、鬱の症状を引き起こす原因になる可能性もある。現に私は、そういう人間を少なからず見てきた。人形を使えば、自分の身体を第三者の目で見ることができる。人形を使うようになった理由が深刻な人ほど、自分の姿がどのように見えるのか、想像に難くない。人形に依存する人間は、自己の定義すら曖昧になり、人形を使う自分とありのままの自分との乖離に耐えきれなくなる。人形なんて使わなくとも、自分の行動のどこまでが自分の意志によるものなのか、はっきりと線引きができない人は世の中にたくさんいるだろう。人形はその線引きをさらに曖昧なものにしてしまう。我々は外部からの情報に対し、少なからず影響を受けている。完全な自分の意思なんてものは、存在しない。そこには必ず、自分以外の何かの意思が含まれている」
 
 先生は真剣な口調で話を続けていたが、僕の表情を見て、ふっと笑い、優しい口調で言った。
「とはいえ、君はまだそこまで心配するほど症状が進行しているわけじゃない。脅すようなことを言って怖がらせてしまったかもしれないが、それは君に正しく危機感を持って欲しかったからだ。悪かったね」
「同じような夢を見るのも、離人症の症状なんですか?」
「夢?」
 先生は、キョトンとした顔で、僕の方を見る。
「あ、いえ。毎回って言うわけじゃないんですけど……」
「意識を失っているときに、夢を見るのかい」
「まぁ、はい。似たような夢を見ることがあったので」
 先生は、腕を組んで、考える素振りを見せる。
「いや、少なくとも私は、離人症の症状でそんな話は聞いたことないな」
「そうなんですか」
「でも、離人症との関連性については、症状が出ている時の現象だと言うのであれば、否定することはできない。実に興味深い話だ」
 僕は先生に問いかける。

「淀川先生は、人形を使いたいと思ったことは無いんですか」
「そりゃあるよ」
 当たり前だろうという口調で、先生は続ける。
「めんどくさい会議の時、代わりに人形が出てくれればいいなと思うし。力およばず、患者さんが亡くなった時なんて、もうその場に居たくないし。嫌なことは全部人形に変わってもらいたいね」
「先生でも、そう思うんですね……」
「皆そうだよ。そして、そのうち技術が追い付いて、危険な仕事とか大変な仕事なんかは、人形を使うことが当たり前の時代が来るんじゃないかな。君は、少し時代の先を行っただけだ。だから、人形を使うこと自体に負い目を感じる必要は無いよ。もちろん、元の身体で生きていけるのに越したことは無いのだけれどね。……だけど、急にどうしてそんなことを聞くんだい?」
 先生は、そう言って優しく笑いかける。

「……僕、自分の身体に戻ろうと思ってます」
「え、本当かい?」
「はい」
 僕のその言葉に、先生は驚いた表情を見せ、続けて言った。
「じゃあ、早速元の身体に戻ってみようか」 
「え、今からですか?」
「こういうのは早い方がいい。それに明日になって気が変わって、やっぱりやめたと言われると、私としても困ってしまうのでね」
 先生の口は笑っているが、目は笑っていない。
「信用してないんですね」
「そりゃ今までの消極的な君をずっと見てきているからね。人間、そう簡単に本質までは変わらないよ。もっとも、どちらの君が本質なのか、私には分かりかねるが」
 確かに、そのとおりだろう。自分の意志の弱さは、自分が一番知っている。
「分かりました、今やります」
「よし。では、少し準備をするから、待っていてくれ」
 
 僕は、自分の身体に向き直る。
 今から、この痩せ細った身体に戻るのだ。生身の人間に。
 
 数十分後、準備をした先生が戻ってきた。
「じゃあ、今から、接続を切るからね」
「はい」
 いよいよだ。
「いくよ」
 その声の直後、プツンと周囲の音が消えた。

 そして、静寂に包まれた。
 何も聴こえない。何も見えない。真っ暗闇の世界。
「–––––」
 しばらくして、遠くの方から微かに音が聞こえたような気がした。
 瞼の裏からでも、外の明るさが徐々に認識できるようになってくる。だが、瞼が重く、開けられない。
 時間がかかって、ようやくうっすらと目を開けると、眩しい光に目が眩み、たちまち目を閉じてしまう。
「––––い–––。–––こ–––て––?」
 やがて、先生の声が、だんだんはっきりと聴こえるようになってきた。
 目がやっと慣れてきて、ゆっくりと目を開けた。

 目の前に、先生の姿があった。 
「お、目が開いたね」
 身体が重い。
 驚くことに、身体のどの部分も、満足に動かすことができなかった。
 これが、自分の身体なのかと、少なからず、僕はショックを受けた。

「マッサージを続けていたとはいえ、筋肉が衰えているのは確かだ。だがそれ以上に、ずっと使ってこなかった神経の方が問題かな」
 淀川先生が、僕の身体を起こし、座らせる。情けないことに、肩を押さえていてもらわないと、座った体勢が維持できない。 
「どんな気分? 声は出せるかい?」
「……あ……が、…ぁ……」
 精一杯声を出そうとしたが、言葉にならない音しか口から出てこなかった。
「んー、しばらくは流暢に話すのは難しそうか。とはいえ、継続してやり続けなければ、以前のようには戻れないからね」
 身体の様々な部分を動かしてみようと試みるが、指が微かに動くくらいで、まともに腕も上がらない。
 やろうとしてもできないことに、もどかしさを感じる。

「どうだい。自分の身体を動かすのって、人形を動かすのより大変だろう」
 先生は、なぜか嬉しそうにそう言って、笑った。
「一つずついこう。まず……」

 その後も、先生に言われたことをやろうと試み続けた。
 だが、結局頑張っても、右腕が少し動かせるようになったくらいで、ほとんど何もできなかった。

 僕は人形の身体に戻り、打ちひしがれた。
「初日はこんなもんだよ」
 先生は、僕を励ましてくれるが、気分は晴れない。
 普通に生活できるようになるまで、どれくらいかかるのだろうか。絶望感に押しつぶされそうになる。
「とはいえ、なにも赤ちゃんからやり直すわけじゃない。数年前までは、君は実際にその身体で生きてきたんだ。その感覚は君の身体に残っているはずだ。あとはそれを思い出すだけだよ」
「……はい」
「とにかく、体を動かそうとし続けることだ。声を出そうと、繰り返しトライすること。ただ、人形を動かせるようになるより、格段に時間がかかることは、覚悟したほうがいい」
 家に帰る時、人形の身体がやけに軽く、動かしやすいと感じた。思うだけで動く人形に慣れてしまえば、確かに自分の身体を動かすのが億劫に感じるはずだ。
 こんな当たり前の感覚すら、僕は忘れてしまっていたんだな。
 


 夏休みと言っても、進学校の学生は学校に来るものだ。その日も夏期講習で、僕は学校に来ていた。
「それで、リハビリは順調なのか?」
 いつものように、屋上で昼食を食べている時、修一は僕に尋ねた。
「修一も知ってるのかよ」
「雫から聞いた」
 そもそも、なんで雫が知ってるんだよ。
「……まぁ、順調といえば順調だよ」
「へえ。それなら、自分の身体で歩けるようになれる日は近いか」
「さぁ、どうだろうな」
 正直なところ、自分の身体で歩けるようになるイメージは、全然湧いていなかった。
「そういえば、舞とのデートはどうだったんだ?」
「デートじゃないって。忘れた記憶を思い出すために昔過ごした場所を巡ってただけだよ」
「何か思い出したのか?」
「いや。ただ、四人で遊んだりしたことは、覚えてるみたいだった」
「へぇ」
 二人で話したこととかは忘れてるのが、少し残念ではあったが、それを敢えて口にしようとは思わなかった。
 ひょっとして、僕に関する記憶を忘れているのだろうか。
「まぁ、焦らずゆっくりやれよ」
 修一は、僕の肩をポンと叩いて去っていった。


 翌日も、僕は放課後になると、リハビリのために病院へと向かった。病室に入ると、既に淀川先生は僕を待っていた。
「お、来たね」
「……まあ、自分でやるって決めたことなんで」
「うん、感心だ。じゃあ、またリハビリを始めようか。まぁリハビリと言っても、ただ身体を動かそうとし続けるだけなんだけどね。何か楽しみながらできるレクリエーションがあればいいんだけれど」
 僕はベッドに横になり、目を閉じる。プツン、と音が聴こえ、目を開けると、自分の本体に戻っている。
 
 そのとき、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」と先生が声をかけると、ドアが開いて舞が姿を現した。
「へへ、来ちゃった」
「君は?」
「蓮井くんの友達です。リハビリの手伝いに来ました」
「おお、それはそれは。じゃあ、今日のリハビリはあなたにお願いしようかな」
「––––!」
 僕は非難の声を上げたかったが、言葉にならない。
「うんうん、嬉しそうだね。声も出ないくらい喜んでいるみたいだ。じゃあ、よろしくね」
 くそ、僕が喋れないのをいいことに。 
「何かあったらナースコールのボタンを押してくれ」
 先生は、「鏡野雫さんが来ると思っていたんだけど。君も案外、隅に置けないんだね」と耳打ちし、睨みつける僕に手を振りながら病室を出て行った。

 僕がリハビリを始めたことを何故雫が知っているのか気になっていたが、これで合点がいった。最初の日に、先生が雫に連絡したのだろう。
舞と二人になる。すると、舞は鞄から一枚のボードを取り出した。
「これ、作ってきたんだ」
 そこには、五十音表が印字されていた。
 僕はようやく少しだけ動くようになった右手をゆっくりと動かし、ボードの文字を追い、メッセージを伝える。
『なんでリハビリ始めたって知ってるんだよ』
『雫に教えてもらったの。雫は先生から聞いたって。是非サポートしてあげてくれって』  
 舞も紙に書いて返答する。
 やっぱりな。
 こんな恥ずかしいところ、見られたくないから、リハビリのタイミングは伝えなかったのに。
『舞は喋れるだろ。馬鹿にしてんのか』
「うへへ」
 そして、彼女はまた鞄をごそごそし始め、色んな物を取り出した。
『それは?』
「パズルとかオセロとかトランプとかジェンガとか、まあ色々。ただ身体動かすのも、つまらないでしょう? こういうのは、何かに夢中になってる時に、自然とできるようになってるっていうのが理想なんだから。どれからやる?」
 
 最初に選んだのはオセロだった。
「ここ?」
 僕が目線を止めたところで、舞が碁石を置く。
 動かすのは、顔と目だけなので、それほど負担ではない。
 時々、僕の意思とは別の場所に置かれたりする。そういう時は、頑張って腕を動かし、碁石の場所を変える。
 だが、僕が勝ちそうな試合の終盤になると、途端に間違いが多くなる。
「あら、また間違えちゃった?」
 僕は、ボードに指をかざし、彼女に伝える。
『君、わざとやってないか?』
「ん? 何のこと?」
 彼女は、ニコニコしながらそう言ってのける。

 そうだった。舞は昔から負けず嫌いなやつだった。
 それが分かってからは、頑張って自分で腕を動かし、碁石を置き始めた。当然、上手く持てずに碁石を落としたりして時間がかかる。
 だが、舞は僕を急かすことはしなかった。僕が何度も試行するのをじっと見ながら、「あらら」とか「おしいね」とか言いながら、付き合ってくれた。

 徐々に指が動くようになり、オセロの後はパズルをやることにした。これが中々に難しかった。顔と目を細かく動かし、正しく嵌まるピースを探す。ピースを見つけても、その小さなピースを上手く持ち上げることができない。ようやくピースを板に持って行っても、合わなかったらまた探し直しだ。
 パズルの絵が完成する頃には、日が暮れていた。
「もうこんな時間だよ。そろそろ帰った方がいいんじゃないかい?」
 様子を見に来た淀川先生の声で、僕は自分が遊びに夢中になっていたことに気づいた。
「そうですね。帰ります」
 舞は快く返事をして、帰る支度を始めた。
 僕も人形に戻り、彼女に言った。

「ありがとな。気を遣ってくれて」
 すると、彼女はきょとんとした顔をして、「何のこと?」と問いかけた。
「昔は、もっとせっかちな奴だっただろう? よく僕が碁石とかパズルのピースをゆっくり運ぶのを、待っててくれたなと思ってさ」
「……あはは、自覚無かったよ。まぁ、私も大人になったってことかな?」
 彼女は、僕に背を向けてそう言い、部屋を出て行こうとした。
「待てよ、送って行くから」
 僕は彼女を呼び止めようとしたが、「今日、ちょっと急ぎの用事があるから」と言って、飛び出すように出ていってしまった。
「……振られちゃったね」
「余計なお世話です」

 仕方なく、僕は一人で病院を出た。
 心地よい疲労と充実感。まるで、野球に打ち込んでいたあの頃に戻ったような、そんな感覚にさせられる。
 これを続けていけば、僕はいずれ元の身体に戻ることができる。
 あれだけ怖かったのに、踏み出してしまえば、思ったより簡単に軌道に乗っていた。



 毎日だと、疲労が溜まるのとひどい筋肉痛になることから、リハビリは週に一回か二回だけにしようと先生から指示を受け、僕は律義に毎週末病院に通うようになった。
 舞は、ほぼ毎週のようにリハビリに付き合ってくれた。
「また来たのか」
「もっと嬉しそうな反応をしたらどうなのよ」 
「嫌に決まってるだろ。カッコ悪いところばっかり見られるのに」
「カッコつけたいの?」
「そういうわけじゃないけど……。もっと有意義なことに時間を使った方がいいと思うぞ。勉強とか。ほら、高校とか、学校とか、どうするつもりなんだ」
「んー、しばらくは難しいかな。でも、いずれ高認とって大学に行ければとは思ってるよ」
「ほれみろ」
「でも、私は頭がいいんだよ。知らなかった?」
「知ってるよ。だからこそ言ってるんじゃないか。ちゃんと勉強したら、高認とって大学とか目指せるだろ。こんなところで油売ってないでさ」
 彼女は腕を組んで、考え込む。
「分かった。それなら、ここで勉強するよ」
「はぁ?」
「分からないところは、廉に聞くからさ。廉にとっても、気分転換になるでしょ?」
「待て待て、どうしてそうなるんだ」
「雫が、今度テストがあるって言ってたけど。もちろん、ちゃんと勉強してるんだよね?」
「ぐっ……」
 なにも言い返せない。
「とにかく、僕はまたリハビリをやるから。勉強したいなら、勝手にすればいい」
「リハビリって、今日は何をやるの?」
「何って……ベッドから起きる練習とか」
「えー、私暇じゃない」
「いや、勉強するんじゃなかったのか」
「そうだ! まだ喋れるようになってないでしょ? 今日はその練習をしましょう。それなら、勉強しながらでもできるから。はい、決定」
「決定って……」
「いいから、早く自分の身体に戻りなさいな」
 こうなったら、舞はテコでも動かないことを、僕はよく知っている。

 渋々、僕は人形のスイッチを切り、自分の身体に戻る。
「はい、私の名前、言ってみて」
「いーあーがーきー、あーいー」
「あれ、音は出るのね」
 舞は驚いていたようだった。
 実は、あれからこそこそと少し練習して、声は出せるようになったのだ。
「でも、舌がうまく使えてないのかな。もう一回!」
「しーあーはーぎー、はーいー」
「『し』は上手く言えてたよ。んー、私の名前ばかり言っててもつまらないから、しりとりでもやろうか」
 その後は、早口言葉や言い辛い言葉を言い合ったりして、言葉遊びを楽しんだ。

 一人だったら、ただ辛くて苦しいだけだったであろうリハビリが、彼女が相手をしてくれることで楽しい時間へと変わる。
 僕は彼女に対して、何もしてあげることができなかったのに。

「何かご褒美を決めよっか」
 言葉の練習を終え、人形に戻ったところで、彼女はそんなことを言い出した。
「ご褒美?」
「報酬が無いと、いまいちやる気が出ないでしょ? んー、どうしようかな」
 舞は、うーん、と唸りながら、病室の中を落ち着きなく徘徊する。
「あ、じゃあ、歩けるようになったら、遊園地へ一緒に行ってあげる!」
「えー」
「えーってなによ! 嬉しくないわけ?」
 彼女の圧に負け、僕は首をブンブンと横に振った。
「心がこもってないのが丸わかりなんですけどー。せっかくデートしてあげると言ってるのに。もっと喜ぶべきじゃない?」
彼女は円を描くように僕の周りをぐるぐると歩きながら、そんなことを言う。

「なんだか、今日はずいぶん、ハイテンションだな」
 彼女の勢いに少しタジタジになりながら、そう告げると、彼女は少し目線を逸らしてから、ベッドに腰掛けて言った。
「……そうかな。いつもと変わらないつもりだけど。あれかな、廉が自分の身体に戻ろうと決心したことが嬉しくてかもしれない」
 そう言って、舞は黙り込んでしまった。何となく居たたまれない雰囲気になり、僕は申し訳なさそうに切り出す。
「……なんか、ほんと悪いな。僕のリハビリなんかに付き合わせて」
「ううん、やりたくてやってることなんだから。謝られる理由なんてないよ」
 それよりデートの提案を喜ばなかったことについて謝りなさいと、舞は仏頂面だ。
「デートもいいけど、記憶を取り戻すのが先だろう」
「じゃあ、次行く場所は?」
「……まだ決めてないけど。どこか無いか?」
「なら、次はあそこじゃない? ほら、もうすぐ花火大会もあるし」
 彼女がどこの場所を指しているのか、すぐに分かった。
 瞬間、僕の心臓は冷たい手で包まれたような、そんな感覚がした。
「でも……」
「大丈夫だから。それに、あそこには楽しい記憶もあるはずでしょう?」
 舞はこう見えて頑固だ。一度こうなってしまえば、梃子でも動かない。

「……一つだけ、約束してくれないか」
「何?」
 僕は、縋るように舞の手を握った。
「もう、何があっても絶対に、信号が無い横断歩道は渡らないでくれ」
 無茶苦茶なお願いを言っていることは自覚していた。だが、それでも言わずにはいられなかった。
 舞は、少し驚いたような表情を見せた後、微笑んで言った。
「うん。分かった。じゃあ、今日はここまでね! 先生呼んでくるから、待ってて!」
 
 しばらくして、先生が部屋に戻ってきたが、呼びに行ったはずの舞の姿が無かった。
「あれ、舞は?」
「何か急ぎの用があるとかで、帰ったみたいだよ」
「……またか」
 それを聞いて、自分が明確に気落ちしたことを、僕は自覚した。
 彼女と、少しでも長い時間一緒にいたい。その気持ちが、日に日に強くなってきている。
「……良くないな」
「ん? 何か言った?」
「何でもありません」
 
 舞は、僕のことをどう思っているのだろう。
 
 事故に遭う前、僕は彼女に好意を持っていた。あの時、舞は僕のことをどう思っていたのか。
 
 同じ気持ちだったか。仮にそうだったとして、時が経ってもずっと同じ気持ちでいてくれる保証がどこにある?

 僕は思考を振り払うように首を振ってから、何となく窓を開けた。ついこの間まで、半袖でも暑かったのに、日が落ちてからは少し肌寒く感じるようになっていた。

 夏が終わろうとしていた。